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一二、 「コップの中の嵐」 手袋業界に進出

それともう一つ、ハワイへ行ったことによるすばらしい成果があった。 それは既に四七八頁で述べた通り、<ハワイの七不思議の娘さん>がヒントをくれた花模様のビニールフィルムが、ひょんなことから【ビニール手袋】という、いわば私にとって金の卵を生んでくれたのである。 それは既に言った通り、スリッパー用にと考えて試作した美しい金ラメ入りの透明ビニールを輸出業界誌で広告した処、それを見たニューヨークのバイヤーが、「ビニールレザーで造った防寒手袋はないか」と引合いをよこしたことに始まる。 それまで私は手袋という商品が日本の何処で造られているか知らなかった。 あちこち尋ねたところ香川県が主産地であると判明した。 早速、香川県大阪事務所に電話し、ビニール手袋のメーカーを紹介して欲しいと頼んだ。 合田という係の人は、「手袋は確かに香川県で作っているが、ビニール手袋というのは聞いたことが無い」と言っていたが、数日経ってから「メーカーが判りました」といって見本を送ってきた。

その見本をニューヨークのバイヤーに送ったところ、折り返し一千ダースの注文が入った。 それを香川県の松本輸出産業という手袋メーカーに転発注し、数カ月後にはその船積を終えた。ダース当り、六ドル六〇セントで、合計六、六〇〇ドル。 比較的簡単な取引で、利益が二〇パーセントほど出た。 これはボロい商売だと思った。 私は、ビニール手袋などというものは普通に輸出されている、ありふれた商品だと思っていた。ところが後日知ったところでは、私が輸出した千ダースが、実はこの種の手袋の世界最初の商品だった由である。 だから予期せずして、後年、私は<ビニール手袋の発明者>に擬せられることになった。

ここで私のいう【ビニール手袋】の説明をしておこう。 一口に<手袋>と言ってもいろいろある。 軍手も手袋だし、胸もあらわなロングドレスの淑女がする肘(ひじ)上までの絹の手袋もある。 炊事手袋もアイスホッケーの手袋も、手袋であることには代わりはない。 用途別では、労働作業用、防寒用、スポーツ用、それにファッション衣料用などに大別される。 使用材料では、綿、合繊、ゴム、塩ビ、皮革製などに別れる。分厚さから言えば、薄いものは<綿より糸>で編んだネットのような夏手袋から、宇宙飛行士が着用する超重層手袋まで、ありとあらゆる厚みのものがある。 私の言う「ビニール手袋」とは炊事用や農業用のビニール製手袋ではなくて、柔らかいビニールレザーを表生地に、ニット生地を裏地に使用し、ミシンで縫い上げた防寒手袋である。つまり、<紳士用革手袋の代用品>である。 厳密にいえば<ビニールレザーを縫製して作った防寒手袋>であり、台湾や韓国ではそれをPVCグローブと呼んでいる。 そしてアメリカではプラスティク・グローブと呼び習わしている。 こういうふうに説明すると、「ああ、あの手袋か」と、誰でも納得する、冬になれば日本でも見かける普通の手袋である。 業界で、私が発明したという歳は昭和三十三年だから、地球上にこの商品がお目見えしてから既に三〇年になる。 もっとも日本市場でこれが売れ始めてからでは、まだ十二、三年程度だろう。  最初の見本を試作した松本輸出産業という香川県の手袋メーカーも、そのように全世界市場で認知される立派な商品に成長するとは思っていなかったらしいし、どういう<いきさつ>で試作したのかも今となれば定かでない。 それが、私どもが輸出しただけでも、初年度に一千ダース、次年度に二万ダース、そして三年目には二十万ダース、と異常なまでの売行きの伸びを示し、四年目には早くも輸出自主規制という名の業界内戦争にまで発展した。 この手袋が市場に出てから二年目に私どもが輸出した二万ダースという数量は、日本全体のその歳の輸出量の七五パーセントであった。 既に成熟していた手袋輸出業界にとって無名のアウトサイダーであったわがレオ貿易が、なぜ二年目にそのように多くの輸出が出来たかといえば、それにはささやかな理由があった。 最初、未知の私共へ一千ダースもの発注をしてくれたエボン・グローブのシュワルツ氏というニューヨークの手袋バイヤーは、同時に、レオ貿易以外の日本の数社にも同じような品の発注をしていたらしい。そして、その各々の品がニューヨークに到着したとき、幸いなことにわがレオ貿易の品質のみがバイヤーの期待を裏切らなかったらしいのである。 先ず、船積前に四国のメーカーから出来上り見本というのを二双ほど大阪へ送ってきた。 手の掌に入れて見、そしてそれを脱ごうとしたとき、内ら側の裏地の五本指が指にぴったりとくっついたまま、外側のビニールレザー部分だけが脱げてしまった。 つまり、裏地と表地が分かれてしまい、後でその裏地をそれぞれの手袋の指に差し込もうとしてもうまく入らなかった。 これでは、いちど手に挿入した手袋は、二度目に装着しようとしても、脱げてしまっている裏地に阻まれてうまく手に入らない。  これは欠陥商品だから、 裏地の指先を内側からきちっと、表地の指先に縫い止めるよう補修を求めた。 ところが、手間や時間がかかるものだから、メーカー側はいやがって、「手袋というのは手から脱ぐとき、もう一方の手で手袋の外側の指先を押えながら手を引き抜くのだから、例え裏地の指先が外側の手袋に縫い止めてなくても大丈夫だ」といった訳の解らぬ理屈を言って、補修を渋る。  「要求どうり補修してくれぬ限り、当社は船積致しません」とつっぱねた処、ぶつぶつ言っていたメーカーも諦めて一千ダース全量の<指先止め補修>をしてきた。 ところが他の輸出業者たちはメーカーの言いなりになって、指先止め補修をしないまま同じバイヤーに出荷したらしい。 到着した商品を検査したシュワルツ氏がそれを発見し、当社の品質は期待通りだったが他社からの分は欠陥商品であるとして、少々揉めごとになったらしい。 だから、翌年分は殆ど当社へ発注してきたのである。 初年度と翌年度はそのバイヤーからの発注が市場の殆どを占めたので、当然、当社の出荷量が日本からの総量の過半を占めたという次第である。 三年目になって、ニューヨークの殆どの手袋バイヤーが競って同じ様な品を日本へ発注して来、典型的なブーム商品になったので当社の市場シェアも、いきおい五〇パーセントを割ることとなった。

それにしても業界で無名のレオ貿易という会社が、手袋という少々一般的でない業界に突如として進出し、その零細な特産地産業の内部で、いわば<コップの中の嵐>を巻き起こしたことは、香川県の地場産業および日本繊維製品輸出組合にとって相当大きな話題の種になった。 そいうふうに言えば、業界に無関係な方々にとっては少々オーバーな表現と思われるだろうから、ここで少しばかり説明を加えて置く。 昭和二四年に始まった民間貿易再開とほぼ時期を同じくして、わが国の対米手袋輸出も再開された。 と言うことは、手袋は零細な商品ながら、比較的出足の早かった輸出雑貨商品の一つとして、外貨獲得に貢献していたのである。 そしてその発端はこうだ。 私のロータリーの親友に永松左平という老人がいる。 戦後の東洋紡労働組合をつくり、最後は東洋紡ダイヤシャツの社長をした辣腕家である。 この人が東京で東洋紡の輸出課長を拝命したとき、紡績には紡糸設備は残っていたものの、原材料となるべき綿花がわが国には皆無であった。ところがアメリカにはそれが余っていた。 余剰農産物の米政府買い上げ機関である「商品金融会社 (COMMODITY CREDIT CORP)」の倉庫には、綿花が余ってあまって困り抜いていた。 これが謂ゆるCCC綿である。 日本はこのCCC綿が欲しくてたまらなかったが、支払い代金のドルがない。 日本の紡績業界がアメリカ政府に「何か綿製品の委託加工をさせてくれ」と申し入れたが、「綿製品は何も欲しくない、それより現金で綿花を買ってくれ」という返事しか貰えなかった。 綿花は喉から手が出るほど欲しいがドルは一文もない、というときに有難いバイヤーが現れた。ジョージ・フロリアという戦前にすでに日本から手袋を買っていた男が、進駐軍占領中の日本へバイヤーとしての最初のパスポート(ビザ ?)を持って来日し、細番手綿メリヤスの女性用ドレス手袋を大量に買いたいと言った。 東洋紡の永松課長とフロリア氏との間に<渡りに舟>の委託加工契約がまとまった。 アメリカは余って困っているCCC綿を日本に送り、東洋紡がそれを手袋に作りあげアメリカへ出荷し、その加工賃はCCC綿の現物で日本が受け取る、ということになった。 これを東京で担当した進駐軍の白人係官は妙齢の美人だったが、どうしたことか数字計算に弱く、ダース当り手袋の綿花所用量の計算を間違え、実際必要量よりだいぶオーバーした量のCCC綿をくれたらしい。  もっとも永松氏の後日の述懐では、この女性担当官は、貧乏な日本を助けるため意識的に、多すぎる量の綿花を日本にくれたのではなかったかと思えるフシがあるとの事である。 契約に明記された受託加工賃に該当する量の綿花は、日本政府の配給統制の厳しい規制により純綿の綿布に加工されて正式の国内配給ルートに流された。 しかし、いわゆる<出目(でめ)>と称する部分の余剰綿花は内緒で綿布に加工され、国内の闇市場に流され、それが戦後東洋紡の再建の原動力となった。 若き日の永松課長は、手袋輸出を担当する傍ら、綿布の闇市場も受持ち、毎晩赤坂の料亭に入り浸り、我が世の春を謳歌したと謂う。

他の紡績も東洋紡の好景気を指をくわえて見ていなかった。 闇ルートに流した<出目>綿花の秘密を嗅ぎつけ、東洋紡に分け前を要求してきた。 やむを得ず折れ合った東洋紡は、紡績協会に輸出の窓口を移管し、その後は全紡績が零細な輸出手袋の<出目>におんぶして内緒の利益を挙げ、それによって偉大なる日本の紡績業の再建を達成した。 「手袋こそ日本の紡績再建の恩人である」というのが、わが偶然の偉友永松左平氏のお説である。 話半分にしても興味あるストーリーではないか。 そしてこれには後日談がある。 私どもの手袋のバイヤーにスタンレイ・フロリアという色男(いろおとこ)が居た。 居た、というより私の親友であった。 彼の父が即ち、バイヤー第一号のパスポートを持って日本へ来たジョージ・フロリアである。 私の、この話を聞いたスタンレイ氏は、ぜひ永松氏に会わせろといった。 そしてある日、二人は私の仲介で面会した。 いろいろ懐旧談に話が弾んだ事は当然であるが、それは私の自伝の本筋でないから割愛する。 

そうした事情があって手袋という小さな商品は、戦後いちはやく、わが国軽工業輸出の花形にのし上がった。 そして香川県の零細な手袋メーカ−たちは、三井物産を始めとする総合商社を経由して綿紡績という大企業の管理下に置かれたのである。 輸出綿メリヤス手袋のブームが去って、つぎにナイロン婦人手袋の輸出ブームが来た。 当時、ナイロンは悪名高き「室町通産省」こと、東洋レーヨンの独占であった。 東洋レーヨンはナイロン手袋の輸出を組織化するため<アミラン(これは東レのナイロンの国内商標)会>という手袋業者の団体を作り、アウトサイダーを排除した。 そうした原材料寡占状態の輸出手袋業界であったから、ひっきょう輸出窓口も三井物産、日本トレーデイング、ニチメン、兼松などの著名商社に押さえられていたのである。 そこへ突如、新素材のビニールレザー手袋の輸出ブームが起こり、あれよあれよという間に香川県白鳥町の手袋生産の半量をしめる勢いになり、しかもそれが、安眠をむさぼっていた紡績や東レ系列の外にあり、レオ貿易という名もない貿易商の配下に入ったのだから<コップの中の嵐>、いや<コップの中の台風>になったのは当然のことであった。

ビニール手袋メーカーはブームに乗って下請けの<縫い工賃>を引き上げたが、ナイロン手袋メーカーにはそれが出来ない。 ミシン女工は日当の高いビニール手袋工場へどんどん移動する。労働力不足でナイロン手袋の出荷遅延が起こる。 日本手袋工業組合の役員は、ほぼ既成のナイロン手袋メーカーたちで占められていた。 組合は手袋会館の二階大広間で緊急総会を開き、口実を設けてビニール手袋排撃の決議案を上程した。 階下にたむろしたわが陣営の下請けたちに取り巻かれ、私も現地で対抗策を練った。組合員でない私には投票権がなかった。 延々数時間の論議の末、投票数同点で理事者側の決議案は否決された。 躍り上がって万歳を唱える階下の私たちをにらみながら二階から降りてきた理事長一派は、にくにくし気に<捨てぜりふ>を残して去った。 それから数日後、理事長一派は手袋工業組合の名で、またしても日本繊維製品輸出組合手袋分科会に、「ビニール手袋輸出規制」についての協力を求めてきた。 争いは大阪へ移されたのであった。 何も知らぬ繊維輸出組合側は手袋工業組合の依頼を鵜呑みにし、私たちの主張を排除しようとした。 ところが、議論している間に、手袋工業組合側の主張がおかしいと気付いた人たちがいた。 その代表はグンゼ産業の下村氏であった。「手袋組合側の申し出には汚職の臭いすらする」との下村氏の止めの一言により、急転直下、被告席の私は勝者に変った。 四国から来ていた手袋組合の代表たちは失意の内に輸出繊維会館を去った。 我々の陣営は彼らに「高松の沖で投身自殺して故郷の組合員たちにお詫びをしろ・」と、罵声を浴びせかけた。 時に私の年齢は三十四才。 若かった。

話は前後するがその一年ほど前に、わがレオ貿易は日本繊維製品輸出組合に加盟していた。 そして私は手袋分科会の副委員長であった。 その<いきさつ>はこうである。 ある日、縁もゆかりもない三井物産の大橋部長代理と名乗る人から電話が掛かってきた。 「実はビニール手袋の対米輸出について相談したいことがある。 恐縮だがご足労願えぬか」とのこと。 出かけて見ると意外な事をいう。

「わが三井物産はビニール手袋の昨年度対米輸出実績が五万ダースほどある。 いまこの実績を武器にして輸出数量統制をし、制限割当にすれば三井は実績にあぐらをかくだけで、来年から労せずして少なくとも同数量以上の輸出額が確保出来る。 そうなれば仕事を女子社員に任せておいても安定した利益が挙がると思い、他の主だった輸出実績商社は何処か税関統計で調査したところ、最多実績保有者はレオ貿易と判明した。 ついては至急に輸出自主規制に持ち込みたい。その実施を日本繊維製品輸出組合でやりたいので、レオ貿易も組合員になって欲しい」。

<寝耳に水>の話だし、よもや、通称クオーター制こと、輸出数量規制などという国家間の重大な経済政策が個々の商社の私的利益のために画策されるなどとは、いままで想像の外だったので、そのときはいいかげんな生返事をして帰社した。  ところがその後、数度に亙り三井から輸出組合への入会を求めてくる。 断わる理由に窮して、「入会の条件に、推薦者として理事会社一名と平組合員一名が必要らしいが、零細企業なので理事に選出されているような大会社と付き合いがないから残念ながらお断わりする」と、返事した。 すると折り返し「組合理事である三井物産が推薦者になる」と謂ってきたので、もう断わる理由もなくなるし、これ以上ぐずぐずしていて三井の反感を買えば、何処でシッペ返しをされるかわからぬと思い「解りました、入会します」と返事をした。

しかしよく考えてみると三井物産に推薦者になってもらうと、将来、頭の上がらぬことになりかねない。 そこで結局の処、理事会社の推薦者として、姫路商業学校の先輩であった野沢組の末野氏にお願いし、平会員推薦者として、以前から取引があったドッドウエルのユーイング支店長を煩わした。 野沢組の末野氏は商業学校の一年先輩で、姫路商業、神戸高商を通じて超優等生の誉れ高く、明治初年からの著名な貿易商「野沢組」の大番頭である。 彼の母と私の母が知合いであったので、彼のことについて、私は商業学校へ入学する以前から知っていた。 この秀才先輩は、レオ貿易が日本繊維製品輸出組合に加盟することに協力してくれただけでなく、その後も業界に於ける私の<兄貴分>として、いろいろと援助や助言をしてくれ、そしてそれは、何と驚くべきことに三〇年後の今日に及んでいる。 その間、彼は数回に亙るニューヨーク駐在期間があったが、その場合も彼の同級の肥田泰民氏に申し送りし、私を宜しくと頼んでおいてくれたりした。 そうしたことから、長瀬産業の部長であった肥田氏も何度か私を酒席に呼び、なにくれとなくアドバイスしてくれた。 持つべきものは立派な先輩であると感謝している。  末野氏が超優等生であったというと、少々オーバーな表現と受け取られるむきもあろう。 しかし彼が級長をしていたとき副級長であった中村修三氏が、最高裁官房長を経て、現在東京地裁長官をし、法曹界最高の頭脳の一人と言われていることから考えると、末野氏に<超秀才であった>という賛辞を呈しても大過ないだろう。 もっとも、リセもしくは旧制高校を経由していない彼が、哲学的思考や美意識についてやや徹底を欠くのは、宇野首相と同じような青春キャリアを持つ秀才たちにとって共通の弱点かも知れない。

繊維輸出組合が、組合の役員である末野氏に対して「得体の知れぬ『レオ貿易』の中村という新入会員を宜しくコントロールしてくれ」と、裏側から依頼していた気配も感じられたが、それはそれとして、末野氏はよく私を指導援助してくれた。 感謝の他はない。

組合の入会手続きが済むと同時に、またもや三井の大橋氏が呼びに来、ビニール手袋の輸出自主規制について、早急に秘密会合を開きたいという。 レオ貿易以外の内密の予定メンバーは三井、日本トテーデイング、神戸のストロング商会、それに名古屋の旭一(きょくいち)で、レオ以外はもとからの組合員であり、彼らは社会的にも著名な、そしてもちろんビニール手袋輸出の大口実績者であった。 更に言えば、ストロング商会以外の四社は上場会社であり、ストロングもまた神戸の海岸通りに自社ビルを持つ戦前からの有名な外人商社であったから、手を組む相手として不足はなかった。

三井の大橋氏が説明する「輸出数量自主規制」の方法は、概略、次のような手続きによるらしかった。 先ず、通産省に対して「アメリカ市場で、ビニール手袋の急激な出荷を自粛して欲しいとの声が挙がっているから、業界で秩序ある輸出のための自主規制案を練りたいので了解されたい」と申し入れ、暗黙の承諾をとっておく。 次に、繊維製品輸出組合が主催して、過去一年間の輸出量の大半を占める業者の会合を開き、そこで<自主規制すべきかどうか>討議する形式をとる。 しかし、おおぜいの会合では話がまとまらぬということは誰もが知っているので、会議の席上で、「更に検討を進めるために専門の『小委員会』を作って、それに任せようではないか」と提案し、異論が出る時間的余裕を与えず無理やりに、<しかるべき>メンバーの小委員会を作り、その小委員会の決議を「業界の決議」に仕立て上げて通産省に報告する。 通産省はそれを「業界からの自主規制要求」であると見なし、強制力のある省令として発布するのである。 いささかインチキくさいが、これが一般的な「輸出自主規制」手順であるとのことであった。

そのために、「物産は、その蔭武者として系列下の日本トレーデイング社を小委員会のメンバーに予定している」と、大橋氏は手の内を明かし、更に「もう一社どこか親しい商社を頼むつもりであるからレオ貿易も協力されたい」との事であった。 大口実績者として必ずメンバーに加えておかなければならぬのは、前に述べた神戸のストロング社と名古屋の旭一の二社で、彼らには三井から既に話を済ませているとのことであった。 こうした<裏の社会>にまだ不案内の私は、総て三井の大橋氏の才覚に依存するしか他に手段を持たず、「何事も宜しく頼みます」と返事をした。 しかし、「待てよ」と思った。 それは、三井が日トレを<必ず味方になってくれる裏会社>として活用するのであれば、 わがレオ貿易も、誰か<レオの裏会社>になってくれる一票を確保しておくのが得策ではないか、そしてそれには野沢組を措いて他にない、と考えた。 この考えを野沢組の末野氏の部下である忍塩(おしお)課長に説明したところ、「面白い、ぜひ野沢組がその役を引き受けましょう」と快諾してくれた。

その翌日、輸出組合手袋分科会の臨時総会が開かれるや、議長席についた三井物産繊維部長の関一平氏は、早速、<最近のビニール手袋の急激な輸出増が如何に米国市場の混乱を招きつつあるか>を、まことに尤もらしく婁々説明し、「就いては、輸出数量規制を行うべきかどうかについて、六社程度からなる小委員会を設けて、更に進んで検討したいが如何であろうか」と提案した。最初の二、三分は誰もが発言せず、少し重苦しく静かな雰囲気になった。 それも束の間、タイミングよしと思ったのだろう、集まった九二社の中にいた<さくら>が、「異議無し、賛成」と称えると、間髪を入れず関議長が、「有難うございました。 それではそうさせて頂きます。ついては、その小委員会のメンバーの選任を、議長と事務局にご一任願えませんか」と、朴篤そうな言葉で切り出した。

その言葉が終わるか終わらぬ間に、突如、私の隣席に居た野沢組の忍塩氏が立ち上がった、「本件に就きまして弊社は重大な関心を持っております。 出来れば私ども野沢組を小委員会の一員に加えて頂きたく存じます」。  多分、誰からも発言が無い間に、時を置かず「お任せ願って有難うございます、それではすぐ別室で事務局と相談して小委員会のメンバーを選定しご報告申し上げますので、暫し総会を休憩させて頂きます」と言うつもりであった関議長は、一瞬絶句した。 一般席にいる三井の大橋部長代理と、組合事務局員、それに議長席の関委員長との間に、微かな困惑の表情と<目配せ>のトライアングル・スクランブルがあった。 突然の珍事を見守っていた一般席の我々の意表を突いて、さすが老練の関委員長はすぐさま切り返した、「よく判りました、他の方々からはご発言が無いようですから、小委員会の人選を議長にお任せ願ったものと解釈させて頂き、別室で事務局と人選に入ります」。 そしてすぐ一〇分間の休憩を宣した。 他からそれ以上の発言が入ると困るのである。

待つほどもなく別室から返ってきた関議長は「それでは小委員会のメンバーを発表します」と言って、三井、日トレ、ストロング、旭一、レオ、それに野沢組の名を読み上げた。 そして間を置かず「有難うございます。それでは早速小委員会による検討に入りますので、臨時総会はこれにて閉会致します。 小委員会のメンバーは引続き別室にお残り下さい」と、閉会を宣言してしまった。 さりげなく平板な語り口であるにも拘らず、その間合いのいいのは超一級であった。老練と言うべきか、すれっからしというべきか。

