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このドキュメントは大正15年7月14日に兵庫県神崎郡田原村八反田(現福崎町南田原)に生まれた中村健(1926-2012)の、1926年(大正15年)から1971年(昭和46年)前後までの回想録です。1971年以降分はデータ化されておらず,すぐウェブに載せる状態にありません。途中横道にそれることがあり,その多くは上記の期間をさかのぼった歴史についての記述も見受けられます。執筆時期は1989-91年前後と思われます。付録で華僑という名の幻影国際戦略コラム, 名字帯刀御免妙法寺の梵鐘というエッセイもあります。文中の社名,商標はそれぞれの所有者に帰属します。内容の正確さについては責任をもちません。

 
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Autobiography of Ken Nakamura (1926-2012), then owner of Leo Corporation.

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順序 ファイル
(リンク)
年代・時期 キーワード
1 parisai1_2 プロローグ 福崎 神崎郡田原 八反田 正木 奥平 多田 姫路
2 Parisai3_4 明治前後 福崎 神崎郡田原 姫路 粟賀 市川 川口屋 柳田国男
3 parisai5 大正〜
昭和18年迄
福崎 パリ祭 姫路商業 住友金属 海外同胞 増田利秋 倉本雄三 白壁美容 松岡源之助 菅田栄治 田原小学校 細川ちか子 檀国大学 斉藤緑雨 山中峯太郎 中村修三 安岡正篤 城山三郎 石原完爾 栗山大膳 白鳥敏夫大川周明 山田久就
4 parisai6_7 太平洋戦争前後 陸軍姫路 青野ヶ原 幹部候補生 陸軍用語 荒熊 445連隊 高鍋佐藤正忠 歩兵操典 程潜
貿易専門学校 音成宜彦松岡忠能 公民館 柴田市三郎
5 parisai8_9 昭和30年迄 後藤回漕店 乙仲松坂屋 貿易部 住友倉庫 エバレット汽船 山本象之助
6 parisai10 昭和30年前後 金森節子 桃井真 桃井かおり 乾精末 レオ貿易 協和造船
7 parisai11 昭和30年代

前半

柳澤民 泰安貿易内田洋行 蒲鉾板 ユナイテッドフルーツ 高田亮平 昭和斎 ハワイ
渡航費用 DC-6B ウエーキ島 ボールズ博士 YMCA 日系人 飯田鴻一末岡為重 かねてつ すりみ
8 parisai12 昭和30年代後半から40年代 手袋 大川郡 白鳥 レオ貿易 永松左平 野沢組 自主規制 上杉美子雄 三本松 マスターアパート 香港ミラマーホテル 箕面 萱野三平喫茶店経営加藤貿易 梅玉鱗 嘉新産業 翁明世 三信ビルニューヨーク台湾
9 parisai13 40年代 台湾 石原慎太郎佐藤正忠 真言 林憲教授
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  自伝 中国自動車道 福崎 俵藤太の荘園だったのでこの地名が出来たらしい。 俵藤太という武士には、瀬田の唐橋の大蛇を退治したという伝説がある。 そのとき、射った矢がどうしても大蛇の背に突き刺さらないので、一計を案じて、矢尻の先に唾をつけて射ったところ見事突き通ったという話が艶笑小話として有名である。 神積寺(日本三文殊の一つと謂う)に、反田の地、八反を寄進したのが八反田の名のいわれらしい。地区の東はずれに、近年私の兄が家を新築したが、その辺りの小字(こあざ)が反田であるから、そこが昔はこの地区の中心だったようだ。 神積寺の鬼追い式に使われる「山の神」の面辻川地区にはバスの停留所があったが、そこまででも、歩いて二十分という不便さはいまも変わらない。 山はなく、広々とした平野の中に農家が点在しているだけという風景は今も昔もほぼ同じである。 戦前は、村の中心部の辻川地区を除けば、米と麦の二毛作農家が殆どで、工場と言えそうなのは数軒の瓦製造所か小さな藁工品加工場があるだけであった。
公民館

村の西よりに正木の本家と呼ぶ大きな古い家がある。 私がもの心ついた頃は既に逼塞していた。 私の家の、何件かの回収不能債権の中では横綱格で、毎節季ごとに五十円ほどの形式的な請求書を置きに出向くのが通例であった。 当主は痩せた老人で、広い玄関の土間は湿って苔が生え、薄暗く静かなその奥には古めかしい駕篭が置いてあった。母の命令で請求書を置きに行く私は、玄関へ入る前からもう恐ろしく、駕籠からお化けが出そうな気がして、無人の玄関先に請求書を置くと同時に一目さんに逃げて帰るのであった。最後の当主であったこの老人が長患いで亡くなった折、立派な表座敷の畳には数センチものほこりが積もっていた。 それを掃き除いたところ、畳はまだ青々としていた。 だいぶ長い間掃除がされてなかったようである。 世話をしている村人たちから命じられて私は葬式を告げる電報を打ちに郵便局へ走った。 その相手先は京都の医者や、加東郡の大西甚一平や蓬莱某など遠隔地の素封家が多かった。しかし、それらの人々が葬式に来たかどうか私は知らない。

大空襲の前、数日だけ私が大阪市岡の縁故先に下宿したとき、そこで産婆をしていた神崎郡豊富村うまれの人が、播磨の国長者番付という唄の中に、

<奉公するなら八反田の正木、風呂の水にも樋がかりーー>と言う歌詞があると教えてくれた。ギリシャのロドス島では四千年の昔、既に水道があったらしいが、わが国では江戸の上水道を除けばつい先年まで何処にも水道設備が無く、ご大家に奉公した女中たちにとっては風呂の水を入れるのが重労働であった。そして、この唄は正木の本家に水道らしきものが既に他に先駆けて設備されていて、女中たちにとっては働き易いよい奉公先であると言うのであろう。たぶん正木の本家が栄えた頃に流行った唄であろうが、後日この唄を知っている人を田舎で探したが、もうだれも知らないようであった。 消え去った幻の里謡とでも言うべきか。 いつの世にも栄華はうつろいやすい。

