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 (左側は英国GATESHEAD市長Coats氏)  中 村  健 1999年

自伝「パリ祭の男」を書いてすでに十年になる。 齢を重ねて、いまや74歳、
波乱の人生もようやく終着駅に近づいた。     去年、1999年秋には
ロータリー財団GSEチームを率いて北イングランドへ、ホームステイ1ヶ月
の旅に行ってきた。 誇り高き男の老残の姿が、如何せんその写真にくっ
きりと顕れている。 われも昔は青年なりしを・・・。
 

中村健自叙伝パリ祭の男その3−4(a)

 

 
 
 
 
 

三、 祖母の話

祖母の話の方へ移る。祖父が残した子供は二人、即ち私の父賢二と、神戸へ嫁いだが若くして亡くなった叔母《ちか》である。二人の子供を抱えた祖母の苦労は想像に難くない。 その、祖母は一体どこから来たか。

兵庫県神崎郡の北辺に旧粟賀村福本というところがある。いまは神崎町になっている。 
生野街道に面した小さな村落だが、僅かばかり城下町的な風情がある。 戦前、街道の両側に格式ばった式台をもつ武家屋敷も数戸あったが、今はどうなっているか知らぬ。幕末には、鳥取池田侯の支藩として播州粟賀藩一万石がここにあった。 旧藩公池田徳潤は藩籍を奉還して正五位子爵となり、東京へ移ったが、所帯を持ちきれず爵位を返上してしまった。 旧藩士たちはそれを残念がって、その後、大正十二年に至るまで手を尽くして復爵運動を続けたが、ついに実らずじまいに終わった。 
藩公の屋敷跡は、いまは神社と公園になっている。しかし、維新にはこの小藩からも幾人かの名士が輩出した。その内、もっとも著名人は明治初年にわが国の鉄道を建設した松本荘一郎である。 
松本荘一郎は日本で最初の工学博士、息子の松本丞治は、明治・大正・昭和を通じて、わが国に於ける商事法学の最高権威で、戦後も吉田内閣の閣僚をつとめ、新憲法の起草に参画した。 われわれの商業学校の時の商業法規の教科書も、確か松本蒸治著となっていたと記憶している。

第一回の廃藩置県では、旧粟賀藩領は遥か離れた鳥取県に飛び地として編入された。 今から見ると不思議なようだが、当時の粟賀藩の人々の心理的ないし経済的環境は、姫路よりもむしろ鳥取に近かったと考えられるから、鳥取県への編入にはあまり抵抗がなかったと思える。

それよりもむしろ、現行の兵庫県区域限界の方が少々おかしい。但馬を鳥取から隔離し、淡路を阿波蜂須賀藩から引き裂き、丹波の篠山まで摂津にくっつけて兵庫県という、いわば合成県にしてしまったのは、佐幕方の旧藩を明治政府の直轄下に置くという大事な目的があったのだろうが、それにしてもこの兵庫県区画は少々強引に過ぎる。 淡路などは、最初は名東(ミョウドウ)県という旧阿波藩地域の新しい県になっていたのを、わが国最後の切腹刑で有名な稲田騒動を機にむりやり引き裂いて兵庫県に包含したのである。それにしても、他府県に比べて異常な程の強引さと、そしてそれとはうらはらのきめ細かい計画で兵庫県をつくったのは、いったい誰の判断や計画によるのだろうか。

私見によれば、それはやはり旧出石藩士、桜井勉の仕業であろう。 桜井勉は新政府の内務省につとめ、日本地図編纂の総責任者となった。 但馬国出石は丹波に隣接し、播磨の北辺にある粟賀藩とも縁故が深い。 その旧藩士、桜井は自らの持つ土地勘を駆使して、明治政府に後顧の愁い無からしめるような区画割を策定したのであろう。 その結果が 兵庫県という寄せ集め県になった。その影響は今も続いている。 例えば、県人会活動の盛んな東京・大阪にも、そしてハワイにも兵庫県人会が存在しない。 考えてみるとそれは当然のことである。 尼崎の人と山陰香住の人の間には、おなじ郷党意識など存在する筈がない。

私がハワイに居たとき、それは昭和三十二年の正月から夏までだが、ホノルル日本人商工会議所の会頭をしていた磯島という紳士に、氏の出身県を訊ねたことがあった。 その頃ハワイでは、初対面の日系人同士の挨拶に、先ず相手の出身県を訊ねるのが習慣に近かった。 私の質問に答えて、氏は兵庫県の出身であると言った。 そのとき、私はハワイで初めて兵庫県人にお目にかかったのである。 ところが、兵庫県とは言うものの氏の郷里は須磨であった。 須磨と神崎郡の田舎とでは、もうそれ以上には同郷人としての親密な話題がない。 氏の話では兵庫県出身の日系人は殆どいなく、県人会の作りようが無いとのことであった。当時、ハワイで最も著名な同郷会は、沖縄県人会を除けば、広島・山口・熊本県人会などで、相馬盆ダンスパーテイを主催して気勢をあげる福島県人会がそれに続いていたようである。 県人会以外にも、山口県大島郡人会や広島県地御前(じごぜん)村人会などがあって、それぞれ郷党意識で団結していた。

私の住む大阪でも、兵庫県人会はなく、代わりに播州会というのがあって、福崎駅前出身の藤本健一君などはそれに出席することがあるらしい。 会長は去来川(いさがわ)という人だと聞いているが、この珍しい姓は確か神崎町中村地区にあり、旧粟賀福本藩士の筈である。私の学友にもこの姓の人がいて、神戸銀行に勤めていたが若くして亡くなった。県人意識よりも旧国人意識が、いま尚より濃厚である但馬の人を見るには、阪神方面から帰る全但バスに乗ればよい。 山陰言葉が飛び交い、明らかにリラックスした但馬の人々の交歓が郷党意識を表徴している。 そして、旧粟賀藩の人々の帰属意識は但馬ないしは因幡の方により近い。
あまりにも東端に偏した神戸県庁は、その贖罪意識であろうか、但馬空港をつくり、但馬博覧会に肩入れし、但馬の人々に異常なまで迎合する。 しかし但馬はその手に乗らない。但馬牛や、但馬屋の豆腐で、但馬の個性を主張すること、あたかもカナダ政府とケベック州のごときものがある。

粟賀藩の殿様が瓦解前に藩札をだいぶ発行した。 そのままでは通用し難いので藩のご用商人に保証印を捺させた。これが粟賀藩札である。いま旧郡役所を移築した福崎町辻川の郡資料館に展示されている。それによれば保証人は二人、即ち備前屋金兵衛と川口屋太右衛門である。   備前屋は福本の鵜野家で、当主は戦後も村長をし、石灰山を経営し、ときには地方紙に載るような小事件を起こしたりした。 私の学友、林唯夫君はこの人と仕事の上で面識があると言う。
もう一人の方、川口屋太右衛門は即ち私の祖母の実家である。 市川町神崎字福渡(ふくわたり)にある。 旧藩時代、市川に面した内陸河川港で、粟賀藩の対外交易港であったらしい。らしい、というのは、実は福渡よりもその対岸にある屋形(やかた)地区が外貿港ではなかったかと私は思うからである。粟賀藩庁より約一里弱南に位置する屋形は、福本藩の分家として幕末には二千石の殿様が居た所である。 

私の遠縁に石田という指物職人で、そして福崎駅前でタクシー運転手をしていた人がいた。 一時この人と組んで私は闇ブローカーをしたことがある。 祖母の実家の婆さんは「石田はあれでも屋形の家中(カチュー)である」と言っていた。 たぶん「旧屋形藩士」ということか、または屋形の旧士族という意味だと、私は解釈している。因州鳥取池田侯の、一万石の分家が播州粟賀藩で、そのまた分家二千石が屋形の殿様だが、そうした一万石以下の場合は旗本ということになる。 そのため本家の粟賀藩は廃藩置県のとき一万石に満たず、華族になれぬとあって、あわててご本家の鳥取藩から形式上三千石足してもらい、ようやく華族の仲間入りしたといういきさつがある。

宮本常一先生の本にこういうことが書いてあった。 毛利藩は武士が蔵米取り(扶持)と知行取り(給領をもつ者)とに分かれていた。 知行取りはその給領地に家老や庄屋まで置いて、小さいながら行政組織を持っていた。村の中には武士・足軽・中間などが多かった。 そこには権力による秩序があった。
この仕掛でいくと、婆さんが言う「屋形の家中」という意味もよく解る。 たぶん、屋形という少しばかり都会風の村落は、かっては小さいながら半独立的な小藩を形成していたのであろう。そこにはわが石田運転手家のような侍が幾人かいて、それらの人々はご一新の折に士族という身分を貰った可能性も充分ある。

播州粟賀藩は、市川に面した屋形を表玄関として外貿港にしたとすれば、ご用商人である川口屋は実際の回船業務などを左岸の屋形で行い、右岸にある福渡の方は自宅兼倉庫であった可能性もある。

いずれにせよ、祖母の話によれば祖母の幼い頃、つまり明治十年前後は、川口屋には蔵がまだ八つほど並んでいたそうだ。例年、ある季節が来ると蔵の中の荷物が殆ど出ていって無くなり、そして別のある季節が来るとまた蔵は荷物でいっぱいになるというパターンが繰り返されていた。   それがある年、荷物が出ていったまま遂に返ってこず、あとには蔵の板壁にぎっしりこびりついた積年の一文銭の痕があるだけだったという。  一文銭のさび痕を、紅葉のような手の指先でなぞりながら、空っぽになった蔵の高い天井裏にある窓から夕日が差し込むのをじっと見ていた記憶があると祖母は言った。


(いまなお残る旧川口屋の屋敷跡----兵庫県神崎郡市川町)

そして程なく、蔵も殆ど取り崩され、生野街道随一を誇った商家川口屋が暖簾をおろした。没落の原因は、明治政府の太政官紙幣発行の折、どういう訳か粟賀藩札が交換されず、そのため藩の人々は先ず第一保証人である川口屋にその補償を求め、川口屋がそれに応じたからであると伝えられている。
川口屋に支払い能力が尽きたあと、債権者たちは鵜野家に押し寄せたが、同家の資産の半分で残余の藩札回収を終わった。 そして鵜野家はなお残り得たという話であるが、真偽のほどは知らぬ。