別室に集まった小委員会の席をリードしたのは関氏ではなく、その部下の大橋次長であった。 関氏は隅の方に座って聞き役に回った。 大橋氏は開口一番「先ず、実績締切日を決めましょう」と言う。 何の事か解らず<きょとん>としている私を後目に、主だったメンバーたちは<締切日>について議論を始めた。 私は慌てて大橋氏に「実績締切日」の意味を尋ねたが、それは次のようなことであった。 通常、日本の業界が輸出数量について自主的に割当数量規制を開始するには、先ずその基礎となるべき各社の既輸出実績を調べ、その数字に比例して将来の輸出割当数量を決定する。 そのためには、ある一定の日時を限って既輸出実績や既契約残の確定が必要である。 その数字が大きい会社ほど、将来の輸出割当量が大きく有利になる。 だから往々にしてこうした実績調査をする直前に、いわゆる<駆け込み受注>が行われ、また、それを防止するために、しかるべき適切な「実績締切確定日」を前もって決める。 ひとたびその日を決めると、その日以降の輸出契約は将来の輸出割当の対象実績に算入しない。 先ずその大事な「実績締切日」を何日にするか決定しようと、大橋氏は言うのである。 私は内心アッと驚いた。つい数分前の臨時総会で関議長は「小委員会を設けて輸出規制の可能性を討議したい」と言ったばかりである。 その舌の根も乾かぬ第一回小委員会で、輸出規制に入ることを当然の既成事実として、開口一番「実績締切日を何日にしようか」と言うのである。 しかし驚いたのは、どうやら私一人だったらしい。 その私にしたところが、昨日、当の大橋氏から輸出割当制にする手順を打ち明けられていたのだから、少しはその心構えをすべき筈であったのだ。

とにかく、その第一回小委員会で「受注実績締切日」を一ヶ月先の二月二八日ときめ、更に、実績割当枠八〇パーセント・保留特別枠二〇パーセントという専門的な数字も決定した。 それが済むと、今まで好々爺然として成行きを眺めていた関氏が立って、「最後に申して置きますが、この小委員会のメンバーというのは業界の代表として、いわば社会の公器の立場ですから、今日の決定事項については一切秘密を厳守し、たといご自分の社内でもお漏らしならぬよう願います。そして当然の事ながら、『実績締切日』に向けての駆け込み受注は、反社会的行為ですから厳にお慎み下さい」と言い、ぐるりと我々小委員会のメンバーを眺め回し、最後に念を押すように私の顔を見た。 我々は「解りました、よく注意いたします」と答え、閉会した。  帰り際に聞いたところでは、最初、臨時総会を始めるに当たり三井の大橋次長は、彼の神戸高商時代の学友であったグンゼ産業の下村氏を小委員会の一員に加えるつもりで、その内意を受けた下村氏がわざわざ出席していたにも拘らず、蓋を開けると氏の代わりに野沢組の忍塩氏が委員に入っていたので、彼、下村氏は機嫌を悪くし、文句を言いながら帰ったそうである。

ところがその翌朝の事である。名古屋の旭一(きょくいち)の柴田営業次長からいきせききって電話が掛かってきた。 「実は、わが社のニューヨーク店からテレックスが入って、ニューヨーク三井物産が『二月二八日付けでビニール手袋の輸出数量規制に入ることが確定したので、今の内に駆け込み発注をして呉れ』と言って、現地バイヤーの間を駆け巡っているが、わが本社はそのような重大な情報をなぜ知らせて来ないのか、と苦情をいってきた。 どうやら三井にいっぱい食わされたらしい、怪しからぬことだ」という。 早速、三井の大橋部長代理に電話し、この件を詰った処、「中村さん、よく考えなさい。これは総て商売ですよ」と言う。 もう、空いた口が塞がらなかった。「昨日、お宅の関部長が最後に私の顔を見て、我々は社会の公器ですから、卑しくも情報を内外に漏らすことの無いよう厳に注意して下さい、と言ったではないかと反論したかったが、<今更何をかいわんや>と諦めて、私もその日の内にニューヨークの客筋に売り込みのテレックスを打ちまくった。 いささか込み入った長話しになってしまって恐縮だが、この事件は平凡な一市民としての私が、その一生の内で唯一に関与した社会的<密約>に類するものである。  ヤルタ会談とかバーデンバーデンの会合とか、日本史や世界史をひもとけば、何が真相か判らぬ奇怪な密約や会談がいろいろ出て来るが、そうしたいわば猟奇的な話は、総て私たち庶民の日常生活の外に存在する。 いうなればそれは週刊誌上の<絵そらこと>に過ぎない。 その<絵そらごと>が、例え零細な日本の手袋業界のこととは言え、私も関与した状態で起こったのであるから、私の記憶も今尚鮮烈である訳だ。 あのように明快に割り切り、ドラスティクに手練手管を弄する三井物産という商社は、他のもっと大きな商売で、どのように華やかに、そしてどのように劇的にに立ち回っているのであろうか。 「財閥富を誇れども社稙を愁う誠なし」というのは、昭和維新の頃だけではなかったのである。

時は前後するが、四国の手袋業界で、その頃、私が初めて<男を揚げた>イベントがあった。 今の言葉に直すと、それは私の業界への<デビュー>であった。話はこうである。  それまでビニール手袋といえば男性用のスポーティなものばかりだったのが、マックスマイヤーというニューヨークの大手バイヤーがナイロンニットとビニールを共使いした婦人手袋を買い始めた。 造れば造るだけ全部買ってくれるのである。 それにアドーレンスという客が提灯買いをし、両者が気違いみたいに買いまくる。 業界は未曽有の好景気に湧いた。 もともとこの種の伸縮性のある婦人手袋は、<二重環縫ミシン>といって縫目に伸縮性のあるミシンで縫いあげるべきものを、そのミシンが足らぬので普通の<本縫いミシン>、つまり家庭用ミシンなどと同じ縫い方の、伸縮性のないミシンで縫ったのも大量にアメリカへ出荷された。 だが縫目に伸縮性がなく、手を入れると縫目の糸がプツプツ切れ、早い話が<欠陥商品>であった。 まちがいない商品を造るには、二重環縫いミシンを増設するか、それとも、<本縫いミシン>を使うなららば、縫い糸を伸縮性のあるナイロン糸に替える必要があった。  数十万ダースもこうした不良品を抱えたマックスマイヤー社は、私を駐日代理人に指定し、今後日本から同社に出荷される手袋の全てを欠陥の無い品質にするよう、至急行動を起こせと言ってきた。 私は、同社向けの輸出商社六社の名で、その旨を記した一千枚の掲示ポスターを印刷し、それを携えて香川県白鳥町の手袋会館へ出張し、約百名の手袋メーカーの代表を集め、品質改善の指図と共に「ビニール手袋の現状および将来」に就いて講演した。すでに「レオ貿易」の名はその辺り一帯に知られていたが、社長である私の顔を見るのは初めてというメーカーが殆どで、彼ら聴衆の間からざわめきにも似た「若い社長であることよ」というささやきが起こり、私としても面はゆいような、そして誇らしげな場面になった。 それは丁度、かのドラッカー教授が名著「ピラミッドを登る人々」でいう、「ひとたびフットライトをあびた人たちは、その快さが終生忘れられず、その歩む背後からの静かなどよめきを一生期待し続ける」という、余りにもうがったせりふの通りであった。 この日以後、私は、白鳥町、大内町を始めとする香川県大川郡一帯、それに隣の木田郡の一部にまで散在する、飲み屋、食堂、そしてタクシーの乗り場に至るまで、多くの場所で顔を熟知されることになった。 もし私が、もう少し<勇み肌>であれば、その辺り、つまり東讃地区から衆議院にでも立候補していたかも知れない。   

ここまで書いてひと休みし、何気なく岩波の文庫本をめくっていたところ、木村晃郎という未知の人の<?言(しんげん)>というのが出てきた。        自叙伝- 自己の一生が他人にとり何か有意義と思い上がっている人々の書く自慢話。

何と嫌らしいことに、この<?言>は、私のこの頁前後の内容の<一人よがり>をピタリと言い当てているではないか。 世間さまに申し訳ない気がしてきた。

およそ<?言(警句)>は、西洋ではちょっと考えただけでもラ・ロシュフーコー、ニイチェ、アンブローズ・ビアスなど、旧約聖書の「?言」三十一章以来、数限りなくいわゆるアフォリスト(?言家)が存在し、寸鉄人を刺す名警句を作り出している。 それに比べわが国では、石門心学風の<ことわざ>や、漢文の<格言>に就いてはいざ知らず、本格的な<?言>文学は無いに近い。 (尤も、旧約の<?言>も日常訓ではあるが -)。  早い話が、この文を綴っている《一太郎》ワープロソフトには<?言>の<しん>の漢字が入っていない。 だからフォントで造字せざるを得ぬ。 情緒が優先するウェットなわが社会だからであろうか、それとも修辞学がない風土によるのであろうか。  ?言の「?」という字は、鍼灸の「鍼」と同義同音で、突き刺さる<針>を意味し、もともと、心に突き刺さる短文文学を?言というのだから、<ならぬ堪忍、するが堪忍>というような石門心学風の日常訓的ことわざとは少し違うようである。 宗教上の「日常訓」化した?言には、四捨五入された庶民道徳としての存在理由はあるが、思想は既に欠落してしまっている、と山本七平氏がいう。 とすれば、同じ?言でも、日常訓的?言と思想文学的?言は峻別すべきであるかもしれない。 そして、もし「思想文学的?言」を上位に置くとすれば、わが国では斉藤緑雨や芥川龍之介の文学がそれに近いと言える。 それにしても、この木村氏の<自叙伝>の定義づけはうまく出来ていて、私自身、内心<じくじ>たるものがあるので、罪滅ぼしのためにも、この辺りで失敗談を一ついれて置きたい。

それは若い頃、密輸容疑で神戸水上署へ呼びつけられた話だ。 私が留守のある日、神戸の水上警察署から会社へ電話が掛かって来、私に「密輸容疑で出頭せよ」とのこと。 電話に出た番頭の中田君が「うちの社長が密輸などする筈はない。用事があればそちらから来社してくれ」と返事した処、警察がかんかんに怒っていると、その翌日出社して社員から聞かされた。 ほっておく訳にもいかぬので、すぐ神戸の水上署へ出かけてみた。 担当の若い刑事は、会うなり私に怒鳴った、「来たからには胸に覚えがあろう、すべてありていに白状せよ」と、なかなか高飛車である。 「何のことかさっぱり判らぬので説明してくれ」と言ったが、相手はなおも高飛車で「しらばっくれるな、証拠は総て挙がっている」と、事件の内容を言わずにがなり立てる。 これは困ったことになったと思いながら、なお、「何の事かさっぱり見当がつきませんが・・」と返答していた処、いままでじっと側でやり取りを聞いていた上役らしい刑事が、ふと優しそうな顔をして「おまえ、俺の顔に覚えはないか」と言う。 「どうも記憶にございませんが・・」と低姿勢に返事をすると、「俺は商業学校でおまえの二級先輩の磯本だ。 思いだしてみろ」と言う。覚えは無かったが、そこは<嘘も方便>、「ああ、思いだしました、ご無沙汰致しております」と如才なく答えた。 すると磯本氏は、「さっきから話を聞いていたが、どうやらおまえには何の事か判らぬようだ。 説明するから、知っていることがあれば隠さず俺に説明しろ」と、最初の刑事とはうって替わったように優しく言ってくれた。 まさに<地獄に仏>である。 説明によれば事件の内容はこういうことであった。

神戸で比較的に名の売れた機械貿易会社の輸入課長が職務を利用して、機械部品を輸入通関前に横領し横流しするという事件が発覚した。 調べている中に、その横領商品の一部はレオ貿易の名で売買していることが判明した。 これは、関税法・貿易管理令などに違反し、いわゆる密輸である、とのこと。 事件の主犯挌のK課長とおまえが共謀して、密輸横領したと、水上署の刑事は言う。 商品の内容などを聞いている中に思いだした。 確かに、そのような商品の納入伝票を作った記憶もあり、代金を収受した覚えもあり、Kという男に面識もある。 しかし、なぜその取引が密輸や横領になるのか、聞かされて居る間には理解できなかった。  私は刑事に言った、「二年ほど前、ある古い友人の紹介で、未知のKという男が会いにきた、『私は神戸のF工業という貿易会社の輸入課長をしてい、神戸製鋼へ納入する機械部品を輸入しているが、会社は非常に儲る。そこで個人的にも儲けたいと考え、同じ品を個人で輸入した。 それを自分の勤めている会社へ一旦売りつけ、そこから改めて神戸製鋼へ納入したいので、レオ貿易からF工業へ納入する形式を採って欲しい』と依頼された。 それを承諾し、実行したことは事実だが、わが社の帳簿にそのときの金の出入りも記帳しており、何等やましいことはない」。 ところが、刑事が言うのには、「その品は、彼の、勤めている会社からの横領品で、おまえが四〇%もの大きな分け前を取っている処から見て、共犯であることは明かである」とのこと。 これには私も驚いて「横領品だとは知らなかったが、それにしても四〇%の口銭とはとんでもない。私どもはトンネル口銭として一〇%しか貰っていない、それは私どもの古い会計帳簿を見て貰えば解るはず」と抗弁した。 「しかし先方のKという男はレオ貿易に納入価格の四〇%の分け前を渡したと言っている」と刑事は言い、何度か押し問答になった。 結局、磯本部長刑事が「おまえの言うことを一応信用してやるから、明朝、その帳簿のコピーを持参せよ」と言い、「この身元引受書に誰か神戸在住の友人に保証人としてサインを貰ってくれば今日は帰してやろう」と、一枚の紙をくれた。 それをもってすぐ神戸地検へ行き、前にこの自伝で何度も述べたことのあるクラスメートの増田君に会い「<これこれしかじか>だから、保証人になってくれ」と言ってその紙を示した。 それを見た彼は、「これは大変だ、『重要参考人』ではないか。 君はどう思っているか知らぬが、<重要参考人>というのは、単なる<参考人>と違って、いわば<容疑者>だから、こうした身元引受人が要るのだ」と言う。 それを聞いてようやくいま置かれている私の立場に気付いた。 「ところでこの事件、ひょっとすると私の担当かも知れぬ」と言いながら増田君が机の上の分厚い書類綴りをめくって調べた処、驚いたことにその一件書類の中にレオ貿易の名が丸枠入りで図解説明されていた。 しかも特別大きな字であった。 「これはえらいことになった、これでは取調べ担当官の私が君の身元引受人になる訳にはいかぬ。ワイフの名を引受人にしよう」と増田君は言った。 「奥さんの名を勝手に書いてもいいのか」と聞くと、彼は「夫婦は一心同体だから構わぬ」と言いながら、奥さんの名前で署名捺印した。そしてその場で水上署の磯本部長刑事に電話し、「私、増田が身元引受人になったから、この引受書は地検で預かっておきます」と告げた。 磯本氏にとってみれば、上部官庁である地検の捜査担当官がそう言うのだから、問題はなかった。

翌朝、水上署へ要求された会計帳簿の写しを持参すると、磯本部長はにこやかに迎え「君が地検の増田さんと親友だとは知らずに失礼した。 処で、君、今日は犯人のKと面通しさせるから、口銭が一〇%だったのか四〇%だったのか対決してくれ」と言う。 「私は気が弱いので、先方が四〇%払ったと言い張れば負けそうな気がする」と渋って見せたが、「そのようなことは、側で状況を観察している刑事が、どちらが正しいかくらい解るものだから心配するな」と諭された。 そんなことで、地下の薄気味悪い鉄格子の部屋でK氏と会ったのは、前に名義貸しの依頼を受けてから一年ぶりであった。 「やあこんにちは、ご無沙汰しています。お変わりありませんか」というべき処だったが、場所が場所、場合が場合だから、そのような悠長な挨拶をする雰囲気ではなかった。 刑事の詰問に答えてK氏が「私は四〇%払いましたが-」と言った。 私は慌てて、「それは記憶違いではないでしょうか。私の記憶では一〇%しか受け取っていません」と言うと、彼も諦めたか「それでは私の記憶違いだったかも知れません」と、わりあいあっさりと折れて出てくれた。刑事が「おまえはいい加減なことばかり言ってけしからんぞ」と彼を叱りつけ、「子分どもに分け前を与える時に、先におまえが内緒で、差額三〇%の<下駄>を履いていたことは判っているぞ」と怒鳴ったので、ようやく私は「何だ、K氏が子分に分け前をやるとき、私に四〇%払っていると偽って、その分だけ彼自身のポケットへ<猫ばば>したのだったか」と気が付いた。 その対決の途中で、押収した彼の会社の伝票の事か何かで、刑事が「おまえは知らぬと言っているが、この伝票にはおまえが課長として捺印しているではないか」と、問いつめた。 その時、「刑事さん、認印というのは何時も机の上に置いてあります。 私が不在の折に誰かが勝手に捺印したということもありますよ」と、まあ驚いたことにぬけぬけと、舞台のしぐさ宜しく<はんこ>を取り上げ紙に捺すふりをしてみせた。 その悠揚せまらぬ動作と心臓の強さは私を驚かせた。私などは、昨日と今日、もし<地獄で仏>の磯本先輩と増田君が居なかったらどうしょうかとおろおろする処だったのに、このK氏は、似たような年齢であるにも拘らず、<何と堂々としていて度胸のいいことよ>と、内心感嘆した。  しかしそれも束の間、刑事の「馬鹿野郎、いい加減にせぬとまた豚箱へ逆戻りさせるぞ」との一喝で、さすがの彼もシュンとし、神妙な顔つきになった。 聞けば、その取調べは一段落してい、彼も今は帰宅を許されているらしかった。 それから半年ほど経って、私は神戸地検の板垣という検事に一度呼び出され、横柄な態度で「前に陳述したことに間違いは無いな、嘘をつくと為にならぬぞ」と、五分間ほど尋問されただけで終わりになった。 その日は、一〇時に出頭せよ、と言って置きながら一時間も待たせ、その詫びも言わず、それでいて偉そうに「嘘をつくとためにならぬぞ」などと、まことに失礼な態度に腹が立ち、尋問が終わるとすぐ隣にあった増田君の部屋へ行き、「板垣という検事は実に失礼な男だ」とぼやいてみせた。 しかし、増田君は「板垣さんは検事の中でも最も穏当な人だが、それでもその程度の口を利くのは検察庁では当り前のこと」と、むしろ面白がっている様子であった。 この事件は、それから数日後に「神戸港を舞台にした大がかりな密輸横領事件」として新聞で報道されたが、幸いなことに私の名は出なかった。 主犯のK氏は執行猶予刑になった筈だが、その後自分で貿易会社を起こし、成功して、今や神戸のライオンズクラブの名士になっているらしい。 私には具合いが悪いのか、その前後も、それ以後も一切の連絡がない。 まあ、仮に会ったところがどう挨拶していいか判らぬ間柄ではあるが、それにしても物に動じない堂々とした人であった。 このK氏、美しい奥さんを持つ阪急の社長と同姓同名である。 だから、阪急の社長の名が新聞に載るたびにいやでもこの人のことを思い出す。  以上が、私が警察に出頭した経験として、一生のうち後にも先にも一回限りの話である。 人生何処に落し穴があるか判らない、すんでの処で<前科一犯>になるところだった。 それ以後、これに懲りて、他人に自分の名前を貸すことは厳に慎むことにしている。

ここまで書いて来て、ふと思い当たることがあった。 それは、この自伝の五三三頁当りで、筑波大学の土本教授の<わが刑事司法は病的か>という論説を取り上げ、その中で<『精密司法』と称する厳しい検察の行動により、わが国の犯罪数が先進国でも稀にみる低い数値に押さえられ、世界一安全な国になっている>という教授の自負の程を紹介した。  なるほど、地裁の裁判を<二審的裁判>と言わしめ、検察があたかも一審裁判を担当しているかのような現状は、正義の勇者<遠山の金さん>を地で行く検察の誇りであるとし、拍手を送りたくなるような気もする。  しかし神戸水上署へ呼び出された時の若い刑事の、始めから犯罪者扱いした乱暴な言辞や、私を震え上がらせた板垣検事の恐ろしい態度は、それ自体が、気の弱い庶民に対する一つの激しい<威嚇>ではなかろうか。 言い替えれば、検察の<威嚇>こそ、わが国に刑事犯罪が少ない最大の原因ではないか、と、いま私は思い当たったのである。 確かに、世界一と言われる検挙率や有罪率の高さも犯罪率の減少に貢献しているであろうが、それにも増して、<峻烈すぎる取調べ>の実態を見聞きするたびに、我々気の弱い庶民たちは、取調べを受けることそれ自体が身震いするほど恐く、そのためにこそ罪を犯すことを躊躇するのではなかろうか。  つい先日もNHK十二チャンネルで、日弁連の先生が、司法警察の取調べの余りにも厳しいのを、例に依って、大いに弾劾していたが、そうした批判に対してもわが刑事司法は少しも怯むことがない。 その原因は、ひょっとすると、刑事司法の当局者たちは、<『威嚇』こそ安全社会への最大のキーである>と、先刻、承知していらっしゃるのではないかと、いま思い当たった。 もしそうであれば閻魔王が舌を抜いている<地獄極楽図絵>の現代版と言えよう。

どうも話が殺伐な方へ移行してしまった。 この辺りで少しゆったりとした話題に転ずる必要がある。 今日はお盆の日である。会社も殆ど休んでいる。 そして、なにしろ暑い。 <さるすべり>の花がやたらと目につく。 近年、急に増えたようだ。   大きな<さるすべり>の木のある家には古文書が多いという目安で、国史学者は古い資料の発掘のために、お盆の頃に田舎回りをする、という話を聞いたことがある。そうかも知れない。 しかし最近ではどういう訳か、随分大きな<さるすべり>の古木を稙裁している開発住宅地の新しい家も多い。  前にも述べたと思うが、イタリアのミラノの街には<さるすべり>の街路樹が多い。 夏になるとピンク色の花をつけるのですぐ判る。 但し、この<さるすべり>は日本のそれのように幹がくねくねと曲がっていない。 どちらかと言えば直立している。 だから街路樹になるのだろう。<イタリアさるすべり>と言う別種だそうである。 花は総てピンク色の円錐花序で、日本のそれのように薄紫や白い花はない。 ふた昔ほど前、バンコクのホテルに宿泊したことがあった。二階建て木造のそのホテルは、数万坪の庭を持ち、そこには孔雀の放し飼いがしてあった。 早朝、目が醒めて、何気なく大きなガラス窓越しに外を眺めてハッとしたことがある。 広い窓辺いっぱいの緑の芝生に、目も鮮やかなピンク色の花を咲かせた樹木が数十本整然と並んでいた。 まだ醒めやらぬ、起きぬけの私は一瞬目を疑った。 その緑とピンクの風景は、絵でみた「極楽」の景色とそっくりであった。 おまけに孔雀まで居る。 私は知らぬ間に、「仏様の極楽」へ来た、と錯覚した。 大げさな表現ではあるが、<自分が極楽へ来ているのだ>と思った。 たしか、あのたわわなピンクの花木は<さるすべり>であった。 それは日が昇る前の熱帯の、風もない朝爽の華やかな夢幻の世界だった。 それ以来、私は<さるすべり>の花に特別の感懐を抱くようになった。