また、八反田の東はずれに奥平という姓の家が数戸かたまって存在している。いま東京で圭星会というアブストラクトを主体とした書道団体の大幹部をしている奥平昌信君はこの中の一軒の出で村の中学校の先生をしていたが、彼は私が大阪へ出たのと同じ頃、つまり戦後すぐ書家となるべく志を立てて東京へ出た。 彼の言うところでは、奥平家は豊前中津の奥平侯の傍流で、家紋も同じだそうな。 ご一新の折り、士族になりたかったが、出自定かにあらずとして、希望が叶えられなかったそうである。(最近の話では、奥平【松平】侍従下総守が姫路から北国へお国替えになるとき、八反田の多田家から御殿奉公に上がっていた女の産んだ子を里に遺していった、その末裔であるという。)

昭和二十年代、私はよく東京へ行って彼の部屋に転がり込んだものだ。最初、彼がいた世田谷の古い大きな家は、いま芸術院会員になっている青山杉雨氏の家の二階で、ほこりだらけのだだっぴろい大広間であった。 夜中に私が裏木戸を叩くと、木戸のすぐ側の部屋に寝ている杉雨氏が大声で、「君の友達が帰ってきたのだから、君が起きて開けてやれ」と二階に向かってどなっていた。 すぐ側で寝ているのだから彼自身が開けてくれればよいのに、随分意地の悪い家主だ、と思っていたが、芸術院会員になるような偉い人とは知らなかった。次に彼が移ったのは、高田の馬場の一言堂という年中半分閉めたままの小さな古本屋の二階の小部屋だった。 痩せた主人は何故か万年床で終日寝たままだったが、だからと言って病気でもなさそうであった。 フランスに留学したこともあり、文壇に付き合いがあるという話であった。後になって、志賀直哉の本の中に、この一言堂主人という人がちょいちょい出てくるのを知った。

日展に入選したら帰ると父君に約束して東京に出た奥平君は、程なく

毎日書道展第五部<特に新傾向のもの>で特選をとり、新聞の「時の人」という欄に大きく彼の写真がでた。反日展派の道を歩んだため、日展入選の約束は果たせなかったが、毎日書道展特選で彼は故郷へ錦を飾った。そして、ついに故郷へは帰らず終いのようだ。かれの説によれば、地方でこつこつ努力している書家などは、何十年もかけて日展に入選するのを一生の夢とする場合が多いけれども、東京へ出て然るべき大先生に入門すれば、よほど才能が無い場合を除いて、大抵は三十才位までに日展くらいは入選するそうで、多くの書道展は、どちらかといえば大先生方のお手盛りで出品する前に、既に入選が決っているらしい。

彼の属する圭星会というのは三田か篠山か何処かその辺り出身の上田桑鳩という先年物故した書家が創った在野書道団体であって、桑鳩先生の没後はたぶんその一番弟子の宇野雪村氏が主宰しているのではないだろうか。 そして奥平君は雪村氏の弟分であると私は解釈している。書画には在野団体が多い。 在野というのは官につかないで野に在る人の意であるから、在野という言葉があるところには官制があるわけである。 表面上民間団体ということになってはいるが、日展が官制団体であると解釈して大きく違わない。そして、その他は在野団体ということになる。元来、在野の精神というものは<高邁>なものである。 しかし、長い年月の間にはその高邁さが希薄になる。 在野団体が年期を経て勢力を強め、そして反対に官展が競争相手としての力を持たなくなると、必然のこと在野が権威主義に変貌し、地位と名声に固執する方向に移行し始める。そして在野団体からまた新しい在野団体が生まれる。つい先頃、奥平君と電話で長話しをした。彼は最近、毎日書道展の審査員を辞任したという。毎日書道展も、彼が特選になってから既に三十年になる。 だいぶ老朽化したのであろう。 事実、彼が特選をとった時の手法である薄青墨で白雲がたゆたうように書く書法は当時としては非常に珍しく斬新であったが、いまでは田舎の子供でも書くようになった。そして、彼は六十才にもなろうとしているが、まだ在野の高まいな精神を持ちつずけているらしく、毎日書道展の方針に不満であるという。しかし、最近の彼の作品集を見てちょっと気になることがある。 例によって点や線や、そして四角などのアブストラクトが多いのは今更驚かぬが、どうもいままでと同じ様な場所をどうどう巡りしているのではないか。中川一政先生によれば、玄人というのは、一番大切なものの周囲をぐるぐる回っているのが多いらしい。 奥平君も最近は、どうもこの傾向があるのではないかと思う。奥平君の近作にこの傾向が無しとしない。

(彼の年賀状 近作)

  (丑年)     (卯年)

高田の馬場に住んでいた頃、彼は若き芸術家の卵たちと夜を徹して当時流行のシュールリアリズムの芸術を論じた。 私も数回それに参加した。 おかげで、私はそこで

長谷川三郎モンドリアンの名を知り、そして芸術とはなにか、の手ほどきを受けた。今日、私が下手な芸術論を戦わせたりするのは彼の影響である。感謝している。ところで、最近「NHK教育テレビ」で書道講座をやっていた榊莫山氏も、その頃の奥平君の仲間で、テレビを見て氏の髪の毛が薄くなったのに驚いている。

奥平姓のひと塊りの家々の中には、私たちが少年の頃、他所から帰ってきて、一挙に中門、回り塀、白壁土蔵、それに当時としては珍しい洋式の書斎まで付随した立派な都会風の家を建てた人もいた。 聞くところに依れば、この乃木将軍と似た風貌の老人は、栃木県かどこかの女子師範学校の勅任校長を定年退官してきたのだそうである。 亡くなった人の懐(ふところ)算段をするのも少々気がひけるが、察するところ、たぶんその退職金で家を建てたのであろうが、古きよき時代の名残という感じがする。 もっとも、その人が果して勅任校長であったか、また師範学校長に勅任官がいたのかどうか私は知らない。 その家の書斎と称する部屋で私は初めてリノニウムという床材(ユカザイ)を見た。それまで床に貼るものとしては、木の板か、畳か、さもなければ藁むしろしか知らなかった私にとって、リノニウムには西欧の匂いがした。この人は暇つぶしのため、近所の少しばかり字が読めそうな人々に依頼して、碁の相手に来て貰ううのを常としていた。そしてその人々には昼ご飯を供応し、帰りには紙巻の朝日たばこを一袋ずつ必ず渡すのが習慣であった。 定年退職の幸せな老人もまた、自分の時間を過ごすためには幾ばくかの費用が要るものであると言うことを、私はこの人から知った。