回収された藩札は川口屋の最後に残った小さな蔵にいまも尚保管されている。 地元の銀行が貨幣の展示会などをする折りに、ときたま借りに来ることがあるそうだ。幕末、鵜野・川口屋両家が保証した粟賀藩札の十文に対し、姫路藩札六文の交換比率であったらしい。 いまの外国為替レートと同じで、弱い貧乏な国の通貨は、強い国の通貨に比して安いレートでしか通用しなかったのである。 外国為替を知らぬ方のためにもっと解り易くいえば、粟賀藩札十文を持って姫路へ物を買いに行っても姫路藩では六文に相当する品しか売ってもらえなかった、ということである。

わが川口屋の先祖が何処から来、そしてなぜ栄えたのかは、今となれば知るよしもない。 ただ、最後の当主は、庶民が歩いて登る広峰神社へ駕篭で登り、そこへ絵馬額を寄進したとか、あるいはまた、家のすぐ隣にあって、長らく村長を勤めた上野利平氏が住んでいる瓦屋根の家は、藩公ご来駕の折の接待所であったとか祖母から聞かされたものである。川口屋の屋号だけはいまも残り、私の叔母が嫁いで後家となり、もう九十才を越えた。没落して、普通の農家になっていた川口屋に嫁いだのであるから、叔母は一生を農家の嫁として暮らした。

叔母が仕えた川口屋のしゅうとは支那事変の頃に他界したが、この老人はまだ大旦那の気分が抜けず、あまり畑仕事もせず、鶴居村の村会議長職を数十年間独占し、それを仕事にしていた。そして、すぐ隣家に住んでいる義弟、上野利平氏を村長にして、二十年の長きに渉り二人で村政を担当し続けた。 
この老人の葬式には、私は「輿(コシ)かき」という、通常最も近親の孫や子供たちが担当する役割を与えられた。 ところが、長年檀家総代を勤めたせいか、または先祖が寄進勧請した寺であったためか、旦那寺の和尚が張り切って、近辺の同派の寺院を総動員して延々四時間に亙る読経をし、しかも途中で棺を周りながら五色の花びらを撒くという念の入れ方で、棺のすぐ側に座っていた私は足が痺れて困ったことを憶えている。 
この曹洞宗の寺は後生か護生か、どういう字を書くのかは知らぬが「ごーしょうじ」という院号で、住職の高瀬氏と川口屋は縁続きの間柄である。高瀬氏の次男が、兄の小学六年生の折りに私宅へ家庭教師として来ていたこともある。
(後註:この寺のことについては、「広島県重要文化財三勝寺の銅鐘」というボクの新しいwebsiteを参照されたい)
 

街道に沿った川口屋の隣家は上野利平氏で、かれは進駐軍によるパージで引退するまで二十四年間、鶴居村村長及び村長代理を勤めた。 私共の本家から嫁いだその妻女は父の従姉であった。利平氏は日露戦争に於ける二百三高地攻めの軍曹で、余りにも苛烈な戦いが続き、ついには大隊長までが戦死してしまったそうである。 そして、軍曹の地位にありながら、最後は大隊長の代行までした、というのが彼の自慢であった。
二百三高地戦では、どういう訳か漬物が無性に食べたくて辛抱できず、缶詰の空缶に野菜を漬けて小石の重石をし、それを腰に吊って戦闘に参加していたが、明日はもう食べごろと思った前夜、何者かに盗まれてしまった。 それが終生残念であったそうだ。
嫁の《かく》という人は、貧乏百姓の娘であったにも拘らず、言葉や振舞いにどことなくしなを作るところがあった。 そのため、私の母や叔母たちからはよく言われなかったが、今になって考えてみると、村長夫人になったのだから何とかして都会風になろうと内心で努力していた、いわばアプワードオリエンテッドの人であったかも知れない。  しかし、利平村長の方は、生涯、自転車にも乗らず、立派な口髭に山高帽、そして桐下駄に羽織袴という、最も典型的な田舎村長の風体で押し通した。

村長夫人は毎年一・二回、その当時田舎では珍しかった鮮魚などの手土産を携え、私の祖母を訪ねて来ていた。 だが、すぐ近所にある彼女の実家、つまり私どもの本家の方へは、ついでにちょっと顔を見せるという程度であった。 なぜ彼女が私共の家の方にばかり、律儀に土産を持って訪ねて来るのか不思議だった。 
それについて、祖母の見解はこうであった。 昔、祖母が嫁いできた頃、祖父の兄嫁で村長夫人の母親にあたる人が、病気で長らく寝込んでいた。その人が亡くなる迄ボクの祖母が懸命に看病した。それを彼女が記憶していて、何十年の後まで有難く思い、義理堅く訪ねてくるのであろうという。
この話を聞いてから後、私は、子孫のために他人に対しても出来るだけお世話をしておこうと思うようになった。

ところで、先日昭和設計の林唯夫君から頂いた川島四郎少将著の「たべものさん有難う」という本を読んでいたら、旅順の戦いでロシアのステッセル将軍が降伏した最大の理由は、露軍に青野菜が欠乏し、壊血病が続出したからであると記されていた。  当然、日本軍の方でも青野菜は不足したであろうから、二百三高地で腰に漬物缶を吊って戦った、わが上野利平軍曹も、日本食が食べたいという望みだけでなく、もっと切実な、潜在的生理要求によって青野菜を激しく求めたのではなかったろうか。

祖母および祖母の里の話がこのあとも長く続く予定だが、これはひとえに、祖母に対する私の深い思い入れがいまなお続いているからである。 物心ついて以来の二十数年間、私たちは常に四人家族であった。 父が幼い頃にすでに亡くなっていた祖父は、私にとっては、いわば中世の物語の中の人でしかない。 父もまた似たような存在で、日常の記憶の中には存在しない。 
祖母と、母と兄と、そして私だけが一組になって暮らしてきた。 少々ヒステリックな母は、父代わりの恐い存在だった。 そして、祖母は、父母が健在な一般家庭に於ける母のような役割を果たしていた。 同じ年頃の老女たちに比べて、珍しく祖母は字が読めた。字だけでなく、絵もかけた。そして手芸もできた。 小学生の頃、夏休みの宿題として提出した私の図画や工作は大抵祖母の手になるものであり、それに金賞や銀賞の紙が貼られると、いつも後ろめたい思いをしたものである。 
その祖母が、じぶんの「母は生野の手前にある猪篠の酒井藤吉という素封家から輿入れしてきた」という話から始まって、色々な過去の出来事を、多感な少年の頃の私に何度も話して聞かせたのである。多分に知的早熟であり、理解力も出来ていた私に対して、そのような昔語りを聞かせるのは、祖母にとっても話し甲斐があり、恐らく楽しいことであったに違いない。そして、還暦を過ぎた私もまた、その知識を次の世代の誰かに伝えたいと考えるのは、ごく自然のなりゆきである。 私はいわば自家版の稗田阿礼かも知れない。

祖母は、川口屋の孫娘とは言うものの、先代がすぐ隣に新宅し、前に述べた上野村長宅と共に軒を連ねた三軒家の内の、北の端の家が実家である。田舎には数少ない、回り縁から生け垣に囲まれた前栽が見渡せる閑雅な家であった。川口屋の没落後、祖母の実家は独自にまた雑貨屋らしきものを始め、それはそれでまたささやかな成功をおさめ、再び生野街道で最大の店と言われたらしい。 
しかしそれも訳あって閉店し、つぎに質屋を始めた。 ところが、金を貸してやらなかった客の恨みによる放火で全焼してしまった。 だから、いま祖母の姪にあたるお京さんという人が住んでいる雅びな家は、その後に建てられたものである。    
祖母の長兄は紋太郎といって、まだ旧藩校慶福寺山に校舎があった頃の数少ない姫路中学卒業生であったが、実社会へ出てからはあまりぱっとせず、どちらかと言えば困り者に近かったらしい。しかし、明治の初めのことであるから他に字の読める人も少なく、村の知識人、または指導者として尊敬されていた。

例えばこんなこともあった。 ボクの兄が近年新築した家の、田圃を隔てて真南に、大きな門構えの旧家がある。 この家の先代牛尾安麿氏は大正の中ごろ田原村の村長をしていた。 当主、牛尾晴行氏は戦前に大学を出た紳士で、戦後の一時期には門長屋で生牛革の屑を原料にして代用アミノ酸醤油を造っていたことがある。 このアミノ酸醤油製造の話を持ち込んできたのは、確か私どもの遠縁にあたる有本という人で、彼は牛尾氏とクラスメートで、当時は山陽皮革の技師であった。 牛尾家の門の近所にある百姓家の人々は、アミノ酸の激しい臭いに辟易していたが、大旦那のなさることであるから表だつ苦情は言えなかった。
戦後間もないある日、牛尾晴行氏の奥さんが懐かしげに祖母を訪ねてきたことがある。 こちらは庶民、むこうはご大家。だいぶ格が違うのでどうしたことかと思った。 聞けば、この奥さんの実家である木村家の父上は、祖母の兄と共に姫路中学へ進学した同じ村の親友で、祖母のこともよく知っていたそうだ。  そして二人の学友にとって近親の女性二人が、偶然近所へ嫁入りして来たのを思いだして、懐かしく思い会いに来たというのである。 この人の実家は旧鶴居村の資産家で、そのような家の方が祖母を訪ねて来られたということは、私どもにとっても些か晴れがましく思った。
祖母にはもう一人、直吉という兄があり、神戸に住んでいた。 近衛兵だったのが自慢で、鳥の羽飾りが長く上につき立っている近衛連隊の華やかな礼帽を側に置いて撮った写真が、近年まで残っていた。

前に述べた通り私の出身は父母両方とも零細に近い農家集団だったから、親戚中探してもいわゆる知識人と言えそうな人は皆無にちかい。 強いて探せば、それは総て祖母の里の関係者だけである。そして、それらの人々も果して知識人と言えるか疑問な程度である。 参考までにその内の二・三人について述べてみよう。

祖母の姪に《かめ》と言う人がいた。 主人は三浦圭三といい、夕陽丘高女の国漢の先生であった。 文部省の旧制高等学校教員検定試験の第一回に合格し、一時期「文検の神様」といわれて独学青年たちの憧れの的であったそうだ。 当時の記録によれば第一回「高検」こと、高等学校教員検定試験の合格者は三浦圭三と、沖縄のホープ新屋敷幸繁で、合格後すぐ三浦は弘前高校(いまの弘前大学)へ、そして新屋敷は第七高等学校造士舘へ新任教授として赴任している。いま時はなにかの検定試験に合格したとしても、そう簡単に適当な就職先などあると思えぬが、当時の弘前や鹿児島など辺ぴの旧制高校へは教師の志願者も少なかったので容易に就職できたのではないか。 そうでなければ、いかに秀才とはいえ所詮検定上がりの三浦・新屋敷両氏がそう簡単に、かりにも国立高校の教授という立派な地位につくことは難しかったであろう。

