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名字帯刀御免
 
文政6年といえば徳川時代ももうそろそろ終わりに近づいたころ、藩札発
行のお礼として、播州福本藩から 「名字帯刀御免」 を頂いた川口屋が、
それから百年も経たずに明治維新に遭遇し、すべてをなくして店をたたん
でしまった。 その盛衰と、周辺社会を描き出して、維新史の側面を考え
てみよう、というのが、この物語の目的である。
兵庫県神崎郡、朝来郡の郷土史家たにもいか新しいtete見をしけると信
じている。 内容の見出しと ホームページのリンクを兼ねて、以下に単語
集を記載しておく。
            (なお、関連する読み物として、ぼくの自叙伝
              パリ祭の男 をサーチして見てほしい。)

播州福本藩 川口屋 丸尾太右衛門 神崎郡 神崎町 市川町 粟賀藩
藩籍奉還 福崎町 図録兵庫の古紙幣 申し渡覚え 川口屋文書
江戸屋敷類焼 御小姓格 嘉吉の乱 赤松・別所・後藤 太平記
柳田国男 辻川の三木家 竜野の醤油産業 丸尾カルシウム 生野峠
氷上郡  朝来志 但陽信用金庫 生野銀山 丸尾八右衛門
加東郡市場村 近藤亀蔵 酒田本間家 丹波柏原 加古川 市川筋掘削
一柳藩 高瀬舟 飾磨津 太政官紙幣 原六郎   皇太子フェルナンド
旧福本藩史 神功皇后 息長王家 中治院家 打掛(打ち掛け) 明智光秀
波多野秀治 澤宣嘉子爵 扶桑教 台湾人 天母教 ま祖 福建省  
終戦 進駐軍 天母温泉 故宮博物館 満身創痍 朝来町佐中 尊攘運動
横浜正金銀行 山陽鉄道 播但線新井駅 神子畑川 福地川 大屋市場
七卿長州落ち 北垣国道 戊辰戦争 北海道庁長官 幣原内閣  
松本丞治?? バイロン卿 広島県三次市梵鐘 有形文化財 将軍義輝
尼子経久
生野義挙

神崎郡史・神崎町史 ・市川町史物語    

播州福本藩 川口屋太右衛門
 
いまの兵庫県神崎郡神崎町および市川町の区域に、幕末、鳥取池田侯
の支藩で福本一万石というのがあった。 城に代わるべき陣屋が旧粟賀
村福本にあったため、福本藩または粟賀藩と称した。 鳥取から分藩した
ときはたしかに一万石強あったが、のちさらに近所の屋形と吉富に再分
家したので、幕末の福本の石高は七千石たらず、幕制では立藩できず、
「交代寄合い」という、「大名家に準ずる旗本」の扱いであった。
版籍奉還のときは、いちはやく奉還を申し入れたが、万石以下では旧藩
主が華族になれぬとわかり、慌てて鳥取のご本家から名目的に三千石
足してもらい、明治も元年になってから立藩、危ういところで男爵正五位
を頂いたものの、もともと大貧乏の殿様 池田徳潤侯、爵位を持ち切れず、
維新後すぐ返上してしまった。
わずかな山林と農業以外には見るべき産業とてない福本藩は、徳川時
代には貧窮の極に達し、文政年間に、大名家に伍して一人前にも藩札
を発行することになった。 ところが何分にも殿様に信用がない。 そこで
藩内の商人に頼んで藩札の保証人になってもらうことにした。 選ばれ
た商人は二人、藩庁のある福本村に居を構えた備前屋金兵衛と、市川
中流の川湊に面する福渡村(いまの市川町神崎)の川口屋太右衛門
ある。

ときは文政五年、「銀五匁」から「銭壱分」に至るまで、計8種類すべての
藩札を発行した。 藩内の通貨をすべて、自藩発行の藩札でうずめるべく
まことに思い切った窮余の政策である。 藩財政が、よほど 行き詰まって
いたのであろう。 このとき発行した藩札のうちの一枚は、神崎郡福崎
町辻川の郡資料館に展示されている。 全種類8種の写真版について
は,「図録 兵庫の古紙幣」という灘の酒造家の私家本に載せられてい
て、阪神間の公立図書館で見ることができる。  それらには、「文政
五年八月播州粟賀」の文字と共に、発行者として「備前屋金兵衛」と、
「川口屋太右衛門」のなまえが印刷され、両者が捺印している。 つま
り、表向きはこの二人の私幣という事になっていて、藩庁や藩主のな
まえは印刷されていない。 つまり、殿様とか、藩庁に責任はないこと
になってい、これは他のどこの藩の藩札も同じ形式で、かならずしも
福本藩だけがずる賢いというわけではない。 こうした場合の藩札名義
人のことを、「銀貸し」とよぶ。
(写真は、「銀5匁預」と印刷された福本藩札)

 

 

 

 

「銀」という硬貨を貸す代わりに、「銀何匁」と明記した兌
換紙幣を印刷して藩に貸すわけだから、「銀貸し」である。
当然のこと、殿様は「銀貸し」に頭があがらない。 どこの
藩札でも、発行した藩以外には通用させてはならない、
という厳しいお達しが出るがそれでは不便で、近隣の藩
にも通用させるのが公然の秘密であった。 筆者の祖母
(川口屋丸尾本家の北隣に軒をならべていた「北丸尾」
の次女、長女は川口屋11代の妻女)の話では、福本藩
札は信用が薄く、姫路で十文のものが、この藩札では六
文にしか通らなかったとのことである。 いまならフィリピン
ペソが安い、というようなものである。  藩札発行の翌
年、つまり文政六年未年の暮れも迫った十二月、川口屋
太右衛門こと福渡村吉兵衛〔吉平〕に、藩庁から文書によ
る有難いお達しがあった。

 

 

 

 

  
         申し渡覚え
            福渡村 吉兵衛

  その方儀 御勝手方御用向き                   
出精致し候条

御聞に達し 依って名字帯刀

            之を御免 仰せ付け候
            右の条とし仰せ出し候也
       未年十二月
  
巻き紙に毛筆の、お家流で書かれたこの通達書は、はげしい虫食い状
態ながら、市川町大字神崎字福渡の川口屋丸尾家(丸尾恭子)に、い
まなお保存されている。  講談本に出てきたり、いまでも古い家柄を誇
る人たちが口にする、いわゆる「名字帯刀お許し」なるものは、このよう
な片々たる一書簡に過ぎず、それがまことに有り難いお墨付きとして随
喜の涙を流したりするわけだが、殿様にとっては、何のことはない、
切れ一枚書くだけで、コストはただにひとしい。
文政五年八月と表に印刷された福本藩札は、名塩紙の手配から始まる
から、実際に流通しはじめたのは、おそらく文政六年で、つまりこの年に
藩札発行の反対給付として、福渡村の吉兵衛、つまり後の丸尾太右衛
門朝定に藩主池田氏が、ふところの痛まぬお礼をしたというわけだろう。
名字帯刀の話などはあちこちでよく聞くが、実際にこうした「お墨付き」
いう現物証拠が見られるのは、郷土史家の間でも、どちらかといえば珍
しい。
現存する「川口屋文書」には、ほかにも次のようなものがある。
 