この奥平姓の一家のすぐ側に、妙見堂の跡という小さな森になった古い墓場らしきものがあった。そこには、例えば「奥平順次郎豊秀」と彫り込んである古びた石碑などがあった。 こうした<名乗り名>の人もいたということは、この奥平姓の先祖は只の百姓ではなく、郷士か何か侍に近い家系であったのだろう。

前に述べた「正木の本家」のすぐ西隣に、多田と言う姓で、通称も又「多田」という古い藁屋根に白い土塀をめぐらせた家がつい先年まで存在していた。この家は明治初年の田原村初代村長、多田五郎吉の旧居であった。多田五郎吉のちょんまげ脇差し姿の大きな写真が旧田原村役場の二階にあったが、いまはどうなっているか知らぬ。多田五郎吉の孫は武一氏で、どういうつもりであったかこの人は妻帯もせず、一生をほぼ無職ですごした。 二人の姉妹も嫁がず、三人だけで世間の付き合いも少なくひっそりと暮らした。その中、手元も不如意となり、武一氏は家財道具を売り、庭木を売り、屋敷地をうり、ついに住んでいる古家だけになってしまった。その間に老姉妹はあいついで亡くなった。 そして最後に、初老の武一氏がなすこともなく亡くなった。 餓死に近かった。村の人々が相よって葬式を出した。 武一氏の最も近縁と思われた加西郡富田村の助役黒田氏へ葬式を報ずる使者が差し向けられた。 使者は私であった。黒田家は富田村の「べつめ」という所にあって、みるからに古めかしい立派な構えの家だったが、その返事は「多田家とは長年付き合いが無いので葬式に行くつもりもない。 どうぞ村の方々の間で宜しく処置して欲しい」とのことだった。 この「べつめ」という所は柳田国男が、足利時代に開拓された別名(ベツミョウ)という北条からも辻川からも二里ほど南に在る村というのと同じ所ではないかと私は思っている。 実際の位置は北条から一里弱、辻川からは一里半が正しいと思うが、柳田先生も行ったことがないと書いているから、少々の誤差があってもよいだろう。柳田によれば、そこには彼の父の友人である石坂素堂という学者が野原の中に小さな庵室を作って一人暮らしをしていたという。 もしそうであれば、この黒田氏の先祖と石坂先生は土地の知識人同士として、当然親しい間柄であったろうと想像できる。

親戚が誰も来ない武一氏の葬式は、村人たちが相よって済ませた。 氏の僅かな遺品を競売にして得た金を葬式費用に当てた。 驚いたことには、何も無いと思われていた蔵の中から、先に亡くなった氏の姉妹の嫁入り準備であったらしいおびただしい数の着物が出てきた。相当虫が喰っていたとはいえ、すべて手を通したあとが無い新品ばかりであった。いったい何故、それらのすべてを残して武一氏は餓死したのだろうか。村人たちはそれについて色々と解釈を試みた。 しかし、本当の理由は誰にも解らないままである。

いずれにしろ、かっては名家であったと思われる初代村長、多田五郎吉の家の最後は無惨である。大言海の序文で大槻文彦がいう<ばさら>である。 ばさらとは、ばさら髪のばさらである。  そして、私の田舎の方言では、ばさら髪のことを<さんばら髪>と言う。

幕末に強訴事件か何かがあって、八反田組と名づけられた自治組織の大きな村落共同体が、その中の数個地区を分村改廃させられる憂き目にあった、という記録があるそうだが、その頃には、この大きな地区集団の長(オサ)、つまり大庄屋といわれる職務の家が、たぶんわが八反田に存在したらしい。 そして、その後裔がなお現存するとすれば、いままでに述べた正木・奥平・多田の三姓のうちのどれかであろう。 残念ながらわが中村姓でないことは確かである。

(追註:寛延2年の百姓一揆に関して八反田組大庄屋後見人奥平弥惣太夫が欠所重追放になっている。当時の「八反田組」は、北は八反田の北隣りの吉田集落から、南はいまの姫路市砥堀に及ぶ細長い地域であった。)

八反田の村の中央に八坂神社という小さな氏神がある。もともとこの地区には藤田神社という氏神があったが、徳川中期、延宝年間の

雲津川の氾濫で、川下の長目地区の、まだ少し先の小高い処まで流れ着いてしまって、社屋もそこで建て替えたまま今日に至っていて、日常のお参りには不便であった。 そこで大正になって、京の「祇園さん」を新たに勧請して地区の中央に祭ったのが今の八坂神社である。 したがって由緒も謂れもない無格社である。その勧請の首謀者は若き日の父だったよしで、私の子供の頃わが家にはその上棟式の折の幣木が保存されていた。   なぜ特に「八坂神社」を勧請してきたのかということについては、はっきりとした動機がないようである。 ただ、その当時、全国的に「祇園」信仰がすこぶる盛んであったのは事実らしい。 そして「祇園さん」は、即ち八坂神社である。
八坂神社

隣の地区のまだ先にある、自分たちの元の氏神様というのも少々変わっているが、この神社のなまえが藤田神社という、ありふれた人の姓と同じであるのも考えてみると少し変わっている。わが村を開いた偉い人が藤田であったのか、都の情け深い領主が藤田という姓であったのか、またはこの辺りに藤田という字(アザ)の地があったのか、それらは何も解らない。 なぜなら由緒書きも故老の言伝えも、この神社に関する限り一切ないからである。 そして、私が知る範囲では、現在、藤田という姓の家も、地名らしきものもわが村及びその付近にない。藤田などという現代人みたいな名より、もう少し有難そうな、延喜式に出て来るような神社名の方がよいのにと思うのは私だけだろうか。

それに比べると、すぐ隣の中島地区の氏神様は「川裾さま」という雅びな中世風の名前である。付近の小さな平野を流れる小川は、この神社の南あたりで、東から突き出てきた

西光寺野という丘陵地帯の西端の崖で遮られ、大きく湾曲して深い淵瀬になっている。 その付近は無人の離れ地で昼なお少し暗く、私の子供の頃でも通るのに気持ちがよくない処であった。