もっとも戦前には、この両教授のなお上をいく山田孝雄博士という独学の超大物がいた。 後日、神宮皇学舘大学の学長になった人だ。博士の「日本文法論」は学位請求論文として京都大学に提出されたが、審査すべき教授連中ですらその内容を理解し難たく、学位授与に数年を費やし学者間の論争すら惹起した。この大先生に比べれば、三浦・新屋敷両先生の高検合格などは採るに足らぬ事かもしれぬが、とにかく当時の、独学で中学や高校の先生たらんと志し勉強していた多くの地方青年たちにとって、希望の星はこの二人であった。

わが三浦先生は妻の名が《かめ》では先生夫人としてふさわしくないので、結婚と同時に正子と改名させた。 文明開化がようやく庶民層にまで普及してきた頃で、古風な女名前を結婚と同時にハイカラな名前に替えるのがはやった時代である。 また、先生はさすが国文学者だけあって、自分の子供たちにも国歌君が代にちなんだ名を順番につけた。 長女が君子で、末の男の子は「訖」と書いて<いたる>と読ませたという。私どもレオ貿易会社に以前いた社員で、いまロスアンゼルスに住んでいる上杉美子雄君の母堂は夕陽丘高女出身の才媛だが、この人の話では、三浦先生の高検合格は、本人のみならず夕陽丘高女側でも名誉に思い自慢したそうである。

少年の頃祖母の里には、普選以前の斉藤隆夫代議士の「県下七万の有権者諸君、我が輩をして議政壇上にたたしめよ」というような内容の選挙公報や、古新聞とともに、どうした訳か三浦先生の蔵書の一部があって、その中に例えホ明治の頃の「文学界」という雑誌などもあり、私はそれによって夏目漱石の「まぼろしの盾」や「薤露行(かいろこう)」などの名文に親しんだ。

それまで漱石といえば坊ちゃんか草枕しか知らず、婦人倶楽部に連載中の佐々木邦のユーモア小説と同類としか思っていなかった私にとって、別の偉大なる文豪夏目漱石がこのとき認識できたのである。いわゆる明治雅文体の白眉として、まぼろしの盾や、薤露行、そしてLADY CHAROTTEの流麗な訳詩などは、その後私の心の琴線に触れつふれずみしながら今日に至っている。 そしてその濫觴・(らんしょう)はまさしくこの少年の頃の三浦氏の蔵書にあった。

例えば半世紀の後、朝日新聞紙上で大岡昇平と江藤淳が「漱石とアーサー王伝説」で大論争を展開したとき、大いなる興味を持って観戦したのも、この子供の頃の漱石文学に対する鮮烈な記憶のなさしめる業であった。

「薤露行」の中の
  
Out flew the web and floated wide;   
The mirror crack'd from side to side     
織糸は千切れて虚空に舞い、    
鏡は音立てて真二つに砕け

のたった二行のテニソンの詩の一部は、

・・・・ぴちりと音がして皓々たる鏡は忽ち真二つに割れる。 
割れたる面は再びぴちぴちと氷を砕くが如く
粉微塵になって室の中に飛ぶ。 
七巻八巻織りかけたる絹はふつふつと切れて
風なきに鉄片と共に舞い上がる。
紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切れ、解け、
もつれて土蜘の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、
長き髪毛にまつはる・・・・

という長く、しかしあわれにも美しい言葉となって、漱石の名文は私の心に半世紀ものあいだ潤いを与えてくれた。 これも三浦先生という学者のおかげと言えよう。

三浦先生の夫人の弟に丸尾進太郎という人がいた。 三浦氏の援助で旧制福島高商を出、大阪船場の繊維会社に勤め、戦争中はバンコック支店長をしていた。背も低く、花王石鹸のマークと鬼瓦を混ぜたような顔をしていたが、どういう訳か女性によくもて、浮名の流し続けの一生らしかった。
後年になって、私ども箕面中央ロータリークラブへ入ってきた敷島紡績顧問の堀江氏から伺った処によれば、丸尾進太郎という人物は、船場に於ける繊維関係の旦那方の、夜のお遊びの指南役だったそうで、堀江氏もまたその弟子の一人であったよし、さもありなんと思った。

戦後すぐ、私が繊維の闇ブローカーをしていた頃、丸尾氏にいろいろとお世話になった。 ある時期、彼は私の商売上での親代わりのような存在で、亡くなった後も感謝している。 戦後すぐ、曾根崎の闇市場の中に「錦江(キンコウ)」という際立って高級なレストランが出来た。 確かこれは野村殖産貿易がダミーに使っていた張文苑という中国人の大物が他に先駆けて開いた高級食堂であって、バラックがひしめき、薄汚れた濁酒(ドブロク)屋が並んでいた当時としては、異例に贅沢な西洋料理を提供していた。 多分に統制令違反であったろうが、華僑総連合会長とかの肩書を持つ張氏には、曾根崎警察署も歯が立たなかったらしい。 
私はこのレストランで生まれて初めてビフテキというものを丸尾氏からご馳走になった。 それまで牛肉といえばすき焼きしか知らぬ私にとって、大きな牛肉の塊を口に頬張るのはぜいたく過ぎて、何か罪の意識を感じた。  (いま、中国上海に錦江というホテルや、錦江旅遊という大きな公司がある。戦前からすでに上海最大の産業グループだったという。 日本でも、東京に錦江という高級レストランがある。 これらの錦江グループと、戦後大阪梅田の闇市に、突如出現した錦江とは、どのような関係があったのかしら。 どなたか、ご存知の方はいないだろうか?)

次に彼、丸尾氏がまたビフテキを食べさせてくれたのは、本町にある綿輸聯会館の地下のグリルであった。 
グリルという聞きなれぬ語が西洋料理屋のことであるとその時初めて知った。 昭和23年のことであったろうか。
彼の事務所はその頃綿輸聯会館の五階にあったが、程なくそのビルは進駐軍に接収され、店子たちはまとまって今橋の木造ビルに移った。 その間、彼は殆ど毎日のように竹村綿業の焼け残った土蔵に出向き、半日は仕事仲間と麻雀をしていた。 今はその跡にテイジンの本社ビルが建っている。彼が麻雀をしている間、私は所在なく側に座ってそれを眺めているだけであった。その間、彼から英語の手ほどきのようなものを受け、また大阪の繊維業界についての基礎知識などを得た。 
外国仕込でダンスがうまく、毛筆の字も<区役所流>とか何とかいって非常に上手、おまけに当時としては珍しく英語が出来たのだから、知識人の中に加えても大きくは間違っていないだろう。 後年、私が貿易商への道を歩んだのもこの人の影響によることが大きい。丸尾氏が亡くなったとの通知を受けた日、偶然ではあったが私の一生のうちの最大のピンチ、即ち突然に一億円の不渡り手形を取引先から受けた。  いろいろお世話になったことだし、父の従弟でもあったし、この葬式だけは絶対に行かねばならぬと思いつつ、遂に行けずじまいで、後々まで申し訳ないとの念が去らない。

もう一人だけ、知的職業の人を祖母の里の周辺から選べば、それは生花の家元、林翠保先生であろう。
川口屋へ嫁いだ叔母の小姑(コジュウト)に、今はもう婆さんになっているが、若い頃わりあい美人だった数人の姉妹がいる。 いちばん年長の千代栄さんのご亭主が林翠保先生である。 清心流という生花の家元で、宝塚の初音麗子さんと親しく、その縁故で宝塚歌劇周辺の多くの人々に生け花を教えていた。 神戸の旧国鉄関係とも親しく、三宮や神戸駅に活けてある生け花には大抵清心流の名札がつけてあった。たぶん今もそうだろう。
林翠保先生が戦争中田舎へ疎開した折、仮住まいの小さな家の表に掛けた木製の大看板は全長二メートルもあって、「旧嵯峨御所華道清心流家元四世林清心斉翠保」と墨黒ぐろに書いてあった。 丁度、時代劇の剣術道場の看板とそっくりだった。この看板を思い出す度に、小学生の頃に読んだ講談本の中にあった、南都興福寺塔頭の道場玄関に掲げられたと謂う「鎌宝蔵院流槍術指南 天上天下唯我独尊宝蔵院覚善坊胤栄」という大看板を思い出す。
翠保先生のいで立ちは、いつも褐色の宗匠頭巾に白足袋という姿だったが、田舎の百姓か、紳士といえば学校の先生しか目にすることのない土地で、いわば異邦人のような存在であった。千代栄さんはどうやら恋女房であるらしく、先生の彼女に接する態度が人目もはばからず優しく、そしていつも、いそいそしていたので、見ている他人の我々の方がかえって恥ずかしくなるほどであった。  どんな用事があったのか忘れてしまったが、私は毎日のように先生の仮住いを訪ねて色々とお話をしたことを憶えている。
戦後程なく、先生は神戸へ帰り、私もまた大阪へ出たので、その後の付き合いはない。 ところが友人多田隆一君の話によれば、彼が軍隊に入った折、翠保先生の長男の明氏と偶然一緒であったそうだ。 そのとき明氏は「関東役者猿之助」の踊りの真似というのをして見せたが、百姓育ちの多田君としては、住む世界が違うという感慨だけ残って、何の興味も涌かなかったと述懐していた。生け花の家元の生活と百姓の社会では、相離れること余りにも大きすぎ、比較の仕様がないのは現在でも変わらない。

それから二十年ほど経ったある日、三宮駅前の国際会館ホテルのエレベーターの中で何の気もなく文化講座案内というポスターを見ていると、「生け花講座 清心流大村富子先生」と書いてあった。 大村富子さんは翠保先生夫人の妹である。 たしか女学校も出ていなかった筈だが、大都会神戸の真ん中で先生と呼ばれるとは大したものだと感心したが、これもたぶん、お家元、翠保先生のお蔭だったろう。 もっとも彼女は、少なくとも若い頃は非常にチャーミングで、上品な感じの女性であったから、生け花の先生としてはうってつけである、と思った。

