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3) 嘉吉の乱と、赤松一家の没落

なにごとも目出度いずくめの赤松一家ではあったが、護聖寺へ梵鐘が奉納されてから65年の後、突如として一大不祥事をみずから惹き起した。 
幕府の重臣赤松満祐(義則の猶子)が京の自邸に将軍義教を招いて殺害したのである。 満祐は一族を連れて播磨に逃れたが、幕命を受けた但馬の山名持豊らの軍に追われて敗死、播磨の守護は山名に替わり、永良氏の所領である永良庄も没収されて、代わって山名氏が代官の職についた。

永良氏の二つの城、稲荷山城と谷城のちょうど中ほどに存在した護聖寺も、おそらく山名氏によって差し押さえられただろう。 
嘉吉の乱の2年後には、早速、永良庄の年貢のうち20石が播磨守護山名持豊の名で山城遍照院へ寄付されている。 遍照院には足利・山名の先祖源経基を祀る六孫王神社があった。
それから16年後の長禄2年には、将軍足利義政が護聖寺領の返還を命じている(蔭涼軒日録 長禄二年六月二十三日 播磨国護聖寺并寺領等之事伺之。即可被還付之由有命也。)から、少なくともその頃までは、山名氏の支配のもと、なお護聖寺が存続していたのが確認できる。
 
しかしそれ以後の護聖寺の運命はどうなったか、雲渓支山の銘入りの梵鐘はどうなったか。 歴史は、その後について何も伝えていないし、堂宇の遺構すら残っていない。 
いま兵庫県市川町田中にある曹洞宗清久山護生寺は、護聖寺の法灯を継承したと謂われているものの、寺自体が江戸期の建立で、かっての護聖寺の記録も、伝承もない。
いわば護聖寺はまぼろしの廃寺となって今日に至っているのである。

4) 旧護聖寺梵鐘の発見と三勝寺

ところがここに一つ、旧護聖寺の遺物の存在が確認される。 
広島県三次市の三勝寺に保存されている銅鐘(広島県重要文化財)に、偶然にも、既述の通り「播磨州永良荘寶華山護聖禅寺」という文字が彫り込まれていたのである。 広島県教育委員会は、昭和29年に広島県重要文化財に指定した。
旧護聖寺側、つまり兵庫県市川町(旧鶴居村)にとっては、いわば寝耳に水の話である。

三次市の旧市街にある三勝寺は浄土宗鎮西派。大本山は知恩寺で、俗に百万遍と呼ばれている。 
小ちんまりした寺院にしては由緒は古く、天文5年(1536)、いまの三次市東酒屋町にあった旗返城主松尾長門守三勝の菩提寺として開山。 三勝寺という寺の名の由来はここにある。
徳川将軍綱吉のころ芸州広島浅野家支藩五万石の浅野長治侯が三次に入封するに際し、旧比熊城跡の陣鐘(護聖寺の梵鐘)と共に、三勝寺という寺院も今の地に移された、という。 その後50年ほど経った宝暦年間に「寺宇焼亡し、今僅かに再修す」という記録が存在し、現在の小さな寺院のたたずまいを釈明している。

広島県三次市と兵庫県市川町は、いまの中国自動車道ダイヤグラムによれば200キロメートル隔っている。
どちらも中国山脈の中ほどにあるが、そこに存在する三勝寺(浄土宗)と護生寺(曹洞宗)は宗派も異なり、いまもって面識すらない。
明治以後の地図にはなぜか採り上げられていないが、少なくとも旧幕時代までは、ここ山陰山陽両道の真中どころに、播磨から美作、備中、備後を経て出雲に至る東西の、もう一つの道路があった。
永正五年(1508)に、「雲州の凶徒が播磨に乱入す」という記録が、これも赤松ゆかりの市川町宝樹寺に残っている。 
「雲州の凶徒」とは、尼子経久の軍が三木の別所氏(赤松一族)を攻めたときのことであり、このとき尼子軍が通ったのも、たぶんこの道だったろう。 その記録を読んだとき、「さては尼子氏が別所を攻めたとき、行きがけの駄賃に護聖寺の梵鐘を失敬していったのか」と、ボクは思った。
 
4) 陸路でなく海路で 

ところがそうではなかった。 
この三次市三勝寺に現存する梵鐘にはもう一つ追銘が入ってい、それには周防国大嶋という文字が彫込まれていたのである。 大嶋は瀬戸内の海上、山口県柳井市の対岸にある島である。
釣り鐘は、中国山脈を通らず、どうやら海路を経て、播磨からいったん山口県大島町に運ばれ、ずっと後になって内陸の三次市に移されたらしいのである。
既述の内田先生が採られた鐘拓によれば、追銘は次の通りになっている。

(追銘)
周防州大嶋郡三蒲本庄   周防州大島郡三蒲本庄(みがまほんじょう)
志駄岸 八幡宮有鐘舊矣  志駄(しだ)岸 八幡宮に鐘有り。旧きが故に
A之載久破裂無聲丁未   これ載するも久しく破裂れて声無し。丁未
之秋願主                    の秋、願主
奨于檀門改為之晨昏考   檀門に奨めて之を改めんとす。晨昏考え
撃以警B顕而苦輪殆乎息  撃ちて以て幽顕(死者も生者も)を警しむれば
                  而して苦輪、殆ど息むべきか
矣勝利曷可測乎随喜之   勝利なんぞ測る可けんや之を随喜するの余り
餘為銘曰            銘をなして曰く