昔、ここに小さな小屋があって、いつの頃か一人の乙女が住んでいた。 乙女は毎朝その前を通る村の青年にいつか恋をするようになった。 年月を経て、乙女がなおその恋を打ち明けられずにいるうちに、相手の青年が急に前を通らなくなった。 青年が亡くなったものと思いこんだ乙女は、世をはかなんで、その淵に身を投げて死んでしまった。遠方へ所用で出かけていた青年が帰ってきて、ある日の夕方その淵瀬の道を歩いていると一人の女が現われた。 みれば亡くなったといわれたその美しい乙女であった。 乙女が、「私はこの淵にいる水神の娘であったが、貴方に恋したため親神の怒りに触れ人間の姿に変えられてしまっていた。 そして、貴方が亡くなったと思い込み淵に身を投げたが、助けられて今はまた淵の神の娘となっている」と涙ながらに語ったという。伝え聞いた村人たちは、その乙女を哀れと思い、近くに神社を建てて祭った

のが「川裾(かわすそ)さま」の由緒であると謂う。

なんとも優美な物語ではないか。 ギリシャ神話にでてくる、人間の男に恋するニンフの物語にそっくりである。 もっともこの話を、私は誰から聞いたか一切記憶がない。 土地の人々もこの話は知らぬらしい。 とすると、ひょっとしてこれは私の創作かも知れない。 子供の頃から私には、在りもしないことを本当らしそうに思いこむ癖があった。 

帝銀事件の平沢画伯がコルサコフ氏病といって、大脳のなかに小さな空洞があり、それが原因で本人が意識せずして嘘をつく病気にかかっていると新聞で報じられたことがある。 この報道を読んだ私は、ひょっとすると私もコルサコフ氏病ではないかと思ったほどである。 もしこの「川裾さま」の物語を土地の人々が誰も知らないとすれば、これはコルサコフ氏病による作り話だと解釈されたい。 しかし私としては昔、確かに誰からかきいた話である。

 

話をわが地区の八坂神社の方へ戻そう。 八坂神社のすぐ西隣りが多田隆一君の生家である。 多田君と私は昭和十四年にともに姫路の商業学校へ進学した。多田君の家についてはこういうことがある。 

昭和十二年に支那事変が起こった。その年の秋にいわゆる「第五動員令」が発令され、数十万の兵士が一挙に大陸戦線に送られた。 人口五千人に足らぬ田原村からもおよそ五十人が召集された。召集兵たちは村の中心地にある大きな熊野神社

熊野神社の浄の舞の境内に集合し、四列縦隊の隊伍を組み、おおぜいの村人たちに見送られ、福崎駅へ向って勇躍出発した。引率者は応召兵中で最高の階級にある松岡藤吉軍曹であった。彼は私の生家の斜め前の家の人で、満州事変の金し勲章保持者である。殆どが一等兵か上等兵で、伍長すら僅かであった。 数年の後、当時荻窪にいた私が国電立川駅で電車待ちをしていて、偶然見たホーム上の軍人たちは、いちばん低い階級で大尉、最高は少将であって、下士官・兵卒は皆無だった。  当時、立川には陸軍の航空本部があったので、その関係者が乗り降りしていたのであろうが、それにしても、第五動員令の折りの田原村の応召者たちと比べて、この立川駅の軍人たちの階級差は余りにも大きく、終生私の脳裏に焼き付いて離れない。(当時、陸軍将校の軍刀を提げる帯革の裏地は、尉官は藍、佐官は赤、将官は黄と定められてい、どの程度の地位の軍人か、遠くからでも、すぐ判った。)

第五動員令のあと、日本全国が戦勝の喜びに沸き、我われの村も提灯行列、旗行列の連続だった。戦争とはまことに楽しいものであった。そのような村へ、或る日、一人の戦死者の公報が入った。 そして暫く経って、また別の一人の公報が入った。これは少し困った事になったと、ようやく村人たちは思い始めた。そのようなある日、突然のこと一家に二人の戦死者の公報が同時に入った。 

徐州会戦で戦死した多田茂伍長と定夫上等兵で、二人は多田隆一君の兄であった。まさに晴天のへきれきであった。そして、戦勝に酔いしれていた村人たちもがく然とした。 ようやくにして戦争の恐ろしさを知ったようだった。 しかし、それも束の間、人々はまたもや全戦全勝の報道と共に大東亜戦争へと突っ走った。 その結果、この総戸数六十戸に満たぬ小さな地区からだけでも、二十人近い戦死者をだした。

多田隆一君は兄二人戦死の故を以て、県立商業学校の学費を免除された。 しかし、二人の子供の<名誉の>戦死を一度に知らされた彼の両親の嘆きは想像に余る。 とても、学費の免除程度では代えられない。 私は多田君の顔を見るたびに先ずこのことを思い出す。 そして戦争とは残酷なものだと思う。

彼、多田君はわたしと一緒に商業学校を卒業した後、長年の間神戸や横浜で会社勤めをして、そしていまは故郷で晴耕雨読の日を送っている。 先月、私は彼を訪ねて、彼が作った野菜を貰ってきた。 半世紀ぶりに彼の細君にもお目にかかった。 彼女もまた私の旧知である。

八反田の南隣は長目(ナガメ)地区で、そこは、かって久米の仙人が配流されて住んだと謂う伝説がある、と柳田国男が書いているが、私の子供の頃にはもうそのような話は消えて無くなっていた。 大和の久米寺へ行ったついでに調べてみたが、そのような記録は無いようであった。 久米の仙人は、川で洗濯する女性の白いふくらはぎを見て、雲の上から落ちたという伝説があり、あまり女性に気を執られ過ぎると失敗すると云う教訓になっている。<久米>という一風変わった名前はあちこちにあるが、私はその出自を知らなかった。 しかし最近読んだ本によれば、帰化人のことを<久米人(くめびと)>と呼んだ時代があったそうである。