     覚え
    一、金 百六十両也
    右は江戸
    御屋敷御類焼に付き 御普請
    に之を献上致し 即ち御用弁に
    相成り候もの也
     天保十二辛丑年 御奉行
             安田紋太
             多田半右衛門
    丸尾太右衛門殿
                        (江戸の藩屋敷が類焼し、再建
                       資金に困ったものと見える)
 
 

  申し渡し覚え
  丸尾吉兵衛へ
  其の方儀 年来御用向き度々
  相勤め候上 此の度 倅太右衛門
  之ニ参り 御用命之趣き
  仰せ付け候処 御請申上げ候条
  ご満足
  思し召し候 依って 御小姓格
  仰せ付け候也
  酉十二月十日
                        (天保8年、太右衛門隠居。
                       長男太治平が襲名と同時に
                       小姓格、つまり侍分にしても
                       らった。)
 
    申し渡し覚え
  丸尾太右衛門へ
  其の方儀 御勝手方御用
  従来出精致し 昨年江戸
  御震火之砌 格別に□□
  献金致し候条 厚くご満足
  思し召し候 依って此の度御駕籠弐人
  扶持 下し置かれ候
  右の趣きに仰せ出で遣わさる也
   巳八月二十八日
            森岡久米之助
            牛尾巌之丞
                   
                     (またしても江戸御屋敷で火事があり
                     金してく れて有り難い。お礼に駕籠
                      お供の費用として二人分の給料
                      出すから、とのこと。)
 
     申し渡し覚え
   丸尾太右衛門へ
   其の方儀 常々御為勤
   心掛け御用弁厚く□□□□候条
   御満足遊被され□□ 旧家之儀に
   従来の功分等
   思し召し 依って親 吉兵衛通り
   今度 間御小姓格に
   仰せ付け候
   右の条 仰せ出され候也
    天保十二年辛丑年
            多田半右衛門
            安田紋太
                      (長男太治平別家し、次男浅七
                      九代目太右衛門襲名。父親同様
                      士分に取立てられたということか。)
 
近年発見された、別家初代丸尾太治平朝孝(8代太右衛門朝定の長男)
の系図によれば、  
 太治平ゆえありて別家。父太右衛門ともに来たりて家務を見、
    ついに当家に隠居たり
とあるから、藩札を発行した8代太右衛門は、藩札発行19年の後、長男
の別家を機に家督を次男浅七に譲り、隣りに建てた別家に隠居したもの
とみえる。
戦前われわれが「隠居」とよび、そこはかって福本の殿様出御の折りの
休憩所であったと伝えられていた隣家は、別家太治平の居所であると同
時に、藩侯が隠居した太右衛門老人にお金の無心を言いにくる場所でも
あったらしい。第二次大戦中、その家には川口屋11代襄太郎の義弟で
旧鶴居村長の上野利平氏が住んでいた。

上記に紹介した6通の文書は、神崎郡市川町字神崎の旧川口屋に、虫
食いのまま、公開もされず見る人もなく、平成11年の今日まで保管され
てきた。 市川町か、神崎町の教育委員会のような所で、郷土資料として
しかるべく保存されない限り、滅失は目前である。
ごく最近もこんなことがあった。裏の納屋で薪割りに使われていたらしく
棟(みね)を金槌でさんざん叩いた痕があるのに刃こぼれのない鞘無し
刃物を発見し、目釘を抜いてみたところ京堀川の山城守国清の銘刀
判明した。これなど、まさに廃棄の寸前であった。
 
さて小藩ながら、そして金の力とはいえ、こうした数々の文書を誇った播
州福本藩の川口屋なる商家が、いったいどこから来て、どんな事業で儲
けたかなどは、実のところほとんど判っていない。 いわゆる大庄屋豪農
筋ではなく、商家であったことは間違いない。 じじつ、明治10年頃まで
は、今に残る川口屋の屋敷跡にたくさんの倉庫が建っていて、季節の
替わり目には、大量の荷物が出入りしていたという話を、筆者の祖母が
していた。 その荷物の内容が何であったかは、幼女のころの祖母の記
憶にない。
だいたいこの辺り、というよりほぼ播州一帯に亙って、旧家・大百姓に類
するような家は、もとを探れば応仁・嘉吉の乱の赤松・別所・後藤の武
士団 が戦に負けて帰農し、いわゆる開発名主(みょうしゅ)になったもの
がほとんどである。 神崎郡など中播には、とくに後藤の系統が多い。
伊勢采女庄に始まるといわれる播州後藤が史書に現れるのは、太平記
強力無双 後藤佐渡八郎基景が最初で、それは、のちに後藤の主筋
となった赤松よりさらに100年を溯り、大阪夏の陣の後藤又兵衛で武士
としてはほぼ終わりを告げる。 帰農した後藤は、いまの神崎郡の姓で
いえば、後藤、福永、中塚、大野などである。
同じく太平記の赤松則村の系統赤松、三木、高橋などで、柳田国男
が有名にした福崎町の三木家は、赤松の分家といわれる播州三木別所
長治の後裔らしい。

それが、いまここで話をしようとしている川口屋の「丸尾」という姓につい
ては、神崎郡では他にない、やや珍しい名字で、いったいどうした家系か
かいもく分からない。
ひろく播州一帯を探せば、有名な竜野の醤油産業の元祖 円尾某氏や、
明石の丸尾カルシウムの社長さんご一家がれっきとして存在するが、こ
の方々とわが福本藩福渡村の丸尾とは、どうも関係が無いようである。
 
とすると、この福渡村の丸尾は、福本藩札を発行した太右衛門で8代目
ということになっているが、その先のご先祖が、いつ、どこからやって来
たのか。 それがさっぱり判らない。  
そこでためしに兵庫県じゅうの電話番号簿を片っ端から調べてみた。
すると、あるようでないようで、そしてわりあい普通に、どの局番の電話
局にも、ほんの僅かほどずつ丸尾姓の人がいらっしゃる。 しかしまとめ
て10戸ほども丸尾姓の家々が集まっている町村は、県下で1個所だけ
だった。そこは市川を溯って源流の生野峠を越え、そこから反対に日本
海に流れている円山川の、ずっと遠方にある川沿いの町であった。 さて
は、わが丸尾はそこから、南に山越えし下ってきて、いまの市川町に住
み着いたたか、と一時は思った。
ところがさにあらず。調べてみて、その町の丸尾姓の方々とはいちおう
無関係、と断定せざるを得ない社会的な理由があった。  
そこであらためて考え直して、むかしの姓というのは土着の地名からと
ったのが多いのに気づき、兵庫県小字辞典という本で「丸尾」という小字
の土地をひろって見ることにした。   
すると、あるはあるは、あちこち至る所に丸尾という小字が存在する。早
い話が、わが生まれ故郷福崎にも二個所ほど丸尾という小字がある。
とくに旧丹波国氷上郡、多紀郡に多い。  こんなにたくさんあっては、
小字名からの丸尾姓の源流追跡は、まず不可能である。
 
