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釣り鐘二題
その二 三勝寺の銅鐘(広島県指定重要文化財)

護聖禅寺の中世

いま広島県三次市内の三勝寺に、南北朝時代に造られた小さな梵鐘がある。 広島県重要文化財、三次市文化財に指定されている。

梵鐘には二つの銘が入っている。 初めは、この梵鐘が播磨国護聖禅寺に奉納されたときの鐘銘で、東濃釈支山という僧の名があり、後のほうは、同じ梵鐘が周防国志駄岸八幡宮に奉納されたときの銘で、大檀那多々良政弘朝臣と、願主前永興周省という僧の名が入っている。
つまりこの梵鐘は、少なくとも播磨国と周防国、そして現在の備後国三次市と、三箇所を渡り歩いたことになる。なぜ、そしてどんな経路で移転したかは、いまのところまったく判っていない。
しかし、二つの鐘銘により、その時代背景や関与した人々については、ほぼ知ることができる。 
それらを調べているうちに、いまはもうほとんど忘れ去られたこの小さな釣鐘に、意外にもおおぜいの中世の著名人が関与していた、という事実が次々と判明した。 以下、それを叙述する。

1) 五山文学の系譜と赤松氏  一山一寧 → 雪村友梅 → 雲渓支山

わが国中世の文学を、ボクはおよそ三つに分ける。 
まず第一が平家物語、太平記に代表される戦記もの。法華経の諸行無常を説いた天台宗・時宗系の記録文学に始まり、現代の講談・歴史小説に至る系譜である。 なぜかこの系譜は播州赤松氏の残党と癒着し、平曲、太平記読みを経由して全国に広まり、いまでは講談の元祖すらまぼろしの赤松法印に擬している。
次が五山文学で、宋元直輸入の漢詩文文学として臨済禅宗の独占舞台であって、これにも赤松氏が関わりあっている。 
以上の2つはいずれも大陸渡来の宗教を基盤とした、いわば輸入文学の系統である。
残る一つが勅撰和歌集や源氏物語に代表される仮名文字文学で、これは天皇家を取り巻く純国産文学といえるかも知れない。 
換言すれば、初めの二つは洋風カレーと、舶来のビフテキ。 あとの一つは和食になった懐石膳の如きものか。
そしていまここで取り上げるのは、2番目のビフテキ、つまり五山文学である。

蒙古が、2回目に九州に攻めてきたのが1281年、幕府執権は北条時宗、弘安四年夏のことである(弘安の役)。 ちょうど台風シーズンで、いわゆる神風が吹いて敵の艦船が沈み、それいらい蒙古はもう日本を臣属させることを諦めた、とわれわれは教えられてきた。

しかしそうではない。 出兵は諦めたものの、蒙古、つまり元はそれ以後も執拗にわが国に朝貢を求めている。
弘安の役の18年後、元の皇帝成宗は、補陀落山(ふだらくさん)の僧「一山」を遣わしてわが国に朝貢を求めてきた。
一山一寧は、妙慈弘済大師の勅号を与えられ、正式の外交使節として、1299年10月、鎌倉に到着した。 ときの幕府の執権は北条貞時、後伏見天皇の正安元年である。

スパイ視されて一時は伊豆の修善寺に幽閉されたが、一山一寧の優れた才幹は日本公武の崇敬するところとなり、北条貞時はかれを厚く遇して建長・園覚の諸寺に延請し、後宇多法王は京都に招いて南禅寺に勅住(南禅寺三世)せしめられた。 しかし肝心の国使としての使命のほうを、かれ一山が果たしたかどうかはいっさい判っていない。

日本歴史上、中世五山文学禅林文学と言い換えてもよい)の源流は、この一山一寧という僧に始まるとされている。 
一山は卓抜な詩藻を持ち、仏学はもちろん、儒学、稗史にも通じ、多くの後輩を指導して在日18年、1317年、北条高時の時代に寂した。 行年71才、「一山国師語録」全二巻が大正新修大蔵教に修められている。

鎌倉五山・京五山を中心に臨済僧侶によって維持された五山文学は、詩文・日記・史伝を主とする漢文学で、鎌倉末期から室町前期にかけて最高潮に達したが、あまりにも思想高邁・字句難渋に過ぎたため、応仁の乱後はまったく衰退してしまった。 
われわれは今日その残影を、禅葬の僧侶が唱える偈頌(げじゅ)に、わずかに見ることができる。

鎌倉から室町にかけての時代、日本と大陸の間の外交はほとんど禅宗の僧に依存していた。 かれらは文章および会話に共通の言語を所有していたので、日、中、鮮、三国の為政者たちは好むと好まざるに拘わらず、外交は禅僧に依存せざるを得なかったのである。 一山が外交使節として来日したのも、そうした背景による。