長目という地名はいっぷう変っているが、誰もその由来を知らない。ただボクの読書渉猟の範囲内では、赤松氏祐筆嵯峨山民部という人が書いた「室町軍記赤松盛衰記巻中 赤松諸士判鑑」というのに、長目氏系譜として長目大炊正正季以下四代が記載され、さらに同じく「天正以前姫路辺郷士之記」に、英保家采地、百貫井奥弾正及び壱丁井奥忠左衛門があり、彼らはおそらく長目を本貫とする地侍集団であったと想像していい。 いま、長目姓の家は消え、おそらく日本唯一、この辺り土着の井奥姓のみが現存する。

千葉県から選出されていた

八反田の北隣は吉田である。戦前、

井奥某という元代議士も、数代前はここの人であったろう。「吉田の田螺(タニシ)採り、八反田のほうこ摘み」という言葉があった。春先になるとわが八反田の女たちは手に手にざるを持って田圃の畦に出、母子草(ははこぐさ)の新芽を摘んできて、餅にいれて食べるのが習慣であった。 それは、

   

君がため 春の野にいでて若菜摘む わが衣手に雪はふりつつ

という歌のような、のどかな光景だった。

母子草で餅をつくる話は古く「

文徳実録」にまで遡る。嘉祥三年(八五0)三月に仁明天皇が崩じたが、同じ年の五月には母の橘太皇太后が崩じた。文徳実録は、それにちなんだ民間の言伝えを載せている。それは毎年二月、母子草が田野に生ずるが、茎や葉が柔らかいので、三月三日、婦女はこれを取って蒸して餅に作るのを例とした。ところが、この年は民間で、餅を作ってはならない、母子がなくなるからであると言い伝えた。「実録」の編者はこれに注して、今年この草が繁らなかったというわけではない。しかし、天は人民の口をかりて、天皇と太后との崩御を暗示したのであると。三月三日、母子草で餅を作る行事がこの頃から行なわれていたことを示す物語である。

八反田の母子草摘みに対して、吉田地区の女たちは、初夏の昼下がり、各々がバケツを持ち広い水田に出て田螺を拾うのを習慣としていた。  いまこのような習慣がそれぞれに残っているかどうか私は知らない。

吉田には柳田国男の兄で宮内省お歌所寄人だった井上通泰博士の旧居があり、いまは播州信用金庫の井上直泰氏がその家に住んでいる。 そして、その裏にある小さな別棟が、歌人通泰の蔵書を保管する{井上文庫}であった。戦後すぐ、村の大運動会に井上文庫の一部を展示してもらうべく、私は山口氏の母堂を訪ねたことがあった。 彼女は当時、村の婦人関係の要職をほぼすべてしめ、なかなか堂々としていた。 「井上文庫は自分のものではなく、しかも、持ち主である通泰先生の嗣子がフランスかどこかへ行ってしまって連絡がとれず困っている矢先なので、正式という訳にはいかぬが」と、前置きして、私をその小さな書庫の中に入れてくれた。中には、和綴じの銀杏本のようなものが多く蔵されていたのを憶えている。当時は、山口直泰氏の弟で保健所の所長をしていた頼夫氏夫妻がその家に母堂とともに住んでいた。 頼夫氏は少々そそつかしい性質のようだったが、私には非常に親切で、或る時も私の講演の原稿を作ってくれたことがあった。 後日、交通事故かなにかで亡くなられたと聞いている。医学者であり歌人であった通泰博士の、      

  

うぶすなの森の山もも ふるさとは かなしきものよ 恋しかりけり

という歌碑が辻川の氏神の境内に在ったと思う。 この、「うぶすなの森の山ももふるさとはーー」という上の句は柳田も好きであったとみえて、そっくり同じ上の句を歌垣(うたがき)に用いた和歌を彼も作っている。

(後注:井上文庫はだいぶ後に「南天堂文庫」と呼び名が変り、いまは姫路市図書館に保管されているらしい。)

戦前は神戸へ行っただけでも近所への土産が要ったこの平和な村にも、いまや文明が押し寄せてきた。 村の田圃の真ん中に中国自動車道の巨大なインタ−チェンジができた。 そして、大阪と大書した矢印の標識が目立つ。 田圃と田圃の間にも舗装道路が縦横に走り、ついに、かっては夢にも考えなかった恐ろしい交通事故さえ起こった。或る夜、道に迷った自家用車の青年が田圃の間の舗装道路で、仕事帰りの村の若い主婦をはね、死亡させてしまったのである。 文明とは、このような痛ましい犠牲の上に成り立っているものか。

話はかわるが、私の遠い親戚に加西郡富田村の助役をした川島市次という人があった。 第一次大戦では

駆逐艦朝風 .に乗って地中海まで行った海軍一等兵曹で、なかなかの学者であった。この人の酒席における十八番は相撲甚句で、それは

−−神崎郡の村ずくし−−、ところは辻川警察前−

で始まり、

多田の男にただしられ−−、何時かおなかも太うなる。 そんなこととは砂川の−

ねっから意見も重国で−−、頭にかんざし西光寺、尻に膏薬はっ反田、どすこいーどすこい

と、戦前の神崎郡の旧地区名がえんえんと続く。

この人が亡くなってのち、田舎の人々に折りにふれて訊ねてみるが、もう誰もこの唄を知らないようだ。 これもまた、幻の里謡となってしまったらしい。 おまけに、改訂神崎郡誌という大きな本をみても、旧田原村役場の所在地だった辻川に警察署があったという記録は無い。 これも不思議なことであある。 そして、今やその歌詞の中に出てきた多田、太尾、砂川、重国など郡南部の村々は、ほぼ姫路市に吸収合併されてしまって、わが八反田や長目は姫路市に隣接する神崎郡最南端の村ということになった。

かって郡中央に位置し、牧歌的な稲作農村であった田原村は、戦後の町村合併により福崎町の一部となり、そして福崎インタ−チェンジは姫路市の裏玄関と呼ばれはじめた。  私は数え年二十四才の暮れまで、ここで生まれ、そしてここで暮らした。