つい先日、新聞のコラムに<夢の中のサルスベリ>というエッセイがあった。  <イタリアにタルティーニというバイオリンの名手がいた・・>という書き出しで始まるこの短文の後半は次のように綴ってあった、      コンサートかレコードかは定かではない。何も見えずに音だけが聴こえ      るのだから。 でも、指揮者はフルトベングラーだと、はっきりわかる。      フィシャーが弾くバッハの「ピアノ協奏曲イ長調」を、今朝がた聴いた      ばかりだけれども、なぜか、部屋の窓から赤いサルスベリの花が見えか      くれしていたようにも思う。 一七、八才のじぶん、これを年上の彼女      が独奏部、こちらがオーケストラ部を弾いて何度も何度も共演を楽しん      だ。 そう! 彼女の部屋の窓からも赤いサルスベリの花のふさが見え      たっけ。 このエッセイには、(ま)という署名がしてあるだけで誰のことか判らぬが、世の中にはサルスベリに、私と似たような特殊な感懐を抱いている人がいるものだ。 なにはともあれ、ことしも<さるすべり>の花が咲き、そして明日は四十四回目の終戦の日だ。復員で帰ってきた十九才の私の目にも、確か赤いサルスベリの花が咲いていたのを思い出す。 豊尭な<さるすべり>の花の縮んだようなピンク色は、人間の精気を減少させ、けだるく静かな夏の日にあっては、蓮の華のそれよりも、よりお釈迦様の膝に近い。

さて、私は、手袋とわがレオ貿易のことを語っていたのであった。 手袋の商売がようやく軌道に載りかけたころ北浜一丁目の居候事務所から出て、すぐ近所の堺筋に面した新井ビルに移った。 それまで居た北浜の木造建物の本当の占有権者は東芝電興の大阪事務所で、その前住者柴田友男氏が、レオ貿易を一緒に始めた山本象之助氏の義弟だった関係で、いわば<居候の居候>を決め込んでいたのである。 柴田氏はレオ貿易が法人化するとき監査役をお願いした温厚な紳士で、その頃は大阪で著名な古野周蔵弁護士夫妻の執介人みたいな仕事をしていた。 女専を出た賢い奥さんと、才媛ぞろいのお嬢さんを持ち、まるで女系家族に奉公するのが目的のような一生を送った人である。 特に、三女の良子さんは、幼い頃からピアノの専門訓練に明け暮れ、ドイツへ移住するまでは辻久子さんの伴奏をしていたりしたが、 数人のお嬢さんたちの、お茶、生花、能、バレー、音楽、それに英会話などと、側で見ているだけでも<娘というのは何と金の掛かるものであることよ>と思った。


移った堺筋の事務所は、新井ビルという焼け残りの五階建の古ビルの四階で、エレベーターも冷暖房設備もなく、急峻な階段を伝って昇り降りするのが大変だった。 しかし株式取引所のすぐ斜め前で、郵便局に直面していたので、その点は便利であった。 そこへ移転してすぐ、男子社員を新聞広告で募集した処、今、ロスアンゼルスに居る上杉美子雄(みねお)君が応募してきた。 名門大手前高校卒業時の席次は二番、そして大阪外大のインドネシア語科を尻から二番という成績で卒業し、半年ほど紙問屋に勤務していたと言う。 彼は、いわばレオ貿易の手袋商売の創設者と言ってもいい青年で、いわゆる<やんちゃ>でさえなければ、まことに有能な男であった。 応募してきたときの彼の<せりふ>は、「癖馬は名馬なり」であったが、癖馬必ずしも名馬ならず。 しかし彼は確かに、名馬に近い正真正銘の癖馬であった。 癖馬を訪ねて彼の外大のクラスメート、特にラグビー部に席を置いた連中が、おおぜい出入りするようになり、最盛時、レオ貿易の社員中に大阪外大卒業生が男女合わせて十名以上も在籍したことがある。 そしてその<濫しょう>は彼にあった。

彼は、四国香川県の手袋産地の隅ずみまで精力的に奔走し、わが社の基礎を作った。 しかし、そこまではいいのだが後がいけない。 プロの腕前と自称して、高松のやくざが支配する麻雀屋へ入り浸り、その使いの若者が大阪の彼を訪ねて清酒一本を持参したこともあり、出張先の手袋組合の建物の二階の窓から、夜中に公道に向けて放尿し、苦情が舞い込むと言うようなバンカラ振りを発揮し、てこずらせた。 越前丸岡藩五〇石取りの武士の末えいであると自慢し、どういう事情があったのか、<美子雄>という名は東京市長尾崎行雄の命名に依るとうそぶいていた。取引先のみならず、上司である私に対してさえ乱暴な口をきき、非礼な態度は規制しようがなかった。 そしてその彼の態度は五〇才を越す今日まで続いている。 後日、いろいろのことがあり、かれはレオ貿易に二、三度、入退社を繰り返し、今は私の紹介でロサンゼルスの日系の会社へ勤めている。

次に入社してきた社員は川村というまだ大人に成りきっていない感じの青年であった。 布の運動靴に半袖の白シャツ一枚という風体で、そのくせ<銀行通信社副主幹>というものものしい肩書の名刺を持って現れたこの青年は、<目から鼻へ抜ける>ほど利口で、当時まだ二〇才であった。 しかし口も達者なら文章もうまい彼は、上杉君と二人で、一時、四国香川県の手袋業界を手玉に取り、<麒麟児>というニックネームすら貰っていた。 正式の手紙文を書かせば、三十頁や四十頁は筆も休めず、訂正もなく一挙に書き上げる、その文章力はまことに<たんげい>し難きものがあった。 しかし何といってもまだ大人になりきっていない青年のこと、往々にして羽目を外し私をやきもきさせた。 彼が何か悪いことをしてきた翌朝は、出社するやいなや、すぐ長い手紙を取引先宛に書き始める。頭を挙げず一処懸命に一時間以上も書き続ける。 さては、と思って呼びつけ問いただすと、「済みません・・」と言いながら、すぐ白状する。 悪ぶってはいたが、純情な青年であった。 しかしその彼も、会社に内緒の商売を始め、それが発覚して退社してしまった。 私どもレオ貿易は、その手袋事業最盛期に、四国に五十七軒の下請け業者を保有していたが、その殆どは、上杉、川村、両青年の開拓に依るものであり、感謝する他はない。

手袋産業や香川県の地図に詳しくない方々のために、典型的な特産地産業としての手袋産地のアウトラインをここで説明しておこう。 高松からJR線が徳島を経由して高知へ走っている。 その高松と徳島のちょうど中間に三本松という急行停車駅があり、その東隣の駅が白鳥である。 白鳥、三本松、両駅を中心として、東は鳴門市、西は琴平、南は四国山脈を分け入って鴨島に至るまでの広域に、日本の手袋生産の九十五%を占める零細な手袋メーカーが散在し、その中心地は香川県白鳥町である。 白鳥の海岸にある松原公園には、手袋を伝えたという双児舜礼師の顕彰碑と、明治に手袋産業を地元へ持ち帰った棚次辰吉翁の銅像が建っている。 その棚次辰吉翁の次男が経営する棚次メリヤスと、当時、手袋組合理事長をしていた成瀬歌吉氏の経営する成瀬メリヤスが、私どもレオ貿易の最も大きな取引先であった。  レオ貿易は白鳥町の中心地に建つ旧、町役場の中の、手袋組合事務所の一角を借りて出張所を開いていた。 そして、現地雇用社員と大阪から出張する形式の社員と合わせ、常に数名の社員が数十軒の下請けメーカーの監督に当たっていた。原資材であるビニールレザーやメリヤス裏地を提供し、生産を督励し、品質を管理し、そして出来上がった手袋を検収するのが彼らの役目であった。 ところが労働集約産業の典型である手袋生産の悲しさ、殆ど百%の確率で生産が予定より大幅に遅延し、海外バイヤーから苦情を受けていた。 特に出荷の最盛期である五月から八月に懸けて、先ず田植シーズンに重なり、次に南京かぼちゃの出荷時期に遭い、西瓜の出荷に災いされ、農繁期には手袋の縫い女工が激減し、各手袋メーカーは女子工員の引き抜き合戦にしのぎを削ったものである。 香川県には河らしい河がない。 山と海が接近しているからだ。 坂東太郎、筑紫次郎とあわせ称えられる「四国三郎」は東西に流れて徳島の海に注ぐから、香川県とは関係がない。  その代わり、雪は想像以上に積もる。 白鳥町の南部山間部では時として一メートル五〇センチ以上も雪が積もる。

ある年の春三月、大雪が降った。 ちょうどその時、私は白鳥の隣り、引田の安戸池(あどいけ)という<はまち>養殖発祥の地の入江の上に建つ観光ホテルに宿泊していた。 大幅に生産の遅れている手袋出荷の督励に来ていたのである。 夕方から降り出した小雪は途中で牡丹雪にかわり、降りに降って、海岸の松林はみるみる中に雪に埋もれた。 あまつさえ風が激しくなり、吹雪に替わった。 この分では、明日の朝は出荷督励に出られない。 しかしニューヨークのバイヤーは、船積を矢のように督促してくる。 昼の疲れと、明日の仕事の<めど>が立たぬ焦りで、私の心はペシミスティックになった。 そこで作った歌一首、        手袋にさいなまされていぬる夜の 讃岐白鳥なお吹雪きつつ

同宿していた野沢組の忍塩(おしお)課長は、「これは短歌でなく、和歌ですね・」と言った。

香川県の男たちが好んで言う<せりふ>に「讃岐男に阿波おんな」という言葉がある。 <男らしい男は讃岐おとこ、そして、たをやかな美人は阿波の女>ということらしい。 阿波の女が美人かどうか知らぬが、讃岐の男に<勇み肌>が多いのは事実である。 芸事と<ばくち>が盛んで、<駈落ち>と倒産は日常茶飯事であった。  車が好きで、昭和三十五年ごろの香川県大川郡、つまり白鳥・三本松辺りの、人口一人当りの自動車保有台数は日本一だと言われた。 もちろんそれは輸出手袋の好景気に依るものであるが、讃岐男の<勇派み肌>と自動車好きも影響している。 白鳥・三本松の手袋屋たちは夕方ともなれば車を連ねて高松の花街百軒町に繰り出した。 ニュー常盤、レインボーなどのキャバレーで豪遊し、余勢を駆ってホステス同伴で大阪まで車をとばす青年実業家たちが相次いだ。 当然のこと、色模様の<駈落ち>も多かった。  手袋の宗家、棚次メリヤスの小頭(こがしら)と詠われた近藤君はまだ二八才の青年実業家であった。 輸出手袋ブームに乗り、毎月一万ダースの手袋を縫いあげた。 そしてコロナの新車を一度に七台も買い、下請け管理の若い衆に与えた。 彼自身も、毎晩、運転手に運転させて彼の車を徳島の花街に繰り出した。 そこには彼の親しくしていたホステスがい、彼女と数時間の時を過ごすのを日課とした。 彼は自分の運転手に小銭を与え、彼の登楼中、そとで夕食を採りながら待つことを求めた。 そのうち運転手は、待つと見せかけて徳島から馳せ帰り、白鳥の近藤君の家へ行き、彼のワイフに「旦那はこれこれしかじかで、いま徳島の馴染みの所にいる」と注進し、あげくの果てにその二人が仲良くなってしまった。 そしてある朝、近藤君が目を覚ますと、彼のワイフは運転手と駈落ちしてしまっていた。大慌ての彼と、親分の棚次氏が、下請けの子分どもを総動員して、駈落ちカップルの行方を探させた。 何しろその駈落ちした運転手は、棚次メリヤスから近藤手袋へ派遣していた派遣社員だったのである。 近藤と並んで小頭と言われた「橋大」こと橋本大吉も、典型的な<勇み肌>の手袋屋だった。 かれは「駈落ちしたカップルが紀州の白浜温泉にいるらしい」と言って、親方の棚次氏から、当時としては大金の金五万円也を捜査費用として預かり、白浜温泉へ行った。 ところが一週間経っても、その橋大から連絡がない。心配した棚次氏が、他の手下を白浜へまた送った。 その男が、白浜温泉のメインストリートを歩いていると温泉料亭の二階の欄干から橋大が声をかけた。何と驚いたことに橋大は芸者を揚げてドンチャン騒ぎをしていたのである。 それを詰ると、橋大は事もなげに答えた、「駈落ちを探すほど俺は野暮天じゃない、まあこちらも幸せなカップルにあやかって、楽しく飲もうではないか」。 

さてこの駈落ちの結末はどうなったか。 三カ月ほど経って、駈落ちの二人は帰ってきた。  運転手の方は棚次メリヤスを頚になり、もとの百姓に戻った。 近藤君のワイフは徳島の実家へ帰り、そこから詫びを入れてきた。 彼女は、かってミス徳島だったという。 棚次の番頭を兼ねていた白鳥町の町会議長橋本八郎氏が仲に入り、「なあ近藤君、おまえも叩けば<ほこり>のでる体だ。若気の至りとして許してやり、元の鞘に収まれ・・」。 近藤君は、後日私にこう言った、「元の鞘に収めるのは構わぬが、それでは俺が世間から馬鹿にされる。 女房に逃げられたとは言え、俺も男だ」。 まこと近藤君は典型的な<讃岐男>であった。  

讃岐男の手袋屋たちは車に乗るだけでなく、汽車に乗って日本国中を駈け回り手袋の卸売行商をした。 北海道から鹿児島まで、その足跡の残らぬ所はない。 トランクに手袋の見本を詰め、全国津々浦々の雑貨小売やにまで足を運んだ。 大がかりな手袋の叩き売り競争である。 結果、讃岐の手袋は収拾がつかぬ程の乱売合戦で今日に至っている。 時を同じうして全国に進出した「讃岐うどん」と同じである。 三〇年前には、讃岐うどんというような<名物>は讃岐の人以外には知られていなかった。 いまやそれが日本全国に名を轟かせている。 すべては彼ら「讃岐男」のバイタルティの所産である。

日本だけではない、彼らは世界中に進出した。 二五年前、既に彼らの多くはトランクに見本を詰めて飛行機に乗り、アメリカやヨーロッパへ叩き売りに出かけた。 私どもレオ貿易の下請けたちも例外ではなかった。 私がアメリカの得意先を訪問すると、すでに彼ら下請けがわが社のバイヤーを抜駆け訪問していた。たいていの場合、彼らは英語が出来なかった。 手真似物真似、もしくは通訳を雇うのである。 海外に於ける日本製手袋の値段は下がりっぱなしであった。 しかし、なお彼らは競争する。 誰が讃岐でいちばん大きい手袋メーカーであるかを競うのである。  そのうち、四国の労働力が不足し始めた。 彼らは争って海外に工場進出した。先ず最初は台湾だった。 台湾高雄の輸出加工区には今でも香川県の手袋メーカーの関係工場が数社ある。 次は韓国で、数社が進出した。 その次は中国、すでに数社が進出し、現在、盛業中というが真偽の程は知らぬ。 ニューヨークにも進出し、マンッハッタンに店を持つ讃岐の手袋やも二社ある。たかが人口数万人の片田舎、香川県大川郡から海外へ進出している手袋メーカーは数十社にのぼるであろう。 これは日本的規模から見て異例の事と言わねばなるまい。 車に乗り、汽車に乗り、そして飛行機に乗って、今や彼らは世界を駆けめぐる。私はそこにアラビアの遊牧民を見る。 アラビアのローレンスという映画の底本になった「砂漠の王 イブン サウド」という本に依れば、その昔、彼らイスラムの騎馬民族たちは馬に跨り、アラビアの砂漠からアルジェを通り、タンジールを渡り、スペイン・ポルトガルを席捲し、ピレネの急峻でようやく止まったという。そして彼らの末えいは六百年にわたって、オスマン帝国の植民地をヨーロッパ大陸に打ち立てた。 その地に於ける最後のイスラムトルコたちは、そのとき既に父祖の地オリエントを知らず、そしてアラビア語も忘れ去っていたらしい。 馬ではなく、しかし車と飛行機を駆使して世界に分布する「讃岐男」たちの末えいも、もう五十年もすれば、讃岐言葉も讃岐うどんも知らぬ地球人になってしまう可能性が充分ある。    処でいったい、何故このように進取の気性に富んだ、悪く言えばドンキホーテの集団のような人たちが<讃岐>という一地方に出現したのであろうか。 ある人はそれを旧幕府時代の、徳川家譜代の善政による豊かさに仮する。 徳川家康の孫松平頼重が讃岐に入封した。年貢は、他の外様大名の六公四民の取り分が、ここでは五公五民、または四公六民と少なく、そのため領民の、豊かさからくる伸び伸びとした大らかな気性を作りあげたという。なるほど、讃岐路の農家の構えを見る限り、私の郷里播州などとは比較にならぬくらい立派なのが多い。 その中でも一際目立って立派な家屋は、白鳥神社の旧社家、猪熊家であろう。 猪熊家は<天児屋根命>以来の名家で、もともと京の吉田神社の社家であった。この家系は上代に於てすでに二つの姓に分かれていた。 即ち、猪熊家と吉田家である。 ちなみに<徒然草>の吉田兼好は、この吉田家の傍流である。 松平頼重が高松へ移るに当たって、田舎住まいの話相手に、京の猪熊氏を帯同し、白鳥神社を造営して、神社と共にその付近の集落の管理を任せた。 讃岐松平家の婚姻相手として阿波の蜂須賀家があったが、さらにその中間地に位置する猪熊家を加えて、徳川三百年はその三名家で相互縁組を重ねた。 いまその猪熊家は、土地の文化財として「猪熊邸」博物館となり、国宝肥前風土記をはじめ、幾多の猪熊家家宝を展示している。 戦争中に疎開で帰郷した猪熊家の先代は、有職故実の専門家として宮内省に勤めていた。 そのせいか、この博物館には歴代天皇の<しん翰類>、つまり天皇の筆跡が多い。 最近、奈良の発掘ブームで、橿原考古学研究所の猪熊兼勝先生という方がテレビによく出てくる。 たぶんこの方は、白鳥猪熊家の近親であろう。

進取の気性が<懐の豊かさ>に依る可能性は無しとしない。 しかしそれにしても、この地方の<ばくち>好きというのはいったい何処から将来したのであろうか。 例えば、白鳥神社の門前に、土地の名物「葡萄餅」を売っている古いお菓子やがある。 ここの婿養子は、先に述べた橋大という手袋メーカーの番頭であった。なかなか学者で新体詩をよくし、詩集も出版していた。 人のいい男で、酒が好きだったが、酔って乱れる程でもなかった。 しかし困ったことに<さいころばくち>が好きだった。 仲間が集まっては、少額の<ばくち>に興じていた。 それが<ぶどう餅屋>の婆さん、つまりワイフの母の逆麟に触れ追い出されてしまった。 その後、彼が何処でどうしているか私は知らなかった。 二五年の後、ある日、新聞の文化欄を見て驚いた。 何と、彼は大阪の或る芸術大学の文学部の教授という肩書で、「詩」に就いてのエッセーを寄稿していたのである。 これは面白い、と思い、早速電話してみた。 彼は確かにその大学に奉職していた。 「記憶がお有りでしょうか、私はレオ貿易の中村です」と言うと、彼は「いやあ恥ずかしい・・」と言いながら、取り合えず電話で<旧かつ>を叙し合った。 しかし後で考えてみると、彼の旧悪 ? を知っている私の出現は、彼に取って迷惑以上の何物でもない。 だからその後は連絡をしていない。 詩人も<ばくち>を打つ、そんな土地柄が讃岐白鳥である。

この地では芸事も盛んであると言ったが、例えば十数年まえ、白鳥ロータリークラブの認証状伝達式に招待されたことがあるが、その時のアトラクション、つまり余興には、その内輪だけで他の助けを借りず、笛、たいこ、三味線、それにいろいろな踊りなど、自前の出し物で延々半日、結構、来客の目を楽しませてくれた。 これは、そうした土地柄であることに依る。 しかし盛んな芸事よりも、なお盛んなのは酒席の遊びである。 前に私は、手袋屋たちが高松百軒町のキャバレーへ入り浸りであったと言ったが、それは何もキャバレー遊びだけに限らず、バー、クラブから芸者遊びまで総てに渉っていた。 しかもそれは、既成のそうした花柳界で遊ぶにとどまらず、遂には自前の遊興場を持つことにまで熱意を燃やすこととなった。

それは確か昭和三五年のことと思う。 <手袋産業会館>を作ろうということで、白鳥・三本松の手袋やの旦那衆が半年間ほど<うつつ>を抜かしたことがある。 当時、私どもの最も親しかったキングメリヤスという会社の橋本社長が、毎日毎日その用事で駆けずり歩き、自社の仕事は殆どその二人の息子に任せきりだった。 ようやく会館が完成したという話を聞き、一度そこを訪ねたいと橋本社長にお願いした処、「落成したけれども、女給が居ないので休業中である」と言う。 もともとこの<手袋会館>は、一階を日本手袋工業組合の事務所にし、そばに小部屋を幾つか設け、それを大阪・神戸の商社の出張所として提供し、傍ら、出張してくる商社員や手袋資材問屋のセールスマンの宿泊所にすると聞いていたのだが、それが、<女給が居ないので>開店前に既に休業とはいささか驚いた。 そっと内緒で出来上がった<手袋会館>を偵察に行った処、それは海岸の松林の先にあり、数千坪の敷地に、木造とはいえ数百坪の立派な建物で、白木の香もまだ新しかった。 橋本氏から聞いた通り、閉めたままで住み込みの老女が一人留守番をしていた。 念のために、手袋組合の他の役員に、どう言うつもりでその施設を作ったのかと聞いた処、本心は、手袋業者が高松へ遠出せずとも、地元で遊べる所を作りたいとして建設したのである、との事であった。 ところが予定していた徳島・高松からの住み込みホステスが集まらず、開店休業になってしまった。 少々多くの賃金を弾めば来るであろうと甘く見ていたホステスが、来てみてあまりの僻地に驚いて来なくなってしまった、というのが真相であった。 結局、この<手袋会館>は落成後半年ほど経って、数名のホステスを高松から根引きしてき、開店した。 そして始めの二、三カ月は、近所の旦那衆や青年たちが毎晩通い詰め、何とか<小型キャバレー>としての体裁を保っていたが、それも束の間、客もホステスも毎晩同じ顔ぶれで面白く無くなり、程なく休業に追い込まれてしまった。 それから後一〇年ほどの間に、三カ月ほどずつ二、三回また再開したことがあったが、長くは続かず、その後、組合の理事長であった原滋氏が買い取って旅館にし、我々も何回かそこに宿泊したが、それも何時とはなしに閉店してしまった。 仮にも<産業会館>という立派な名前で、地域産業社会の総意で建設された立派な施設が、<女給がいないから>という理由で空中分解してしまった例は、他にないのではなかろうか。 それもこれも、この楽しい土地柄のせいであろう。