林翠保先生が戦争中田舎へ疎開した折、仮住まいの小さな家の表に掛けた木製の大看板は全長二メートルもあって、「旧嵯峨御所華道清心流家元四世林清心斉翠保」と墨黒ぐろに書いてあった。 丁度、時代劇の剣術道場の看板とそっくりだった。この看板を思い出す度に、小学生の頃に読んだ講談本の中にあった、南都興福寺塔頭の道場玄関に掲げられたと謂う「鎌宝蔵院流槍術指南 天上天下唯我独尊宝蔵院覚善坊胤栄」という大看板を思い出す。
翠保先生のいで立ちは、いつも褐色の宗匠頭巾に白足袋という姿だったが、田舎の百姓か、紳士といえば学校の先生しか目にすることのない土地で、いわば異邦人のような存在であった。千代栄さんはどうやら恋女房であるらしく、先生の彼女に接する態度が人目もはばからず優しく、そしていつも、いそいそしていたので、見ている他人の我々の方がかえって恥ずかしくなるほどであった。  どんな用事があったのか忘れてしまったが、私は毎日のように先生の仮住いを訪ねて色々とお話をしたことを憶えている。
戦後程なく、先生は神戸へ帰り、私もまた大阪へ出たので、その後の付き合いはない。 ところが友人多田隆一君の話によれば、彼が軍隊に入った折、翠保先生の長男の明氏と偶然一緒であったそうだ。 そのとき明氏は「関東役者猿之助」の踊りの真似というのをして見せたが、百姓育ちの多田君としては、住む世界が違うという感慨だけ残って、何の興味も涌かなかったと述懐していた。生け花の家元の生活と百姓の社会では、相離れること余りにも大きすぎ、比較の仕様がないのは現在でも変わらない。

それから二十年ほど経ったある日、三宮駅前の国際会館ホテルのエレベーターの中で何の気もなく文化講座案内というポスターを見ていると、「生け花講座 清心流大村富子先生」と書いてあった。 大村富子さんは翠保先生夫人の妹である。 たしか女学校も出ていなかった筈だが、大都会神戸の真ん中で先生と呼ばれるとは大したものだと感心したが、これもたぶん、お家元、翠保先生のお蔭だったろう。 もっとも彼女は、少なくとも若い頃は非常にチャーミングで、上品な感じの女性であったから、生け花の先生としてはうってつけである、と思った。自叙伝では、わが国では「河上肇の自叙伝」、西洋では「ベンフランクリンの自叙伝」が有名であり、また自伝的エッセイとしては、長与善郎の「わが心の遍歴」や加藤周一の「羊の歌」が名作として世評が高い。 また私の身近な処ではダイハツ社長の伊瀬芳吉氏の自伝「海の見える家」と、その英語版ともいうべき「THE WAY I HAVE WOLKED IN MY LIFE」が立派である。

伊瀬氏は年来私が非常にお世話になっている方で、讃岐の小島にある漁師の家に生まれ、半世紀をダイハツと共に歩まれた滋味豊かな苦労人である。  「海の見える家」はハードカヴァー328頁に及ぶ氏の綿密な自伝で、その豊富な資料は、ご本人のたぐい希れな文書保存と整理能力に依るものであって、感嘆の外はない。 
この本の中には、氏と共に撮った私の写真も二葉ばかり入っている。
180頁すべてが英文の「THE WAY I HAVE WOLKED IN MY LIFE」は、外国にも交友が深い伊瀬氏が、日本語の読めぬ友人たちのために執筆された自伝である。 香川県三豊中学以来勉強したことのない英語、即ち中学三年程度の英語力と自称される氏が、その在るがままの英語力で、他人の助けを借りずにすべて書き上げられた自伝は、それ自体まことに稀有な本といえよう。 世に英語を習う人は何百万人といようが、百八十頁もの自伝を英語でかきあげられる人は、英語の専門家以外には先ずないのではないか。 この一事を以てしても伊瀬氏が如何にたぐい希な偉い人であるかが解る。 非常に読み易く、また解り易い本であるから、初心者向け英語副読本用にもってこいだと思う。 数冊頂戴しているので、興味のある方には供覧できるから申し込まれたい。

いずれにせよ、世にときめいた偉人名士であれば自叙伝も結構だが、さもなければ、長与善郎や加藤周一のようにエッセイ風の読み物と兼ね合わせるしか読者を獲得する方法はないだろう。それにしたところが、長与善郎は人も知る大正白樺派の貴族文人であり、また加藤周一も彼自身によれば<富まず貧ならず、現代日本人の平均>と言っているが、事実は戦前の立派な中産階級の出で、そして今をときめく一流の文筆家であればこそ、そのきらびやかな姻戚や交友関係と、人を引き込むプロの筆力によって読者を獲得しているのである。

それに比べて私がこのような自伝めいたものを書き、そして、ひょっとすると誰かが読んでくれるのではないかと、ささやかな期待を持つためには、読んでくれる人々への反対給付として、たとい僅かでもより面白く書く義務がありそうだ。 そのためには、いくらか事実を歪曲したり色してもやむを得ない。
例えて言えばこういうことだ。 私の知人に大阪大学薬学部長の岩田平太郎氏がいる。 氏は多才な人で医者の免状を持ちながらオーストリアの古楽器チターを奏し、そして推理小説を書く。  先日、カッパノーベルで佐野洋氏が編者となっている「医事小説 アンソロジー総合病院」という本を読んだ処、その中に岩田氏の短編「渦の記憶」というのがあった。  佐野氏がそれを評して「岩田氏の推理小説の概念は私のそれと少し違う」と記していた。 察するところ、佐野氏は、岩田氏の推理小説はあまりうまくない、と言いたい処をこのように表現したようだ。なぜ私がそう思ったかというと、岩田氏の小説はなるほど上手に出来ているが、プロが書いた推理小説のようなスリルやサスペンスや、そしてどんでん返しなどがない。その上、読者が密かに期待している場やも出てこない。これでは対読者サービスが不完全である。岩田教授はいはば余技だからこれでいいが、もしプロ作家であればそうはいかない。 じじつ、その本の中には佐野洋氏を始め、渡辺淳一、山田風太郎、夏木静子など代表的な推理作家の作品が並んでいたが、すべてオーバーなほど読者サービスが挿入されていて、読んでいて面白かった。

プロ作家に倣って私も、希特な読者のために、自伝的な内容よりもむしろ読み易いサイドストリー風の小話を多く加えて、退屈されぬよう工夫してみたいと思う。  とはいえ、読者諸氏が密かに興味を持たれているであろうだとか、またはそれに近いことはいっさい割愛するつもりである。 なぜなら、それは多かれ少なかれ私にとってはいまでも面はゆく、また相手に迷惑の懸かる虞も充分あるからである。
これに似た<割愛>が、わが郷土の大先輩、柳田国男にもある。 柳田学研究者の説によれば、柳田は、彼の個人的周辺については露出狂と思えるほど詳細にすべてを記述しているが、ただ一つ彼が柳田家へ婿入りしたいきさつについては、不思議にも、異常と思える程に何も述べていないそうだ。 
そして、このようにある特定の事柄についてのみ黙ってしまうことを修辞学や法学ではRETICENCE (リチセンス)と言い、黙秘権という場合にもこの言葉を使うそうである。(このRETICENCE という英語の形容詞は RETICENT で、私の子供がアメリカのSAT、つまり日本の共通一次に相当する試験問題集の中の英語、即ち日本で言えば国語に該当する個所を見ていたので、横から覗いた処、この、「RETICENT」という言葉の意味は何か、という問題が出ていた。それから察すると、RETICENCEという単語は普遍的な英語ではないようだ。)

なにはともあれ、柳田先生の RETICENCE と同じように私も自伝の中では幾らかの黙秘権を守るつもりであるから了承されたい。

さて、今まで祖母の里の周辺に少々道草を食いすぎたようだ。 先を急ごう。

夫を失った祖母は呉服屋をたたんで、子供二人を養うべく和裁の師匠を始めた。昔の針箱にはその脇に少し高い針山がついていた。 座ったときその針山より背の低い子供なのにもう裁縫が出来ると、幼いころ近所で評判だったというのが祖母の自慢である。 だから、和裁の師匠をすることは、祖母にとってはいちばん手近な生活手段であったと言えよう。

           
            (祖母とお針子たち--大正十年ごろ 左端が祖母)

私にとっては余りにも身近だったので気がつかなかったが、世間の噂では、祖母は、田舎には珍しく上品であるとのことだった。 私が知っている祖母は、既に老境に入っていたのだが、今から考えてみると、近所の老女たちと比べてはるかに上品で、顔かたちも整っていたようだ。
後年、ある英国人の伝記を読んでいて次のような話にでくわした。 この人の祖母が亡くなってその死亡を報ずる新聞記事の中に「故人はすこぶるPULCHRITUDEであった」と書かれていた。 そこで彼は、はっと気がついて、ああそうだったか、と思ったというのである。PULCHRITUDE(パルクリチュウド)というのは、ごく稀にしか使われぬ英語で、<美しい>または<上品な>という意味らしい。 この英国人と同じように、私もまた、祖母在世中は余りにも身近過ぎて、他の老女たちと比べて美人だとか上品だとか考えてもみなかった。 しかし、後年になって、他人からそのようなコメントをもらう機会が多くなり、ようやくにして、ああそうだったか、と思い当ったというのが真実である。 そして、PULCHRITUDEという一風変わった英語を思い出すたびに祖母の容姿を思い出すという仕儀になった。
 

わが父 賢二
前に述べたように祖母には二人の子供がいた。 ボクの父と、叔母《ちか》である。父の名は賢二といった。 最初、村役場の戸籍では賢となっていたのを、父は戸籍係の間違いであると言い張って民事訴訟を起こして文字を訂正した。 父が彼の名を賢でなく賢だと主張したその心理は理解できそうな気がする。 なぜなら、およそ誰でも体裁よく立派な名前を自らに望む。そして父も例外ではない。
その頃、即ち大正中期には、維新以来五十年も慣用されてきた名前用の、「」という文字の感じは古めかしく、また陳腐化していて、それよりも「」という文字の方が清新に見えたのであろう。 半次や金次というような古風な名に慣用されている「次」よりも、昭和の現在でも使われている「二」という文字の方が、より新鮮味があったことは間違いない。

なまえのつけ方について
わが国の姓の数は圧倒的に世界で一番多いと言われている。それに対して、名前に使用される漢字は、近世以降著しく限定されるようになった。 たとえば、昔あった蘇我魚名とか和気広虫などの、魚や虫という文字は現在では名前には使用されていない。 反対に、徳川中期以後では右衛門や兵衛のつく名が圧倒的に多く、また明治以後では二(じ)とか三(ぞう)のつく名前が普遍化してきた。