二、

私の先祖

私の先祖はつまびらかでない。 二十年前、

箕面ロータリークラブへ移った折、私たち新入会員による自己紹介の時間があった。先に登壇した帝帽商事の大橋氏は、祖父は天竜川の改修工事に功績があった大庄屋であると言い、開東の土肥社長は住友・鴻池と並ぶ浪華の豪商の直系であると説明した。 次ぎに順番が回ってきた私は、「残念ながら私の先祖は不明である。 しかし有難いことに、それらしきものを調べてくれた学者がいる。 ダーヴィンという英国人で、彼によれば私の先祖は猿であり、そのまた先はアミーバであるらしい」と言ってお茶を濁さざるを得なかった。 ことほど左様に私の先祖ははっきりしない。

子供の頃、夏休みの宿題に先祖の系図を作ってこいと命じられて、過去帳を見るためお寺へ行ったことがある。 しかし姓のない時代のことではあるし、おまけに忠吉、忠次郎、忠左衛門など、国定忠次一家のような名前が数代続いていて、ついに解らずじまいであった。

言伝えによれば、中村の家は、むかし市川の向こう岸から移住してきたそうで、旧姓松本を途中で改姓し、いまの中村姓になったと謂う。なるほどいま、福崎町の細密地図を見ると、川向こうの、いま福崎警察署がある辺りが「中村」という小字になっている。 

 

 猪篠の山岳

後醍醐天皇の元亨年間

(1321AD)に神崎郡猪篠村の山岳に集中豪雨があり、山岳崩壊池沼決壊の大洪水となり、下流市川の流水大変革をなし、人畜の損耗限りなく、後世俗に天魔の祟りによる「大山洪水」と称した(市川町上田中諏訪神社由来書 らしいが、このとき流民となって川向こうの小字中村地区から移転してきたのがわが先祖ではなかったろうか。    

私の生家は祖父、千代太郎が、同じ地区内で百姓をしている本家から日清戦争のころ新宅したものである。 だから私の兄で三代目ということになる。沢山の兄弟のうちで下から二番目だった祖父は、分けてもらえそうな田畑もないので、農業を諦めて呉服屋を始めた。 はっきりした年代は解らぬが、これもやはり日清戦争の前ころと思われる。得意先は神崎・飾磨・宍粟の山間部に点在する山林主が多かったようである。 荷車を数台連ねて、泊まり掛けで遠距離を厭わず行商するのが常であったと聞いている。旅先の定宿としては、例えば鹿谷(カヤ)だったか神種(コノクサ)だったか忘れたがそこの芹川(セリカワ)と「う民家を特約していたそうである。このような定宿民家は現在でいう民宿の原型であり、旅館が少なかった時代には普遍的であったらしい。

 

祖父は、わりあい才覚もあり将来が期待できると思われたらしく、そのため少々 <提灯に釣鐘>的なよい家から嫁が来てくれた。 これが私の祖母《なか》である。

百人一首の歌かるたと銀の<かんざし>を持って輿入れしてきた祖母《なか》の里は、いまの市川町神崎にあった小藩の大きなご用商人の家であった。 この家のことは後で書くつもりである。

ところが不幸なことに、祖父は三十五才ころから病気にかかり、寝込んでしまった。もともと田舎の百姓の子にしては少し優さ男(やさおとこ)過ぎたそうで、それはいま残っている祖父の写真を見てもうなずける。 

なんとかして病気を癒そうと、あちこちの神仏を信心し、お詣りを重ねたらしい。もとは西本願寺系のお寺の檀家であったが、その折、特に日蓮宗に深く帰依し、改宗して妙法寺の檀越(だんおつ)となった。

 

妙法寺は福崎町山崎にあり、大本山別院と謂うことで土塀には何本かの横線が入っている。 孝明天皇の妹に村雲尼公という方がいた。 恋愛事件か何かがあって謹慎させられたらしい。 京都にあった日蓮宗唯一の門跡寺院で、いまは近江八幡に移っている瑞竜寺のことを{村雲御所}と呼ぶらしいが、村雲尼公はここに住んでいた。 村雲尼公が住んでいたから村雲御所というのか、既にあった村雲御所という処に尼公が住んだから村雲尼公と呼称されたのか私は知らない。いずれにしろ、この尼公のゆかりの僧で日禧上人という方が、妙法寺に一時住んでいたことがあって、その分墓が境内にあり「村雲日禧上人之碑」というような文字が刻んであったのを記憶している。 寺の方では、<村雲尼公ゆかりの人>という表現をしているが、察するところこの僧は、当時問題になったという尼公の恋愛事件の、当の恋人ではなかったか、そしてその罪で妙法寺へ配流されていた、というのが私の推理である。資料は沢山ある筈だから、興味のある人が調べてくれるのを期待している。 もっとも、そのようなことは寺の方では先刻ご承知のことかもしれぬが、そうであれば何故、そしてどのような縁故で妙法寺のような田舎寺へ配流されたのか、その経緯などもまた興味ある研究対象ではないか。 (後注:その後だいぶ経って、この寺の由来書を解読する機会があった。それによれば、年代的にみて配流された高僧はどうやら日禧上人ではなく、「尊」の字がつく高僧らしい。「尊前」という言葉が由来書に数度出てくるが、それが「日尊」という特定の僧の敬称か、あるいは普通名詞的敬称として「尊前」という言葉を使用したのか、いまのところ定かではない。幕末前後の天皇家、九条家、閑院宮家の入り組んだ家系図を見ると「日尊」という僧・尼の名は確かに存在するが、その人が妙法寺へ配流された人かどうか、これもはっきりしない。)

以前、この寺の本堂の天井に菊の紋が描かれていたらしいが、不敬に渉るというので遠慮をし、いまはその絵の上に赤い蓮の花を印刷した紙が貼ってある。 菊の紋章などというものは、おそらく明治の中ごろまではあまり厳しい規制がなく、皇室と僅かでも縁故があれば願い出て、寺格を誇示するために使用したのであろう。

太平洋戦争の末期、民間にある不用不急金属の回収が行なわれた折、寺院の梵鐘も供出の対象になった。 しかし、深草元政上人の鐘銘が鋳込んであって歴史的価値があるという理由で、妙法寺の釣鐘は供出を免れた。