こまったな、と思っていた矢先、耳寄りな、いや目寄りな情報(?)を得た。
「朝来志」という明治32年に出版された生野周辺、つまり旧福本藩北隣
りの、朝来郡郷土史の本があり、その中に 「明治4年の飢饉のとき、丸
尾八右衛門ほか二名の生野代表が、久美浜県知事小松彰から救援米
970石を借用した」 との記述を発見した。 当時、生野県知事は京都の
久美浜県知事が兼任してい、その生野県には、わが福本旧藩領もいち
ぶ含まれていた。  
生野の丸尾八右衛門は、さてこそわが福渡村丸尾のご親戚!と、意気
込んで朝来志を読み続けると、あるはあるはこの八右衛門さんという人
物が何度も登場する。どうやら生野の名士らしい。
そこで生野町の歴史に詳しい但陽信用金庫前理事長の桑田利文氏
照会してみた。 そして判ったのは、幕末の生野銀山には鉱山師(やまし
)、買い吹、掛屋(かけや)と、幕府指名の3職があり、丸尾は掛屋
(会計資材係)で、八右衛門氏は町の旅篭やからそこの丸尾家へ入った
養子である。 才、人に優れ、幕末には町年寄、維新後に戸長、つまり初
代町長を勤め、はやくに藍綬褒章を受けた生野第一の名士であった。  
生野銀山の掛屋丸尾家は歴代「米屋八右衛門」を名乗り、戸長八右衛
門氏はその6代目。   実父は近隣森垣村の藤原長右衛門、7代目は
豊岡生まれの養子嗣 勳四等丸尾光春、8代目は大阪へ移住したが近
年物故、未亡人が阿倍野区に住んでいらっしゃるとかで、桑田氏は親切
にも大阪から過去帳の写しまで取り寄せてくださった。 生野随一の実業
家、桑田氏とはもちろんご親戚の間柄である。
と、ここまで丸尾八右衛門氏のことは判ったが、さてこれだけでは、わが
福本藩の川口屋丸尾のルーツに関係があるかどうか、判らない。
先さまが立派な名家で、有名人であるだけに、こちらとしては何とか親戚
筋にしてしまいたいところだが、両家の関係がいまのところ定かでないだ
けに、親しそうな口をきくわけにもいかない。
ただ言えることは、維新当時の、わが川口屋当主9代太右衛門浅七と、
米屋6代八右衛門氏とは、おそらく、相互に面識があっただろう、というこ
とである。   

なぜなら、これは後述するつもりであるが、明治のごく初めごろに、わが
川口屋は、加東郡市場村の近藤文蔵家の代理人として、市川と円山川
を結んで瀬戸内と日本海を繋ぐ舟行計画の土木事業を企て、実際工事
に乗り出したことがあるが、そのとりかかった土木工事の現場は、福本
藩領生野銀山領にまたがっていたのだから、当時生野戸長だった米屋
八右衛門氏と、わが川口屋太右衛門とは、とうぜん何度か会合し、いろ
いろ打ち合わせをしたに違いない。
 「やぁ貴方が丸尾さんですか、わたしも丸尾です。 お互い、わりあい少
 ない同じ苗字で、しかも隣同士とはまことに奇縁ですなぁ。 ひょっとした
 ら先祖が同じかも知れないし、まぁ今後とも何分よろしく・・・」
と、いった程度の会話をした可能性は充二分にある、と考えたら楽しいで
はないか。

幕末に川口屋がどんな商売をしていたかを知るための、筆者は一つのヒ
ントを持っている。  筆者少年のころの思い出に、川口屋の裏木戸のつ
ぎ張りに「近藤様御回米始末」と、お家流に書かれた帳票の表紙があっ
た。 前を流れる市川で回漕業か問屋をしていたとも想像できる川口屋だ
が、大事そうに「近藤様」と墨書した、その大事な客はいったいどこの誰
であったろうか。 これがぼくには長い間判らなかった。
われわれの知るところ、市川流域に、いまも昔も、近藤という姓の殿様も、
大商人も、そして豪農も聞いた事がない。 

そこで近年になって考えついたのは、市川よりもう一つ東よりの水域、つ
まり加古川の、いまの小野市市場村というところにあって、幕末に栄えた
近藤亀蔵(息子は文蔵)家である。 徳川後期に上梓された長者番付によ
れば、出羽酒田の本間家四十五万両に対して播州加東の近藤家六十
万両となってい、当時、名実ともに日本一の銀貸しは近藤であった。この
近藤は、東に淀川の改修工事を請け負い,西に四国丸亀藩へ多額の
大名貸しを行い、一説によれば九州辺りの大名にまで金を貸していたと
いう。
近藤への名字帯刀お許しは、地元の小野一柳藩は当然のこと、姫路藩
竜野藩、丸亀藩のみならず、幕府大目付からも日本全国に通用する墨
付きを頂いていたそうである。加西・加東・多可3郡に亙って数千町歩の
新田を開発し、丹波柏原から播磨高砂港に至るまで、加古川流域の産
米はほぼすべて近藤が押さえていたとうから、その近藤がちょっと足を
伸ばして隣の市川流域の福本藩年貢米も扱った、と考えても不思議で
はなく、その回米始末帳なるものが旧福本藩御用の川口屋に、今日ま
で残っていても奇異でない。
念のため、阪大経済学部に寄託されている、二千通に及ぶ「旧近藤家
文書」の内容をあたってみた。 すると福本藩年貢米取り扱いに関する記
録はなかったものの、同藩に関連する別の二つの記録を発見した。

  ? 万延元年(近藤文蔵の代) 福本藩より知行壱拾伍人扶持給与
    市川筋掘削工事 文久三年 近藤文蔵 円山川市川の水源を連
?????? 絡して舟行の路を開き、我が国交通運輸上大捷路を開通する
?????? 計画を立て、先ず市川筋の掘削工事に着手し、首として粟賀
   及び飾磨の両方面より水路掘削を始めしが----灌漑その他で
   苦情百出 遂に計画を放棄 工事中止云々
 