 陶万物銅 為宮D器   万物をそだつ銅 宮廟の器と為す

 偉哉洪鐘 響動天地   偉なる哉洪鐘 響きは天地を動ず

 廃烏方興 昨非今是   鳥(う)廃せばまさに興る 昨は非今は是なり

 徳重周E 切r鳬氏   徳重り周り晢かなり 切にrたり鳬氏(ふし)
                     (鳧氏もおなじく立派だ)
 厥形可見 聲從何起   厥の形ち見るべし 声ただに何ぞ起こらん

 聞声以眠 見色以耳   声を聞くに眠を以てし色を見るに耳を以てす

 幽顕平等 斎脱苦累   幽顕(死者も生者も)平等 斉しく苦累を脱す

 檀心両施 神徳風靡   檀(檀施)心(信施)ともどもに神徳風靡し

 希音万年 福溢邑里   希くは音は万年に 福は邑里に溢れん

長亨元龍集丁未秋八月十五日   長亨元年、龍集う丁未の歳秋八月十五日
大檀那 多々良政弘朝臣 願主  大檀那 多々良政弘朝臣

前永興周省謹識          願主 前の永興()周省謹みて識す
    施主  隆覚            施主  隆覚
         妙義                 妙義
 

長享元年(1487)は足利将軍義尚の時代で、この梵鐘がはじめ護聖寺に納められてから、じつに111年の後になって、周防大嶋の志駄岸八幡宮に奉納されたと、追銘は記しているのである。

5) 大檀那多々良政弘朝臣

多々良政弘とは、当時、防・長・豊・筑の守護大名であった大内政弘のことである。
寛正六年(1465)大内家28代の教弘が伊予の軍中で病死し、嫡男政弘は20才で大内の家督を継いだ。
それから2年後に応仁の乱が起こり、大内政弘は山名宗全(西軍)の招きに応じ、長門・周防・豊前・筑前4ヶ国の軍数万をひきいて上京した。 いうまでもなく大内軍が西軍の主力であった。 戦況は一進一退、10年間もいくさはつづいた。 しかしその間に西軍の山名宗全が死に、つづいて東軍の細川勝元が死んだことから、決定的な勝敗を見ずして乱は収まった。政弘も文明九年(1477)には山口に帰還した。  

10年も続いた応仁の乱で京の街は荒廃したが、大内氏の拠点山口は「西の京」とまでいわれるほどに繁栄し、難を逃れた文人墨客が政弘の11年間の留守中も続々と大内氏を頼って山口にやってきた。
そのうち特に有名なのは、画僧雪舟と連歌の宗祇である。 
準勅撰和歌集として著名な「新撰菟玖波(つくば)集」は歌人大内政弘が資金を提供して宗祇に編ませたもので、いま鎌倉市の文化財として保存され、政弘の歌も数首入っている。

     
     
大内政弘がどのようにして護聖寺の梵鐘を入手したか判らないが、とにかく彼がその釣鐘を自分の所領内の大嶋三蒲本庄志駄岸八幡宮に奉納したのは、かれが京から帰国後11年目のことである。 その奉納にあたって、前永興周省という僧に追銘を書かせた。 さてその前永興周省とは誰のことか。

6) 前(さき)の永興

前永興とは、「永興寺の前の住職」という意味であって、その「永興寺(ようこうじ)」は、現在もある岩国市藤生町(錦帯橋の西隣り)の古刹、永興寺のことであり、当時の寺域はいまの吉香公園一帯だったらしい。 
永興寺の開基は大内弘幸、開山は仏国国師高峰、二世は夢窓国師、中興は九世普明国師春屋妙葩である。

開山、仏国国師高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子。 
二世、夢窓国師疏石ははじめ後醍醐天皇の勅命で南禅寺住持、のち天竜寺を開山し、最後は西芳寺(苔寺)を開いて隠棲した。 
九世、普明国師は夢窓国師の甥。貞治六年(1367)大内弘世の招請によって永興寺の住持となる。 弘世は永興寺の基址を広め、堂宇を一新した。 松樹鬱蒼として、水 淙々たる広壮な境域に塔頭支院七堂伽藍善美を尽くし、輪煥の荘厳は山川の明媚と相まって壮観を呈した、という。
普明国師春屋はのち京へ帰り、南禅寺山門破却事件で管領細川頼之と争ったが、政界により大きな影響力を持つ春屋の勝利するところとなり、頼之は敗北して管領を退き、阿波に隠居した。

現在の永興寺
さらに大内氏滅亡後の永興寺の歴史を見ていくと、歴史上興味ある話題が次々と出てくる。 たとえば主筋大内を滅ぼした陶晴賢は1551年、先ず永興寺に兵を進めて本陣とし、そこでいっさいの謀議計画を整えて大内義隆を死に至らしめた。 
それから四年後の1555年、安芸国吉田の小領主に過ぎなかった毛利元就もまた永興寺に兵を進め、そこを本拠として周防、長門を攻略した。

関が原の戦いに敗けた毛利輝元が領邑を没収されて萩に移ったとき、一家の吉川広家も岩国に移った。
吉川広家は岩国入封後、居館、城塞、武家屋敷、その他城下町の造成にあたり、まず永興寺の諸堂伽藍を解体して城郭居舘に転用し、境内地を収めて敷地に充てた。
永興寺はのち、寛永になって一部再建されたが、昔の面影はない。

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