二や三という文字を名前に使うのには、その源流がある。 それは「排行」と言う中国古来の命名法である。 同世代の兄弟従兄弟の間で、一字は共通の同じ漢字を使い、他の一字は序列を示す文字を採用して、内輪だけで一連の名前をつける方法である。 例えば、牛鍋屋の元祖、いろは楼の主人が、沢山の子供たちに木村荘二、荘八、荘十二と命名したのがその典型である。 私の台湾の知人に周仁中という人がいる。 この人の弟は周義中と周礼中である。 これも典型的な排行だ。
賢次の「次」の意味は英語のNEXT である。 賢二の「二」はTWOまたはSECONDの意になる。両方とも福建語や台湾語では「じ」と発音するから、日本の<名乗り発音>と同じ発音になる。 したがって、次男に命名する場合は、どちらかと言えば、「二」でなく「次」の文字を採る方がより正しい。 しかし、わが国では、このような厳密な意味をふまえた命名の習慣は薄いので、二でも次でも本人またはその親の好みによるだけである。

大正の中ごろまでの、わが国一般社会に於ける男子の命名方法は、およそ二種の慣行ルールに依存してきた。 <名乗り>と<名頭(ながしら)>である。名乗りとは、中世以来、上流士大夫社会で成人に達した男子に与えた、優雅でそして正式な名前である。 忠義と書いてタダヨシと読ませる如く、大抵の場合、いわゆる「訓よみ」に依った。 この名前専用の優雅な読み方を<名乗り読み>という。 現在では、殆どの男子名がこの<名乗り読み>名前になっている。それに対して、維新前後までは、太夫、兵衛、右衛門などの前に源、平、藤、吉などありふれた文字を配した名前が長らく流行した。 源太夫、平左衛門、藤兵衛、吉右衛門というような仕掛けである。

この源、平、藤、吉、などの文字のことを<名がしら>と言う。名がしら文字の出所は、寺小屋の普遍的な教科書「名がしら国ずくし」である。 むかしの当用漢字表で、人の名前によく用いる漢字九二字ないし百五十字程度を羅列した本が数種類流布していた。 つねに前半は「源、平、藤、吉・・」で始まる名がしらで、後半は「畿内五か国伊賀伊勢志摩山城大和・・」に始まる旧国名の羅列になっている。 男の子が生まれると、名がしら文字の中から適当に選んで兵衛や太夫の前にくっつけさえすれば、簡単に名前が出来た。

もともと大夫は五位の官人、または能浄瑠璃の長や伊勢の御師(オシ)の称号であり、兵衛・衛門は兵衛府・衛門府の兵士の称号であったが、徳川時代に、格好がよいと思われたのか一般庶民の名に使用され、大流行を見たものである。  
明治の元勲に山本権兵衛という人がいるが、ゴンベイと読むかゴンノヒョウエイと読むか、どちらであろうか。たぶんゴンノヒョウエイであろう。 なぜなら、維新の元勲たちは古風な名前をいやがって、みなハイカラな名前に改名したのだから、山本首相だけが<ごんべい>というよな古い名前を固執したとは思えない。
元勲たちの改名の一例を示せば、榎本武揚の旧名は釜次郎西周(にしあまね)は周助、そして井上薫は聞多(もんた)で、これでは猿になってしまう。 
というわけで、私の父が賢次から賢二へ改名した気持ちもよく解る。

父は偶然にも、死後、もう一度改名している。
父が死んだとき、二人の子どもたち、つまり私と兄は、まだ小学校にすら行ってなかった。 父の墓石は、遺児である私たち兄弟が成人してから造るべきであるというのが母の意向であった。そしてその通り三十五回忌に私たち兄弟で墓を建立した。 いくら悠長な田舎でも三十五年間墓を造らなかった例は余り多くなかろう。
父の三十五回忌にお経を上げにきた寺の和尚が、仏壇の位牌にある父の戒名、園林院常在日賢信士の「賢」が、寺の過去帳では「建」の字になっていると言い出した。 今更どうでもいいようなものの気になるので、寺の方の戒名を訂正してもらった。幽冥界を異にして父は苦笑していたかも知れぬ。
戸籍の名前まで替えた父ではあるが、またしても早世してしまった。祖父と二代続きの若死である。 医者は心臓麻ひと診断したが、本当のことは解らない。 行年三十五才。

父は小学校を出るとすぐ、縁故を頼って田原村の北はずれにあった雑貨食料品の小売店に丁稚奉公に出た。そして、数年で暇を貰って自宅に帰り、同じ様な店をはじめた。 祖父の商売の呉服屋などは難しかったであろうから、手っとり早くよろず屋の真似ごとのようなものをはじめたのである。
小学校の成績はよかったらしく、当時の習慣として、先生の代講などもたまにはしていたという。 早稲田の中学講義録が後まで残っていて、筆によるローマ字のサインがしてあった処を見ると、向学心も少々あったようである。   この講義録とローマ字のサインを思い出す度に、有名な啄木の詩が私の心をよぎる。

   給仕勤めの少年が たまに非番の日曜日
   肺病病みの母親と たった二人の家にいて
   リーダーの独学をする 目の疲れ
   みよ今日もかの大空に飛行機の高く飛べるを・・・ 
 

まこと、こうした明治のうら悲しい叙情は、和裁の師匠をしてたつきをたてる祖母と、そばにいて早稲田の講義録で英語の勉強をするボクの父親、その二人にそっくりの情景ではないか。
 

四、 母の里

さて、ようやく一人前になった父は母と結婚する。 そして私たち兄弟が生まれる。母《えい》は、すこし南の丘の上にある隣村の農家の出である。 十数人兄弟姉妹の下から三番目、女の子としては末子である。 祖母のお針子の中の一人だった。 比較的しゃきしゃきしていて、他のお針子たちより賢そうに見えたので、祖母の眼鏡に叶ったらしい。

ところが、母をもらい受ける交渉をする前に一つ問題があった。 というのは、すぐ近所に祖父の弟の娘、つまり父の従妹がいて、その両親は彼女を父の嫁にと思っているらしい。 賢いし、美人で、断わる口実もない。 そこで一計を案じて、先ずその父親に娘さんを頂きたいと申し出た。 何事につけても最初は少々<もったい>をつける癖のあるその父親は、予期した通り軽くことわってきた。そこで早速諦めたふりをして、すぐ母の里へもらい受けの話を進めてしまった。 そして母が嫁入りしてきた。

その美人の従妹は京都に住まいして一生を独身で通した。 たぶんまだ存命であろう。その人の弟が、京都で有名な網田象眼(熊野神社のそばの外人向けの大きなみやげ物屋=ハンデクラフトセンター)の姪の婿で、戦後長く象眼の工場長をしていたので、京都へ外人を案内する度に立ち寄り、そこの課長さんという身内の人からその人たちの消息を聞くことにしていたが、近年その課長さんが定年退職されたので、いまはもう聞く機会もなくなってしまった。

以上のことは本当にあったかどうか少々疑わしいが、この話を思い出す度に私は、ひと様からの申し入れに対しては何事であれ<もったい>をつけた返事をするものでないと、自分に言い聞かせるようになった。 と同時に、なんとなくこの京都の女性に親近感を抱くようになったが、絶えて久しく会う機会もない。

父が亡くなったのは昭和六年、私は数え年六才、そして兄は七才であった。 六才の子供にとって、人の死は、例えそれがわが父親であっても、死そのものの意味が解らない。 葬式の日が大雨で、折角買って貰った新しい白い運動靴を履けなかっただけが残念だった。
父の死後、近所の女たちは、よく私の頭を撫でながら、かわいそうにと言ったが、何がかわいそうなのか私にはよく解らなかった。 数年経つと彼女らは、「お父さんの顔を憶えているか」と、私に聞くようになった。 父の顔など忘れる筈がないのにと、その質問の度にいぶかしく思った。 月日が経っていつしかそのような質問も絶えてしまった。 そしてまた何年か経て、ある人が、「お父さんの顔を憶えているか」と聞いたとき、私はハッとした、既に父の顔を忘れてしまっていたのである。  父親がいないということは、幼い子供にとって、何も特別の意味あいを持たなかったようである。

小学生の頃、たまに購読していた幼年倶楽部に、曽我兄弟の仇討ちの物語が連載されたことがあった。河津三郎祐成(?)の幼い遺児「一万」と「箱王」が空飛ぶ雁を見て、雁にも父と母があるのにどうして私たち兄弟には父がないの、と母に聞くくだりがあった。 私たち兄弟によく似ていると、ちょっとヒロイックに思うようになったのは、たぶん十才も過ぎてからのことであろう。
             
              
敵討ちについて
ところでこの曽我兄弟の物語は、中世の読み本「曽我物語」以来、非常に人気のある小説で、戦前には日本三大仇討の一つとして大抵の人が知っていた。 しかし今では半分忘れ去られたようで、かく言う私ですら河津三郎が助成であったか祐安であったか定かでない。 
曽我兄弟が、富士の裾野の大巻狩の夜、父の仇工藤祐経をめでたく打ち取ったという話は、もう一つの仇討、即ち荒木又右衛門の伊賀の上野の三十六人切りと共に、ぼつぼつ社会伝承から消えて行く運命の物語になりそうだ。  河津三郎が祐成だったか助安だったか忘れてしまったように、荒木又右衛門の方もいまや私の記憶から薄れかけている。 念のためにこの機会に思いだしてみればこういうことになる。

                     

備前岡山藩主池田新太郎少将光政の家臣、渡辺靭負(ゆきえ)の遺子、数馬が荒木又右衛門の助けを借りて伊賀上野の鍵屋が辻で親の仇、河合又五郎を首尾よく打ち取った折り、剣豪又右衛門が血煙りたてて相手方の三十六人を切り倒したという。  いまここまでは思いだしたがそれから先の詳細になると、もう私の記憶の中にはない。少年の頃にはもっと詳しく憶えていたのだが、五十年も経つと殆どの記憶が薄れ、消え去って、定かでなくなってしまった。 我々の社会がこの二つの仇討物語を忘れ去ってしまうのと、ほぼ軌を一にしている。

この二つの仇討に比べてもう一つの大仇討、即ち忠臣蔵の方はまだまだ当分の間残りそうだ。 数年まえ、韓国の売れっ子教授、李御寧(リ・オリョン)氏が日本中持ち回った文化講演の中に「忠臣蔵の仇討の原因は、日本人特有の堪忍袋という危険な持ち物である」という主張があった。  こうなると忠臣蔵は、単にまだ残るというだけではなく、いくらかの国際性をすら帯びてきた。  仇討の物語にも、人や国の運命と同じように浮き沈みがあるらしい。