これだけ見ればもう、川口屋の旧記録にある「近藤様」が、小野市場村の
旧「一柳藩」の近藤家であることは間違いない。 貧乏に喘いでいた福本
藩池田家が、入ってくるであろう毎年の年貢米を担保にして近藤家から
借金し、そのお礼に近藤文蔵を士分に取り立てるという証文ともに、入っ
てきた福本藩の年貢米は、右から左へと川口屋の舟便で、近藤家の、
高砂港か、大阪堂島辺りの倉庫に運んだものであろう。
ということになると、わが川口屋は、さしずめ近藤家の市川流域における
代理店だった、というのが真相ではなかろうか。 もともと少々の農産物
以外にはみるべき諸式物産とてない福本藩で、いかにわが川口屋に才
覚があろうと、ない品物の売買ができるわけでない。  
それが、日本一の近藤の代理店ともなれば、おこぼれに預かるだけで、
もう、一万石の貧乏殿様から名字帯刀お許しをいただける、という仕掛け
になるらしい。
播磨の市川は、但馬との国境、いまの生野町黒川ダム付近に源を発し
南流して瀬戸内の飾磨港にそそぐ。但馬の円山川は、同じく生野町円山
に発して反対に北流し、城崎沖の日本海に注ぐ。 生野の黒川村と円山
村は緯度において同じ、ただ東西に2キロメートル開いているだけである。
この間を繋いで舟航すれば、瀬戸内の荷物が馬関(下関)を回らずに日
本海へ送れる。 航路短縮のため、徳川時代には何度かこの間を繋ぐ計
画があったが、結局は成功しなかった。  現在考えると、とても出来そ
うにない荒唐無稽の計画に見えるが、加東郡市場村の近藤家は、淀川
改修の元請けとしての実績もあり、地元の加古川でも、播州灘の高砂
港から、アユの名所闘竜灘の岩盤をクリアして、遥かに溯って丹波国氷上
郡まで舟航させた、当時のわが国河川交通の超エキスパート。市川・
円山川を繋ぐ壮大な計画も、あるていど目算あってのことだったに違いな
い。
といっても、加古川中流の市場村に拠を構える天下の大富豪近藤文蔵
が、播磨と但馬の国境である福本藩領と生野銀山にまたがる市川の上
流を、そう何度も自分で実地検分したり、業務打ち合わせに訪れたりす
る暇はないだろう。電話やタクシーで直接連絡できる時代ではないし、
しかもこれだけの大事業ともなれば当然のこと、地元の市川流域で、す
べてを取り仕切り、福本藩庁や地権者・労務者などと交渉する代理人
が必要になる。  回米輸送のみならず、こうした近藤家本来の土木事
業もふくめて、一切合切の市川流域の業務を、わが川口屋が代行して
いた、と、じゅうぶん考えられる。さらに、市川と円山川を繋ぐような、い
わば壮大な土木工事を誰が言い出し、だれがプロモートしたか。 土地
勘からしても、利害から言っても、それは福本藩側の発案である可能
性が大きい。 なにしろ、たかが一万石の貧乏藩、もしこの案が実現す
れば、年貢米の収入よりも、藩財政にもっと寄与する。 さいわい親しく
している近藤は天下に名を轟かす大土木業者だ。 話を持ち込んで、う
まくいけば濡れ手で泡、と福本藩が考えそうなことである。 あるいは、
わが川口屋がたきつけたかも知れない。

ここに一つ、まことに不思議な符合がある。  市川掘削工事に乗り出
した近藤文蔵の本拠は、現在の小野市市場町であるが、ここの地名は
もと太郎太夫村といい、
?? 「中古戦国時代に上市場に太郎太夫なる人居住せり。
?? 公共心厚く義侠的人物にして夙に部落開発に尽くせり。今の
?? 下市場は当時尚未開の荒地なりしかば、太郎太夫率先村人
?? を督励し之が開墾に当たれり。(中略)尊敬敬慕し、太郎太夫
?? を村名となすに至れり」 
という記録が、加古川流域の小野市に存在し、その子孫、次郎太夫なる
人が近年まで実在したらしい。  
それとそっくり同じ話が市川流域にもある。屋形に住んでいた太郎太夫が
福本藩分家の、いまの市川町屋形地区を統べていたというのである。 

大化改新のころ、この地を統べ、その後650年間、代々太郎太夫を襲名、
荒蕪地原野を開拓して農耕を勧め、城砦を築いて他からの侵入を防いで
いたが、鎌倉末期に武家に統治権を奪われた。しかし長い間の徳政は、
いまなお残る太郎太夫という山の名と小字名、およびその遺跡に偲ばれ、
太郎太夫、次郎太夫の名は元文4年(1739)の石神神社拝殿棟札に残
っている。 そして屋形の村名の起源は、太郎太夫のお屋形である云々。

という話を、初代市川町長後藤丹次氏が、遺著「ふるさと屋形の歴史」
記されている。  
偶然の符合にしては話が合いすぎる。 加東郡市場村の近藤が往昔、
神崎郡屋形村まで開拓の手を伸ばし、それを知っていた後世の子孫、
文蔵が、維新のころにいたってなお、先祖に関係がある屋形村に関与し
たく、福本藩に特別の肩入れしたのではなかろうか。
 
念のために言えば、一万石の殿様も、実際ふところへ入るのが一万石
ではない。 草高(くさだか)といって、支配する領地で産出する全部の
米の収穫量が一万石あるだけで、その収穫量の中から、4公5民とか5
公5民とかいって、百姓と殿様の間で折半した、その半分を殿様が貰う
わけである。
一般に、池田氏のような外様大名は収奪が激しく、仮に6公4民としても
福本の殿様側の取り分は、屋形と吉富の両分家を併せてせいぜいが6
000石。  そのなかから藩士に扶持米を支給する。当然のことその扶
持米を藩士や家族が食べる。  となると、福本一万石の実収穫米のうち、
他所へ売れる米など、おそらく2000石もなかったであろう。しかし藩にも
お金で支払うべき行政費が要るから、いくらかは売って換金しなければな
らない。   その換金米を近藤が買う。貧乏藩のことだから、おそらく先
がねを払っていただろう。 収穫がすみ、年貢米が入れば、右から左に近
藤が取り上げる。そして市川の高瀬舟で飾磨津ヘ送る。おそらく米は、
藩の外貿港的存在である屋形村または福渡村のわが川口屋の倉庫に
入れ、まあ一ヶ月か二ヶ月の間には、倉が空っぽになるまで出荷してし
まう。   こうしたばあいの倉庫業と高瀬舟による回漕が、わが川口屋の
家業であったろう。 こう考えると、筆者の祖母がむかし言っていた話と一

する。

「毎年、ある季節がくると八棟の蔵が一杯になり、それがあるシーズンには
すべて出ていって空になる。いまでこそ浅瀬ばかりで想像もつかぬが、昔
は小さな舟が米を積んで前を流れる市川を下っていった」

と、いうのが祖母の回想である。 高瀬舟というのは、いわば笹舟で、5石
か、せいぜい10石程度の米しか乗せられない。かりに米5石乗せたとす
ると、俵にして12俵になる。それでも陸路荷車で飾磨津へ運ぶよりは、だ
いぶ効率がいい。 江戸期の荷車などは、1台でせいぜい3俵運ぶのが、
せい一杯だったから。
それが或る年、川口屋の蔵から荷物が出ていったまま、ついにかえって来
なかった。

「空っぽになった蔵の中の羽目板には、藁さし一文銭の銭型がこびりつい
ていて、それを、もみじのような手でなぞった記憶がある」

と、祖母は言う。
それからいくばくもなく、並んでいた蔵が壊され、跡に残ったのだだっ広い
更地に、小さな藁屋根の建物が、あちらにぽつり、こちらにぽつりと残るだ
けになった。

