前頁に戻る  いちばん最初の頁に戻る  ご意見ご感想ご提案 email
中村健自叙伝 パリ祭の男(その6−7)

六、 終戦前後

終戦前後の混乱期はつい先頃のことのように思えるが、既に四十年以上も経っている。 
日露戦争から支那事変までと、終戦から現在までを比べると、終戦から現在までの期間の方が既に長い。
子供の頃、日露戦争といえば遠い昔の先祖の話と思っていた。今や終戦の日も、それより遠い昔になっているにも拘らず、私の記憶ではついこの間のことのように思える。 
老齢になると年月がたつのが急に速くなる。 私にとって、五十才以後の月日の過ぎる速さは、終戦までのそれに比べて、ほぼ三倍くらい速い。 
ニュートンが定めたという「時間」の計量方法は、一日二十四時間という物理的時間となり、それは変わらぬ筈なのに、人間の感ずる心理的時間は年齢によって驚くほど異なる。
あの頃は、ずいぶん時間がゆっくりと流れていった。それに比べて、この頃は時の経つのが、なんと早いのだろう」と、自分の幼年時代を振り返って、だれしも同じ様な感慨を抱く。
時間と速度の間にはある種の相対性原理が働いているとは、ガモウの物理学全集の巻頭第一頁に、早くも出てくる話であるが、「年齢と時間にも相対性があるのではないか」と、考えたくなる。
ブリュッセル学派のブリブジン博士は、「熱力学の第二法則によって物理学の領域に『時間』が復権した」という。 
『時間を計量する』概念の創始者ニュートンは、時間の前後の向き、つまり「時間の流れ」については全く無視していたらしいが、少なくとも我々が所属している銀河系宇宙では、エントロピー増大の方向を「未来」と名ずけ、その方向にのみ時間は流れていくらしい。
「熱力学の第二法則」、すなわち「エントロピー増大則」とは、大ざっぱに言えば、自然はそのままにしておくと平均化・混合化の傾向をきたし、組織や秩序がだんだん喪失されていくということを意味する。 山は崩れ、谷は埋まり、熱いものは冷たくなり、冷たいものは熱くなり、集中しているエネルギーは拡散し、相違のあるものは一様化し、混合したものは混じらない前の純粋状態へは決して戻らないということである。  
時間が経つにしたがい、岩山は風化して砂となり、煙は大気中に拡散してなくなり、生物の死骸は土になってしまい、その反対は絶対にありえない。従って、タイムマシンで過去へ返れることは絶対にない、というのが我々の住んでいる宇宙である。 
このように「未来」へのみ時が流れるのは銀河系宇宙だけで、それ以外の宇宙はすべて「過去」へ向け時が流れていると力説するのは私のロータリーの友人堀川先生(阪大工学部名誉教授)であるが、この辺りのことは宇宙物理学でもまだ解っていないらしい。 

しかし、最近の新聞報道によれば、理論上では過去へ戻れる可能性もでてきたそうである。 少なくとも、ものすごい超スピードで走れば、古典物理学でいう静的時間の経つ速さを短く出来るそうだ。 であれば、我々が生活の中で体験している実存的時間も、加齢事実との相対性が働いて、月日の経過が急に速まっているのではないだろうか。先週、我がロータリーのもう一人の友人国富先生(阪大理学部名誉教授)に、この話、つまり「加齢と実存的時間の相対性について物理学的に研究してご覧になれば、ひょっとすると世紀の大発見が出来るかもしれませんよ」と言った処、「定年後の楽しみに、ひとつ研究して、ノーベル賞でも狙いますか」という返事であった。

夫婦ともハワイ大学の教授であった素粒子論の渡辺慧博士と仏教哲学を研究するドロテア夫人の共著「時間と人間」中央公論社刊は少々難解な時間論であるが、筑波大学の中埜教授が「本書は専門を異にする渡辺夫妻(物理学者とゲルマニスト)の深い学殖に支えられた知的で楽しい家庭フォーラムである」と、書評している。 「知的会話」を楽しめる夫婦は、最も理想的な夫婦であるといえよう。 ボーボワールの「女ざかり」を読むかぎり、亡くなったサルトルとボーボワールなどはその典型でなかったろうか、と思える。