処で数カ月ほど前、<香川県の現職の県会議長が汚職事件で行方をくらませ、数カ月後に豊中市にあるホステスのマンションで潜伏中を警察に捕まった>というニュースが新聞に出た。 この石川先生は高松のキャバレー・ニュー常盤の経営者で、わが手袋屋たちが選出した議員であった。彼が選挙に立候補している間、いつもわが手袋メーカーたちは、いわゆる<つけ>、つまり後払いと称して、彼のキャバレーで大がかりな無銭飲食を楽しんだものであった。

 

前ページ迄は手袋の産地、香川県大川郡白鳥町近辺の三〇年前の様子を叙述した。 ここからは、私どもの客先である手袋バイヤーに就いて説明する番である。 手袋の最初の数年間、バイヤーは殆ど米国カナダ二国に集中し、ヨーロッパは僅かであった。そうしたバイヤーの話をすると、私の郷里の友人たちは必ずと言っていいほど <そのような海外のバイヤーをどうして探してきたか> と聞く。 無理もない、田舎生まれの私が何処の商社に勤めた訳でもないのに、地球の裏側にある多数のバイヤーと親しいというのは、古い友人たちにとっては解せぬことであるに違いない。 そのような基礎的な疑問は、必ずしも田舎の古い友人たちにとどまらず、長年当社に勤務している社員でも、もしその社員が積極的に新市場開拓業務に従事していなかった場合には似たような疑問、ないしは困惑を持つ。 例えば二、三年前、ヨーロッパ市場を知らぬ当社のベテラン社員に、「ヨーロッパへ行って、手袋の新しいバイヤーを開拓してこい」と言ったところ、「どのようにして探せばいいのか」と反問されたことがある。 そうした場合、私の返事は決まっている。 「新バイヤーを捕まえるためには、電話をするか、手紙を出すか、会いに出かけるか、さもなければバイヤーの泊まっていそうなホテルの玄関先でビラ撒きをするしか他に方法が無い。 もちろんそれ以外に、未知のバイヤーがわざわざ当社を訪ねてきてくれるということもあるが、そのためには普段から新聞や雑誌で広告をしておかねばならない」と答えることにしている。 方法はわりあいシンプルで、他に名案も特殊技術もない。

私は飽まずたゆまずそれを繰り返して数十年、ついに還暦も過ぎた。 貿易商売とか何とか体裁のいいこことを言うものの、結局のところ、私の一生はしがない飛び込みセールスマンであった訳だ。おそらくその間、あてずっぽうに出した未知のバイヤー宛の<売り込みの手紙>は一万通を越すだろう。 そして、その殆どの手紙の返事は<なしのつぶて>に終わっている。 売り込みのため訪ねた海外の客先も数百軒にのぼり、その殆どは客にならずじまいの、いわば<不発弾>であった。  さてその手紙をだすべき、または訪問すべき未知の客筋の名前住所などをどうして探すかだが、これは簡単である。 職業別電話番号簿を見るとか、商工会議所へ照会する、または業界の名簿を見るとかすればよい。

外国へ出かけて飛び込みセールスをするのは、いつまで経っても嫌なものだ。 友人諸君は、私は<人見知り>をしない度胸のいい男だ、と思っているようだが、どうしてどうして、未知の人と会う前は今もって胸がどきどきし、出来ることならば会いたくないと思う。 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というが、悠々と虎穴に入るような人はいない。おずおずと身構えて入っていく、その気持ちは嫌なものである。 しかし、入らねば新しい客は得られない。意を決して入って、軽くあしらわれ、追い返された経験も無数にある。 追い返されそうになった時が商売の始まりで、にっこり笑い、さて、と相手の懐に飛び入り、機嫌を取り結ぶのは探検家的スリルはあるが、とにかく嫌なものである。 私のこうした潜在的<人見知り>の性質は、私の子供、千代賢にも受け継がれていると見えて、彼も普段は強そうなことを言っているが、初対面の人に会うのは苦手のようである。 何時も身構え過ぎている。

さてひとたび客が捕まえられれば、後は営業社員諸君に任せておく。 新客を探すのは嫌だが、既成の客と商談して注文をとるのは、取り合えずは、その社員の手柄に見えるので嫌がる社員はいない。 問題は、その営業社員が受注を自分一人の手柄にしょうとするのを、どうさばくかである。 製造メーカーの営業社員は目の前に生産ラインが並んでいるので、受注だけが大した手柄だとは思わない。 しかし貿易会社の営業社員は多くの場合、受注のみならず発注も担当するから、自分一人で商売が出来たように誤解する。 それをうまくたしなめ、<会社あってのおまえだ>と言って聞かせる訳だが、本質的に納得する社員は少ない。 自ら<腕利き>と思っている営業社員は、数年ならずして会社を飛び出してしまう。 そして一旗挙げようとする。 そうして一旗挙げた社員の数は今までに二十人を越す。 大抵は一、二年の間に潰え去っていく。まだ細々商売を続けている者も何人か居るが、わがレオ貿易を追い越した者は居ない。 もし彼らの内の数人が今まで残っていたならば、わがレオ貿易も、せめて店頭銘柄株くらいの商社になっていたであろうと残念に思う。 <青年の客気>と過剰自信で一旗挙げた社員たちは、その当初は必ずと言っていいほど、辞めていった会社の経営者、即ち私の悪口をあちこちで言いふらす。しかしこちらはその反論をしにいく訳にはいかない。 じっと堪えて、彼らが潰え去るのを待つのみである。 歩が悪いが致し方ない。 恥ずかしいが、それがレオ貿易四十年の歴史でもあった。

新客開拓のための国際電話による売り込みは殆どしていない、なぜなら電話料金が高い上に、私の英会話力は今もって国際電話に適さない。 海外向け業界誌、または海外で出版されている雑誌などによる広告は比較的頻繁に継続実施した。おかげで最盛時には海外顧客リストが四百社を越えた。 顧客が多いのは、わがレオ貿易の特徴であった。 つねに多くの新規顧客を開拓し、そしてそれを維持するのは非常にコスト高につく。 余りにもロスが多い。だから一般的に言って輸出業者は、ある小数特定の安定した客先との連携を強め、その客のみに依存して自社の経営をなり立たせようとする。 そしてそれはバイヤー側としても望むところである。 うまくいけば新市場開拓コストがいらぬから、企業の経費節約に直接的に有効である。 しかし海外バイヤーの浮き沈みは激しく、また特に、アメリカのバイヤーは想像以上に浮気性である。 数年ならずして業界から消えてゆくバイヤーは多く、また、一円値が安ければ隣りから買うバイヤーも多い。

特定の著名な手袋バイヤーと提携して安定した手袋輸出をしていた輸出商社や手袋メーカーは、例外なく、日ならずして消えて行っている。 だから私は、他社から如何に<浮気者>とひぼうされようと、年中、新バイヤーの開拓に憂き身をやつした。 営業コストは倍くらい高くついたが、その代わり商売は続け得た。 かって当社にいたミッキー山本君は非常に有能な営業社員だったが、私の次々と新しいバイヤーを加えていく方針に反発し、会社を去った。しかし、彼が担当していたハンダルというアメリカのバイヤーは、彼の在社中は当社の手袋売上の半分くらいを占める大きな客であったが、彼の退社後三年ならずして、先方の担当バイヤー、フロリア氏が退職し、米国の手袋輸入業界から脱落してしまった。 そうした事実をたくさん見聞きしているので、私は、如何にコスト高であろうと、バイヤーの数は常に多ければ多いほど良いと思っている。

わが社の最初の手袋バイヤーであった「エボングローブ」のことは既に述べた通りであるが、次に大口客となったのは「エリオットグローブ」と「ニューマン」で、どちらもニューヨークの会社であった。 【エリオット】は手袋専門の輸入卸売業者で、東京にエリオット商会という買付け代理店があり、その社長は二宮という、もと慶応のサッカーでならした人であった。 後年、エリオット商会は「日トレ」こと日本トレーデイング社に吸収合併され、二宮氏は日トレの役員になり、更に、同社が三井物産に吸収合併されたのちは、日本橋横山町にある三井系列の繊維問屋の代表に就任された筈である。そのいきさつから考えると、エリオット商会はもともと三井系の会社だったのかも知れない。 ニューヨークのエリオット社に売り込みをかけるには、東京のエリオット商会を経由するのが順序であったらしいが、彼らは既に日本の既存手袋メーカーと特別な関係にあり、レオ貿易の如き新米商社との取引開始を望まなかった。 だから、私は直接ニューヨークのエリオット本社に宛て、何度も何度も手紙を書き、大量の商品見本を間断なく送りつけた。 そしてニューヨーク側はその都度、彼らの東京事務所に対して、そうした手紙や見本を受け取っている旨の連絡を入れた。 そうなると如何に頑迷な東京のエリオット商会もレオ貿易を無視する訳にはいかなくなり、たしか三十回目くらいの手紙をニューヨークへ出したとき、「もう直接ニューヨークへ手紙を出さずに、東京へ見本と値段表を送ってくれれば取引を斡旋するから」と、東京エリオットから電話が掛かってきた。 要するに<粘り勝ち>であった。 そして次にエリオット社のグロス社長が来日したときには、当社へ立ち寄り、幾ばくかの初回注文を置いてくれた。 その間、約一年半、エリオット本社から当社宛てには何の連絡もなかった。 初回の注文以後は継続して毎年相当大量の注文を呉れ、同社はわがレオ貿易の五本の指に入る有難い客筋になった。

エリオットのグロス社長は米国の手袋輸入協会の会長を兼ね、アメリカに於ける業界のリーダーであった。 濃いグリーンのスーツに長身を包み、<にこり>ともしたことのない彼の横顔は、さすが元弁護士だったという白人エリートの雰囲気を漂わせ、私どもの女子社員の憧れの的であった。 食事に招待しても、他のバイヤーたちと異なり、<夜の宴会>にはついぞ応じず、日曜日に「何処かテニスをする処がないか」と私に聞いたことがあるところから察すると、わりあいストイックな性質の人だったのだろう。 ある土曜日の午後、私どもの<癖馬>上杉君がサンプルを届けに彼のホテルを訪ねたところ、静かにサマセット モームの小説<月と六ペンス>を読んでいたそうで、<らんちき騒ぎ>が好きな他のバイヤーたちとはだいぶ違っていた。 <月>という芸術に憧れ、<六ペンス>の俗世間を捨てたタヒチのゴーギャンが彼の理想だったのかも知れない。 ある日、かれが当社のすぐ近くの国際見本市ホテルに宿泊し、我々と来年物の手袋の商談を進めているいるとき、あの「ケネディ暗殺事件」がラジオで報じられた。 そのニュースを聞くや、突然、彼の顔面は蒼白になり、仕事は中断され、彼はホテルの部屋へ篭ったまま丸一日外へ出てこなかった。 余りの事に驚いて、訳を聞くと、ケネディと彼は、大学、海軍を通じての同期生であったため、ショックが大き過ぎて仕事を継続する気になれなかったそうである。 その彼も既に引退し、エリオットグローブ社も今は無い。

次のバイヤーは【ニューマン】こと、ニューヨーク マーチャンダイズ社のギンスバーグ氏であった。 ニューマンはマンハッタンの二十三丁目に大きな自社ビルを持つ繊維雑貨の輸入卸売商社で、たしかニューヨーク株式取引所の上場会社であった。 そこへも数十回売り込みの手紙と見本を送ったが、約一年間は完全に<なしのつぶて>で、もう諦めようかと思った矢先、担当バイヤーのギンスバーグ老人が<ひょっこり>現れ、「見れば青年であるおまえの稚拙な手紙を何回となく受け取り、その熱心さに感心した。 わが社は世界でも有名な大会社で、おまえのような小さな会社と、とても取引する相手ではない。 しかし格別の計らいでおまえの処から手袋を買ってやるから、今後はしっかり頑張って立派な貿易商社になりなさい」と言って、目の前で数千ダースの手袋の注文をくれた。 これは有難かった。 それ以後、他の新しいバイヤーが「おまえの会社は何処に手袋を納めているか」と聞いた場合、「ニューマン、それにエリオット」と胸を張って答えればよく、次から次へと新しいバイヤーが面白いくらい追加出来た。  先に私は、担当バイヤーは<ギンスバーグ老人>と言ったが、今から考えると、その時の彼は、今の私の年齢より若かったのではないかと思う。 ある日、業界の通例によって、来阪していた彼を夜の宴会に招待しようとした処、「あまり飯を食え食えと言うな、飯を食うくらいの金は私も持っている。それより、今日の試合で長島がホームランを打ったかどうか調べてきてくれ」と言った。 <たかり屋>が多かったバイヤーの中で、彼も数少ない清廉な人格者の一人であった。 それから十年ほど経って彼はニューマンを定年退職し、米国兼松の市場開拓顧問になったらしいが、その後、繊維貿易業界でも有名であったこの老人のことはついぞ聞かなくなってしまった。まだ存命であろうか。 米国の出版、学術、ジャーナリズム関係で、ギンスバーグという名前をちょいちょい見かけるところから察するに、ユダヤ系の間でこの名前は、そう多くはないが比較的ポピュラーな、例えば日本における海部とか中曽根とかいう程度に分布している姓ではなかろうか。  何れにしろ、鶴のように痩せ、瓢々としたこの長身の爺さんは、私を一人前の手袋やにしてくれた最も感謝すべきバイヤーの一人であった。

このニューマン社に就いてはもう一つ鮮明な記憶がある。 ずっと後々のこと、私がマンハッタン百四丁目のマスターアパートに長期滞在していたときのことである。 そのとき初めてニューマンの本社を訪問した。 ギンスバーグ氏は既に定年退社していた。 一見、安物百貨店の雑貨売り場のような構えになっている一階の大広間の商品見本台の片隅に十年前に私どもが出荷した安物ビニール手袋の残品見本が塵を被ったまま乱雑に積み上げてあった。 見るも哀れな時代遅れのデッドストック見本である。 いくら一山幾らの叩き売り商品見本とはいえこれでは余りにも無残過ぎる。 係の人に苦情を言いたかったが、誰に言っていいか判らない。 だが間違いなくわが社が積んだ品であるから、とにかく塵をはらいきれいに整頓し直そうと思った。 表へ出て二、三分歩いたところにウールワースの雑貨小売店があったので、バケツと雑巾と、それに小さな箒を買い、またニューマンの本社ビルへ引き返し、くだんの手袋見本の塵を払い、商品見本台を掃き清め、汚れの酷い手袋は雑巾で水拭きをした。 そして、改めて全手袋見本を番台の上に並べ直しているところへ、たまたま副社長のポスナー氏が通りかかった。 けげんそうに私の顔を眺め、「おまえはいったい誰で、何をしているのか」と聞く。 「私は大阪のレオ貿易の社長の中村というものだが、この手袋は私どもから一〇年前に出荷したものである。 余りにも汚いので奇麗に掃除している処だが、前もって御社の了解を得なかったのは相済まぬ」と返事した。  すると彼は「おまえが中村か、名前はギンスバーグ氏から聞いている。 掃除してくれて有難う」と言い、近所にいる売り場社員たちを集めて「おまえたちが義務を怠って商品台の掃除もせず、汚いままにしているから、デッドストックがいつまで経っても捌けないのだ、日本からきたこの中村さんを少しは見習って掃除をせよ」と大目玉を与えた。 ポスナー副社長は文句だけ言い終わると、すぐエレベーターで階上へ上がってしまった。 その後、売り場の連中が私に向かって「おまえが要らぬことをするから我々が迷惑した」と、逆恨みして文句を言う。 どこの国でも大会社の末端というのは似たような<ぐーたら>社員が多い。 それにしても、マンハッタンにある得意先の商品見本台を、わざわざバケツまで買ってきて自発的に掃除した出荷元の社長というのは、世界広しといえども私以外にそう多くは無いと思う。

レオ貿易の手袋のごく初期にもう一社、【ノーラングローブ】という子供用手袋専門のバイヤーがいた。 どういう<いきさつ>で知合いになったのか忘れてしまったが、そしてついぞお目に掛かったこともない相手であったが、初期のある年、約二万ダース近い子供用ビニール手袋を買ってくれた。子供用というのは少年用、少女用、それに幼児用の小さな寸法のものばかりで、サイズは小さいが、その割に値は安くない。 最初、ノーラン社は「少年用は黒、ブラウン、グレイの三色、少女用は黒、赤、紺、ベージュの四色が欲しい」と言ってきた。 そこで問題になったのはブラウンとベイジュである。 ブラウンというのは茶色だから、茶色のビニールの色見本を送った処、「本当のブラウン色(TRUE BROWN) が欲しい」と言ってきた。 ところがこちらでは、<本当の>ブラウンというのがどのような色か判らない。 偽のブラウンと本当のブラウンがあるわけでも無いだろうに、<本当のブラウン>と言われて、二、三回、少しずつ異なった茶色の見本を送ったが総て駄目で、ただ<本当のブラウン>とのみ強硬に要求してくる。 ついに、その<本当のブラウン>という色見本をこちらへ送ってもらった処、それは日本でいう<焦げ茶色>であった。 我々は子供の頃、学校の英語の時間に「ブラウンは茶色」と、単純に教えられてい、日本でいう茶色とは、<番茶を煎じたような、そう濃くない茶色>であるとの先入観を持っていたが、案に相違してアメリカ人のいうブラウンとは、黒に近い<焦げ茶色>、または<濃い茶褐色>だったのである。  最近は日本もだいぶ西欧化して来、こうした焦げ茶色の家具や衣料や建築物も多くなったが、昭和三十年代にはこの種の色は非常に少なく、茶系統の色は、殆どが明るい、いわば<だいだい色>か<錆色>に近い色ばかりだった。 それをバイヤーの要求に従い、染工場やビニールレザーメカーに濃い<焦げ茶色>を作らせると、大抵の場合<チョコレートブラウン>という、少々紫がかった茶色に仕上がってしまう。 この傾向は、現在でも続いていて、欧米のバイヤーたちは「東洋には TRUE BROWN (本当のブラウン)が無い」という。確かに、日本のみならず、台湾・韓国・香港にも TRUE BROWN の色感が希薄なようだ。 それに比べるとヨーロッパ諸国に於けるファッションの基調色はブラウン、つまり<焦げ茶色>で、そうした濃褐色の衣料や、それと同じような色彩の建物が多い。 

ある秋のひと日、アムステルダムの繁華街に立ち止まって、道行く人々の着ているものを眺めたことがある。 驚くなかれ、男も女も、七〇%以上の人々の着ている衣料は<焦げ茶色>ないしは<らくだ色>系統であった。  これは、マンハッタンの五番街でも同様であった。 秋冬に限らず、春でも夏でも彼ら白人たちは不思議なくらい、<焦げ茶色>から<らくだ色>に至る<本当のブラウン>系統に属する衣料を愛用する。  その点、晩秋の地下鉄の中でも、日本ではブラウン系の衣料を着ている人を見かけることは不思議なくらい少ない。  では、日本人は何色が好きか。 私見では、男の衣料は紺か<どぶ鼠>、女性の衣料は紫、白、赤、それに紺だろう。 車は殆どが白、そして建築物も白もしくはグレイが圧倒的に多い。 西欧諸国では晩秋のセピヤ トーンの風景をこよなく愛するが、わが国では<青々とした木々の緑>や<常緑樹>の景色に、信仰に近いまでの思い入れがある。  私はこれを<日本人の緑信仰>と名づけている。 それに対して、西欧、特に北ヨーロッパやアメリカのニューイングランドでは<ブラウン信仰>が根強い。  <緑信仰>は青年の感覚であり、<ブラウン信仰>は《成熟した(matured)大人》の感性であろう。  念のために言えば、日本人の<茶色>、つまり番茶やウーロン茶の色はブラウンではなく、タン(TAN)である。タン色の<タン>の語源は、柿渋のタンニンの<タン>である。 語源の通り渋茶や柿の種の色は、英語で言えばタンである。 ブラウンはもっと濃い、暗い室内などでは黒に見えるくらいの濃い<焦げ茶色>であって、東洋人には馴染みが少ない。 我々の周辺でブラウンに最も近いのは、古びた農家の藁屋根の色くらいなものであろう。  尤も、水谷ペイントの水谷京二氏に頂いた「色の手帳」という日本の色名帳に依れば、江戸時代には<四十八茶、百鼠>という言葉があったそうだから、必ずしもわが国に茶・ブラウン系統の色感覚が欠落していた訳でもなさそうだ。 思うに、現代の一般的日本人が<茶色>と思っている色は、江戸茶、団十郎茶、路考茶など、江戸時代に流行った歌舞伎役者の好んだ茶色をそのまま継承していると考えられるが、そうした<役者好みの茶色>は、色彩を文字で説明するのは難しいが、一口で言えば歌舞伎舞台の<引き幕>の、三筋格子柄の茶・緑・黒の中の<中茶色>であり、それは英語でいうタンまたはラストカラーであって、<本当のブラウン>から少し外れている。 

次にベイジュという色だが、これも最近はシックな女性のファッションカラーとして、日本でも相当普及してきた。 しかし昭和三十年代には、不思議なことにこの色も日本の市場に余り出ていず、私も知らなかった。  例えば、私どもが初期に使用したビニールレザーの色見本帳には、共和レザー・日本クロスの両社のものとも、ベイジュという色が入っていなかった。 今から考えると嘘のような話である。  その代わり、共和レザーの色見本には<濃い黄色>が入っていた。 ベイジュの代わりにこの黄色(YELLOW)でどうかと米国のノーラン社におそるおそる色見本を送ったところ、「これは黄色(YELLOW)ではなく、ゴールドだ。 WE LIKE THIS COLOR VERY MUCH.」と言ってきた。 後日知ったところでは、西洋でいうイェローは日本の黄色と少し違って、もう少し黒ずんだ、そして緑っぽい薄汚い黄色をいうらしい。 だから明るくて華やかな日本の黄色は、イエローでなくゴールドである。 ところが日本では、ゴールドとは<金色>で、それには金属光沢が不可欠であり、もし光っていなければ黄色と呼称する。 ことほど左様に、簡単なように見える色彩に就いても日本語と英語の使い分けは意外と難しい。  もう一つ例を挙げる。わが国には、顔が<土いろ>になる、という表現があるが、西洋の土いろは<テラ>で、煉瓦色のことである。 <テラ>という言葉は<テラス>のテラと同じで、地面とか土の意味である。 地球規模で見る限り、土の色は煉瓦色が多く、土が灰色なのは日本など火山灰質の土壌が多い小数派である。 だからこそわが国では、<土いろの顔>という形容詞が<顔面蒼白>と同義語になるのである。 用心しなくてはならない。