       (旧川口屋跡  てまえ中央の建物は厩(うまや)だったと
        いう。 手前の広い空き地に、むかしよく旅芝居の小屋掛
        けが立った。 にわか雨が降ると観衆が大挙して軒先に
        入ってきたし、トイレ借りの客にも困ったが、最後の大旦
        那襄太郎は愚痴一つこぼさなかった。) 

        
川口屋没落の原因は、維新になって福本の殿様が居なくなり、藩札の交
換を求めた人々が、まず最初の保証人である川口屋に押しかけ、それを
決済したからであるという。  支払いきれなかった分は、二番目に保証
した福本村の備前屋金兵衛が支払い、すべてが支払い終わった時点で
も、なお同家の資産は半分残り、それで備前屋こと鵜野金平家は、いま
なお続いている、という。真偽のほどは知らない。
明治新政府は流通中の藩札をすべて太政官の新紙幣と交換したことに
なっている。 天保以後発行の藩札は、たしかにすべて新紙幣と交換され
たが、それより前、つまり文政以前のものについては交換されず終いだ
ったことが公式資料にも残っている。川口屋が、わが名義の文政五年藩
札を自力で交換したことは間違いないだろう。なにしろ肝心の殿様が、
新政府の命令とはいえ、尻に帆を架けて東京へ逃げてしまったのだから
藩札を手にしたおおぜいの百姓たちに家まで押しかけられたら、交換に
応ずるしかない。 
もっともその殿様池田徳潤侯も、正五位男爵を貰ったまではいいが、所帯
を持ち切れず、おりから新政府が30万石以上の旧大々名藩に、各藩に
つき二人ずつ青年を欧米留学に派遣する制度を打ち出したのに便乗して、
「福本藩は、じつは鳥取藩の一部でした」と、変更を申し出、もと鳥取藩砲
方というふれ込みの原六郎青年とともに、旧鳥取藩32万石からの推薦と
いう役得で、さっさと欧州留学に出発してしまった。   もちろん、男爵の
身分もふいである。 ふいになった男爵の身分が残念とて、旧福本藩士た
ちは、明治から大正に至るも執拗に「旧藩主復爵運動」を続けたが、徒労
に終わったのは当然である。
逃げた殿様を慕う旧藩士の心根はいじらしいが、それはかのナポレオン
戦争の終わりに、ナポレオンに軟禁されたのをいいことにしてロアールの
城で放蕩三昧だったスペイン皇太子フェルナンドに、同情以上の思いを寄
せ、加うるに「神と祖国と王」の幻想絶ちがたく、帰国復位を熱望し、その
結果帰国できた極道者の専制フェルナンド新王にいたく煮え湯を飲まされ
たスペインの貴族連中、のみならず哀れなまでに王様好きだったスペイン
人民たちの愚昧な行動にも似ている。 スペインの王様好きはいまだに続
いていて、いったん血を流して得た共和国も、フランコ将軍によってもとに
返され、あるかなきかの王政は21世紀まで続きそうである。
みるべき殖産振興も企てず、王の庇護に寄生して栄耀していただけのス
ペイン貴族と同じように、のうのうと侍稼業を楽しんでいたわが旧福本藩
士たちも、明治が遠くなった後なお、俸禄を受けた旧藩主に愛情を捧げ
続けたのである。
第二次大戦後に彼らが出版した旧福本藩史には、侍たちの輝かしいかっ
ての身分を追憶する記事はあるものの、旧藩時代の農民の生活や、藩の
生産経済、流通などに関する記事は皆無に近い。立藩以来最大の経済危
機に直面し、当時としては珍しく重要な行政行為だっと考えられる藩札発
行について、半句の言及もない。 そうした不労特権武士の後裔たちが出
版した旧藩史であるから川口屋の藩札償還などは記憶にもないようだ。
旧藩の財政危機を救った丸尾太右衛門朝定の名もまた旧藩士リストに
記載されずに終わった。??? 彼ら侍たちにとって川口屋は、所詮成り上が
り町人、武士の名誉の外にあったのだろう。   

ところがここに珍しくもひとつだけ、福本藩士丸尾なるものが出てくる本が
ある。 「1800年 中治家の歩み 加都郷」 というのがそれである。              

文政五年に藩札を発行し、同六年に名字帯刀を許されたときの川口屋
当主は、福渡村の吉兵衛こと第八代丸尾太右衛門朝定である。 その
後を継いで9代太右衛門を名乗った長男の太治平朝孝は、のち別家し
て別家初代を名乗り、かれの弟の浅七が10代太右衛門を襲名する。
それゆえ、既述資料のとおり、9代も10代も太右衛門の名のもと、それ
ぞれ藩侯から小姓格に取り立てられて居る。
この10代浅七の妻 多津(たず)なるものが、神功皇后の実家と伝えら
れる 息長宿弥(おきながのすくね)王家の第50代、または中治院家第
20代を名乗る但馬加都村(いまの朝来郡和田山町竹田字加都)の
治太兵衛嘉貞から嫁いできている。 中治院家23代を名乗る中治赳夫
という人が私家版として 1800年の中治家の歩み 加都郷」 という家史
を上梓している。(加都は、カツ と読む)   そのなかに、

   津多 嘉貞の姉 広明院の長女
   播州之名家丸尾太右衛門に嫁す
   同家は金満家で全倉の構造奇で大邸宅広壮、他に類を見ない。
   福本藩の家臣の列に入る (71ページ)

   祖父が有志として力を尽くしたる為、祖父の妹婿福本藩士丸尾某
   なるもの来たり、頻りに祖父を諌め、聴かずんば妹を離縁すべしな
   どと申せしことあり。 (117ページ 生野義挙 平野国臣の旗揚げ                                         に際し、謀議のために中治宅を貸したとき)

の記載がある。 旧福本藩史には無視された丸尾太右衛門の名が、ここ
に出てくる。 しかし、但馬有数の名家を誇ったこの中治院家なるものも、
21代精逸氏が西洋かぶれの風流人で、あらゆる芸事にうつつを抜かし、
先代相続の3000石、金銀30万両、酒造2000石と、48棟あったと伝え
られる家屋敷のすべてをなくし、明治34年に京都ヘ移住。  いまもとの
加都村に残るは分家筋の中治本所家などであり、その本所家から初代
和田山町長中治太郎兵衛氏が出ている。                      
かって中治一統を支配した中治院家の、真偽のほどはともかくとして、
あったと伝えられた膨大な旧資産を、21代精逸氏の放蕩のみでなくした
とは考えられず、父親の20代太兵衛嘉貞が維新動乱に遭遇してなくし
たものの方が多かったのではなかろうか。
打掛(うちかけ)3襲(かさね)を持って、但馬の中治院家から、播州の
丸尾家に嫁いできた10代丸尾太右衛門浅七の妻 津多(つたは、彼
女の長男襄太郎がが11才のとき明治維新を迎えた。 
いまやすべてが変わったのである。生家の中治院家は明治34年に
甥の精逸が借財のかたに家屋敷すべてを売って京都へ去り、婚家川口
屋丸尾は藩札償還と、数次にわたる火災によって完全に逼塞し終って
いた。   
津多は、もと使用人の住居であったと伝えられる小さな、いまの川口屋
の納戸で、ひっそりと彼女の80年の生涯を終えた。 ときすでに但馬の
故郷に生家はなく、婚家の亭主浅七もずっと以前にみまかっていた。
人も羨む栄耀に育ち、幸せに嫁いで、ひとたびは但・播二国の名家の
深窓に生きた 津多 という女性維新と称する男たちの争いの波間
に翻弄され続けて、その儚い一生をいまの市川町神崎の小さな農家で
終わったのである。  
津多が亡くなったその日は、ちょうど明治大帝ご葬儀の日であったと、
94才でいまなお美しく存命中の孫の千代栄が、彼女の小学校一年生
の日の記憶を語る。  千代栄は、津多の長男襄太郎の娘で、いま神戸
で華道清心流の家元を継いでいる。