一山一寧の法嗣は雪村友梅(建仁寺三〇世)である。

雪村は越後の人、元に赴いて叔平・月潭等に師事した。 誤解をうけて獄に繋がれ、斬刑にあわんとして、無学祖元の偈(げ)を唱えて獄吏を感心させ、危うく一命を免れた。 この偈が、いまなお人口に膾炙し有名な「電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)」である。
雪村友梅は帰朝の後、日本各地で寺院を開き、建仁寺・南禅寺等の住持に任じた。 
とくに赤松則村・則祐父子の帰依厚く、播磨と備前に法雲・宝林二寺を開くにあたって雪村をその開山に請じた。

則村が29才のとき、京の町を歩いていると、一人の僧がしげしげと彼の顔を眺め、「あなたは将来、貴人になる」といった。 発奮した則村は、それ以来終生、この僧雪村友梅を師と仰ぎ、心の支えとして一生を終わったという。 兵庫県上郡町の宝林寺には雪村の木像かも知れないといわれる乾漆像が、いまなお存在する。
則村の「円心」、則祐の「自天」という道号は雪村から与えられたものである。
 

雪村友梅の法嗣に雲渓支山(相国寺五世)がいる。
雲渓支山は、はじめ道号を雲石といった。 美濃の土岐頼清の4男、1329(元徳元年)に生まれ1391(元中八年)に寂した。 師雪村友梅が亡くなったときは18才であった。

雲渓ははじめ、赤松則村の孫師範(円心の長男範資の第4子)が建立した播磨国永良庄護聖寺の開山として迎えられた。 41才のとき、赤松氏氏寺として官寺十刹に列した法雲寺(現兵庫県上郡町)の住持に転じ、のち京五山の一つ相国寺の五世住持となり、晩年は相国寺に玉龍庵を構えて退居した。
かれの旧著「雲渓山禅師語録」および「雲渓山禅師疏」の写本が、京都建仁寺に現存する。 
護聖寺を建立した赤松師範の道号「雪渓」は、かれが師として敬う村友梅と雲支山の名を併せたものと思われる。

建武の中興に先立ち、日野資朝の「正中の変」に連座して斬に処せられた土岐頼兼は、雪村友梅の叔父にあたる。 支山誕生の5年前にこの国史上有名な正中の変がおこり、そのときは叔父頼兼のみならず一族の多治見国長も斬られている。土岐氏は清和源氏、源頼光の子孫で、代々美濃の守護職であった。

一山一寧の法嗣が雪村友梅雪村友梅の法嗣が雲渓支山 と、鎌倉時代から室町に至る五山文学の中枢をしめる、いわゆる臨済宗一山派がこの播州赤松氏護聖寺に深く関わっているのである。

2) 護聖寺の梵鐘

永和二年(1376)九月に、宝華山護聖寺に新しい鐘が奉納され、いまそれが広島県重要文化財として残っている。 しかし護聖寺のあった播磨国永良庄、いまの兵庫県神崎郡市川町の人たちは、その鐘が三次市の一寺院に残っているらしいと風の便りで聞くのみで、自分たちのかかわりがどのような文面で彫り込まれているのか知らない。

しかし、鐘の銘文には確かに播磨国永良荘寶華山護聖禅寺の文字と、東濃釈支山の名が明記されてい、美濃国出身の坊さん「支山」という人が、永良荘護聖寺にその鐘を納めた、ということははっきりしているし、その梵鐘はめぐりめぐって650年後の現在、広島県三次市三次町の三勝寺という小さな寺院に納められていて、広島県重要文化財、三次市文化財に指定されている、というのも紛れのない事実である。

      

護聖寺のあった播磨国永良庄(ながらのしょう)は当時、備前、美作、播磨の守護であった赤松氏の所領内で、そこには寺を建立した赤松師範の子、則縄の稲荷山城(永良城)と谷城があり、師縄は本貫永良庄をとって永良氏を名乗った。 いわゆる赤松七条流永良氏の祖である。 
場所は、いまの兵庫県神崎郡市川町のうち、市川右岸一帯。 永良姓を名乗る旧家が、市川町美佐地区にいまなおあり、護聖寺の法灯を継ぐという曹洞宗護生寺も、すこし南よりの神崎地区に存在する。

元山口市立歴史民俗資料館長内田伸氏が採取された鐘拓によれば、三勝寺の銅鐘(広島県教育委員会はそう呼称している)の初銘、つまり護聖寺梵鐘の銘の前半はつぎの通りである。

 播磨州永良荘
 寶華山護聖禅寺
 余主播陽護聖之初寺   余の主播陽護聖之初寺
 有舊鐘撞破無聲久矣   旧鐘有るも撞破し声久しく無し
 竊謂禅刹號令之厳莫   竊かにおもんみるに禅刹、号令之れ厳しきは莫し
 先於鐘晨昏扣之以警   まず鐘を先とし晨昏に之れを叩き、以って警す
 吾徒其可不備乎@命   吾が徒其れ備えならざるなき乎と。 因って
 鳬氏改而鋳焉是歳秋   鳬氏に命じて改めてこれを鋳せしむ。この歳の秋
 告成厥功東濃釈支山   成りてその功を告ぐ。 東濃の釈支山
 為之銘曰          之れが為に銘して曰く