かっての日本浪漫派総帥、保田与重郎によれば<土地は文学者の思想の源泉>らしいが、色彩感覚もまた、各個人もしくは各国民の育った風土に大きく影響される。 大和生まれの保田与重郎は<朝日に匂う山桜>の色を愛したが、千里中央で高級呉服を商う友人西村是滋氏によれば、日本の着物の色彩もまた<朝日のもとで見る桜いろ>が基調だそうだ。 更にいえば、寺院の祭礼に立てられる<吹流し>の淡く鮮明な五色は、日本上代の代表的色彩であり、この色を見る度に私は<壬申の乱>の芝居と韓国のチマ・チョコリを想像する。 山桜の色から<吹流し>の五色までの色が、日本人の心の奥に潜む特殊な伝統感情の色であろう。そしてそれは、韓国人にも多分に共通している。  ついでに白色について言及すれば、かって大正白樺派の柳宗悦が<悲しみの白>とか<喜びの白>とか言った韓国人の<白>好きと、日本の乗用車が殆ど白色であるのとは、同根民族の故ではなかろうか。 そしてその白はどうやら、純白ではなくて、オフ ホワイトのようである。

それが外国へ行くとがらりと替わる。 その一例を挙げよう。 十数年前、初めてフィリピンのバターン輸出加工区へ行ったとき、訪れた工場数社の事務所の内部が例外なく総て<焦げ茶色>、つまり濃いブラウン色に塗ってあり、それは私にとって、強烈で、そして異様な色彩についての感銘を与えた。 スペイン三百年の伝統かとも思ったが、よく考えてみると、フィリピンの土質および風光がほぼ褐色であり、それに無理なくとけ込める色が<焦げ茶色>であると言うことの方が、より大きな原因ではないかと、のちのち思うようになった。 それかあらぬか、指図もしないのに私どものフィリピン工場の内部は、事務所も作業場もほぼ総て、<焦げ茶色>に塗られてい、それはそれで落ち着いた美しい色彩感覚を見せ、私に異国趣味を味わわせてくれている。

ところで<茶色>が何故茶色でないかというような紛らわしさの原因の一つに<茶>という物質の定義付けの紛らわしさがある。 単にお茶と言った場合、乾いた茶の葉のことか、それとも湯になったお茶のことか判らない。 茶の葉であればブラウン色に近いが、液体のお茶ともなるとグリーンから赤褐色まで色々ある。 だから<茶色>だけではどんな色か戸惑うのが当り前である。 こうした曖昧な色彩の名称は西洋にも多い。 例えば、ギリシャ神話の<やがて陽はぶどう酒色の海に沈んだ・・>というのは、果して赤ぶどう酒の色か白ぶどう酒の色か、エーゲ海を見たことのない私には判らない。 十五年ほど前、ヨーロッパからブランデー色とマテニー色の豚革の注文を受けたことがある。 送ってきた色見本は薄緑と薄茶であったが、どちらがどちらの色の見本か判らず、隣の国際ホテルのバーへ行って洋酒のブランデーとマテニーを見せて貰ったが、驚いたことにどちらにも薄緑と薄茶の二種類が存在していた。その時は、幸いなことに受注数量が二色とも同量だったので、どっちがブランデーで、どっちがマテニーか判らぬままに船積みを終え、それで問題も起こらなかった。 しかしそののち私は、実在する物質名を色彩名に転用することをなるべく避けるようになった。

繊維産業社会で近年急速にコンピューターによる彩色技術が普及し、現に私の周辺にもチェルベガウスター社というスイス系の色測機メーカーの社長をしている芝盛久氏や、東洋紡系のエックスコンというコンピューター染色のソフトウエア会社を経営している早原拓郎氏などがいるが、見る処、こうしたコンピューター彩色の技術は、提示された<もといろ>に対して、如何に忠実に同じ色を作り出すかという技術にのみ傾倒してい、消費者指向の新しい色彩研究については、まだ殆ど人間のセンチメントに頼っているようである。

私はどちらかといえば色彩に敏感な方であるが、そうした方向から日本語の色名や市中を彩る風景を見ると面白いことが多い。 そうした中で、いちばん興味があるのは青(あお)という色である。 昭和十年頃までに生まれた人は、青と言えばグリーンを思い浮かべるが、それ以後の人々にとっては、<青はブルー>らしい。 ところが、<青はブルー>と思い込んでいる若い人たちに交通信号の絵を描かせると、青信号を緑色に塗る。 だからと言って、誰も<緑信号>とは言わない。  車でドライブしているとき、私は交通標識の青信号の色を見るのが好きだ。 二、三年前までは、青信号の色は緑に近いものから藍に近いものまで種種雑多であった。 街なかの直線道路などで信号と信号の距離が短い所では、一度に四つか五つの青信号を見れる場所があり、その一つ一つの青色が異なっているのを運転席から見て楽しんだものであった。 それが近年、急速に青ランプの色彩統一が行われたらしく、最近では著しく緑に近い色や暗い藍色のランプはなくなってしまった。 私の楽しみが一つ減ってしまった。 まだ少し色の違う青ランプも残っているが、現行の殆どの青ランプは我々の言葉で言う<ピーコックグリーン>である。 ピーコックというのは孔雀のことであり、孔雀の尻尾のような<緑と藍の中間色>をピーコックグリーンといい、現在ではたいていの青ランプはこの色になっている。 これであれば<青>色の定義はグリーンでもブルーでもどちらでもいい。

<人間到る処に青山あり>という有名な言葉があるが、このときの青山はグリーンかブルーか、また青山学院の青山は、そして<青い麦>というときの<青>はどうなるのか。 軍歌<青よぐっすり眠れたか・・>の、<あお>は黒馬のことらしいが、<緑の黒髪あせぬ間に・・>の緑は黒色らしいし、日本語も随分とややこしい。 眺める山はブルーかグリーンかということになれば、遠くの山はブルーで、近くの山はグリーンであるにきまっているが、しからば何故遠くの山がブルーに見えるのかという疑問に対して、学者たちは、或る特殊な空気中のエーテルのためであると説明しているが、どうもまだもう一つはっきりしないらしい。

参考までに付け加えると、赤茶色の馬は鹿毛(かげ)、焦げ茶色の馬は栗毛、黒馬は(あお)、昭和天皇の愛馬<白雪>などは葦毛(あしげ)で、講談に出てくる<連銭葦毛>というのは白い毛に黒い斑点がある馬を言うのだそうである。 ある西洋人の言語学者が「驚くべきことに中世までの日本には、色は赤と青しか無かった」と言っているが、その分類方法でいけば、黒は青、白は赤だったらしい。 その証拠として、<夜が、しらじら(白々)とあけ(赤)るころ>というような慣用句を持ちだしている。  色とは面白いものである。

「ノーラングローブ」が要求してきた<本当のブラウン>や<ベイジュ>の色に始まって、我がレオ貿易の手袋と、そしてその後に続く皮革貿易の四〇年の歴史は、別の言い方をすれば、それは<色彩との戦い>でもあった。 四六時中、客とメーカーの間に挟まって色の問題でどれだけ苦労したことか、さらにどれだけ損失を出したことか。 そしてまた、どれだけ色彩で議論をしたことか、それは数限りがなかった。 

ノーランの次に現れた新しい大口の客は【マックス マイヤー】とアドーレンスだった。 既に五七八頁で触れた通り、両社は新しく商品化された女性用のビニール手袋を、まさに<気違いの如く>買いまくった。 乙波(オッファー)をすれば総て買ってきた。 肝心のビニールレザーの供給が足らぬので、こちらからの乙波数量は限定されていたが、とにかく作れば作るだけ買ってくれる。 まるで両社の買い競争である。 いったいニューヨークに何事が起こったのかと、我々はいぶかった。 縫目が伸び縮みする二重環縫いミシンが足らぬので、伸縮性のある女性用手袋を普通のミシンで縫った手袋メーカーも居たので、早速、品質クレームが発生した。 そうした不良手袋を大量に抱えた名古屋の旭一(きょくいち)は、マックス マイヤーに引き取って貰えず、商売仇のアドーレンスに持ち込んだ。 みすみす不良品と知りつつアドーレンスはそれを同値で大量に引き取った。 よほど欲しかったのだろう。 日本の輸出業者はマックス派とアドーレンス派に分かれて、お互いの客に売りまくった。 三井物産はマックス派、兼松はアドーレンス派、そしてレオ貿易と旭一は両派を兼ねていた。

前にも述べたごとくマックスマイヤーは数十万ダースにのぼる大量の欠陥手袋を抱え込み、日本の業者に品質の是正を強く求め、私を代理人に指定して四国の手袋業界と交渉せしめた。 そしてそれは一応の成功を見たが、私はマックスマイヤー社の人々とは通信に依るのみで直接会って話をしたことがなかった。 だから何故そのように沢山の手袋を買い付けるのか、またニューヨーク市場でこの種の手袋が今どのような状態にあるのかなどは、さっぱり判らなかった。 現在であればすぐニューヨークまで飛び、市場調査などすべき処であるが、当時は、そう簡単にアメリカ旅行などが出来る時代ではなかったのである。

それから十五年も経って、前にも言った私のマンハッタン百四丁目のマスターアパート滞在中に、ハドソン河を越えたニュージャージーのトトワという町に移転していたマックスマイヤー社を訪問したことがある。 そのとき、私を迎えた同社のハリントンとウィットの二人は、その昔、私と組んで婦人用ビニール手袋を大量に商売したことを楽しそうに述懐した。 彼らはその折、百万ダースを越す大量をわがレオ貿易のみならず全日本から買付けたそうで、ブームを全米に起こさせた張本人はセールスマネージャーのウィット氏で、彼は「私は新製品を全米にヒットさせるのが好きで、既成のマーケットのありふれた商品を扱うのは苦手だ」と言い、あの婦人用ビニール手袋のブームは、彼の成功した商売の一つであったと説明した。 アメリカというフロンティア ランドでは、新商品のブームを比較的簡単に起こし得る社会的風土があるそうで、彼はそうしたことの<火つけ役>を何時も指向したそうであった。 何しろ彼らが買った百万ダースの手袋は、デザインは簡単な二種類のみで、色こそ四色あったが、サイズに至っては一サイズだけだった。 新製品とは言うものの取り立てて斬新なデサインではない。 にもかかわらず、百万ダースというのは一千二百万人分の手袋だから、アメリカ人が物事に熱中した場合、如何に平衡感覚を欠いて熱をあげるか空恐ろしいくらいの実例である。

【アドーレンス】というバイヤーは、私は詳しくは知らなかったが、たしかその数年前にニューヨーク兼松と提携して日本から高価な革手袋を一〇万ダースも買付け、引き取り資金がなくて困っているとの噂であったが、ビニール手袋に就いてはこちらから乙波さえすればすべて注文して来、信用状も遅滞なく開設してきた。  繊維輸出業界の噂によれば、戦後の対米繊維製品輸出ブームの先駆けとなった一ドル ブラウスの仕掛人はこの会社だそうで、たぶんに<ばくち打ち>的要素の多いバイヤーで、ひとたびアドーレンスが買い始めると、その商品は日本の輸出市場で白熱したブームを呼ぶとのこと。 事実、マックスマイヤー社だけが買付けている間は<これは有望な新商品だ>くらいにしか思っていなかった手袋が、そこへアドーレンスが参加してからというものは、一挙に気違いじみたブーム商品に成り上がった。 とにかくこの会社の買付け態度というのは、みすみす欠陥商品としてマックスマイヤーが引き取り拒否した旭一の手袋を全て買い取るという強引さで、我々を驚嘆させた。

アドーレンスのセガマンという副社長は相撲取りにも劣らぬ大男で、伝え聞く処では、ハーバードを出て駐日大使を夢み、ロングアイランド出身のスチーブンソンを担いで大統領たらしめんと志したが、いっぱい地にまみれて転身し繊維輸入商になったとかで、一ドル ブラウスの次に日本製アクリル セーターのブームも起こし、余勢を駆って日本製革手袋からビニール手袋まで手を広げ、輸入業界でニューヨーク随一のギャンブラーという悪名を馳せた。 ある年の五月、私と四国へ同道し、前に述べたことのある近藤手袋の事務所を借りてまる二日間受注作業を繰り返し、最終的に私どもへの発注四万八千ダースを確認したとき、署名しながら私に向かって「ミスター中村、念のために言って置くがこの注文書は、もし商品の販売が思わしくなければ何時でもキャンセルするから」と言った。 「そんな無茶なことを言っては困る、契約は履行してもらわねば・・」と言う私に、「よく憶えて置きなさい、約束というのはそれを履行する方が有利なときのみ履行するのであって、損なときは履行しないものである。 おまえの主取引先であるエリオットもニューマンも、そのことについては同じだ。 ただ私は正直だから率直に言っているだけだ」と、彼は平然として答えた。 今の私の年齢になってみれば、そのくらいなことは言われずとも解っているが、その頃の私は、彼の言葉に衝撃を覚えた。 第二次大戦でソ連が日ソ不可侵条約を破り、自民党政府が公約に反して消費税を導入したりしたのと同じ理屈である。 結局のところ、セガマン氏は約束を破らず、四万八千ダース全量引き取ってくれたが、信用状が到着するまで、いや信用状が到着してからも、全量船積するまで心配のし通しだった。 手袋輸出のブームが去る前に、既にアドーレンス社は手袋から手を引き、わが社と関係がなくなっていた。 それから十五年以上も経って、ある日、台北の私どもの子会社のあるビルのトイレの前で象のような巨人に会った。 小錦や朝汐より大きく、くびれた頚の部分がなく、頭の先から足の膝に至るまでがほぼ正三角形のシェイプになった巨人が、年老いた巨象の歩む如く<のたりのたり>とトイレから出てきたのである。 私は驚いて一瞬立ちすくんだ。 まさにそれは人間でなく老いた巨象であった。 まじまじとその顔を眺めて二度びっくりした。 なんとその顔は紛れもなく、かってのセガマン氏であった。 「ハロー ミスター セガマン、ノー スイー ユー ロングタイム・・ これは珍しい、どうしていらしゃいますか・・」と声を掛けたが、彼は虚ろな目で私をけげんそうに眺めるだけであった。 ようやく私が中村であることに気づいた彼は一瞬軽く微笑み、「Yes, no see you long time..これはまた久しぶり・・」と言ったが、すぐまた、天命を終えそうな巨象の最後の風体に戻り、ビルの廊下を反対側の方向に向かって<のろのろ>と歩いていった。 彼の後ろ姿には、往年、業界をリードした国際ギャンブラーとしての面影の片鱗すら見当たらなかった。  後で私どもの台湾法人の社長、林家貞君から聞いたところでは、セガマン氏のアドーレンス社は、それでもその当時の台湾からのアクリルセーターの米国に於ける最大のバイヤーであり、私どもの公司と同じ階に買付事務所を構えてい、だから私とトイレでぱったり会ったという次第らしかった。 それにしても白人というのは何故あのように、象の如く異常なまでに太った人がいるのであろうか。 ああした異常な太り方は日本人には見られぬから、たぶん先天的な遺伝体質によるのだろう。 その後、セガマン氏とは会う機会もない。 まだ存命であろうか。

エリオット、ニューマン、アドーレンスというバイヤーたちは、いわば手袋専門の輸入卸売業者で、彼らがどのような販売方法で全米に卸売していたか知らなかったが、昭和四十年代の中ごろから今で言う大型量販店の時代に替わり、私どもの客筋もKマートやモントゴメリーが主力を占めるようになった。 特に【Kマート】は、もともとウールワースと並んで安物雑貨の量販チェン店であったクレスゲ社のディスカウント チエーン部門として出現し、発足当初からわが社のレギュラー顧客として毎シーズン毎に驚くほど大量の手袋を買ってくれた。 そして、レオ貿易とKマートの関係は切っても切れぬ間柄となり、その後三十年近く非常に親しく取引を継続した。 その間には、プラザホテルに於けるパーティで、給仕から出世したという有名な社長ウオドロー氏と話をする機会を得、また、もともとのオーナーであるクレスゲ氏がわざわざ当社へ来社されたこともあり、この世界一巨大なディスカウント ストアとは長期間に亙り本当によい取引関係を維持することが出来たのは幸せであった。

 
Ken and Ervin Wardlow (president of Kmart) on right.

そうそう、この辺りで加筆しておかねばならぬことが一つある。 他人にとってはともかく、私にとって大事なことだ。 この自伝の最初の頃、つまり私が田舎から<柳こうり>を提げて大阪へでるときのことである。気の強い母が「誰のお世話にもなってくれるな」と言ったので、「よしそれなら、タンポポの胞子があてもなく飛んで、知らぬ土地で自力で花を咲かせるように、俺も今までの親類、縁者、友人との付き合いを絶ち、自分だけの力で新しい世間を開いてみよう」と決心したのは既に述べた通りである。 それは、かたくななまでに実行し、それ以後、殆どの友人および全ての親戚との付き合いを絶ってきた。 しかしここに到って、手袋のお蔭か、<かねてつ>を始めとする友人諸氏の協力に依るものか、はたまた神の加護か、もう他人さまに大きく迷惑を掛けることも無くなり、どちらかと言えば周辺の人たちをお世話する立場になった。 あちこち、かっての旧友や親戚縁者に連絡し、付き合いを再開してもいい頃と判断した。 そしてそれを実行に移した。

先ず手始めに田舎から母を招き、京都見物に連れていった。 そのすぐ後、家内は母と子供を連れて一週間の東京見物に行った。 田舎から、他の親類縁者も訪ねてきた。 従弟福永常伸(秀正)も、高校を卒業したらどうしょうかと、進路の相談にきた。 そのような次第だから、殆どの旧友、それに郷党姻戚などは、私が、大阪に於ける最初の十年間いったい何をしていたか、そしてどのようにして今日の商売の道に入ったかなどは、いっさいご存じない筈である。  早い話が、いちばん身近な田舎の兄でさえ、この自伝でも読まぬ限り何も知らない。 たまに田舎へ帰ったときなど、<どうしているか>と聞かれても、「少なくとも、手が後ろへ回るようなことだけはしていません」と答えることにしてきたからである。 また大阪へ出た後、私が目的意識を持って新しく作った友人や取引先の方々は、最初の頃は私の出自・身元などをいっさいご存じなかった筈である。 言い替えれば、大阪に於ける私は、いわば一人の<ストレンジャー>であった。 そして<ストレンジャー>がはっきりと身元を公開したのは、たぶん田舎の母の葬式のときであろう。葬式には大阪や四国から私どもの社員のみならず取引先の方々が参会してくれた。 そしてその人たちは、<ああ、中村という男はここで生まれたのか>と認識してくれた筈である。 何でも無いことのようだが、私の人生にとってこれは特筆すべき大事なことである。 <風で飛んだタンポポの胞子>が、異境でささやかながら花を咲かせたのであったから。

マックスマイヤーとアドーレンスの両社が気違いのように手袋を買付けたとき、連日の出荷遅延で困り抜き、手袋の下請け工場を探しに初めて香港へ旅行することとなった。 と言っても香港にどのような手袋メーカーが存在するのか、かいもく見当がつかなかったので、<えぃままよ、行けば何とかなる>と思い、とにかく出発した。 九龍ネイサン通りのインペリアルホテルに宿泊し、電話番号簿で調べて香港手套廠という大きな手袋メーカーを知り、最初せいぜい三日程と思っていた滞在が三週間になってしまった。 毎日、香港手套廠に詰めかけ、私の指図で見本作りに熱中した。 同社はその頃既に第一、第二、第三 の三工場を持ち、それぞれに数百人ずつの工員を抱え、手袋メーカーとしては日本と比較にならぬくらい大きな規模であった。 社長以下、彼らは私を歓待し、大いに協力しようと言い、香港政庁の副署までとった包括下請け契約書まで作ったが、最後に下請け工賃が折れ合わず、結局のところ不発に終わったのは残念であった。

宿泊していたインペリアルホテルは、そのころインド人の大金持ちハリレラが新築した立派な二十八階建てで、私の分に過ぎた。  ホテルのメイン食堂へ夕食に行くと軽く二十ドルは取られ、これはたまらぬと外食に出たが、汚くて非衛生な安食堂ばかりで、これまた食べる気にならない。 ふとみるとホテルの廊下の隅でボーイたちが何か買ってきて夕食をしている。 これこれと思い、ボーイに頼んで外からパンとソーセージを買ってきて貰い、ホテルの自室で水を飲みながら一人<ちまちま>と何回か食事をした。 前のアメリカのときは大半が中流階級の社会だったから、どこのレストランでもわりあい安くて清潔で平均的な食事ができた。 だから私は、香港でもそうだろうと考えていたのが案に相違して、香港では高級レストランか、さもなければ底辺の安食堂か、二者択一であるのをそのとき初めて知った。 しかしインペリアルホテルにはそう裕福でもなさそうな白人の宿泊客も居る。 一週間ほど経ったある日、そうした白人の一人が昼飯時に外へ出かけていった。 そっと後ろをつけていくとホテルの横丁を曲がったところに、今まで気が付かなかったがちょっと小ましな西洋食堂がある。「雪園餐庁」と看板が出てい、中の客は似たような白人ばかりである。 私も入って食べてみると、値段も、衛生状態も、それに味もすべて中級であった。 これは有難いと、それから後は夕食はそこで済ませることにした。 昼はあまりそこへ行く必要がなかった。なぜなら香港手套廠の従業員食堂で頂くからであった。