烏兎そうそう、老来、月日の経つこと余りにも速く、つい愚痴っぽくなったのが、壮大な宇宙論の中の<時間の方向性>にまで発展してしまった。「時間」の話はそれくらいにしておいて、終戦前後の私の話に返る。

すでに述べたように、徐州居留民団の職員として赴任するつもりが、大東亜戦争の戦局が少々怪しくなったのに災いされて、行けなくなってしまった。文句を言っていく相手もいないし、おまけにもう半年もすれば現役兵として入隊することになるのは明白だが、とりあえず短期間だけでも何処かへ就職する必要があった。 

ちょうどその頃、兄が川向こうの谷あいにあった陸軍航空本部の爆弾工場に勤めていたので、私もそこへ工員として勤めることにした。仕事は航空機爆弾の火薬充填作業であるが、実際の主な仕事は三十キロほどの爆弾を担いで棟から棟へ移す運搬作業が殆どであった。 いわば土方(どかた)のような仕事であった。 
約、半年程それを続けたが、この徐州行き待機中と爆弾工場の労務者をしていた期間は、すべてが期待に反した結果でもあり、それに友人たちはみな、軍隊へ行っているか、または軍需工場の寮住まいなどをしてい、話をする相手もなく、<怏々(おうおう)として楽しまず>という言葉の通りだった。

唯一のささやかな楽しみは、「弔辞」作りだった。 その頃、村では<名誉の>戦死者が相次ぎ、その葬式には必ず弔辞が読まれた。そして、どういう訳か、私の処へ弔辞を作る依頼が相次いだ。

一般的な「弔辞」の、慣用文例は「唐宋八家文」中の「十二郎を祭る文」という韓愈の名作である。
 「年月日、季父愈、汝の喪を聞く七日。すなわち能く哀をふくみ誠を致し、汝十二郎之霊に告ぐ」という言い出しに始まり、「尚(ねが)わくは饗(う)けよ」という結文で終わる韓愈の文に倣って戦死者の名誉を讃える弔辞をつくるのである。 
末尾の文章は「願わくは英霊来たりてこれを受けよ」が、一般的であった。  この結文をもう少し重々しく、そしていささか冗長にするばあいは「願わくば在天の英霊、彷彿としてこの斎場に来たり享けよ」である。

私の作った弔辞もほぼ同じ様な内容だったが、戦死者が、陸軍か海軍か、大陸か南方か、下士官か兵卒か、などの違いに応じて少しずつ内容を換えた。 戦死者には申し訳ないが、弔辞を作ることは楽しかった。全部合わせて十通くらいは作ったと思う。 
  
陸軍へ入隊
翌年、つまり終戦の年の3月に召集が来、姫路の中部第46部隊(歩兵連隊)へ現役入隊した。 
入隊する前に、下士官になっていた従兄が「軍隊では、後ろの方でぐずぐずしていたら出世ができない。常に一番前へ出、何事も率先すれば、上官に認められ出世も速い」と教えてくれたのでそうするつもりでいた。

3月26日に同時入隊した我々50人は、とりあえず兵舎の中の一部屋に入れられたが、どうしていいか分からず、ただ、わいわいがやがや言うだけであった。
すると、「本日入隊した全員は階下の踊り場に集合せよ」と下士官が大声で命令した。 
すぐ階下に集合したものの、お互いすべて他人同士で面識もないから、秩序も何もない。 勝手にがやがや言っていると、下士官が又もや大きな声で怒鳴った、「貴様らは今日から帝国軍人だ、烏合の衆ではない。ちゃんと四列縦隊に整列せよ」。 しかし、そう言われても、誰が何処に並んでいいのかさっぱり分からない。 
苛ついた下士官は再び大声で「誰か指揮する者は居ないのか、幹部候補生有資格者は居ないのか」と喚いた。
一番前に居た私は、すかさず、くるりと向きを変えて全員の方を向き、大きな声で言った、
「それでは取り合えず私、中村が指揮をとります。誰が何処でも結構ですからとにかく四列に並んで下さい。 並び終わったら、右端の列の人は前から順番に番号を唱えて下さい、全員集まっているか点呼をとりますから」。