話がだいぶ横道へそれるが、李御寧氏の指摘する「堪忍袋」について私の見解と経験をすこし述べてみたい。 数年前、亜東関係協会大阪弁事処、つまり台湾政府の駐大阪総領事舘に、馬(マ)さんという一橋出身の商務官がいた。  彼は大阪へ転勤になってもう一年以上になると言っていた。 それ以前の数年間はソウルに駐在していた。 風景も殺伐だし、治安の問題もあって、ソウルでは外出する楽しみが殆どなかった。 幸い住んでいる家は郊外の谷あいの小高い所にあって見晴らしがよく、下にある沢山の住宅が一望にみえる。 そこで、望遠鏡を買ってきて、日曜日にはそれらの家いえを覗き見るのが唯一の楽しみであった。 
毎日曜日、天気のよい日でも二軒ないし三軒、天気の良くない日には少なくとも五軒ないし六軒以上が家の中で喧嘩をしていた。 それを見るのが実に楽しかった。  ところが、大阪に転勤してもう一年を越すのに、いまだかって人が喧嘩しているのを見たことがない。 日本人は腹が立たないのだろうか。 まさか、そんなことはないだろう。 と、すると日本人はいつ喧嘩するのだろうか。
そこで彼は考えた。 たぶん、辛抱の限度がきたとき、突然手を振りあげるか、または足で蹴上げるかして、瞬時に勝敗が確定してしまって、他人の目に留まらぬのだろう。 「恥の文化」の伝統を持つ特殊な人種だから、腹を立てることや、喧嘩の現場などを他人に見せたくないので、心の極限まで辛抱する。 そしてその限度を超えたら、真珠湾攻撃の如く一挙に雌雄を決するのだろう。 だから日本人と付き合いするためには、何時もおっかなびっくりの気配りが要る、というのが馬(ま)さんの見解であった。「ならぬ堪忍するが堪忍」とか、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という終戦の詔勅にある文句は、日本人の美意識の中枢に位置しているが、他国人にとっては<何時地震が起こるかも知れぬ>という虞れに他ならない。 
この点では、李御寧氏も、馬商務官も、そして恐らく大多数の欧米人も同じ考えであろう。 戦後既に四十年を越すが、「堪忍袋の緒」がいつ切れるだろうかという虞を、全世界が日本に対してまだ持ち続けているのは間違いない。

堪忍袋」という物騒なものを持っているという点では、私も人後に落ちない。 と云うより、どちらかと言えば私にはその傾向が特に激しい。 最近私が勉強しているのは、何時、そしてどの様な表現手段で「堪忍袋」の緒をきるか、の技術である。 どうやら、過去の私はこれに就いての技術がまずかったようである。 そのため、周囲の多くから侮りを受け、組しやすいと思われ、結局は赦してくれると思われてきた。 
それが時として裏目に出た場合、けしからぬ男だと思われ、薄情な男だ言われ、そして厳しすぎる男だと誤解され、ついには気違いじみた暴言を吐く男だとの烙印を捺されるようなことも過去二十年間に三、四回はあった。
考えてみるに、堪忍袋の緒(を)が丈夫過ぎるにも拘らず、「緒」を切る具体的技術が不足していたのであろう。 恥ずかしい話だが、その一例をあげてみよう。

二十年も前のことである。 亡くなった水瀬富雄君と二人でニューヨーク州の北の端にあるグラバースビルと言う町へ行った。 そこには私共のアメレックスポーツという合弁会社があった。その事務所で社長のウィドマー氏が突然、意志を変更して、今まで共同でプランを立てていた台湾の新工場建設計画を破棄し、代わりにマニラのアリスグローブ会社を買収しようと言い出した。 彼の意志が余りにも変り易いのに困らされていた私は、一度この辺りで立腹したように見せておかぬと将来のためにならぬと思った。 
そこで、ウィドマー氏ら三人の白人紳士を前にして、私は激しく苦情を言った。 苦情というよりは、喧嘩をしたという方が適切であった。約二十分ほど、地団太踏んで喚き散らした。 相手の三人は、ただ呆れて私を見守るばかりであった。少々恥ずかしかったが、辛抱して怒鳴りまくった。

その夜ホテルへ帰ってから、水瀬君がポツリとこんなことを言った、
君の怒る気持ちも解るが、あれでは余り突然過ぎて、相手は何故君がそんなに怒ったか理解し難かったようだ。 側で見ていると滑稽なくらいであった。 しかしまあ、日本人が白人相手にあれほど激しく怒鳴っているのを初めて見て、面白かった」。 
彼に褒められたのか、冷やかされたのか解らない。これなどは、私の「堪忍袋の緒を切る技術」の拙劣さを露呈した典型的な例であって、いま思い出しても恥ずかしい。  本当はウィドマー氏が変心する毎に、その都度適当に文句を言うべきであった。 
それを、堪忍袋に貯めておいて一挙に吐き出したのだから、相手が面食らって唖然となり、とどのつまり「日本人はあまり上品でない」と思わせてしまった。

どの辺で腹を立て、どの辺りで、どの程度に文句を言うのが一番効果的かという技術の勉強を、若い頃にしておくべきであると思う。 そうでないと、李教授の言うように、いままでにこにこしていた日本人が堰を切ったように、急に怒りだすのは、国際社会で理解され難く、物事をより紛糾させる可能性が大きい。

このグラバースビルに於ける私の茶番劇で、もう一つ気付いたことがある。 喧嘩用の言葉は自分のマザータング、つまり私の場合は日本語でなければならないと云うことである。 あまり日常使わない異国の言葉では、激しく汚い語彙が少な過ぎて、相手に強い印象を与えない。 
以前、大阪府警の刑事部長が、外国人被疑者を取調べるのに通訳を介したのでは迫力がなく仕事にならぬと言っていたが、喧嘩でも同じである。私の場合は始めは英語で文句を言っていたが、途中でそれに気がついて、後半は汚い日本語で喚き立てた。 こういう場合、相手に言葉の意味を理解させる必要より、こちらはこれ程迄に腹を立てているのだというデモンストレーション効果のほうがより大事である。 
だが、激しく汚い言葉を吐き立てれば、その意味は解らずとも、余り上品でないと云うことだけは相手側に当然伝わるから、「下品な奴だ」と軽蔑される可能性も充分あるので、よく考えてタイミングを選んで行動すべきである。

堪忍袋が日本人の特有物であるとあるとも思えぬが、少なくとも平均的韓国人よりは多く持っていると考えられる。 司馬遼太郎氏によれば、「何時の頃からか、そして何故か知らぬが、韓国の人たちは、事実よりも意識において激しく興奮する」そうである。 
これについては私も思い当たるふしがある。 以前、韓国の留学生を沢山世話していた頃、彼らはしょっちゅう腹を立て、理屈を言い、そして悲憤慷慨していた。 腹を立てていた原因が既に消え去ってしまった後でも、まだ彼らは激しく興奮していた。 彼らに比べると日本人は「堪忍袋」を持ちすぎている。 そしてそれがまた別のトラブルを起こす原因ともなっている。

ついでにもう一か国比べてみる。 フィリッピン人は日本人と比較的似ている。 比島に工場を持って十年になるが、何百人もの従業員が喧嘩口論らしきものをしているのはただの一度も見たことがない。 腹が立つことはないのかと聞いてみると、
「それは人間だから腹も立つが、だからと言って口論するのはみっともない。そっと辛抱するだけである。しかし、辛抱が極限を超えたときは、だまって戦うのみである」
と言う。 どのように戦うのかと聞くと、「静かにピストルを一発発射して終わらせるのが理想的である」と答える。 物騒な話だが、比島人の美意識ではこれが一番よいらしい。

元来、比島人は日本人とよく似て「恥」の意識が非常に強い。 大声で喚き立てたり、人前で喧嘩をしたりするのを極端に忌避する。 しかし、他から辱めを受けた場合、その屈辱感は日本人以上らしい。 それが往々にして傷害殺人事件を惹起するが、本質的には優雅で穏やかな国民性を持っている。 
だからこそ、日米マスコミが期待したにも拘らず、マルコス・アキノ交代劇には、内戦もなく、両軍兵士の間に奇妙な交歓風景をさえ醸し出した。 比島人も大きな「堪忍袋」を持っていると考えてよい。  浅野内匠頭が堪忍袋を持ち合わせていなければ、吉良上野介と毎日のように口喧嘩はするが、突然の刃傷沙汰には至らなかったであろう。 吉良にとっては迷惑な話である、というのが李御寧先生の見解である。 
確かに、一般的韓国人の性癖の如く、年中腹を立て通しで、常に激しく自己主張をしていたならば、刀を振りあげたりピストルをぶっぱなしたりする最悪の事態は減るかも知れない。

話が余りにも横道へそれすぎたようだ。 元へ戻したい。
母の名は《えい》。 隣村、つまり今の姫路市船津町八幡の農業福永甚三郎の一ダースに余る子供の中の下から三番目である。 裕仁天皇と同じ年の生まれと聞いている。
福永という姓は八幡(やわた)地区だけでなく船津町一帯に非常に多い。 韓国の「南大門から石を投げると金(キム)に当たる」というたとえのように、「船津に友人が居れば、その人の名は福永である」というくらいだ。
姓名の研究家によれば、不老長寿の仙薬を求めて日本へやってきた徐福に子供が数人居り、それぞれにの字を持つ名前をつけたと謂う。 長男が福永(フクエイ)で、全国に散在する福永姓の先祖だという。 しかし、母の里の福永姓はどうせ維新の頃の創姓であろうから、徐福とは関係がない。
もっとも、全国に散在する船津という地名は、上代における帰化人の大代集団「船氏・津氏」に由来するそうだから、船津町の人々の先祖が大陸系帰化人である可能性はある。    船津の鎮守は、宮脇地区にある旧県社「八幡神社」である。 そのすぐ隣が八幡地区だから、八幡神社と八幡という地区名は偶然の一致ではない。

             
                      徐福公園(和歌山県新宮市)

年来、私が不思議に思っているのは<八幡>地区の人々はどういう訳か自分たちの村のことを<船津>と言わずに<八幡(やわた)>と呼ぶ傾向があることだ。
例えば、後で触れると思うが、私が式場限りの仲人をした大阪国際ホテルに於ける私の従兄の次男の結婚式では、来賓が<きけば福永家は播州の八幡という処の出身だそうで>という祝辞を述べていたが、それはたぶん従兄が普段からその周辺の友人や取引先に、<私の生まれは八幡という所>と言っていたからであろう。 
こうした場合、例えば私であれば<私の生地は今は福崎町に含まれているが、もとは田原村といった所で・・>といい、決して<八反田というところで・・>とは言わぬであろう。 
八幡にしろ八反田にしろ、似たような規模の、そして隣合わせの集落であるにも拘らず、一方の人々は<八幡>という集落名をいい、一方の人々は旧<田原村>という大きな集落集合体の名を自分の生まれた村の名として異郷の友人たちに説明する。 こうした違いの源泉は<八幡>の人たちが自分の生まれた八幡という地名にやや多いノスタルジーと誇りを持っているとも考えられるが、だからと言って<八幡>が<八反田>より優越しているというような社会的な了解は露ほどもない。 察するに、「私の生まれは<やわた>という所で・・」と発音すれば、「ああ、八幡か」と知らぬ相手でも即座に文字が思い浮かべられるのに対し、<八反田>では、「どの様な字を書くのか」と、相手がたぶん問い返すであろうささやかな煩わしさを予測し、それがこうした両者の<言わず語らず>の内の表現の差になったのであろう。