ある土曜日の夕方、香港手套廠の役員たちに連れられミラマーホテルのダンスホール食堂へ招待された。  主賓はスエーデンから来たピゲール夫妻であった。 北欧で著名な手袋輸入商ピゲール夫人は外科医の紳士と再婚し、新婚旅行を兼ねて香港を訪問中であった。香港手套廠の社長は「夕食には相方(あいかた)が居なければ様(さま)にならぬから」と言って、私のためにミラマーボールルーム(香港ではダンスホールといわずボールルームといった)のダンサーで英語のできる親切な美人を私のパートナーとして連れてきてくれた。  <様(さま)にならぬ>とはどういうことか最初は理解出来なかったが、一緒に食事をしている間におぼろげながらその意味が解ってきた。 もともと日本人社会では、会席というのは美味しい料理を頂くのが殆どの目的で、黙って食事をするのがより良いエチケットである。 しかし西洋式では、食事の美味しさを味わうことよりもその間の会話やムードを楽しむのが主目的であり、それには気のきいた相づちを打ってくれる異性パートナーの存在価値が大きい。 ミス チャンという教養ある美しいパートナーは、機転の利いた会話で私たちの食事を引き立たせてくれた。 このときの経験で私は、<今に日本もこうした男女ペアシステムの社交の時代が必ずくるぞ>と思っていたが、三〇年後の今日に至るまでまだその気配が無い。 だからわが国では、<場持ち>のためにいま尚、ホステス、コンパニヨンなどが洋式の宴会に必要である。

翌、日曜日はピゲール夫妻、私たち(ということは例の美人ダンサーが朝から参加してくれた)、それに数人の香港手套廠の役員たち共々、郊外をドライブし、大きな寺院の祭礼を見たりリゾートホテルで食事をしたりした。 まだ五月の半ばで少々寒かったが、ピゲール夫人はそのホテルの海岸で水泳をしたいと言い出した。 スエーデン女性とはいうものの彼女は既に四十八才、スタイルは好いが猿に似た顔で、義理にも美人とは言い難かった。 しかし立派な外科医の旦那が嬉しそうな顔をして二人でずっと<いちゃいちゃ>していて、そばに居る我々の方が恥ずかしかった。 裸になって泳ぐというので、その頃流行っているビキニの水着姿を見ようと待ちかまえていた処、香港手套の王専務が「婆さんの水着姿を見てもしようがないから、先にいって寺院の縁日で待っていよう」と言う。 ピゲール夫人はよほど自信があったのか、「私の水着姿を見てゆけ」と勧めてくれたが、とうとう見る機会を逸してしまった。  後年、ピゲール夫人とレオ貿易も取引を始め、私もストックホルムにある彼女の家を何回か訪ねることになった。 美人ではなかったがなかなかのやり手で、女王さまとも友人であるらしく、優雅な、そして広壮な庭付きの三階建ての家に住んでいた。 スエーデンでは医療は総て国営で、ご主人は国家公務員であるとのことであった。 毎年春が来ると手袋の客筋を招待し、庭で園遊会を開き、そこで注文をとるのが商売の戦術らしかった。 ピゲール夫人は年に一回必ず香港・台湾に来ていたが、どういう訳か日本へはあまり来なかった。彼女と頻繁に取引があった私どもの台湾の店、台美公司の担当者の話では、夫人が極東へ来るのは貯っている内緒口銭を受け取り、それを節税のためスイスの銀行に秘密送金するのが目的であるとのことであった。 我々は、スエーデン人というのは納税意欲が強く、脱税などないと思い込んでいたが、どうやらそうでもないようであった。

初めての香港旅行で、詰まらぬことながら今でも鮮明に記憶していることが一つある。 ある日曜日、美人ダンサーのミス チャンが香港の名所を案内しようと言ってくれ、その頃はやりの八ミリ ムービーカメラを繁華街で買い求め、ビクトリアピークを登り、胡文虎のタイガーバームを見物し、八ミリ フィルムを二本も撮った。 二本目を撮り終わる頃には日もようやく陰り始めていた。 ふと気付くと、カメラのレンズにカバーを掛けたままである。 途中でカバーを掛けた記憶もないし、どうやらカメラを買った時から掛けっぱなしだったらしい。 しまったと思ったが<後の祭り>であった。 念のために現像してみたが全部真っ黒。 悔しかったが致し方なかった。 もう一つ記憶している。それはミス チャンの自宅の電話番号である。 五〇〇三五で、広東語でウンレンレンサンウと発音する。 口調が面白いので、口癖に言っている間にとうとう記憶してしまっって三十年になる。 つい三年程前、香港へ行ったついでにこの番号をダイヤルしてみたが、<話し中>の信号音だけだった。 無理もない、年を経て既に三十年、しかも香港の電話番号は今や総て七桁に変わってしまっている。 詰まらぬ番号を記憶していて恥ずかしい。

いろいろ問題はあったものの手袋の輸出商売は順調に拡大基調を辿り、会社の基盤も安定してきたのでほっと一息ついた頃、自宅を何とかしなければいけない立場になってきた。

尼崎センタープール前の市営住宅の四階は、二DKの狭い住居ながら、それはそれで安定してい、取り合えず住むには支障がなかった。 問題は子供である。 あっという間に大きくなり、来年は小学校ということになった。 将来のことを考えると、進学に都合のよい立派な小学校に入れたかった。 その頃、尼崎市が初めて一戸建て住宅を建設し、抽選で分譲することになった。僅か六戸だけであったが百坪の土地付きである。 何の気なしに申し込んだところ抽選に当たった。 武庫川小学校のすぐそばの公団アパート群に隣接していた。 現場を見に行ったが、家はまだ建っておらず、セメントの基礎工事中であった。まん中に大きな穴が掘ってありそれはトイレになるらしかった。 子供が「あの穴は何か」と聞くので、「トイレの穴らしい」と答えた。 すると途端に子供が「水洗トイレでないと嫌だ」と、だだをこね始めた。 無理もない、生まれたときから水洗便所の市営アパートで暮らしてきたので、くみ取り式に拒否反応を示したのだ。 これは困ったと思った。

そこへもってきて子供の学校のことも勘案しなければならない。 家内の妹の亭主が近所の高校の先生をしてい、なかなかの教育理論家であった。彼の話では、公立学校の内容の善し悪しを見るには運動場や校舎の整備状況をみればよいと言う。 もし整備がよくできていれば、校長に手腕があり授業の内容もしっかりしている。 反対の場合は、授業のレベルも低いに違いないと言う。見に行った分譲住宅の隣の小学校の校庭は<でこぼこ>して水溜りが多く、校舎の窓ガラスも大半が壊れたままだった。 これでは武庫川小学校の授業内容も良くないと判定せざるを得なかった。 そうした二つの悪条件が重なったので、折角当選した分譲住宅も見送らざるを得なかった。 市の住宅課の係員が数回訪ねて来、「将来、必ず値上がりするから買って置きなさい」と勧めてくれたが、「投資のために家を買うのではなく、来年からの子供の学校のために家を替わりたいのです」と言って、無理に断ってしまった。 惜しかったが、やむを得なかった。 そして移ったのが現在の箕面の家である。 この家を躊躇せず買ったいきさつは、既に百二十七ページで述べた通りである。 明治不動産というそのころ有名であった不動産屋のセールスマンが探してきてくれたとき、「阪急桜井駅から歩いて一〇分ほどで、探せば駅までもっと近い道もある筈です」といったのを真に受け、歩いて見もしなかったが、実際は十五分かかる。 最初見たときは白い金網のフェンス越しに緑の芝生と赤い蔓薔薇が咲いていたが、引っ越したときは、秋風に芝生も黄ばみ、薔薇はもとの持ち主が根こそぎ持って行って無くなってしまっていた。 売買契約を済ませ、無人になった家の中の模様替えや、水洗トイレ工事を頼んでいる途中で大阪ガスから連絡があり、「付近一帯のガス工事を開始したので、お宅も市ガスを引きませんか」と言ってきた。 あれっと思った。 都市ガスは、当然前から附いているものと<早とちり>していたのである。 うかつな話だが、私にはこうした<早とちり>や不注意がいま以って多い。

   一三) 蜜柑のなる丘 桜が丘

箕面市桜が丘という地名に惚れて、詳しく調べずに買ってしまった今の家だが、買ったこと自体は良い選択だった。 駅には少々遠いというものの、閑静な第一種住宅専用地域だし、近所にはまだ牧場や蜜柑畑もあり、地名の通り春には桜が満開になり、それでいて秋ともなれば紅葉が美しい高台の住宅地であった。 最近では蜜柑畑も無くなったが、その代わり地価が坪二百万円以上するという。 まあ、いい所だろう。 移転すると早速、居候(いそうろう)が狭い家に押し掛けてきた。 先ず来たのは従弟の福永常伸だった。 彼はここから関大の夜間部に通った。 次に転がり込んだのは家内の従弟築谷康柾君であった。 近くにある阪大大学院へ通い、卒業して藤沢薬品へ就職し、学位を得て現在は学術部次長という地位にある。 次に来た従妹渡辺(福永)祥子は、これまた近所にある大阪教育大学へ通い、いまは姫路で養護教員兼主婦業をしている。 関学へ通う兄の娘も居たことがある。 台湾から来た何樹木氏の娘月雲も居た。 その他、まだ数人居た。 いちばん沢山いた日の、居候合計は確か七人だった。賑やかなことであった。  彼ら、彼女らの親たちが私に感謝してくれる、「さぞ大変だったでしょう」と。ところがそうでもない。 彼らは子供用二階ベッドに寝るか、さもなければその辺りでごろ寝していただけで、家内はともかく、私は何の痛痒も感じなかった。 しかし、成人した彼らは未だに感謝してくれる。 その彼らに対して、私はただ偉そうに言っておればよい。 まるで彼らの父親の如くに。 この辺で、知らぬ人のためにわが箕面を少し説明しておこう。 簡単にいえば大阪府の北の端の、山麓に広がる住宅都市だ。中国自動車道であれば池田ランプで降りて数分、阪急電車では箕面線の桜井、牧落、箕面の三駅がある。 大阪市の中心部からは御堂筋・新御堂筋を突っ走れば、否応なく箕面に突き当たる。 人口十二万、名所は勝尾寺と友人石川氏が経営するスパーガーデンだけである。

全六巻の箕面市史によれば、この町には織豊時代以来の歴史資料がほぼ完全に整ってい、余すところがない。地籍類も勝尾寺・滝安寺文書や、旧中井家・稲治家資料等に至る膨大な資料によりほぼ完璧に近い。 それに依れば、幕末までは勝尾寺領、摂津麻田藩保科領、旗本諸領、一橋家天領などが箕面に交錯していた。 例えば、忠臣蔵ゆかりの史跡萱野三平邸付近は旗本大島家の所領で、大島出羽守が親友浅野内匠頭に、自分の家臣の次男、萱野三平の就職を斡旋したらしい。 また、私が住む桜ケ丘四丁目付近は戦後第一回の大阪府分譲住宅地で、それまで藷畑を耕していた箕面新稲(にいな)の農民たちは坪一八〇〇円で畑地を大阪府に売り渡し、府はそれを整地して坪二八〇〇円で抽選分譲し、それをまた十五年後に私が坪三万五千円で買い取った訳だが、その地は幕末迄は三卿(さんきょう)の一つ、一橋家の所領であった。 八代将軍吉宗が徳川家千年の安泰のために冊封した清水、田安、一橋の三卿は、無所領ながら一〇万石の大名挌であると聞いていたが、実際には準天領としての摂州新稲村のような知行所を持っていたらしい。

言い忘れたが、自宅を箕面へ移す数年前、レオ貿易もまたその事務所を堺筋北浜から北区梅が枝町の小さなビルの二階へ移していた。  最初入居するときビルの持ち主は、「夏が来るまでには冷房装置も入れるから」と言っていたが、夏が来ても入らない。 苦情を言うと、「実は金がないので設備が出来ぬ、少し資金を立て替えて欲しい」とのこと。 背に腹は代えられず少々融通し冷房はどうにか入ったが、今度はその金が返ってこない。 「代わり代金として、経営中の喫茶店を受け取って欲しい」と頼み込まれ、引き取った喫茶店が守口の国道二号線に面した「オリンピア」であった。 国道に面したとは言うものの、三方を田圃に囲まれた木造アパートの一角で、不釣合に大きくて派手なネオンサインの看板がアパートの屋根よりも高くそびえていた。 梅ちゃんと千代ちゃんという不器量なウエイトレス二人も居抜きのままで、客席テーブルが一〇個ほど、それに椅子とカウンターという程度で、壁の飾り額も鉢植えも、そしてアイスクリームのストッカーも総てリースの借り物であった。最初の触れ込みでは、月三十万円の売上があれば一〇万円は材料費、一〇万円は給料諸経費、残りの一〇万円が利益という話だったが、実際に経営してみるとそうは旨くいかない。 コーヒー一杯が七〇円の頃のことである。 先ず、一日一万円の売上をあげようとすれば昼だけでは無理なので、夜間延長してビールも売らねばならぬ。 朝も早くからモーニングサービスといってトースト付きコーヒを安くサービスする。 だから、朝七時頃に開店して夜は九時頃までの長時間営業である。 二人のウエイトレスでは荷重労働になるのが目に見えている。そして文句が出る。それを宥めるためには昇給させねばならぬからコスト高になる。 が、まあそれはいいとしょう。 もっと他に困ることが続出してきた。 ある日、守口警察署から私に出頭せよと言ってくる。 昨夜、ビールを飲んだ若い客が暴力を振るい、表のガラスの一枚扉を割ってしまった。その参考人として出頭せよと言うのである。 貧乏な青年工員に弁償せよと言っても無理だから、無償示談にして一〇万円のガラス扉を取り替えたが、警察とガラス屋の交渉でたっぷり一日費してまった。時間のロスである。

またある日、監督に行くとライスカレーのルーの中に牛肉が入ってない。 調べてみると、ウエイトレスの梅ちゃんがボーイフレンドの昼ご飯にカレーの肉を食べさせてしまっていたのである。だから客から「カレーに肉が入ってない」と苦情を言われたのだ。 別のある日、物置を見ると<さくらんぼ>の缶詰が数年分も買ってある。 材料屋のセールスマンに言いくるめられて大量に買いすぎていたのである。 返品で材料屋とだいぶ揉めた。 冬は暖房用のガス代がかさみ、夏は冷房の電気代が予定の倍以上も要り、採算ベースの予定がまる嘘であったことが判明した。 そばの紙箱に入れてある筈の赤電話料金が、開けてみると一〇円銅貨が数枚だけなのに、電話料の請求は数千円も来ている。誰が無料電話を掛けたのか判らない。 リースで借りているアイスクリームのストッカーが故障し、中のアイスクリームがすべて水になってしまったとかいうような程度の小さなトラブルは連日のごとく起こった。 もちろん大きなトラブルもある。 明日は台風という日に出かけていって、表につっ立っているラスベガスのカジノの看板のような巨大なネオン看板を事前に補強して置いたにも拘らず、風速三十五メートルに押し倒されて横転し、修理費に数十万円取られたのは<泣き面に蜂>であった。 まさに<踏んだり蹴ったり>の矢先にウエイトレスが二人とも辞めると言う。 「まあそう言わずに」と宥めすかし、ようやく一人は思い留まってくれたものの、一人は居なくなってしまった。 そして三日も経たぬのに、辞めたウエイトレスが泣いて電話をしてきた「同居中のボーイフレンドが沼津の国道で交通事故を起こし、大怪我をしたので助けて欲しい」。 いやもうそれやこれやで持ちきれなくなった頃、元の持ち主が買い戻しに来た。 渡りに舟で売り戻したが、その値段は買った値の半額、おまけに長い期日の手形で、それがまた期日に落ちてこず苦労さされた。  喫茶店というのは一見体裁がいい商売だが、やって見るとすごく難しい。 元の持ち主に譲り渡してほっとした。 もう二度とやりたくない仕事だった。

それにもっと本当のことを言うと、譲り渡す少し前に少々ショッキングなことがあり、こうした<水商売>そのものがすごくいやになっていたのである。 それは次のようなことだ。 ある日、喫茶店の従業員三名がレオ貿易の事務所へやってき、社会保険や健康保険に加入させて欲しいと言う。 うかつなことに、私はそれまで彼女たちが保険に入ってないのを知らなかったのである。 <自分の子供たちのような者だから何事であれ彼女たちのことについてはその都度相談を掛けてくれ>と言われていたので、前の持ち主に彼女たちの希望について相談したところ、「その件については、私が彼女たちに話をします」という。 マスター(彼女たちは前の持ち主のことをそう呼んでいた)は、彼女たちを前にして開口一番こう言った、「ばかやろう、お前たちはいったい自分を何さまだと思っているのだ、こうした水商売の女というのは世間一般の人さまと違って世の中の裏街道に細々生きる半端者だ。 早く言えばすねに傷を持ち表へ出られぬ連中だ。 だからこそお前たちを雇う時に戸籍抄本や履歴書一枚受け取っておらぬ。 それをずうずうしくも保険に入れてくれとは何事だ、身分を弁えろ、この馬鹿者めが・・」。 叱られた彼女たちはたちまちシュンとなり、「済みません・・」と言って引き上げていった。 私は唖然となるやら空恐ろしくなるやらで、「これはえらい業界へ足を踏み込んでしまったものだ、なるべく早くこの商売をやめなければ」と思った。 昨日までは「彼女たちは私の子供のような者ですから・・」と言っていたマスターが、突如として態度を変えて相手を<虫けら>のようにあしらい、「保険など入っていたのではこの商売は儲けになりません」と言うのだから、もう恐ろしくなってしまった。 結局、マスターには内緒で健康保険だけは加入してやったが、非情な<水商売>の裏側を垣間見てしまったため、「なるべく早い機会にこの店を転売しよう」と心に決めていた訳である。  こうしたあこぎな従業員待遇などは、いま時いくら<水商売>社会でも無くなったと思うが、昭和三〇年代には確かにそれが存在したのである。 喫茶店「オリンピア」があった守口の辺りも、今や工場や商店が立ち並び、国道一号線に直面した超過密道路になって、昔の面影は殆ど消えているが、よく見ると不思議なことにオリンピアがあった木造アパートの建物だけは今でも残っていて、そこは自動車のバテリー屋になっている。

次はその頃に関係した東京の【加藤貿易株式会社】の話である。 喫茶店「オリンピア」で苦労している頃に、カナダの手袋バイヤー、オストロフ氏が「東京の貿易商と提携してはどうか」と話を持ち込んできた。 彼が日本で急病にかかり聖ロカ病院に入院したときに親身になって世話をしてくれた加藤という人が東京で貿易商をしている。 これからの貿易商は大阪という一地方だけで孤立して商売する時代ではない、少なくとも東京と大阪くらいの両方に店があって、相互に連絡を取りながら商売を進めるべき時代であるというのがオストロフ氏の意見で、そのためには人柄のよい加藤氏と組むのが得策であると勧めてくれた。 会ってみると加藤氏は恰幅のいい知的な紳士で、私などと較べものにならぬくらいアメリカの繊維製品市場に詳しかった。 聞けば戦後の一時期、比較的著名であったロバート・レクタ商会というユダヤ系の繊維貿易商の番頭をしていたとかで、英語も流暢ならニューヨークのバイヤー連中にも顔馴染みが多く、その上なかなかの才人でもあった。 早速、提携することにして私の方から僅かばかりの金を渡し、加藤貿易はそれで増資をした。 そして私は東銀座の並木通りにあった加藤貿易の取締役ということになった。 加藤氏は少々紳士ぶってキザな処があったので我々は彼に<男爵>というニックネームを呈上したものの、概して言えば有能で誠実、それに風体のいい実業家であった。 提携した頃の彼の主取扱品目は繊維製品だったようだが、いつの間にかそれが電気製品に替わり、十年後には茨城県に工場を持つ電卓メーカーとなり、それをモントゴメリー・ワード社に独占納入し、年商一〇〇億円を揚げるまでになっていた。  しかし、もともとアメリカ向け電気製品の輸出は非常に不安定な商売で、ひとたびバイヤーがそっぽ向けばそれでアウトという実態は今も昔も変わりはない。 加藤氏はその最盛期に、既にそうした危険を予知し、どうすればこの一見華やかな<輸出電機メーカー>という商売を閉められるかと、折々私にも内密に相談をしてきていた。 そうした矢先、ミネベアの高橋という彼の慶応の後輩で乗っ取り屋として有名な実業家が加藤貿易を買収に来た。 「渡りに舟で会社を売りたい。ついては唯一の外部資本であるレオ貿易名義の株を返して欲しい。悪いようにはせぬから・・」との加藤氏の話だったので当方の所有株を彼に渡したところ、折り返し一株当り五〇円の計算で金を送ってきた。 《ミネベアが電機輸出の名門加藤貿易を一株当り五〇〇円で買収し、社名を『NMBエレクトロニクス』に変更して工場をシンガポールに移した。新しい社長も加藤嘉久氏》、という記事を日経新聞で見たのはそのすぐ後であった。 そのうち五〇円と五〇〇円の差額分の金を送って来るかと心待ちしていたが、結局そのままだった。 後日聞いた処では、加藤氏はNMBエレクトロニクス社社長としてシンガポールに半年ほど在勤したが、ミネベアの高橋高見氏の綱渡りのような経営方針についていけず辞職したそうである。 それ以後、彼には会ったこともないが、古い紳士録等に私の肩書として「加藤貿易取締役」と記載されているのはそうしたいきさつに依るものである。

梅ケ枝町にレオ貿易の事務所があったのは二、三年に過ぎぬが、その頃は面白いほど手袋の新規バイヤーが開拓できた。  彗星のごとく現れたKマートは、急速に店舗展開を進め米国小売業界を瞬く間に席捲した。 同社は手袋の輸入仕入れをレオ貿易一本に絞り、毎年十万ダースに近いビニール手袋を発注してくれた。 加えるに、当時極東からの繊維製品輸入の最大手といわれたビクター・ハンダル商会も、その手袋仕入れ先を当社とニチメンの二社に限定してくれたため、Kマートおよびハンダルという二大バイヤーを客にしたレオ貿易の手袋輸出は年間五〇万ダースを越え、ささやかな内祝のために国内全取引先に「かぶきレオ」のマークを染め抜いたバスタオルを贈るほどの盛況であった。 尤も、五〇万ダースの手袋というのは必ずしもビニール手袋だけでなく、その頃急に市場が開けた牛床革製の作業手袋も一〇万ダースほど含んでいた。 牛床革というのは、牛革の表側、つまり吟革と称する部分と、裏側のベースになっている部分とを薄く二枚に分けた、その裏側の方のスエード革のことを言い、それを主材料とした安価な作業用手袋が欧米向けに大量に輸出され始めたのである。

ところが困ったことに、床革製の作業手袋の生産地であった播州竜野地方の手袋メーカーが、これまた生産遅延を来たし、バイヤーに叱られぱなっしになってきた。 何とかしなければならぬと知恵を絞った結果、台湾のメーカーに下請けさせることを計画した。 台湾ではその二年ほど前に香港手套廠が民興紡績と組んで、台湾手套廠という巨大な床革手袋工場を建設していたが、原料床革の入手が困難なため休業しているというバイヤー筋からの情報が入っていた。 うまくいけばこの工場を使用できるのではないかと、まだ見たこともない他人の工場に触手を伸ばした訳である。