そうして人数を確認した上で、私は張り切って号令をかけた、
「気を付けっ、かしらー右、直れっ。本日入隊の初年兵全員集合したであります」。

そうすると、下士官は
「おう、貴様の名前は何か、そうか中村というのか。なかなかやるではないか」
と、言いざま私の横面を思いきり殴った。 

十分程でその集会が終わった途端、今度は、側にいた兵長と上等兵の二人が、
おい、貴様はなかなか見込みのある初年兵だ。だが、何様(なにさま)だと思っているのだ。偉そうにするな馬鹿野郎」 
と言ったかと思うと、私の頭を思いきり<ぽかり、ぽかり>と殴るのである。
褒めながら殴るのだから面食らった。 

これが、私の軍隊で殴られた最初であった。 その後、終戦の日まで半年間に、いったい何回殴られたか、想像もつかぬくらい多い。 仮に一日5回平均として、1000回近く殴られたことになる。 誉められたときも殴られるのだから、たまったものではない。

翌日は朝から、特技への配分、およびそれによる分隊配属があった。 
五つの特技、即ち小銃擲弾筒軽機関銃重機関銃、および歩兵砲への初年兵配属である。
先ず最も大きくて丈夫そうな数名が歩兵砲へ採らた。 次に重機関銃へ数名、見たところ丈夫そうなのが選ばれたが、まだ1名足らぬ。担当の将校が「この残りの中に、土方か筋肉労働をしていた者は居ないか」と、言った途端、「自分がそうであります」と私が反射的に申し出た。 
それまで半年程、爆弾担ぎをしていたのが頭にあったから、つい後先の見境もなく口を開いたのが失敗のもとであった。 おかげで、本当はひ弱い体であったにも拘らず、重機関銃分隊へ配属されてしまった。
 
あとで判ったことだが、重機関銃隊というのは、みな体が丈夫で、猛訓練を重ね、気の荒いことを誇りにしている、いわば歩兵部隊の花形であり、私のような優さ男の配属されるべき処ではなかったのである。
日本陸軍の誇る九二式重機関銃は眼鏡照準器を備え、嘘か本当か知らぬが、1000メートル先の敵兵でも、その目に当てようか鼻に当てようかと言うほど精度が高いという話であった。 
重量は、銃身が30キロ、銃床が30キロ、合計60キロあり、それを四人の機関銃手が交互に担いで走るのが仕事であった。 銃身と銃床の二つに分解し、走り担ぎするのを分解搬走といい、演習中は一日平均数キロメートルほど搬走するのが日課だった。 分解せず、そのまま四つの足を四人で担いで歩くのが標準的な搬送方法だが、どうした訳か、演習では殆どの場合、苛酷な分解搬走を強いられた。 

分隊長の話では、もともと重機関銃隊には馬が与えられていたのだが、軍馬不足のため、人間が馬の代わりをするようになったのだそうである。 
おかげで、入隊してから1ヶ月程の間に肩の皮膚が2回薄く剥げてしまった。 そして、55キロあった体重が、45キロにまで減ってしまった。

軍隊で最初の失敗
入隊して二週間目くらいに「風呂当番」が回ってきた。 
これは公衆浴場のような大きな風呂を、掃除し、湯を入れ、そして夜は最後まで裸で風呂場に残り、すべての後始末を済ませてから自分の中隊に帰るのである。 
その日、最後まで、ということはたぶん十時過ぎまで、風呂場に残り、もう全ての仕事が終わったから脱衣場の箱の中に入れてあった衣類を取り出し、着装しようとした。そしてそのとき、私の帽子がなくなっているのに気が付いた。 戦闘帽とか略帽とかよんでいるあの帽子が見当たらない。誰かに盗まれたのである。 