 百錬範金 千釣成器    ひゃくれんはんごん せんぎんじょうき
               (何度も鍛え型に鋳込み、立派な器を成す)
 圓音孔揚 克宣佛事    えんのんこうよう こくせんぶつじ
               (梵音はなはだ揚がり、よく仏事を宣ぶ)
 月夕霜晨 啓昏警怠    げっせきそうしん けいこんけいたい
            (月の夕べ霜の朝に、昏きを啓き怠るを警しむ)
 覚爾群生 聞不昧    かくじぐんじょう もんじょうふまい
                 (目覚めし衆生、聞きて昧らからず) 
    永和二年丙辰九月 日
    住山比丘支山銘之
                   (註: 鳬氏・ふし=梵鐘メーカー)

鐘銘にある永和二年(1376)は北朝後円融院の時代、南朝の年号では天授二年、長慶天皇の御代である。 
室町将軍の義満が「日本国王臣源道義」と名乗って対明交易で稼ぎ、護聖寺があった播磨国は赤松則村の孫義則が守護職をつとめていたころである。 
当時は長らく、足利将軍と山名、細川、大内、畠山、赤松、らの大物武士階級との蜜月時代が続き、かれら新興貴族仲間は禅僧と共に高踏的な文芸の論談に花を咲かせ、五山文学趣味に耽溺していた。 
播磨の守護赤松円心入道則村は、1337年、自分の本拠播磨国上郡(かみごおり)に法雲寺を建立し、開山に京から雪村友梅を迎えた。 二年後、法雲寺は十刹に列し官寺となった。  
すでに友梅から自天の道号を与えられていた嗣子則祐(円心の3男)もまた、1355年に宝林寺を備前から播磨に移建し、同じく官寺諸山に列した。 

同じころ、則祐の甥師範も、叔父に負けじと播磨永良庄に護聖寺を建立し、開山として雪村友梅の法嗣雲渓支山を迎えた。
とうぜんのこと赤松一家の氏寺の一つとして、寶華山護聖寺はすべてが順調であった。 数年を経て新しい梵鐘を寺に奉納したが、梵鐘の一つや二つ造るくらいなことは、いわば造作のないことであったろう。 
建任寺にのぼり、さらに南禅寺の住持に勅任され、当代最高の文人として有名な雪村友梅の、その法嗣雲渓支山を開山に迎えて梵鐘を造った赤松支流永良氏もまた、臨済禅で ご本家赤松氏と肩をならべ得たのであった。
釣り鐘に彫り込んだひゃくれんはんごん せんぎんじょうき えんのんこうよう こくせんぶつじ・・・と続く四字単対句による韻の美しさは、さすがその時代一流の詩僧の名に恥じぬ流麗なものと感心させられる。

武家と禅宗の関係
武家が鎌倉に政権を樹立し、新たな支配階級として、あるいは新興貴族として、自己を飾るには宗教の持つ文化と教養が必要であった。 しかし,天台・真言の二宗は既に先発貴族である公家に占領されていた。
そこへちょうど現れた臨済禅宗は、もともと大陸において宋の王室と特別な関係を持つ貴族宗教であり、そのこと自体すでに武家の貴族化に好都合な大義名分を備えていた。 さらに、禅宗が「不立文字」、つまり文字よりも直感を以って悟入するを宗旨とする、その直截簡明なところが武士の趣向に合い、これに深く帰依し、その感化を蒙って、「いざぎよさ」から成る尚武の精神を涵養しえるという利便性があった。 しかも、学殖薄い部類の武士たちにとって、長文を弄しないのはまことに好都合でもあった。
さらにもし、いささかの教養を嗜む武家のばあい、朱子学に裏づけされた禅林文学の遊びは、宗教としての理解を懈怠しつつ、なお高尚な文学趣味を味わうことが出来た。
「武骨一途の侍でなく、文武両道を兼ねた教養人としての新貴族」を誇るために、禅宗への帰依はまことにうってつけの手法であったといえよう。 
しかしそのためには、師であるべき僧侶の出自もまた上流階級でなければならない。 護聖寺開山の雲渓支山や、あとで述べる以参周省が名家の出であったことは、決して偶然ではない。

そうした文化が爛熟して、いよいよ掛けねなし本物の文人貴族が現れた。 それが4代将軍足利義持である。
義持を取り巻く山名時熙(ときひろ)、大内盛見、赤松義則(赤松則村の孫)等のサロンが、詩文のみでなく、書斎・書院から詩画軸にいたるまでの知識人文化を作り上げた。 
日本の武家社会でこれまでに見られない高度かつ巧緻なる知性と、洗練された趣味を有する貴族的知識階級の出現を見て、文化の華は燦然として一世に爛漫たる観があった。人よんで之を北山時代という。
その時代に、わが護聖寺鐘銘の主、雲渓支山が生きていたのを、まず知るべきである。

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