釣り鐘二題

  妙法寺の梵鐘(兵庫県福崎町指定文化財) と 

  三勝寺の銅鐘(広島県指定重要文化財)

                          by 箕園

その一

妙法寺の梵鐘(兵庫県福崎町指定文化財)

       および元政上人高尾太夫の恋物語
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福崎町山崎の日蓮宗妙法寺に、高さ一二〇センチ、直径六〇センチの大きな梵鐘
(釣り鐘)がある。 
第二次大戦中の金属回収で、多くの寺の釣り鐘は鋳潰されて戦争武器になってし
まった。 
しかし、妙法寺の梵鐘は、徳川初期最高の文人、深草元政上人(ふかくさのげんせ
いしょうにん)の銘が鋳込んであり、由緒ある梵鐘として回収を免れ、今日に至っ
ている。

鋳込まれた鐘銘は、明暦二年、京都妙顕寺の日豊上人の名になっているが、元政
上人(水戸黄門と同じ時代の人)自選の有名な著作集[艸山集(そうざんしゅう)
]に、「妙法寺鐘銘并序」と題して、まったく同じものが出ていて、じつは作者
が元政上人であると分かった。 
元政上人は、もと彦根藩井伊直孝の家臣で、二十六才のとき、日蓮宗大本山妙顕
寺の日豊上人について出家している。

鐘銘は、およそ次のような内容である。

播磨国神西郡(いまの神崎郡)の栄昌山(えいじょうざんー妙法寺の山号)の

日達(にったつ、そのころの妙法寺の住職)という人が、遠い道をわざわざ

(京都まで)やって来て、言うのには「わたくし、日達は田舎におりますが、土

地の人々の風俗は頑固で、仏の教えをきかせても従いません。 どうしたらそ

の人たちの心を奮い立たせられるか、いろいろ考えた結果、釣り鐘をつくって、

それを目に見せ、音を聞かせたならば信心のこころが目覚めるだろうと考えま

した。 たまたま、わたしの願いを助けて、お金を出してくれる檀家があり、

釣り鐘はおおかた出来上がりました。 この釣り鐘の銘として、短い文章を鋳

込んで、将来に残そうと思いますので、ひとこと何か書いてください」とのこ

とである。わたしはそれを聞いて言った、「名案です。釣り鐘という物を造る

だけでなく、同時に人を造ろうということですが、それはちょうど孔子が、金

の器(うつわ)の代わりに、顔淵という立派な弟子を造った話に似ています」、

と。

釣り鐘の功績については、中国の昔ばなしにも、悪者の刀をくじき、縛られた

鎖を解き、不思議な力が人命を救った、というような話がたくさんでてくる。 

鐘そのものは、本来は山のように静かだが、ひとたび鳴れば雷のごとき音がす

る。 だが、鐘だけでは鳴らず、杵があたって、はじめて音がでるのである。

杵が鐘を離れたとき、その音はいったいどこから出たのか見てもさっぱり分か

らない。 しかし、ひとたび大きな音がしたとき、風は起こり、山は鳴り、谷

にこだまし、水に潜む竜が奮い立ち、土に隠れている虫までが飛び出して大騒

ぎになる。

朝晩、これを打ち鳴らせば、ふだん言うことを聞かぬ人々も、みな奮い立って

御法(のり)をたたえ、仏道もはやく栄えるようになるであろう。それを期待

し、一つの詩を作って、この鐘の銘とする。

昌山絶頂吼天華鯨   昌山の絶頂  華鯨(立派な釣鐘)天に吼ゆ

鐘本無響杵何有声   鐘もと響なし 杵なんぞ声あらん

非合斯震豈離能鳴   合してこれ震うに非ずして離れて豈(あに)能く鳴らんや

豊嶺霜降梵音自清   豊嶺(美しい山)霜降りて 梵音(鐘の音)自ずから清し

 

元政上人は、毛利輝元の家臣、石井元政の子として京都に生まれ、姉の縁故で
根藩主井伊直孝の側近に仕えたが、二十六才のときに出家し、三十三才で京都深
草に草庵を営み、仏道のかたわら詩文(漢文、漢詩、和歌)を楽しみ、その時代
最高の文人として名を世に馳せた。 著書に、草山集(三十巻)、如来寺秘録(六
巻)、本朝法華伝、身延行記、草山和歌集など二十数種がある。 

艸(草)山集巻首の年譜に照合すると、妙法寺の鐘銘は、かれの三十四才のときの
作品らしく、おなじ年譜の追記には、そのころ元政上人が交友していたた人々と
して、つぎのような名まえが列挙されている、

(前略)俗子高橋勘平、伊藤丈庵、北村季吟、青木元澄、佐野雄軒、荷田春満
大西親光等、皆師礼を以て教えを請う。 一道交詞友として (中略)
俗子には石川丈山、陳元斌、熊沢蕃山、鵜飼石斎・・・・。

なお、井原西鶴によれば、堺の富豪商人たちが学んだ学芸とは、「茶の湯は
森宗和の流れを汲み、詩文は深草の元政に学び、俳諧は西山宗因の門下となる
のが極め付けとなってい、元政上人の名が、当時いかに高かったかの証左となる。

元政上人の文人としての名はあまりにも高く、それにかれの姉が生んだ井伊直澄が
のちに江戸幕府の大老にまで昇進し、さらには、かれの出家(しゅっけ)が、そ
の頃の習慣としてひじょうに遅い二十六才という年齢だったため、うわさが噂さ
を呼び、かれの出家の動機を、いつの間にか、そして真偽のほどはともかく、
吉原の花魁(おいらん)の悲恋物語に掛け合わせ、二代目高尾太夫、またの名
石井高尾」の、物語りの主役にまで、せりあげてしまった。
 

The red light district of Yoshiwara                                        
歌麿筆「新吉原仲ノ町の花の図」

原武太夫著[高尾考(たかおこう)]は、徳川時代後期に出版され、江戸文学の
典型として情緒纏綿、いくらかの道行(みちゆき)調を加えた物語風の本であるが、
基礎資料の該博さと史的考証において、他の多くの高尾物語を抜き、信憑性もた
ぶんにあるとされている。

そのなかに、現代文に直すと、およそつぎのようなストーリーが出ている。

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