最初、台湾へ行こうと思い立ったとき、私には台湾に何のコネも知人も無かった。 東京の加藤氏に相談すると、「しかるべき提携相手を紹介してもいいが、その場合は、今後すべて私の指図に従うこと」と言う。 それでは後々ややこしいので、彼の紹介を受けず、<出たとこ勝負>と心にきめて取り合えず台北へ飛んだ。 国賓ホテルに宿をとり、早速、職業別電話番号簿の<手套>という欄を探し出し、「復新手套廠」という会社へ電話をしてみた。 「もしもし・・」と日本語で呼びかけたところ、相手は一言ふた言何か中国語で応答したかと思うとすぐ日本語の出来る人と代わった。 その人の日本語がすごく流暢だったので、一瞬、日本人だろうかと思ったほどである。 そして会った人が、その後二〇年私と組んで仕事をし、兄弟以上の間柄になった梅玉鱗氏であった。 日本語の達者な梅(めい)氏はその頃、台湾随一の嘉新産業グループの大番頭を勤め、傍ら「益新紡織」と「復新毛業」を担当していた。

【嘉新グループ】は当時、台北の心臓部、中山北路二段に総本社として「嘉新ビル」を建設中であったが、後日竣工した時には、吹抜けの一階大広間には嘉新セメントと嘉新製粉が入り、それを社長の張氏が直轄し、三階は台湾電線電覧(でんらん)、中華電線電?、嘉新電線電?の三社が占領し、それについては嘉新の副社長というよりは東南アジアの夜の帝王の異名で有名な翁明世氏が支配していた。 梅氏の益新紡織は中二階の大広間を事務所として使用し、傍ら梅氏自身は九階と一〇階の北側を占拠して彼直属の勝利鉄鋼廠、大華航業公司、それに私共の「美康産業公司」が入居した。 更にそこには日系の丸紅、テイジン、旭化成等、梅氏の親しい会社が入ったが、その他の新入居者は欧米系有名会社の台湾事務所が殆どであった。 【嘉新ビル】が建ってからもう既に二十数年を経るが、玄関に四つの噴水を配し、イタリア製の大理石を外装と玄関大ホールの床に張りつめた大英帝国風の重厚なその建物は、いま尚その風格に於て台湾随一の商業ビルとしての名声を保ち続けている。

最初、電話に応じて国賓ホテルの私の部屋へやってきた梅氏は、氏の復新手套廠が、嘉新グループの総帥張氏の近親が上海から来て開業したがうまくいかず、今は素人の梅氏が<不承不承>ながら管理していることや、台湾手套廠が原料床革の入手難で休業し、台湾側の出資者である民興紡が困りはてている、というようなことを私に婁々説明した。 彼はまた「今後の台湾中国の生きる道は、もう大陸へ帰ることを諦めて、かっての敵国日本と組んで輸出産業を振興するしかない」と言う。 「では手始めに私と組んで輸出貿易会社を台湾で設立しませんか」、という私の誘いかけに一も二もなく乗った彼は、すぐ事務所を探そうではないかと気が速かった。 ブローカー貿易会社だから資本金はたいして要らぬ、百万円ずつ二人で出し合い、今後、権利は総て平等、ただし営業商売総て日本側が引き受けるという好条件だから、彼にとっては有難い話であった。 それでも彼は過去の経験からこういうことを言った、「国際的な合弁企業では海外側の資本家の旅費というのが高くつき、往々にしてそれが合弁会社の命取りになる。 貴方の年間の旅費と経費を最初から限定しておいて欲しい」。 尤もなことなので、私の訪台は年に二回以内、一回の旅費は五百ドル、と決めた。 私からの提案は「中国人は会社が儲ると、毎年それを出資者が山分けしてしまう習慣があり、そのため会社の資本蓄積が皆無となり経営基盤が弱くなる。 だから新会社は少なくとも向こう十年間くらいは無配当でいきたい」ということであったが、これも梅氏は納得した。 社名は美康産業公司( MAY & KEN CO LTD )と決めた。

梅氏は、戦争中、上海の三井物産に勤めていたそうで、どういう訳か多芸多能、京劇の胡弓から日本の三味線、それにピアノも少し引くという具合い。 おまけに台湾語(これは福建語で北京や上海の人には通じない)は台湾人以上、日本語は日本人以上、英語とフランス語、それにシャム語も習い、兄貴分の嘉新グループ副社長翁氏に次いで、夜の台湾の副帝王と言われた程のプレイボーイだった。 私はその後の十数年、彼のお供をして夜の台湾の名所であったメイフラワーに東雲閣、それに黒美人等のナイトクラブはもちろんのこと、シンガポール、MGM,第一楼等のダンスホール、あるいは新生閣、中興飯店を始めとする北斗の料亭を<総なめ>にするほどの機会を得たが、ついに自分で金を払った記憶がない。 梅氏と一緒のときは、総て嘉新グループの会社払いであったし、後半、私たち美康産業の連中と行ったときはすべて美康グループの会社の後払い交際費だった。 今から回顧するに、まことに佳き時代であり、そして、馬鹿な遊びをしたものであった。

梅氏と合弁会社の約束をして大阪へ帰った私は、早速わが社のエース亀岡朝弘君を台湾へ派遣した。大阪外大スペイン語科を出た亀岡君はレオ貿易へ入社するやいなや、まさに精励格勤、日曜祭日も休まず、毎朝七時過ぎから夜の九時近くまで働きずめに働き、ある日などはその日一日で、彼が海外へ出した英文の手紙の数が七十通を越すという超人的な青年であった。 トランク一つを提げて赴任した彼は、台北で先ず美康公司の事務所スペースを探すことから始め、公司の登記、社員募集の新聞広告など、梅氏と相談しながらすべての開業手続きをこなし、自分はその事務所の一角に住み込んで夜昼なく新商売に精を出した。 まさに<徒手空拳>、三〇才になるかならぬかの青年として、まことによくやったものである。 それも初めての異国に於てであるから充分賞賛に値する。

そしてそこまではよかった。 しかしそのすぐ後に、「レオ貿易東京」設立のため上京してしまった。 後任として、同年輩の青年中村省三を台湾へ転勤させた。 この男はおとなしいだけが取柄の目だたぬ社員だった。 それが、台湾在勤二年ほどで突如として職場放棄し、日本へ帰り、退社してしまった。 さあ困った、どうしょう。 考えていても致しかたない。 私自身、すぐ台湾へ飛んだ。 そして先ず梅氏に面会し、善後策を相談した。 梅氏は「さっぱり儲らぬし、もうこの辺りで美康公司を閉めよう」と言う。 無理もない、創業以来四年間ぜんぜん利益が出ず、資本金はとうに食い込んでしまっている。 しかし私には意地があった、「これ以上は資金もすべて私が負担します。儲ったときの配当は半々にしますから、このまま継続させて下さい」といった。 そう私に言われては梅氏に否応はなかった。

私は美康公司の事務所へ行き、男子三人、女子一名の社員を前にしてつたない英語で一席演説をぶった。 「今日からは梅氏も取り合えず関係がなくなった。 オーナーは私一人である。資金は大阪から補給するが、もう今後日本からマネージャーを派遣するつもりは一切ない。 本日からは君たちが主人で、君たち自身が仕事をするのである。儲っても利益を日本にもって帰るつもりは毛頭ない、すべては君たちの会社に帰属し、君たち自身のものになる。 諸君も既に三十才、私がレオ貿易を創業した年齢より年長である。 これ以上は日本人に負ぶさらず、諸君ら台湾人自身が勇気をふるって独立するときが来た」。 更に指図して、二部屋あった事務所と、その隣の亀岡・中村両社員が宿舎にしていた部屋を大掃除し、トラック一杯分の古い<がらくた>をすべて捨てさせ、彼らの毎日習慣として飲んでいた大きな湯呑や<やかん>、それに鼠色に変色した<おしぼりセット>などを全部きれいさっぱり廃棄し、代わりに新しいガラスコップとコカコーラを一ダース買って来させ、「今日からは因習の塊のようなお茶をやめ、スカッと爽やかなコカコーラを飲み、近代的なアメリカ風の商売に変貌せよ」と号令を掛けた。

これは不思議なくらいうまくいって、それ以後、急に美康公司の商売が順調に推移し、五年後には頼みもしないのに訪台中の私に、遣ってくれとインフレの札束をひと束そっと持って来て呉れるくらいになった。 そしてそれから一〇年後には、関係子会社五社を擁する立派な企業にまで成長した。 企業成長の原因を考えると、先ず、その時の三人の青年社員が力を併せて努力したこと、次に、台湾からのセーターや編み手袋の対米輸出ブームにうまく乗ったこと、そして最後に、約束した通り利益を資本家に分配せず、すべて内部留保にまわしたことにあると考えられる。

既に四十才に近い私であったが、企業経営についての純情さはまだほほえましい程度のものであった。 資本家という意識は一貫して皆無で、ただ従業員たちと共に会社を繁栄させていこうというロマンチックな夢のみが先行していた。 そしてそのためには、たといその会社が日本以外の地にあろうとも、とに角、自分自身が資本家としての利益を吸い上げることなく、すべては会社の繁栄のために蓄積していこう。そのためには、??なパートナーによる会社からの利益収奪を前もって予防しておこうと思った。 そしてそれは成功して、わが美康公司は最初のほぼ一〇年間利益配当は皆無という中国人経済社会の通念を破った態度を貫き、それが公司繁栄の一つの大きな原因ともなったのである。 これについては、すぐその後、梅氏やその近辺の友人たちからそれが如何に中国人社会では異例の行為であるかを知らされた。  即ち、一般的中国人社会では比較的簡単に資金を出し合って会社をつくる。そしてその瞬間から、会社からの収奪が始まる。先ず出資者は毎月給料を取る。給料を取り難ければ、それを車馬賃という名目で取る。 次に金利を取る。不思議なことではあるが出資金に対して金利を取るのが中国人社会の常套である。そして儲れば、年に一回は配当を取る。 給料、金利、配当と、少なくとも三つの方法で新会社から金を収奪するのである。 そしてそれを誰もとがめない。 要するに会社は収奪機関であって、そこに金を残して置かない。 金はいつでも持って逃げられるように肌身に付けておくのである。 そのためには、出資者は自分のワイフを会計係にしておくのが通例で、出資者が複数の場合、誰が最大の出資者であるかを見るには会計係が誰であるかを見ればよい。 そして従業員は下男・下女に過ぎないというのが中国人社会の感覚である。 そこには企業の社会性とか公共性の概念は皆無に近かった。 とは言うもののこれは、道徳的にどうこういうべきものではなくて、歴史的背景に起因する習慣に過ぎない。 そのことについては、後日、チャンスをみて説明しよう。

それよりここで、企業の社会性について私の見た<国際的な差>に触れておこう。 この問題について私が初めて関心を持ったのは、前に述べたハワイ滞在時代のことである。 「かねてつ」の村上氏がハワイへ到着した数日後のこと、お世話になっていたホノルルの末岡氏が私に「昨日、村上さんが『私は千人を越す従業員とその家族を抱えているので、一営利企業ということだけでなく、常にそれに伴う社会責任を感じている』と言ったが、企業家がその社会責任を感じるというような考え方はアメリカの企業家にとっては奇異なことである。果して日本ではそのような考えが一般的に通用しているのであろうか」、と聞いたことがある。 「それはもう当然のことで、かく言う私ですら、零細企業にも拘らず、そうした考え方の片鱗を充分持っている」と答え、末岡氏はその答えを不思議がった。 こうした企業の社会的責任というのは、私の見聞きした処、アメリカのみならず台湾ないしは中国人実業家の間でもほぼ皆無に近く、中国人としては異例なくらいの良識家である梅氏ですら、氏の嘉新グループや美康公司の経営について、それは単なる<銭儲け>の手段に過ぎず、従業員や取引先、さらにそれを含めた社会・国家との連帯感覚などは皆無に等しかった。 だから私が美康の社員に対して、「これからの美康公司は貴方がた社員の会社である」と言ったとき、そばに居た梅氏はそれがどういうことか充分理解できなかったらしい。

参考までに、いまここで大阪市大中岡教授の「メキシコと日本の間で」という岩波の近刊本の中の、似たような部分を抜粋してみよう。   さしあたり私にとって印象的であった点は二つだ。一つは(メキシコの)R社の社長の   状況に対する極端なまでのドライさである。メキシコの危機の最大のものは雇用問題で   あると語って私を感心させた後で、三五〇人の従業員を七〇人にへらして、インフレの   中で利益を伸ばした話をするというようなことは、日本人の通常の神経ではちょっとで   きないのではないか。 私はインタビューしたすべての日本人経営者が二言目にはメキ   シコの企業に貢献するとか、日本的経営の良さを教えてメキシコ産業に貢献するとか口   にしたことを思い出す。 そんなのはたてまえと評する立場もある。しかし、ともかく   も彼らの語った経営方針はそのたてまえとつながっていたのである。 ところがR社の   社長の場合、彼があふれるほど熱心に語ったメキシコの天下国家の問題と、彼の経営行   動はみごとに切れている。 私はまさに目を見張る思いであった。 (中略) メキシ   コでは企業を順調に発展させるのは危険だ。 それは有力者に眼をつけられて乗っ取ら   れる危険を意味している。だから有力者と無縁な多くのメキシコ人は企業がある大きさ   になると慎重に分割して、家族間に分散させる、たくさんの小企業を一族でグループと   して持つのだと教えてくれた・・。

この考え方は、後年、私がフィリピンに工場を持って知ったフィリピンの企業家たちのそれとも完全に一致する。 まあそのことは、のちのちフィリピンに就いて述べる折に説明するが、台湾とフィリピンにほぼ同じことが当てはまる。 少なくとも当時、台湾経済界を牛耳っていた上海系実業家たちの企業経営についてのセオリーと、このメキシコ人やフィリピン人の考え方の間には殆ど差がなかった。 だから私が、「君たち社員の会社であり、台湾経済の復興のためには・・」というようなことを揚言しても、それは梅氏を始めとする大陸系実業家たちにとっては、<世迷いごと>に過ぎなかったのである。 尤もこうした、企業の<社会的責務>というような考え方は、大陸系実業家にはともかく、台湾土着の企業者たちには比較的理解しやすく、それが一半の原因ともなって今日見るような台湾経済の発展をみたものであると私は解釈している。 言い替えれば、フィリピンが台湾やシンガポールと軒を接しているにも拘らず、いまなおテイクオフ出来ずに苦労している原因もこの辺りにあり、反対に、シンガポールや土着台湾、さらには韓国などが急激に経済発展を将来させた大きな原動力もここにあると見ていい。

美康産業公司設立の話はひとまずこの辺りでとめて置いて、大阪のレオ貿易の話にもどろう。 手袋輸出はますます好調で、梅が枝町の事務所も手狭になったので、東区本町のニュー本町ビルへ再移転した。 このビルは大阪へ出てきて以来の親友、福井潤氏が彼の高知高校のクラスメート佐々木伝一郎氏と共同で建てた近代的な高層ビルで、本町橋のすぐそば、東区役所と東警察署に隣接した位置であったから、いわば大阪の街のまん中で、まことに至便であった。 福井氏は吉田茂と林譲二で有名な高知県宿毛市随一の名家の嫡出、佐々木氏も材木で有名な鳥取県智頭の山林業の当主で、おおような彼らを訪ねて旧制高知高校の終戦時文甲出身の連中がおおぜい現れ、私もその内の何人かとは親交を持つことができた。 ほぼ四十年近く特に親交を持った福井潤氏は大阪に於ける高知高校の同窓会幹事のような立場にあり、持ち前の交際好きと人の好さで彼の友人たちを私に紹介してくれ、おかげで私はいわゆる<旧制高校>の人たちの交友関係を垣間見るというよりは、むしろその中へ割り込ませて頂いて有益な経験をすることが出来た。

例えば文芸春秋誌上で<同級生交歓>という写真が掲載されたり、また<旧制高校寮歌祭>というような催し物でかっての青春時代を謳歌するのが、少なくとも今日までのわが国指導者層のエリート的優越であることは周知の通りであり、 そしてそれを指をくわえて羨ましそうに眺めているのが我々一般大衆であることも隠れた事実である。 しからば彼ら旧制高校卒業生は、その中にも世にときめいて出世した者もあればまた出世出来なかった者もあり一様で無いにも拘らず、何が故にそうした特権的エリートとしての仲間意識を楽しめるのであろうか。 そのキーはたぶん彼らを育んだ旧制高校に於ける教養課程にあり、その原型はサルトルやロマン・ローランが哲学教授として招かれたというフランスの<リセ>に求められる。 彼らエリートの卵たちは、そこでデカンショの起源にも擬せられるデカルト、カント、ショペンハウエルからポアンカレの数理哲学に至るまでを教えられ、そしてそれを論じた甘酸っぱい<青春の記憶>を共有している。 紛れもなく、若年多感な彼らはそこでアカデミックな知的教養の手ほどきを受け、それを武器として一般大衆との差別化に成功し、今日に至ったのである。 私が少年の頃、高知高校などというのは高等学校中もっとも入りやすい、いわば中学で成績が二番手の生徒が受験する地方高校であると聞いていた。 しかしそのような高校であってもなお彼ら福井・佐々木氏のクラスメートたちは、そうしたエリートとしての青春群像の一部分であることに間違いはなかった。 私は、彼らからゲーテのシュトルム ウント ドランク(STRUM UND DRANG 疾風怒涛)や、マン ムースシュトルツ ザイン(Man muss stolz sein=人は誇り高くあれ)というようなドイツ語の慣用句を習い、バッハかベートーベンか、あるいはモーツアルトに行くべきかを論ずることを知り、この生産技術一辺倒の日本にもなお別の社会があることを教えてもらった。 そして、たかが高知高校と思っていた彼らの同期生中にも、芥川賞か直木賞か知らぬが賞と名のつくものをとった人が二名も、すなわち三浦朱門と坂田寛夫がいることを知った。 今をときめく大阪ガスの大西社長や旭化成の副社長であった中平氏、さらに近鉄百貨店の故橋本社長を始めとする彼ら高知高校のグループ中、私が特に親しくなったのは主婦の店本部の顧問を務めた故岡崎俊秀公認会計士であった。 彼は、私どもレオ貿易のみならず、友人の故水瀬富雄君の会社の顧問を亡くなるまで続け、私の半生の悪友ともなった。 後年行われた彼の葬式には高知高校同窓生代表として福井 潤氏が、「君はつとにヘルマン ヘッセの漂泊の精神を実践し・・」という弔辞を読み、それに鳴咽する白髪のクラスメートが居たのは、世の荒波に風化した私にとって新しい驚きであり、そして羨望でもあった。 三十年にもおよぶ彼らとの付き合いの中で、果して彼らがドイツ哲学を知りポアンカレの数理哲学を理解していたのかとたぶんに疑問に思ったことも再三ではあったが、とまれゲマインシャフトや<ペーター カーメンチント>を夫人との寝屋(ねや)の物語に熱っぽく語ったというかっての青春エリートたちの集団であったことは事実であり、それは実業教育しか受けたことのない私にとってはいわば<高嶺の花>の筈の人たちであるべきだった。 そして私は、それらの人たちと親しく交わるチャンスを与えてくれた福井・岡崎両兄に対していまなお感謝している次第である。 彼らとの交友がなければ、私は所詮しがない一小商人としての社会集団しか知り得ない人生を送っていたのだ。

話がそれて情緒的になってしまった。 元へ戻そう。 梅ケ枝町から本町へ移転した頃は手袋のみならずハワイ・カリフォルニアの蒲鉾メーカーたちともまだ取引を継続し、それはそれなりに着実に利益を揚げさせてくれた。 それについてささやかではあるが鮮明に記憶していることがあるので、ここで付け足しておこう。 ある日のこと「かねてつ」の村上氏がやって来、「冷凍魚の<沖かます>を貨車に一杯分ハワイの奥原蒲鉾に売りつけてくれぬか」と言う。 訳を聞くと、「下関の大洋漁業から貨車二杯分買ったのだが、魚肉が柔らかくて蒲鉾になり難い。 見込み違いで返品しようと思うが、全部返すのは気が引けるので、せめて半分だけでも何処かへ転売したい」とのこと。 「それはハワイでも使えないではないか」と聞くと、「それはそうだが、買った奥原君の才覚で何とか処分するだろう」と好い気なことを言う。 「そのような面倒な商品を、仮にも友人である奥原君に売りつける訳にはいかぬ」と断った処、彼も諦めて帰っていった。 それから数日経って彼に電話し「あの<沖かます>はどうしたか」と尋ねてみた。 すると、「ああ、あれは貨車二杯とも下関の大洋漁業に返品した」と言う。 「大洋は文句を言わなかったか」という私の質問に対して、彼はこともなげに答えた、「それは当然、かんかんになって課長が電話で怒ってきた。『怒るのはいいが、俺の処にそんなに偉そうに言っていいのか、客先一軒失っても構わぬのかどうか、おまえの会社の専務と相談してからもう一度電話をしてこい』と返事した処、その後何も言ってこないから、もう諦めたのだろう」。 なんと偉い男が居たもので、その頃の大洋漁業・林兼産業は捕鯨ブームもあり、日本有数の高額所得企業として名を馳せた鼻息の荒い会社だったのに、彼、村上氏にかかっては一たまりもなかったようである。 こうした強引な駆引きについては、後日、京大の若きエース高坂正尭氏が、名著「海洋国家日本の構想」の中で<パワーポリテックス>として紹介して以来わが国でも納得され始めたが、かねてつ氏による<沖かます>の快談義を聞かされたときは、私にとっては<異国の人の奇想天外な発想>としか考えられなかった。 懐かしい思い出の一つである。

台湾から帰った亀岡君をすぐその足で東京へ派遣し、【レオ貿易東京株式会社】という電機製品専門の会社を設立させた。 有能で精力家の彼はこうした新会社設立には<もってこい>の青年であった。 資本金一千万円を懐にして東京へ出た彼は、田村町と芝大門の中ほどにある南桜ビルの一部屋を借り、早速、電機の輸出商売を始めた。 つい先月まで台湾で手袋やセーターを扱っていたのが、電気屋に早替りした訳である。もともと弱電に趣味があり、それを扱いたいというのが彼の以前からの希望でもあった。 しかし始めてみると電機の輸出貿易は手袋等と違って、そううまくいかない。 何しろ競争相手はソニーやパナソニックだから、象に刃向かう<かまきり>の域を出ない。 さすがの亀岡君もあたまを打ち、数カ月後に一人の専門家を連れてきた。 それが黒田保氏であった。 黒田氏は幼年学校から航空士官学校に学んだ戦闘機乗りの中尉で、自称するところ幼年学校随一の暴れん坊であったという。 神戸で諏訪貿易という電機の貿易会社を経営し、一時は年商数十億円を挙げていたが、韓国に工場を出し、早川徳松氏の協力を得てシャープ ブランドのテレビを作り始めた。しかし、日本からの部品供給がうまくいかず、涙をのんで敗退したところだった。 彼を社長に据え、亀岡君をそのアシスタントにした処、レオ貿易東京は途端に生気を吹き返し、角田ナショナルという松下系のステレオメーカーの製品を主体とした米国向け大型輸出が始まった。 彼、黒田氏は戦後派家電メーカーの経営者たちと親しく、アイワの池尻社長、クラウンの黒田専務、東洋通信の川中専務などがそのグループだったようだ。 黒田氏は亀岡君をニューヨークに派遣し、またしても亀岡君はレオ貿易のニューヨーク駐在員事務所の開設係になった。 五番街二八丁目のおんぼろホテル「レイサム」の八階にある一部屋を事務所にして、彼は電機バイヤーとの折衝にかけずり歩いた。 その間、東京の留守宅にいた彼のワイフは固疾の神経症が酷くなり、総てを放置したまま突然故郷に帰ってしまった。