大字・小字・部落名と町村名の関係
こうした愚にもつかぬことを考えているとき、私がいつも納得出来ないのはいわゆる小字(こあざ)大字(おおあざや、地区・部落名と、それを管轄下に置く地方自治体としての町村名の関係である。
明治時代に定見もなく作りあげたらしい農村地帯の地番制度は大字(おおあざ)を単位として番地を確定したようで、江戸時代を通じて「」と称していた実際的な集落共同体である集落・地区を無視して、あまり慣用していなかった大字(おおあざ)を地籍原簿の中心に据えたたことだ。
例えばわたしの生まれた旧田原村は、わりあい境界がはっきりした十二集落が田圃の中に点在したにも拘らず、それを抹殺して東田原、西田原、南田原という三つの大字(おおあざ)に集約してしまった。だから私の生家は南田原2335番地という大きな地番数字になっている。 そうした複数集落を一単位にまとめた地番では、例えば南田原1880番地というのは、わが八反田か、丘の上の西光寺か、あるいは北に続いている吉田部落か、地番の総てを熟知している役場の地籍係か郵便配達夫でない限り判らない。

母の里の旧船津村などはもっと酷い。 そこは南北およそ三キロメートルの地域に独立した八か集落が点在しているにも拘らず、船津村大字船津1234番地というような1村(そん)1大字の広漠たる番地になってい、よそから番地だけ頼りに訪ねてきた人にとって不便きわまりない。 
その点、となりの旧福崎町では、独立した各集落名がほぼ同じなまえの大字名になっていて、いまもって都合がいい。
さらに難点を言えば、市町村の村(そん・むら)と、幕末までの行政単位の村(むら)、つまりいまでいう地区・集落が、いまの日常会話ではどちらも<むら>とよばれ、混用されていることだ。 そして、日常もっとも身近な「地区・部落」とよんでいる末端自治組織が、法律上認知されず、曖昧なまま今日に至っているということである。 だから「私のむらでは・・」と言っても、大きな村のことか小さな集落のことか判らず、地方自治の原点として存在している地区長なる末端の長を選挙する選挙システムも法制化されず、いい加減なままに放置されている。 何時かは是正されるべき明治の地方自治制度における重大な欠陥であろう。

(自治体としての町・村を、ちょうそん と読むべきか、まちむら と読むべきか。地方自治法では、慣習によりどちらに読んでもいいとなっている。 だから現在、NHKの放送ではわが郷里の福崎町を、ふくさきちょう とよんだり、ふくさきまち とよんだり、まちまちである。これなど、まことに不思議な話ではある。)

姫路市船津町出身の名士たち
ところで、船津出身の戦前に於けるもっとも著名な人物は三上参次博士である。 最近は三上博士の名を聞くことも減ってきたが、少なくとも大正と、戦前の昭和を通じて三上博士は国史学界に於ける抜群の大先生であった。  そして、先生は八幡神社の門前に住んでいる神崎宮司と面識があった。 
宮司は郷社八幡神社を県社に昇格させたく、その斡旋を三上博士に懇請した。 博士は「往昔、神功皇后三韓征伐のみぎり、この地に於て・・」というような立派な由緒書を作って所轄官庁である文部省に県社昇格の推薦をした。そして、めでたく八幡神社は県社になった。 それは支那事変の中ごろのことである。 
もっとも昇格には神社の外観などの整備が条件であった。 世話人たちは手分けして村出身の成功者を探しだし、大鳥居や、門扉結界や玉垣などの寄付を懇請した。私の母のすぐ下の弟、福永伍一も丁度その頃北支で土建業を営み少々成功していたので、世話人たちから持ち上げられて石造の大きな側門を寄付した。 その門の裏面には寄付者である福永伍一の名が刻み込まれていまに残っているが、本人は大陸から引き揚げた後、試みた事業が殆どうまくいかず、不遇のまま世を去った。 私の従弟、福永常伸はその長男だが、酒飲みの父親に仕えてよく孝養を果たした。

三上博士の由緒書きの如く、戦前の国史教科書などは歴史小説に近い非科学的なものであったらしい。 
例えば「青葉繁れる桜井の・・」という小学唱歌で知られた楠公桜井の別れみたいな時代小説風の国史教科書は一体誰が書いたのだろうか。 そうした疑問を持った私は、それはひょっとすると三上先生ではないかと考えた。 そして、友人の歴史学者大庭修博士に訊ねてみた処、それは三上先生でなく、中村孝也博士であるとのことだった。  中村孝也博士もまた、私たちが少年の頃、三上博士と並ぶ国史学の泰斗であった。

船津には三上博士の外に、まだ二人の名士がいる。 一人は岡庭博氏で、もう一人は青田源太郎氏である。岡庭氏は「真名井の鶴」という酒造家の出で、政治家の河本敏夫氏と組んで三光汽船を創業し、事業が好調の頃は経営学の神様としてもてはやされ、一時は大学の教壇にまで立ったことがある。しかし三光汽船倒産の後は新聞雑誌紙上でもお目にかからない。
河本氏はいまでも自民党の領袖として余命を保っていらっしゃるが、もう誰も、彼がかってそうであったと思われていたような経済通の政治家であるとは考えていない。 しからば何処で間違って彼がある時期、経済通の政治家としてもてはやされたのであろうか。

もともと、経済とは広域社会単位での生産・分配・消費・再生産のメカニズムを云い、経済学とはそれを研究する学問であった筈だが、いつの間にか拡大解釈されて、かね儲けの技術と混同されるようになってきた。
例えば、大学へ進学する 学生諸君やその父兄が、経済学部と商学部の間に殆どその差を認めていないという事実を見ればよい。 三光汽船が時流に乗って大儲けをすれば、政治家河本氏は経済の専門家であると、庶民だけでなくジャーナリストまでが、そう解釈した原因は経済学と商学の混同にあった。

このような経済学に対する誤解を作った遠因は、経済学そのものにある。
私自身、経済学なるものがどのような学問であるかに就いて、長いあいだ的確な見解を欠いていた。 それが近年になって岩波新書の「経済学とは何だろうか」という京都大学の新進教授、佐和隆光博士の自己批判書(これは経済学に対する痛烈な批判書でもある)を読んでようやく経済学というものの実態にふれることが出来た。
佐和先生の説に依れば、経済学はもうどうにもならぬ泥沼に踏み込んでしまっているそうだ。 古典経済学は時代に取り残された歴史物語になっているし、マルクス経済学は資本主義の予想外の発展によりボロをだしてしまったし、頼みとする計量経済学もその経済予測が殆ど当たらず、もうお先真っ暗ということらしい。

しからば何故新しい計量経済学が、戦後かくまでもてはやされ、 そして尊敬されてきたのか。それは、つぎの三つの<誤解された>理由に依るのだそうである。即ち、 
   一)初歩的なものであるとはいえ数学を使うので、科学を知らない人々は経済学を数学や物理と同じよう      に絶対的な真理を持った自然科学と誤解した、  
   二)普通の言葉をそのまま専門用語に転用しているので、経済学の素人にとっては議論の内容が理解し
     難い。そして、自分が理解できないくらい高遠な学問であると誤解した、 
   三)戦後の経済の発展に、エコノミストや経済官僚の名のもとに経済学者が数多く参画したので、経済の
     発展 は経済学の成果であると短絡化し誤解した
と、佐和教授は近代経済学の神話を自己批判している。

私も思い当たるふしがある。 大阪大学大学院に留学していた曽国雄君は在阪中、拙宅へ入り浸りであった。 いま彼は台湾の国立交通大学経済研究所教授になっている。 
彼の話によれば、台湾政府は産業経済の運営について伝統的にレセフェル、つまり自由放任主義を採っていて、経済学者の参入を許さない。 にも拘らず、台湾経済は日本と同様に大発展している。 香港も同様である。
この事実から見ると、戦後日本経済の発展に経済学者の参加は必須の条件であったかどうか, まことに疑わしいかぎりで、佐和先生の自己批判は当を得ていると思う。 

いずれにしろ、三上参次博士は亡くなり、岡庭博氏は河本先生と共に地に落ちた偶像となってしまった現在、残る船津の名士は元参議院議員、青田源太郎氏のみである。 青田氏は、ホップ・ステップ・ジャンプと、普通の農民から永田町の赤じゅうたんまで駆け昇った、紛れもなき船津村庶民の英雄である。

もし私の記憶と観察に誤りがなければ、青田先生の幸せな出世双六の図絵は次の通りになる。
終戦の頃、青田氏は小さな鋳物工場を持つ傍ら、田畑一町歩ほどを耕すごく普通の自作農であった。 そして村の消防団長であった。 消防団長は、いわば村の世話役であって名誉職と云える程ではない。 次に、村の農協会長になったが、これは少し上向きの横滑り人事と言えよう。 農協は村役場と並んで村の中央にあるのが一般的である。  
その村役場のボス、つまり船津村長が、進駐軍の追放令(パージ)が出る僅か一日前(ひょっとすると一週間前だったかも知れない)に、手回しよく辞職した。   そして、文字通りの横滑りで、青田氏が村長に就任した。 農協会長から村長への横滑りもまた田舎ではよくあることである。
彼が村長に就任した直後に、他の神崎郡の全町村長がパージにより交代した。 一日だけの違いであったが、先任者として彼は郡の町村長会長に推された。この地位は紛れもなく郡内随一の名誉職であった。  前任村長の手回しのよい辞任が、彼を出世街道に押し出したのである。

任期が満ちて村長を辞めた彼は、県農協連合会の神崎郡支部長になった。 郡南端の小さな村の農協出身とは言え、郡町村長会の会長をした後だから、郡農協支部長に推されるのは当然であった。
次に彼は、郡農協と郡町村長会を頼って県会議員選挙に打って出た。 もともと神崎郡では、中央部の福崎や田原のような大きな地域では、県議会に出馬しても票が割れて当選し難いという習性があった。その点、南端の小村である船津村から出た青田氏は始めから好運だった。 村民たちは<自分たちの村の百姓>を県会に送り込むべく、村を挙げての大選挙運動を展開した。 それには合法も非合法もなかった。 村人たちは百姓仕事をなげうち、手弁当で日夜郡内の家々を個別訪問した。 母が船津出身である私の家にも大勢が大挙して押し掛けた。そして青田氏はめでたく県会議員になった。 さらに彼はその地位を背景にして農協の県連会長になった。