その頃、漢詩の勉強をしていた私は、院主園田麗雄師に勧められて鐘銘を見るべく鐘楼に昇ったことがある。ところが、くだんの鐘銘は「華鯨もと音あるに非ず、撞木また声無し。合して響きとなる−−」というような、いまは忘れてしまったが陳腐な詩文であって、失望したのを憶えている。このような言い回しについては、たしか端唄か小唄にも「

鐘がなるやら撞木がなんとかーー」という、少々色っぽいせりふがあったように思う。 その源流はたぶん唐宋八家あたりだと想像するが、なぜ深草の元政がそのような詩想の欠落した銘を鋳込んだのか理解に苦しむところであると思った。

ところが後日知り得たところによると、

元政は性霊派の詩人として詩文界では石川丈山と共に一時代をつくりあげた人として有名で、乾山・宗達など、いわゆる<鷹が峰派>の芸術家たちの理論的指導者であったらしい。

西鶴によれば、堺の富豪商人たちが学んだ学芸とは「

茶の湯は金森宗和の流れを汲み、詩文は深草の元政に学び、連俳は西山宗因の門下となる」のが極めつけと謂うことになっている。 若気の至りというか、野郎自大というべきか、いずれにせよ、私が陳腐で詩想が欠如していると思った鐘銘は、江戸時代に於ける一流の文人に依るものであって、私ごとき素人が批判すべき対象ではなかったようである。

姫路城主榊原元政は法華に深く帰依し、妙法寺へ度々来たことがあるといい、のち出家して京の深草に庵を結び、深草の元政(げんせい)上人と呼ばれ、詩文を友として名を挙げるようになったという、不思議な言い伝えが妙法寺周辺に戦後しばらくまで残っていた。 

しかし後日調べたところによれば姫路藩の榊原侯一家には元政という人は存在せず、京深草の元政上人は彦根井伊家の縁戚で出自ははっきりしているようである。

話はもとへ戻る。

病気の祖父を背負うようにして祖母もあちこちの法華道場をたずねたという。 夫婦は一心不乱に南無妙法蓮華経の題目を唱えた。 しかし薬石効なく、そして法華経の功徳も顕れず、祖父は他界した。 石塔によれば行年三十九才。 常在院霊山日住信士。 病名はいまでいう結核らしい。

祖父夫婦がなぜ浄土真宗から日蓮宗に改宗したか。 二つの宗派は何処が違っているのか、などを考えていくと、仏教とは何かという命題の解明に一歩近ずく。

十五年ほど前、「私の家の宗教は仏教か」と、カナダへ留学した子供が聞いてきたことがある。英国国教教会派のカレッジ(cegep)へ入学するにあたって、学校当局から訊ねられたらしい。私はちょっと困った。 確かに私の生家は仏教で、そして両親の葬式も仏教で出したが、私が仏教徒であるかどうかは多分に疑問である。 何故なら、仏教の教義も知らぬし、お経の意味・内容も知らぬ。 そのようなのが仏教であり、そして仏教徒というのはそのようなものと言ってしまえばそれまでだが、自分から「私は仏教徒である」と言明するのは少々後ろめたい。 或るキリスト教関係者が、仏教徒と称する日本人のうち少なくとも九十五パーセント以上の人々は仏教徒と考え難い、と言っていたが、厳密な意味では確かにそうであろう。 これは日本に限らず、現在の韓国でも同じらしい。 ある韓国人の話では、現在、約七十パーセントの韓国人がキリスト教徒であると言う。 別の韓国人に聞くと、それはせいぜい三十パーセント程度であろうと言う。 両国とも、いうなれば重複宗教徒が殆どで、西欧やアラブのような厳密な宗教意識を持っていない。 そのため信仰や宗教に起因する苛烈な争いがない社会であることは幸せである。

「わが家の宗教は仏教か」の質問に就いては、取りあえず「そうである」と学校当局に報告するよう指示しておいたが、あとですぐ、にわか勉強してみた。 その結果は、次に記すような<私の超簡単な仏教解説>となる。

まず、仏教において「ほとけ」とは宇宙である。または「無」である。 大日如来、即身仏、阿弥陀仏、ろしゃな仏(奈良の大仏)など、宗派や教典によって色々呼び方が異なるがすべて同じ意味、つまり「宇宙」、「無」または「空」の意である。 このことは空海、最澄、日蓮、親鸞などの大学者たちは大蔵経を読破して、知り過ぎるくらい知っていた。しかし「嘘も方便」という考え方で、無学な大衆が受け入れ易く、そして喜ぶような、各宗派毎に別々の説明をしていた。例えば、梵語のアミターバという言葉の音訳が浄土宗の阿弥陀である。 アミターバの意訳は無量寿・無量光で、無限の時間・無限の空間、つまり般若心経における色即是空の「空」と同じになる。 「色即是空」は、

鈴木大拙の英文では  WHATIS THE UNIVERSE, THAT IS EMPTINESS  になる。「ほとけ」を説明するのに色々なお経があって、天台・日蓮宗は法華経、真宗は無量寿・阿弥陀経、禅宗は観音経を、<主として>使用する、というような習慣があって、それが仏教宗派間の大きな違いとして庶民の目にうつるのである。

文人趣味の士大夫を対象として知識階級に広まった禅宗は詩文を駆使して「空」を強調したが、文字も読めぬ大衆を相手とした浄土宗は、阿弥陀という抽象仏を理屈ぬきで拝ませることによって、庶民に「死後の極楽浄土」を保証した。日蓮はイスラムと同じく、仏という偶像を忌避して、南無妙法蓮華経と書いた文字板を「おまんだら」と名ずけ、礼拝の具体的対象にした。「他力本願」の浄土真宗は、お他力、つまり阿弥陀仏の力、別の言葉で言えば「宇宙自然の摂理」だけに頼れと説くが、それに対して、真言宗や日蓮宗は、それだけに留まらず人間の持つ霊の力をも利用せよと、荒行や加持祈祷を積極的に取り入れている。

仏教における「ほとけ」の定義は前に述べたように「宇宙およびそこに在る全てのもの」という複合体である。これに対して、キリスト教の唯一神、「ヤーウエ」(これはつい最近までエホバと発音されていた)は、聖書によれば、存在を与えられたものではなく、自分から存在しているもの、即ち「宇宙(の創造主)」という、いはば単体である。複合体と単体の違いこそあれ、仏教の仏とキリスト教の神はほぼ同じと解釈してよい。ただ一途に仏にすがるのみ、と説く浄土真宗と、唯一神ヤーウエだけに頼れ、と説くキリスト教は、非常に酷似している。 いや、殆ど同じであると言えよう。