ここで一つ断っておきたいことがある、中治院家没落のその後について
である。    
院家(息長家第三十一代加都郷地頭茨垣入道貞任なるものが広大な
観喜院を建立し、その院内に居住[延久四年4月一八日死去]したが、
それ以来この系統を院家または院居家とよぶ)の先祖は人皇第九代開
化天皇の末裔息長(おきなが)王家、という古い伝承はしばらく措いて、
史実として信憑性があるのは、織田信長の将 明智光秀に追われ自刃し
丹波八上城主波多野秀治の、弟秀尚が但馬加都村に逃れて中治家
を継ぎ、息長宿禰王42代こと中治院家第12代太兵衛嘉秀を名乗り、
遺品として乗馬の鞍と鐙(あぶみ)が残っているという話である。   
そうした名家の21代精逸氏が家財を蕩尽してしまった、とは言うものの、
この風流人ただの遊冶郎ではなかった。県立豊岡師範学校第一期の卒
業生で、伊由校および加都小学校長を務めたのち、学区取締を命ぜられ、
明治初期の教育に力を尽くした。    欧米文化の輸入に努め、西洋果
樹野菜の移植にも多額の金を費やすかたわら、和歌、謡曲、写真術、書
画道、茶華道、弓術にいたるまで、あらゆる遊びの道を極めた、いわゆる
数寄者である。
こうした優性遺伝をかさねた名家の後裔は、そうむざむざ市井に埋没し
てしまわない。 精逸の息子、院家22代稔郎は朝来郡竹田小学校訓導
ののち、明治35年叔父西山敏陸軍中佐を頼り渡台、生野義挙援助の
縁による沢宣嘉子爵の口利きで、神道13派の扶桑教管長壬生伯爵
援助を得て、台湾人教化のため、扶桑教の一派「天母(てんも)教」を台
北に開教し、自ら天母教 教祖 権大教正を名乗った。 天照大神と中国の
ま祖を合祀した天母教は、台湾総督府の応援もあって順調に発展し、昭
和8年には、台北市北郊士林の山峡9万坪に本部および神殿を移転
併せて同地に温泉付き大高級住宅地を建設した。
「ま祖」の「ま」という字は、いま使用しているこの WordPad簡易ワープ
には出てこないが、女扁に馬という旁りを付ける。 「ま祖」は中国の女
性の神様で、一説にはマリア様の中国化したものともいわれているが、
明朝のころ福建省甫田の農家に生まれ、実在した女性らしい。中国本土
のみならず、東南アジア一帯の華僑の間で普遍的に尊崇され、祭られて
いる。  生誕地の甫田には立派な廟があり、世界中から参詣客が来る。
わが天母教 教祖中治稔郎氏もまた、開教のときはそこへ詣で、ご神体
を分けて貰って帰ったと伝えられている。
甫田は、台湾の真西、福建省福州から南に向かって2時間ほど、立派な
高速道路の途中にあり、いまは台湾からのケミカルシューズ工場群が、
道路の両脇に、延々と近代的高層建築を連ね、さながら西欧都市の様
相を呈している。  高速道路脇に競合して営業するたくさんのガソリンス
タンドは、派手なネオンサイン装飾で飾り立てられ、夜になるとキャバレ
街に紛う  この特殊な景観と、古風な「ま祖」の故郷との対照が面
白い。
扶桑教の富士山こと天照大神と、中国でもっともポピュラーな神様「ま祖」
と、二つ併せて祀ったわが天母教が、戦前の台湾で、新興宗教として大
当たりしたのは、土地柄として当然といえば当然のことかも知れない。  
しかし終戦でそのすべてを放棄、こころならずも中治一家は日本へ帰る運
命になる。                    
しかし天母教本部として開いた幽邃の地は、台湾にやってきたアメリカ進
駐軍家族たちに認められ、外人のみならず、台湾政財界の名士たちが住
む台湾最高級の住宅地に変貌し、もとの士林街三角甫の地名も改められ
天母(てんも)となり、天母公園、天母温泉とともに今日に至っている。

筆者がかって台湾で事業をしていたころ、現地法人の代表者たちが、住
みたいところとして先ず第一に「天母」の名を挙げていた。 いわばそれは、
大阪の芦屋、東京の田園調布のようなイメージの地であった。
一風変わったこの「天母」という地名の謂れをたずねたが、当時のわが現
地法人社員のなかには、知る者はいなかった。 異国には不思議な地名
があるものだなぁ、たぶん中国風だろう、 というのが、そのころの筆者の
感懐であって、まさかそれが日本の、しかもわが縁故に繋がるひとの命
名とは知る由もなかった。 
手元の台湾観光案内をみると、台北市北郊地図の中に、故宮博物館と
陽明山の中間どころ西よりに、天母公園というバス停のしるしがついて
いる。
いまあらためて台湾yahoo(雅虎)
http://www.cccnet.com.tw/chris/temu1.htm を呼ぶと、 

天母地名的淵源。日拠時期、当地的神棍勾結了日本神棍斂財、謀設神
壇、於是塔蓋了一門小廟、供奉他門所謂的天ま、給人膜拝、日本人因
為不慣”天ま”的”ま”字、乃改称為天母。此廟後来被斥毀。 従前有一
家日本人経営的天母温泉。近年来天母已経脱変成高級住宅区高楼櫛
比、今之視昔、蒼海桑田、令人嘘乎!            
天母。今中山北路7段底天母公車站一帯。民42年、日人中治稔郎
此地興建天母宮祀日本天母波婆神等称為天母教、内面設有温泉、称
為天母温泉――未幾、就有「天母」地名之称。台湾光復後、神社斥除、
所祀神像移祀天玉宮
の記事があリ、わが中治稔郎氏の名も記されていた。 
「いまこれを昔に見れば、蒼い海変じて桑畠となり、人をして嘘かと思わ
しめるなり」 とあるが、まさにその通りである。