ところが、次回の県会議員選挙の前、困ったことに船津村は姫路市に吸収合併されてしまった。選挙区が姫路では、先生に勝ち目はなかった。われわれは青田先生の好運もこれで終わりだと思った。ところが先生は突如、県議会から鞍替えして、つぎの参議院選挙に兵庫県地方区から打って出た。全国農協と自民党がバックであった。百姓の多い田舎では、農協と村役場は心理的に同じようなものである。 だから戦争中の翼賛選挙のような感じであった。 阪神間を除く兵庫県全域で大量得票し、青田先生はめでたく参議院六年議員に当選した。 事情を知らぬ全国紙は、選挙中の彼を「彗星の如く現われた新人」と評した。 事実、開票の途中の一時期、彼の得票数は神戸銀行の岡崎氏を抜いて最高点だったこともある。 県議会選挙で見込みが薄いのに、参議院で高位当選したという例は珍しい。

青田氏が郡農協支部長をしていた頃、村の小学校の講堂を借りて、神崎郡農業大品評会を開いたことがあった。 こうした品評会では賞状を出すのが通例となっている。 賞状を出すにあたって、誰の名前でそれを出すのかと言う問題があった。県庁へ頼みに行く程でもないし、いろいろ考えた末、郡農協支部長、青田源太郎という名前を拝借しようという事になった。 この依頼には私が行った。 
ところが、品評会が済んだあと、渡した筈の賞状が沢山残っていた。 わけを調べてみると、農協支部長名の賞状など額に入れて飾っておく価値がないとして、受け取らずに帰った人が多かったそうで、青田氏には申し訳ないことになった。氏が参議院議員に当選した時、私の頭に先ず浮かんだのはこのことであった。 
参議院議員青田源太郎の名であれば、皆が喜んで持って帰ってくれたであろうにと思った。

青田参議院議員の秘書として、私の親戚の川島典雄君が県信連から出向し、永田町の議員会館へ赴任した。 ある台風の日、東京に滞在していた私は、暇つぶしを兼ねて議員会館へ彼を訪ねた。青田先生の部屋は、大阪府知事から転じた赤間文三議員の隣であった。 議員会館の部屋割は「あいうえお順」らしかった。
ちょうど居合わせた青田先生は、
私は力もないし、有名人でもない。只一つ、皆様の陳情の道案内だけは出来る。どうぞ遠慮せずに何でもどしどし用事を言いつけて欲しい
と私に言った。 この低姿勢と如才なさが、たった1町歩を耕す農民に過ぎなかった青田氏を自民党参議院議員にまで押し上げたのであって、必ずしも氏の運のよさだけでないと改めて思い知らされた。
 
 
 

以上で船津出身の三名士の話を終わるが、これらの方々はもとより私の母の里とは関係がない。 ただ、同じ村の人と言うにとどまる。

母の実家は「馬の骨」?
母の実家は普通の農家であって、先祖も家系も判らない。  だいぶ以前、阿倍野に住む私の従兄、福永英雄の次男が国際ホテルで結婚式を挙げたとき、私は頼まれて式場限りの媒酌人をしたことがある。彼の生家は、即ち私の母の実家である。結婚式で、新郎側の来賓が
聞くところに依れば、福永家はもと庄屋の家柄であったとかーー
と言うような祝辞を述べた。 私は、おやっと思った。母の実家が庄屋だったと謂うような話は聞いたことが無い。 ところが後で考えてみると思い当たるふしがあった。 というのは、こう言うことである。

母の実家のすぐ近所に「もとじゃ」と通称する大きな藁屋根の家があって、その家は母の実家の古い本家であるということである。 「もとじゃ」とは、「元庄屋」のことであると教えられていた。 従兄は、自分の出身を自慢して、庄屋の家柄であると友人たちに言っていたのであろうが、察する処、その根拠はこの「元庄屋」にあったようだ。 と,すれば「庄屋の家柄」と言うのもまんざら嘘ではない。
福永英雄という従兄は、戦前からずっと大阪で小間物関係の仕事をしていて、その納入先はオックスホード広島屋の蔵田氏であった。 彼の一生の仕事はほぼ蔵田氏一家によって支えられていた、と言っても過言ではない。百姓の次男に生まれたにも拘らず、彼は百姓仕事はおろか、たとい僅かな肉体労働もせず、一生を終わった。 「段取り八分」という言葉を座右の銘にして、仕事の手順だけに異常な興味を示し、現業はすべて他人に依存するという方式であった。 そしてビリヤードのアマチュア選手権で準優勝し、ピンポンでは玄人の域に達し、また落語を習っては素人公演したりして、一生を半分遊んで暮らした。 亡くなる前の晩まで夜遊びし、そしてある日、卒如として苦もなく死んでしまった。一風変わった男であった。葬式は蔵田さんの父君が主宰して下さった。

広島屋の蔵田さん一家とは不思議な縁で、福永のみならず、私まで偶然親しくさせて頂いている。全然無関係に大阪へ出てき、無関係に商売をはじめた私と福永が、不思議なことに、全然別のルートで蔵田さん一家と親しく取引をする間柄となり、長い間親戚のような付き合いを頂き、そしてお世話になって今日に至っている。 偶然とは不思議なものである。 
蔵田三兄弟のうち、とくに親しいのは三男の禎夫氏で、ボクと同じロータリークラブに所属し、パブロというネクタイ会社のオーナーである。

話を母の里の方へ戻す。母の父、甚三郎は嘉永五年の生まれで、九十四才でなくなるまで一生を百姓で過ごした。 途中で家を総領息子に譲り、末の子供たち数人を連れて、近所に新宅し隠居した。 私の母は下から三番目で、この隠居家の方が実家ということになっている。 両方の家を合わせて十数人の兄弟が居たが、あまり多いので、そのうち何人かは養子に出された。いま辻川の町の中で歯医者をしている大野という家の婆さんは私の従姉に当たるが、彼女の父親は養子に出された内の一人である。

前に述べた私の祖母の里の方は、それでも明治に県会議員の一人くらい出しているが、母の里の方は、総て百姓ばかりで、とりたてて言うう程のものは何もない。しかし、誇るに足るのは沢山の兄弟・従兄弟とその姻戚である。 これは、何か事あるときに威力を発揮する。 例えば葬式などの折、頼もしい限りである。大挙して押し寄せてき、感謝に価する。しかし余りにも多いので、いまここでは、その一部しか紹介できない。

先ず始めに年長の叔父、福永杢次のことである。 戦前姫路で育った人々は、たぶん昔、姫山公演の東の入口、つまり桜トンネルへ入る前に、大きな自然石に姫山公園と彫り込んであった石碑のようなものがあったのを記憶されているであろう。 そして、その石碑のすぐ側に、鼠色に変色した大きな天幕をはった仮設うどん屋があったのも憶えて居られるだろう。 仮設とはいうものの、このうどん屋は、ほぼ一年中同じ場所で営業していた。一時に数十人の客を収容でき、よく流行っていた。 これが、福永杢次である。 この叔父は、酒を飲むことと、川魚を漁ることだけを楽しみとして、一生を終わった。よくは解らぬが、何か不思議な人物であった。

母の姉妹の真ん中どころに叔母の《しほ》が居た。 幼い頃に姫路の髪結いの家へ養女に出されたが、大きくなったときは魚町で芸者になっていた。 姫路花柳界随一の美人と謳われたが、早くに落籍されて呉服屋の旦那に囲われた。 その妾宅は当時の姫路の高級住宅街にあって、黒板塀に見越しの松という「お富さん」の唄とそっくりの構えであった。 すぐ側に清瀬一郎元衆議院議長の家があり、その向こうには、当時姫路随一の資産家と謂われた牛尾健治氏の家があった。牛尾健治氏は、いまの経済同友会の牛尾治朗氏の父である。

この叔母には旦那との間に男の子があり、商業学校へ行っていたが、早世してしまった。 そして叔母も、まもなく亡くなった。 美人薄命であった。
彼女の旦那というのは、当時姫路で金満家と云われた土井という呉服屋の主人で、花柳界で著名な風流人であった。 戦後第一回の参議院議員選挙で議員になった医者の藤森真一氏などがその遊び仲間で、氏のニックネームは<ちゃっぷりん>だったと聞いている。
すべてにおおらかな良き時代のことで、まして落籍して十数年高級住宅街に住まわせ、実業学校へ通う子供までなした仲であるから、内緒で囲っていると言う程の秘密性もなく、旦那の母親が孫の顔を見によく来ていたと云うから、いわば公然の二号さんであったと考えられる。
とは云うものの、二号さんに死なれた旦那は、当然のこと困惑したであろう。どういうふうな手順で葬式をだし、どのようにして妾宅をたたむかなどは、よほど世渡りに手慣れた男でも、取りあえずは戸惑うだろう。まして、それ以前に、病気で寝込む期間が当然ある。 病気になったからと云って、すぐ縁を切る訳にはいかない。一般的に考えた場合、法律で縛られて婚姻関係を余儀なく継続している正妻に比べると、好き合って長らく関係を続けている男女の仲の方が、法や世間の庇護がないだけ余計に心のつながりが深いと考えられる。 女が病気になれば、愛しさも、哀れさも一入(ヒトシオ)で、懸命に介抱したいと思うのは当然で、縁を切るということなどは、余程の薄情者でない限り考えられない。 おそらく、叔母も旦那に充分介抱してもらったのだろう。

それはともかく、叔母は亡くなった。 私が小学校の低学年の頃のことである。 何処で、誰が、どのようにして葬式を出したのか私は知らぬ。 ひょっとすると母の実家で出したのかもしれぬが、私にはその記憶がない。

私の友人、小川明宏氏は東洋紡トスカの社長をしていた人だが、彼の話に依ると、そのような場合については彼にも記憶があると言う。
話はこうだ。 昔、彼の祖父に当たる人の二号さんが亡くなったとき、祖父の子や兄弟があい寄って堂々と葬式を出した。 いまどきのように全てがせちがらくなって、小者ばかりになれば、世間をはばかって内緒で物事を済ませようとするケチな考えの旦那もいようが、黒板塀の家を造って芸者を落籍して住まわせるような昔の大旦那の見識や行動はもっと堂々としていた筈であると、彼は力説する。そうかも知れない。
 

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