これは、以前から不思議なことだと思っていたが、最近ある真宗の僧と昼食に隣あわせる機会があったので、訊ねてみた。この人が言うのには、「浄土真宗教学内部では、以前からこういう説がある。鎌倉時代には景教の漢文による図書が既にわが国へ輸入されていたから、親鸞もそれを読んだ可能性が充分ある。そしてそれにヒントを得て、宗祖親鸞は浄土真宗を開いたらしい」。 景教とは中国唐代に流行した中国版キリスト教であって、聖武天皇の御代に、来日した景人に位階を賜ったという記録が続日本紀にあるところからみると、相当古くからわが国にも伝わっていたらしい。なる程、そうであれば浄土真宗とキリスト教が似ているのも納得がいく。

ところで、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏と、唱名こそ異なれ、日蓮・浄土宗とも、いや他の宗派もみな、お経のなかでは同一または似たような句や文章の繰り返しをする。 なぜ同じことばかりを何度も繰り返すのかは、私にとって長く疑問であった。 しかし、宗教学者渡辺照宏氏によれば、このような繰り返しは、経典というものが只の記述ではなく、説得または瞑想の準備であり、ただの理解だけでは無くて印象ずけ、いわば体にリズムを刻みつける効果を予想するからであり、念仏や題目もその類であって、音楽におけるラヴェル作曲のボレロの繰り返し効果もそれに似たようなものであるらしい。 早速、ステレオでボレロを聞いてみたが、私にとっては、あまり効き目があるとは思えなかった。 催眠術と同じで、人によるのだろう。

どの仏教宗派を選ぶかについて簡単な目安を以下に列挙してみる。

呪術を信じ、加持祈祷が好きな人は「真言宗」へ行け。如来の知恵の光と秘教儀式がシャーマニズムの恍惚感を与えてくれる。

もうこの世ではどうにもならぬ。せめてあの世では幸せになりたいと願う人は「浄土系宗派」へ行け。ただ念仏を唱えるだけで簡単に極楽へ行ける。

念仏だけで極楽を期待するのは気がひける。自らの持つ潜在力も活用しょうと思う人は「日蓮宗」へ行け。題目を万遍唱えれば内心から活力がでて来る。

法華経は信じるが、あまり信仰努力はしたくないという人は「天台宗」へ行け。古い鎮護国家の伝統と完成された宗教様式美が楽しめる。

お経よりも中国文学が好きな人は「禅宗」へ行け。棺桶の中からでも唐詩宋詞による美しい引導の言葉を聞いて、うっとり出来る。

理屈が好きな人は「法相宗」へ行け。法相哲学が古代インドの観念の遊びを教えてくれる。

いま自分が住んでいるこの世界が充分美しいと思う幸せな人は「華厳宗」へ行け。この現実世界こそ美しい仏のみ心そのものである。 つまり現世は華厳である。

ついでにキリスト教も要約しておく。あの世での幸せは願うが、浄土宗では古くさいと思う人はキリスト教へ行け。そこでは天国へ行ける。極楽と似たようなところだ。

しかし、少しは社会奉仕もしたいと思う人は、同じキリスト教でも「カソリック」の方がよい。色々な社会事業に参加できるし、華やかな宗教様式美も見ることが出来る。

自分だけは清貧で禁欲的でありたいが、他人のことはどうでもいいと思う人は「プロテスタント」になれ。倫理的禁欲生活による自己満足が得られる。

およそ仏教でもキリスト教でも我が国の宗教各派は、おしなべて自派の内容については懇切に説明するが、それが他派とどう違っているかと言うことについては殆ど言及しない。 その原因は、宗教家としての慎み深さが、ややもすれば誹りになり兼ねない他派との比較説明を躊躇させるらしい。 それが、結果として宗教的に無知識な人々に無用の混乱を招いているようだから、偏見と独断のそしりを受けるのも覚悟のうえで敢えて以上の通りの簡単な説明をしてみたまである。関心のある方はこれをたたき台にして、更に研究されることをお勧めする。

しかし断っておくが、事実上世間で通用している

以上、少しばかり仏教の説明になってしまったが、それというのも、なぜ私の祖父母が真宗から、わざわざ日蓮宗に改宗したかを、客観的に考えてみたかったからである。結論から言えば、祖父母にとっては、ただ非積極的に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで死後の極楽を期待する浄土真宗より、積極的に現世利益、即ち病気の癒ることを求めて行動する日蓮宗のほうが、より頼り甲斐があるように見えたからであろう。 少なくとも、勇ましい太鼓の音と共に南無妙法蓮華経を懸命に唱えれば、その場でのエクスタシーに浸れることは間違いない。その点、消え入るような念仏だけでは、体得できるのは、せいぜいあの世での幸せに対する期待感だけであったろう。

世俗「宗教」は、そのすべてが「迷信」である。宗教から迷信的部分を取り除いたら、宗教そのものが、この世では存続し得ない。宇宙のシステムを説く無神教を教義として大本山「永平寺」を開いた道元にしても、彼の死後、ほどなく迷信を加味した世俗的「曹洞宗」に衣替えして、ようやく教勢を維持できた、といういきさつを知るべきである。

祖父母が信仰した日蓮宗は、もともと妙法蓮華経をお経の第一に置いた天台宗から、日蓮をリーダーとする行動派が分かれて作った実践的宗派である。 行(ギヨウ)や加持祈祷を取入れ、積極的に自己の内在能力も生かそうという、いはば活力集団であるから、唯ひたすらに弥陀の助けにすがろうという浄土真宗とは、正反対の立場にある。  この積極性のゆえに、日連宗からは次々と新興教派が興り、それがいま尚絶えぬのは当然といえば当然のことである。

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地区は六十戸ほどであるが、ほとんど皆ごく普通の百姓家で、話の種になるような由緒や因縁は皆無に近い。 強いて探し出しても、次に述べるような程度に過ぎない。

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