カスタグナという比較的業界で名の売れていたアメリカのオーディオメーカーから一件数百万ドルの注文をとったとき、私はレオ貿易東京の基礎も、もうこれで固まったと思った。 ところが、あにはからんや黒田氏は「なるべく早くレオ貿易東京を閉めるべきである」と言う。 「電機の輸出商売というのは<オール オア ナッシング>で、少なくとも一件数百万ドルか、さもなければゼロの注文で、余りにも恒常性がない。おまけに、例え安物のポータブルラジオ一個作るにも、その型代だけで少なくとも四百万円はかかる。見本を作らぬ限りバイヤーは注文をくれぬし、四百万円払って見本を作ったからといってバイヤーが注文をくれるという保証はない。 よしんばうまくいってバイヤーから大口注文が入ったとしても、船積み迄にバイヤーが倒産する可能性も充分ある。 おまけに商売仇きは巨大な松下やソニーである。 戦後家電メーカーのご三家といわれたアイワはソニーの軍門に下り、クラウンはダイエーに引き取られ、そしてスタンダードは米国のマランツに身売りしようとしている。 レオ貿易東京のみが生き延びられるとは思えぬ」、というのが彼の説であった。 なるほどと思っている矢先にカスタグナ社倒産のニュースが入ってきた。 そして当社の下請けであったオーディオメーカーは気の毒にも倒産した。 うまく責任回避をした黒田氏およびわが社は生き延びた。後味の悪い生き延びかたであった。 しかしもう電機の商売を続ける気もなくなり、レオ貿易東京を閉鎖してしまった。 この損失しめて三千万円、当時のことだからまだ安かった。

いったん大阪へ帰社した亀岡君は、行く先を告げずに消えてしまった。 そして十年後に知ったことだが、彼は、五九〇ページで述べたことのある当社の<癖馬>上杉君を頼ってロスアンゼルスへ行き、今は加藤スプリングのジョージヤ工場長をしているらしい。 先日の日経新聞の記事によれば、その工場はフロッピーディスクの市場占有率第一位だそうである。 日本のことかアメリカのことかは知らぬが。 何れにしろ彼、亀岡君はかっての当社の、台湾、東京、そしてニューヨークの店をトランク一つで開設した偉大なる青年であった。 アメリカへ行くことがあれば一度訪ねてみたいと思っている。

レオ貿易東京の残骸がまだ一つ残っている。 それは有楽町三信ビルの一階アーケードにある「バルコン」という閉店したままの店だ。 三信ビルは有楽町の交差点にあって、小さいながら今なお東京随一といわれる立派なビルである。 四〇年来の親友、金森ジロー節子夫人が預かっていたオーディオショプを、オーナーのメイ氏が香港に帰るので肩代りしてくれと依頼され、それを黒田氏の希望でレオ貿易が引き取った。 そして免税オーディオショプを人にやらせていた処、大穴をあけてしまった。 格式もあり、今どき珍しいくらい立派なビルなので処分するに忍びず、活用しようと思って色々やってみたが、それから二十年、損するばかりで今や空き家にして放置している。 隣にいる金森夫人が管理をしてくれているが、どなたか有効利用して下さる方はいないだろうか。

  ↑ バルコン

一四、 麗しの島 台湾

この辺りでもう一度元へ戻って台湾の話をする。 なにしろ台湾は私にとって第三の故郷のようなものであるから。 過去二十数年の間に渡台(台湾へ行くこと)したのは五十回以上だろう。 おまけに、梅玉鱗氏という超博識人をパートナーにしたので、台湾の裏表に就いてはなまじっかなジャーナリストなどより良く知っているつもりだ。 最近出版された岩波新書の「台湾 載国輝著」に、いままで知られていなかった<台湾>が相当詳しく記述されているので、興味のある方はそれをご覧になればよいが、ここで私が述べるのは、それとは違った、いわば瓦版のような<聞き書き集>である。誤差もだいぶあろうがニュースの出所はそう悪くない。 最も知日派の大陸系財界人梅玉麟氏、都立高校から北大を二年までいき、終戦で台湾へ帰った台大医学院教授の林憲博士、戦犯で半年抑留された日本陸軍伍長の何樹木氏、それに<聞けわだつみの声>を愛読する元台美皮革社長丘任芳君などである。

【台湾の歴史】はそう古くない。 何時の頃からか対岸の福建人が自然に移住していたところへポルトガル人・オランダ人がやってきて城壁小都市を作り貿易中継港にした。 それが台南の海岸、安平(あんぴん)地区に今も残るジーランデア(sealander=海陸城)である。 それをジャンク数百隻を率いた武力で取り返したのが有名な鄭成功で、彼は明の遺臣鄭芝龍と平戸藩の武士田川氏の娘の間に生まれたという。 将軍家光・家綱の頃のことだから、西暦では一六五〇年ごろである。(鄭成功は歌舞伎「国姓爺(こくせんや)合戦」の主人公<和唐内>である。) ジーランデアには、当時バタビヤ(ジャカルタ)から送ってきた赤煉瓦で築いた保塁がいまなお残っている。 鄭成功はすぐ亡くなったが安平は福建省台湾府の都となり、それが清朝の終わりまで細々と続いた。 日中混血の鄭成功は、台湾建国の英雄であり、明の遺志を継いで清朝と戦った、いわば台湾版の神武天皇か楠木正成であり、そして元日本人としての誇りを持つ台湾人のアイドールでもある。歌舞伎の<和唐内>は目玉をむいた真っ赤な顔に<はちまき>を締め、まるで中年の金太郎という風体だが、オランダのライデン大学に残っている洋画の鄭成功の肖像はマントを纏った立派な紳士である。 日清戦争で日本領となって五〇年、戦後、国民政府が接収して四〇年になるが、その折り台湾土着の人々と大陸からきた政府軍が衝突して二日間ほど内戦をした。大陸側が勝ち、蒋介石氏の国民党政府による統治が発足した。 この内戦を二・二八事件と呼ぶが、日本では報道されなかった。内戦とはいうものの先住台湾人側は武器という程のものを持たず、鐘や太鼓を叩いて気勢を揚げただけで、武器を持った国民党軍にすぐ蹴散らされてしまったそうである。 以上が台湾の歴史である。

【台湾の人々】 最初にいた原住民はマレーシア系で、いまなお山岳地帯を中心にして相当居る。簡単にアーミー族といっているが、詳しく分けると数種族になる。 都会へも出てきているが、体つきが小さく引き締まっているので判りやすい。 明代には福建省の人が多く移住してき、その後、清代には広東省北部から<貴種流離?>の主人公、客家(はっか=くーちゃ=きゃっか)族がやってきた。 福建と客家の数は一〇対二程度。この二種を併せて<本省人>と呼ぶ。 終戦当時の本省人人口は六百万人くらいだったらしい。   そこへ戦後、約二百万人が国民政府について大陸からやってきた。これが通称<外省人>である。しかし、いまや本省人・外省人の区別がつかぬ新しい世代が大半になっている 先に渡台してきた福建人が平野部の肥沃地を占拠し、あとから来た客家族は山間の痩せ地を耕し、格差が大きいというが、実際には大した差がない。むしろ、もともと中世の大陸では貴人集団だったという伝説の客家は台湾でも医者、看護婦、薬やなど、知識職をいまなお独占しているとして自らの優越を主張している。福建との間に根強い相互差別があるようだが、両者は同格でどちらが上と言うことはないようだ。 福建人と客家族の通婚は殆どないと彼らは言うが、現に私の周辺だけでも数組の福建・客家夫婦がいるから、この話は信用できない。 その昔、福建人は<?(びん)人>と呼ばれた異邦人で、漢民族の内には入らなかった。 【?人、即ち福建人】の体型は男女とも太股が細く伸びていてスタイルがよく、ぽっちゃりと太った漢民族とは一目で見分けられる。 宝塚の鳳(おおとり)蘭は典型的な?人である。 外省人社会にははっきりと二種類ある。 国民党政府と共に大陸から逃げてきた、いわば<上流階級>と、二十歳前後で政府軍の下級兵士として何も知らずに移動してきた文盲に近い独身青年たちがいまや初老に達したという不幸な人達、との両方に極端に分かれている。  上流は問題ないが、台湾語も出来ず結婚のチャンスもなかった下級退役兵士たちの老後が、いまや台湾最大の社会問題になっている。 政府は責任を感じて、彼らのために授産事業を経営したり養老院の如きものを拡充したりしているが、どうもうまくいかない。 とに角、彼ら下級軍人たちは結婚したがっているが、言葉も通じず生活習慣も異なり、本省人たちは彼らを毛嫌いしている。 たまにそうした退役下級軍人が本省人の結婚相手を見つけてきても、その多くは山間部の貧家の白痴に近い娘であるというケースが多く、政府は優生学的見地からそうした劣性遺伝の虞のある結婚を阻止すべく努力している。 断種手術を条件として結婚を認可するという場合も多いそうである。

【台湾の言葉】 公用語は北京語で殆どの人が話すが、本省人の老人たちの中には台湾語か日本語だけの人も予想外に多い。 台湾語は福建語を主体とした会話語で、文字は無いとされているが無いわけでもない。 例えば、<どう致しまして・・>というとき<メンケーキー>と言うが、これは<免客気>で、北京語では不要客気(ぷよーくーち)と言っている。 また、<もう死に死に・・>という表現は、台湾語では<シーキャオキャオ>または<シーチョウチョウ>と言っているようだが、外省人に聞くと<死?々=すーたおたお>のなまりとのこと。 念のために言えば、<キャオキャオ>のキャオは、福建特有の慣用発音らしい。 台湾語しか出来ぬという人は、ついでに日本語も出来ると考えていい。 なぜなら戦前、文字のない台湾(福建)語の人々が手紙を書くときは日本語を使うのが一般的であったからだ。 加えて、日本語会話の感覚と台湾語のそれが非常に似通っていて、例えば、<どうもどうも・・>というような無意味な謙譲語副詞の場合、台湾語では<ぱいせぱいせ・・>と言いながら頭を下げあっているし、<やっぱり>という日本語などは、台湾語でも間投詞としてそのまま使用してい、わざわざ区別するほどのこともない非常に似通ったメンタリティの両国語ではある。私どもの美康公司の電話番号は五五一八九八二であったが、彼らがそれを<ごーごーいっぱーきゅーぱーじー>と発音していたところをみると、日本の漢字発音の源流は福建辺りでなかろうか。 私のパートナー梅氏は日本人に対して「私はウメです」と自己紹介するが、台湾人は彼を「梅田さん」と呼ぶ。 「ウメですと言わずに、メイですと自己紹介したらどうか」と言ってみたが、彼の答えは「梅という字の日本語発音はメイではなくてバイだが、それでは梅毒みたいで嫌だから、訓読みでウメと自己紹介することにきめている」とのことだった。 京劇は梅蘭芳(めい・らんほう)、書道の大家は梅?適(ばい・じょてき)と、日本語発音もだいぶ混乱している。

私どもの美康公司の代表者林君の戦争中の旧姓は若林(わかばやし)だったことから考えても、固有名詞にはいまなお日本名が使用されていることが多い。 例えば、台北のメインストリート中山北路を<宮前通り>とよぶ人がまだいる。台湾神社の門前通りだった名残りである。 日本で最も高かった「新高山」は、いまは玉山(ゆいさん)と名を変えているが、日本領有以前はモリソン山といわれた。 南部の高雄市は、むかし土地の人々は<だかお(打狗)>と呼んだが、日本領になったとき<狗(いぬ)を打つ>というのは上品でないとして高雄(たかお)と改名した。 終戦になって大陸からきた政府は漢字はそのままにして、発音だけを北京語の<かおしゃん>に変更した。 「新高山」とか「高雄」など、固有名詞の変遷は台湾の歴史を象徴していて面白い。 台北士林(しーりん)ロータリークラブの公用語は台湾語と日本語で、北京語は採用していない。これは外省人を会員から排除する隠れ蓑であると聞いたことがある。

【台湾の経済】 前にちょっと触れた通り、台湾政府は戦後一貫して外貨管理はするものの<外貨集中制>は採っていない。 ということは一般国民の外貨保有は認めるが、外貨建て商取引や資本取引を国家管理の基に規制しているのである。 こうした方式は日本人にとっては馴染みが薄く奇異な感じがする。 最初私がこのことを知ったのは、少額ドル紙幣のみで六千ドルという大金を洋服の内ポケットに入れ持ちだそうとして台北飛行場の税関でストップをくったときである。 当時台湾の外貨管理は、外貨の最高持ち出し額が四百ドルと決められていたが、私はそれを知らずに堂々と他人からの預かり物の六千ドル札束を持ち出そうとして、荷物検査の税関吏にひっかかり、税関外に置いてくるようにと言われた。 慌てて税関を逆戻りして街まで引き返し、預け主の梅氏に訳を言って返したことがあった。 さあ大変、外貨管理法違反ですぐ警察が捕まえに来るか、と思ったが梅氏は悠然として「心配はいらぬ、外貨を持っているだけならば違法ではない」と言う。海外へ持ち出すのは違法だが<タンス預金>にしておくのは構わぬということをそのとき知った。 台湾の外貨管理制度の制定に参画したことのある梅氏の話では、最初、台湾政府はほぼすべての貿易や外貨管理制度を日本の制度から拝借したが、日本のような外貨集中制度だけは採用しなかった。なぜなら、もしそれを採用すれば三千万人を越す海外華僑を親戚に持つ台湾の中国人は、その殆どが外為法違反で豚箱行きになることが見え透いているからであった。 だから、台湾政府の外貨保有高が何百億ドルかで世界一と報じられているが、その他にまだ一般国民がタンス預金しているドル紙幣が、その倍ほどあるといわれている。 困るのは<外資導入>の定義である。海外華僑からの投資というのが、本当に海外からの投資であったかどうかはっきりしない。 これでしょっちゅう内輪もめしている。

台湾政府の経済政策は英国の香港政策をまねて、いわゆる<レセ・フェル(自由放任)laissez-faire>を原則としている。 政府は財政投融資が要らぬので公債を発行する必要もない。商売は商売人に任せ、なるべく政府はそれに介入しない、ということだ。 従って経済学者も要らぬし、いわゆるエコノミストも存在しない。 にも拘らず産業経済は益々発展している。

【台湾の産業】 日本の産業が金融資本を頂点として形成されているとすれば、台湾の産業は、少なくとも十五年程前までは、セメント産業を頂点として形成されていた。 セメントの原料だけは輸入の必要がなかった上に、戦後台湾復興の建設資材の最大の商品がセメントであり、ことほど左様に台北、高雄など巨大都市はセメントの塊りのような外観を呈している。 いわばセメント国家であった。 わが梅氏の嘉新グループなども嘉新水泥(セメント)公司を中核として形成されたのである。 台湾には、台湾桧以外に木材はない。 殆ど外国、主にインドネシア辺りから輸入していたが、インドネシアが原木の輸出を禁止してからはどうしているのか知らぬ。

戦後の前半は上海系資本家の独占舞台だったが、後半に至って農地改革の代償として政府が発行した<土地証券>を資本に繰り入れた台湾土着資本が急速に勢力を広げ、その頂点にあるのがプラスティック産業で成功した「台プラ」の王永慶氏と、巨大な大同工学院大学を独自につくりあげた東芝系の「大同電機」であろう。 世間の噂では、戦後経済を大陸系の人たちが握り得たのは、国家予算の過半を占めていたアメリカの軍事援助資金を政府側近の実業家たちが流用したからであり、後半に於ける台湾土着資本家の台頭は、台湾人の勤勉さによる対米軽工業品輸出の好況が原因であるという。 確かに、現状では台湾工業製品の八〇%近くが輸出商品である、そしてそれにより国民一人当り外貨保有高がずば抜けて世界一という成金国家を作り上げた。 

大陸系(ということは上海系)資本家たちの原資が米国の援助資金の横流しであったかどうかは疑問である。 わが梅氏の明言するところでは、国民党政府と共に渡台した上海の実業家たちは相当多額の資本を帯同したことも事実であるらしい。 彼らは上海で戦前から紡績業やその他の製造業を経営し、産業資本家としての地位を早くから築き、我々日本人のイメージにある華僑とはだいぶ違った人たちであったらしい。 我々が抱いている「華僑」のイメージは<ずるい商人>、<中華食堂のおやじ>あるいは<金融資本家>であったが、彼の説に依れば、一流の華僑ともなれば立派な産業資本家であって、その人たちは決して<飯やのおやじ>や<金貸し>にならぬのだそうだ。 欧米の一流大学を出、語学はもちろんのこと経済学や政治学の基礎もあり、誇り高き十億人中の超エリートの集団であればこそ、台湾という小さな島国を、何らの国際的非難も受けず、そして無理もせずここまで成長させてきたのだという。

ここで私は<十億人中の超エリート>という言葉を使ったが、これについて思い出したことがあるので、笑い話までに付け加えておこう。 十五年も前のことである。 私どもの関係会社の社長であった何樹木氏(彼は旧日本軍の伍長であった)が雑談中にこういうことを言った、「戦争中<いろはカルタ>の<に>のカードに「にげ足の速い支那兵」というのがあったのを覚えているが、自分自身が終戦でいつのまにか<支那人>にかえっていて、それで発見したのは、大陸からきた<本当の支那人>の商売上に於ける逃げ足の速さである」。  すると蘇州生まれの梅氏はすかさず「それは君、あたりまえの話だ、何しろいま台湾へ来ている実業家たちは、過去四千年逃げに逃げて、遂に逃げおおせた十億人中の僅か〇、二%の飛びきり足の速いエリートたちだから、君たち台湾の土民と較べて逃げ足が速いのは当然である。 貴方がた日本人や台湾人は逃げなくても生きていける人たちだが、我々中国人は、生まれ落ちてこのかた何時どこへ逃げるかだけを考えて生きてきた不幸な民族である。もし逃げ遅れたら、殺されるか、奴隷になるか、虫けらのような一生を送るかだけで、そうした人たちの哀れな運命を貴方がたは想像したこともないだろう」と、切り返した。  これには、さすが豪傑の何樹木氏もぐうの音が出なかった。 数頁前に私は「中国の事業家たちは会社に金を置かずに肌身離さず持っている」と言ったが、生涯を通じて逃げる用意ばかりしている中国人にとって、それは当然のことであり、それについて<とやかく>いう日本人の経営理念の方が少し理解不足であるとも言えよう。

ともあれ、今日の台湾の産業社会はだいぶ様(さま)変わりして、大陸系の実業家にとって代わった台湾系の中小事業家と、それに付属する勤勉で器用な台湾人労働者たちを主体として運営されている。 日本や韓国は無理に無理を重ねて今日の重化学工業国家をつくってきたが、その点、台湾はひとえに軽工業のみで、無理をせずここまでやって来、そのため大した公害も惹起せず、雑貨繊維という高付加価値商品専門の輸出産業国家を作り上げている。 これは日本も少しは見習うべきであろう。

もう二〇年も前、ジェトロの「海外市場」という雑誌でインドに駐在しことのある通産省の若い役人が、「インドでは鉛筆やシャツを作ることよりも、鉄を作り電機をつくることのほうが確実により立派なことであり、理由の如何を問わずICを造ることは靴を作ることに優先するという国家の<思想>が厳然として存在し、それが民生を圧迫し、産業の進展を著しく阻害している」と、説明していた。 これは世界中の発展途上国に多かれ少なかれ共通している考え方である。何も発展途上国だけでなく、<鉄は国家なり>という稲山嘉寛氏のかっての名文句もこれに類してい、サントリー社長の<鉄が国家ならば、ウイスキーもまた国家である>という勇ましい反論がでるまでの数十年間、わが国財界を支配していた<誇り高き>考え方でもあった。 こうした重化学工業優先の思想は、今日、激しい公害問題により我々につけが回ってきているが、これに類したヒロイックな考え方を最初からさらりと捨てて、実利一点張りの雑貨産業に生きてきた台湾経済は、それが最初から意図したものでないにしろ、見上げたものであると言わざるを得ない。

しからば台湾がなぜ重化学工業に走らず、殆どが雑貨軽工業社会となったのか。その答えはたぶん、彼ら台湾の中小企業者の実利主義にある。  彼らは名を採らずに実を採る。 小銭を投資して懸命に働く主義である。 そのためには巨大な設備産業を選ばず、いきおい、手先の器用さとか勤勉さとかがものをいう軽工業に偏ったのである。(アセンブル産業としての<家電>も既にこの雑貨軽工業に組み込まれている。) 「台湾人が一晩麻雀をしている間に小さな会社が数社も創られる」とは、台南の財閥黄堂慶雲博士の話である。 仲間が集まって麻雀をしながら商売の話をする。 そのうち誰いうとなく、さも儲りそうな新会社設立の話が始まる。 乗り遅れまいと各々が幾ばくかずつの出資をする。 そしてミニ会社が簡単に出現する。 儲れば配当をもらい、儲らなければ会社は短期間に消滅する。 つぎまた会社を創る、そしてまた配当を貰うか消滅するかどちらかになる。 そうしたことを繰り返している間に、中には予想外に立派な会社も出来上がる。  儲らなければ解散し、もうかれば山分けする。 それは西欧に於いて株式会社が発生した原点でもあると、わが友人、故岡崎俊秀公認会計士はいった。 巨大な装置産業は業界内の優勝劣敗が極めてはっきりしている。その点、労働集約産業である軽工雑貨市場は、勝ち負けがハッキリせず、極端な勇者もいない。だからこそ、台湾の小規模産業資本家たちはいまなお世界市場で無敵を誇っている。 そして国家経済はそれに依存して健全路線を歩んでいる。 もし大陸中国という巨人との宿命的な葛藤さえなければ、台湾は世界でも稀にみる豊かな安全国家であろう。

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