というようなことで、わが中治院家は零落の後、なお台湾に、「天母」とい
う花を咲かせていたのである。 立派というべきではないか。  今に残る、
台湾で撮った明治末年ごろと推定される家族写真によれば、伊達男中
治精逸は縁なし眼鏡にタキシード風、和服姿の夫人は伝えられる通り絶
世の美女である。                     
そしてそれとは別に、天母教教祖 権大教正 中治稔郎の、威儀を正した
衣冠束帯姿の写真も残っている。
      

さて、福本藩銀貸 川口屋太右衛門家が、明治維新になぜ没落したの
か。 伝えられる通り、福本藩々札の交換に起因するのだろうか。 その
可能性もじゅうぶん考えられる、今に残る川口屋保管の、旧藩札の束
がそれを証明する。 しかしたぶん、理由はそれだけではないだろう。
万延元年福本藩主から知行十五人扶持の墨付きをもらい、さらに文久
三年には、市川と円山川を福本藩領で繋ぐ工事に乗り出した西国一の
銀貸(ぎんがし)近藤文蔵が、大名貸しの回収不能によって、明治十年
には暖簾を下ろしている。 記録によれば、近藤の最後のあがきは、播
州竜野藩の興浜造成資金の回収不能であった。返金をせまる近藤に
対して旧竜野藩は、代替として、造岸中の石材を持ち帰ることを示唆し
た。石材引き取りのため廻漕した近藤の箱船数十隻と、興浜の農漁民
に争いが起き、姫路県の訴訟に持ち込まれ、それはとりあえず近藤の
勝訴に終わった。
が、しかし、あちこちの大名貸しが回収不能になっていた近藤は、その
ときすでに満身創痍であった。 「市場の近藤 阿弥陀か釈迦か 御前通
れば後光がさす」 と、里謡にまで唄われ、岩倉新政府の銀主方とまで
目された近藤も、維新動乱には勝てず、明治10年には完全に暖簾を
下ろしていた。      
そうした危急の折り、大富豪近藤の市川筋の代理店であった、いわば
微々たる川口屋など何条たまるべき、まさに 「一木支え難し大廈の傾
くを」 である。 藩札の回収があろうがなかろが、もはや川口屋の事業
そのものに終わりが来ていたと、考えるべき時代であった。
応神天皇以来の中治院家が消えた。 西国一の近藤文蔵が暖簾を下ろ
した。 福本藩は解体し、そのあたり一帯は、いっとき遠く日本海にある
「鳥取県」の一部飛び地になり、福本藩を挟んで南北二つの分家、旗本
池田槍三郎の采地屋形三千石と、同じく池田貞之助の采地吉富村は、
すぐ北隣りの銀山とともに「生野県」になった。 まさにすべてが疾風怒
濤の変革を迎えたのである。       
そんな時代に、いつどこから来て、なぜ栄えたか、実のところそれすら
はっきり判らないわが川口屋が、暖簾を下ろすのに何の不思議があろ
う。

しかし反対に、維新を踏み台にのし上がった人も、福本藩関係者の中
にはいくらか居る。   
その一人がすでに述べた原六郎こと進藤俊三郎である。 朝来町佐中
の豪農の6男として生まれた進藤は、若くして尊攘運動に加わり、
平野国臣と親交を結び生野義挙に参加(このとき弱冠21才)、器械買
入方(武器調達係)を勤め、京都まで出張して買い集めた武器を大八車
に積み、夜陰にまぎれて持ち帰っている。敗れたのち幸いにも幕府の追
捕を逃れ、長州藩兵に加わって再び討幕に参加した、というちゃきちゃき
の農兵志士である。
つぎに彼の名が出るのは、ご一新の直後、旧鳥取池田藩が派遣した
海外留学生二人のうちの一人、つまり旧鳥取藩士としてである。 旧藩
を捨て、親元鳥取藩を頼って海外行きを選んだ旧福本藩主池田徳潤
ともに、不思議なことに進藤ことは、有為の青年として鳥取藩から推
薦され英国に留学している。福本藩若君のご学友というようなことで、
旧鳥取藩士という名目を得たのかも知れない。
洋行した池田徳潤青年の名はこれ以後、復爵運動の請願書にはともか
く、社会的にはほぼ消え去り、われわれの調べ得るかぎりでは、明治1
7年兵庫県少書記官、同19年長崎県書記官転任の、兵庫県会記録で
終っている。                  
だが、もう一人の方の進藤青年は名を原六郎と改め、英国に留学して
銀行論を学び、明治10年帰国、翌年第百銀行を創立し頭取、6年後に
横浜正金銀行頭取に推された。その間、日銀および台湾、勧業,興
業など各銀行の創立に参加し、山陽鉄道(いまのJR山陽本線)、東洋
汽船、横浜ドック、帝国ホテルの設立に名を連ね、渋沢、安田、大倉、
古河とともに、明治実業界の5人男と、もて囃やされた。  但馬の山あ
いに生まれた農家の子弟としては、まことに運のいい、そして華やかな
出世男である。 よほど才覚があったのだろう。 長命をかさねて昭和8
年まで生きた。
かれの生誕地 佐中は、播但線新井駅から西へ神子畑川を溯って数キ
ロメートルの辺鄙な山中にある。 生野義挙に敗れた進藤青年は、おそ
らく勝手知ったわが庭、神子畑川の支流佐中川の河川敷を辿って、州
留ケ峰を尾根越えに、さらに明延鉱山をかすめて、大屋市場から関宮
への猟師みちを縦断、そこから因州に逃れ、さらに遠く長州へと走った
と推定される。
他国から生野入りした脱藩浪人組の生野義挙同志には、土地勘がな
く、たいてい北と南と東に向かって逃げたが、北は豊岡藩、東は出石藩
それに南は姫路藩に押さえられて、ほとんどがあえない最後を遂げてし
まった。 うまく逃げおほせるには、手薄の西北へ落ちる、その道を、よそ
者の志士たちは知らなかったのではなかろうか。(非業に死んだ志士た
ち32人を祀った神社がある。朝来町護国神社といい、いまなお土地の
人々に尊崇されている。)
もっとも、戦が始まる前夜、いちばん先にずらかった総帥 澤主水正(さ
わ もんどのしょう)宣嘉卿とその取り巻きたちは、誰に教わったのか、
神子畑(みこはた)川を西行して福地川から揖保川へ出、倉敷経由四
国に、うまく脱出している。 四国へ行ったのは、お側役の二人が四国
浪人だったからであろう。 澤宣嘉卿は、日本史上有名な「七卿長州落
ち」のなかの一人で、長州三田尻に到着したとき、三条実美卿を生野
義挙の総帥に仰ぐべく、頼みに来た平野国臣に、三条卿の代りとして
担がれたのであった。 維新後は子爵に叙せられた。 
21歳の進藤青年(のちの原六郎)は、若さと土地勘にまかせて佐中
川から、あるかなきかの林道をひた走りに走って因州ヘ出、それが成
功して長州軍に加わったと考えていい。  ときは文久3年11月18日
(この日はすでに資料によって特定されている)の午後。
その同じ日に、一足先にほぼ同じ谷川の道を駆け抜けたもう一人の青
年がいた。 (もしその日に、二人を見かけた猟師でも居れば、なんとま
ぁ今日は不思議な日だと思ったに違いない。) 北垣晋太郎という義挙
の同志で、進藤の佐中村(現朝来郡朝来町)の、すぐ北隣に位置する
建屋(たてのや または たけや)村(現養父郡養父町)の、同じく豪農
の倅であった。福本藩に直接関係がないのでくわしいことは省くが、
は生家の村を北流する建屋川を下って八鹿へ出た。ついで同じく因
州に逃れ、戊辰戦争には鳥取藩士として従軍。 明治になってから官界
に入り、出世をかさね、京都府知事、北海道庁長官、男爵、貴族院議
員、 後の名は北垣国道である。(京都の名所インクラインの碑には彼
の名が刻まれている。)

革命に明暗はつきものだが、異例の出世をとげた原六郎北垣国道
比して、朝来護国神社の32烈士の最後はあまりにも哀れである。 
同じく志して生野義挙に参加し、かたや顕官富豪として世にときめき、
かたや山中の祠にひっそりと忘れ祀られるのみ。 数というべきか、運
命のしからしむところか、はたまた個々の才覚の結末であったろうか。 
いま試みにインターネットで検索してみるに、東京では原美術館の「秋
の展観」広告があり、北海道開拓歴史博物館に北垣の名が大きく現れ、
そして朝来町ホームページには烈士の名とともに護国神社の写真
貼り付けられている。 明暗、時を同じくしてインターネット上で見る、
これも時代の流れであろうか。                                

前にも述べたが、いったいどのような縁で、原六郎こと進藤青年と、池
田徳潤御曹司が一緒に、共に旧鳥取藩籍の官費で、明治になって洋
行留学したか、不思議といえば不思議である。   生野にもっとも近
い藩である福本藩は、生野義挙のときに討伐軍を出している。 つい
先ほど殺しあった敵と味方の青年が、手を取り合って、しかも鳥取藩
からの進貢留学生として洋行したというのは、まことに奇妙なことで
ある。      
池田徳潤が鳥取藩から洋行するのは、役得で顔を利かせたのであっ
て、驚くに当たらぬ。 しかし進藤は生野銀山領佐中〔佐嚢〕村の農
家の倅で、福本藩士でもなければ鳥取藩士でもなかった。(もっとも
生野義挙に失敗して逃げたときだけは、いっとき、勤皇方の鳥取
藩に匿われた。) あるいは維新後に出世した、生野義挙総帥 澤子
爵あたりの、旧鳥取藩への口利きがあったのかも知れない。

(後註:生野義挙挫折の直後、かれは佐中の生家のすぐ裏にある日蓮宗寺院に隠れ、追っ手の幕吏を避けて山越えに因州へ逃れ鳥取藩に匿われた。のち遠く萩へ走り、原六郎と変名して長州兵に加わり鳥羽伏見の戦に従軍。そののち新政府に差し出された因州藩軍に参加、第一回天覧観兵式に大隊長として兵の指揮まことに見事なりと絶賛された、との記録がある。 したがって、かれ原六郎が因州鳥取藩士になったのは、明治維新以後のことである。 佐中のかれの生家、「千年家」と呼ばれる豪壮な萱葺き屋根は無住のままいまに残ってい、辺り一帯からJR新井駅にかけての畳々たる山林は「日本土地山林」なる原家の会社が経営している。 余談ながら、ながらく日本航空会長を務めた故原邦造氏は原六郎の養嗣子とのこと。) 

もう一人、正真正銘 福本藩出身で出世した人がいる。 第二次大戦
後の幣原内閣に列し、新憲法制定に関与した法学者松本丞治博士
の父、 松本荘一郎は、幼名泰蔵、嘉永元年に福本藩士の倅として
粟賀村に生まれる。12才で出阪、池内塾を経て箕作麟祥の門に入
り、秀才を謳われる。美濃大垣藩士上田肇の推挙で大垣藩士となり
明治3年米国留学。 土木学を修め、同9年帰朝、政府の道路・鉄道
・都市計画などを担任した。明治21年、わが国初の工学博士となり、
26年鉄道庁長官。明治36年没、 資性恬淡、生活質素を極めた。   
福本藩士では海外留学させてもらえず、美濃大垣藩士として洋行し
たと、柳田国男は、息子の松本丞治から聞いたという。 柳田と松本
丞治は東大法科で一、二位を争った親友だから、松本の父が洋行の
ため大垣藩士になったという話は信憑性がある。( 異説では、金が
無く、明治になってから大垣藩に召し抱えられ、ようやく勉学をつづ
けられたともいう。)
松本丞治の話を信じれば、しからばなぜ、松本が大垣藩士として偽
って(?)なら洋行し得たのだろうか。    当時、各藩選抜の留学
生は、大藩のみに限定されて、福本のような小藩には割り当てがな
かった。しかも本藩鳥取藩の枠はすでに池田徳潤と原六郎の二人
が押さえている。やむを得ず、縁故を頼って大垣藩に名を借りた可
能性もある。   藩侯池田徳潤、原(進藤)、松本と、そのころ福本
藩近辺の青年の間で、新政府制度による洋行話が話題になり、より
より謀議されていたような気もする。    (明治6年ごろの記録で
は、海外留学は表向きすべて政府派遣で、文部省が320人、大蔵
省が20数人、あと小人数が各省であった。)

残念ながら、わが川口屋は維新以後、子弟の教育に熱心でなかった。
したがってこれという人材も輩出せず、10代太右衛門浅七の長男、つ
まり11代襄太郎が明治、大正、昭和にかけて、鶴居村会議長を勤め、
地方自治功労者として表彰された程度にとどまる。 
それと、ささやかながらわが丸尾でもう一人。 丸尾別家三代を名乗る
鉄之助が、明治16年から18年にかけて神西郡選出県会議員を務め
たことがある。    既述のように9代太右衛門浅孝が、ゆえあって別
家、別家初代太治平を名乗ったが夭死。 2代寅蔵朝篤もまた夭死し、
但馬の中治院家から太兵衛嘉貞の次男 鉄之助を別家3代として迎え
た。
わが祖母の記憶では、鉄之助は足が悪く、びっこを引いたが、颯爽とし
た美男子で、旧鶴居村の女性のあこがれのまとであった、という。
丸尾一族大騒ぎのうえ県議選挙に打って出、目出度く当選したが、30
才過ぎにまたしても夭死、まことに残念だったという。  かの詩人サー・
バイロン卿が片足を引きずりながら、赤いマントの裏をひらめかせてロン
ドンの街を闊歩し満天下の女性を騒がせた、というような感じでもあった
ろうか。                                   
鉄之助が県会議員に打ってで出たのが明治16年。金も要ることだし、
ひょっとしたら川口屋はまだそのころ、完全に逼塞し終わったわけでな
かったかも知れない。?????????? 終

 
(この物語について、なにかご質問があれば、
下記へご照会ください。)
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