さあ大変、軍隊では帽子を冠らずには何処へも行けない。たとい屋内でも、立っている場合は必ず帽子を冠ることが原則になっている。しかたがないので、夜
に紛れ、無帽のまま風呂場から自分の兵舎へ帰り、すぐ隣のマットに寝ていた桜間というまことにおっとりとした一等兵殿(この人は能楽師の卵だといっていた。最近知ったところでは、桜間という姓は、金春流中興の祖といわれる桜間左陣以来の超名門の由。)に相談したが<らち>が開かない。

彼は、「何処かで、似たような帽子を泥棒してくるしか外に方法がない。軍隊で帽子を泥棒する方法は、他所の中隊の便所で、夜、しゃがんで用を足している兵隊の後ろから突然に扉を開け、帽子をかっ払い、逃げて帰るのが一番よい方法である。 軍隊の便所は鍵がないので用便中に開けるのは簡単だ。しゃがんでいる相手は帽子を盗られても追いかけるには、ずらしている股下(こした)を引き上げ、ちゃんと腰の紐を締め直さねばならぬので、時間が掛かる。だから、その間に逃げてしまえば成功率は非常に高い。 しかし、もし捕まった場合は、営内泥棒として処罰されるし、都合によっては相手の中隊の袋叩きに遭う可能性もある」
という。(後註:もっともこの話は桜間一等兵殿ではなかったかもしれない。いまになって考えると、あんなにおとなしく、しかも幹部候補生試験を落ちたばかりの上品な彼に、そうしたあばずれ知識があったとは思いがたい。)
 
そう言われると、よその中隊の便所へかっ払いに行く元気がでない。 本当に困った。その晩は一晩中まんじりともしなかった。 

翌朝、起床ラッパが鳴るとすぐ跳び起きたが、帽子がないので営庭の整列点呼に出られない。まごまごしていると「早く点呼に出よ」と、班長どのが後ろから叱りつける。

「帽子がないのであります」
「なに、帽子がない。寝とぼけるな、馬鹿野郎。その辺りを早く捜してみろ」
「いいえ、ゆうべ風呂場で盗られたのであります」
「馬鹿者め、まごまごしているからだ。しょうがない、鉄帽でも冠って早く点呼に出ろ」
 
このとき、班長どのに横面を数回張られた。
外へ出て整列すると、ただ一人だけの鉄帽(てつかぶと)姿だから、目立ち過ぎる。 

早速、隣の分隊長が「寝とぼけるな、阿呆。早く戦闘帽と取り替えてこい」と、言ったかと思うと、横面をげんこで殴りつけた。 
それを見ていた上等兵が尻馬にのって、横から思いきり<ぽかり>、というような状態で、その日の午前中だけでも数十回殴られた。 
分隊長が被服係下士官に交渉し、別の戦闘帽を支給してもらったが、そのときの被服係下士官の話は今も憶えている。

「被服は、たとい略帽一つでも陛下からお預かりした大事な第二種兵器である。無くすれば本当は営倉行きだ。営倉とは軍隊の刑務所だ。貴様は風呂当番で盗られたそうだが、初年兵のくせに大方、風呂の中でいい気になって、虎造の浪速節でもうなっていたのだろう。 軍人というのは、常に戦場にあって、いつ何処から敵がやってくるかも知れぬ。目を見張っていなければならぬのだ。たとい湯舟に浸かっていても、自分の衣服の方を常に監視していないと、どこから敵が現れるかも分からぬのだ。以後、気をつけろ、この頓間野郎め」

と、まくし立てたかと思うと、また横面を張り倒された。 
とにかく、この一日で横面が腫れ上がってしまった。しかし、気が立っていたせいか、悲しいと思わなかった。

話は少しそれるが、台北市の敦化路(とんふぁーる)の四つ辻に、サーベルをさげ、軍服姿の、蒋介石総統の大きな銅像が建っている。無帽である。 青空につっ立っている無帽の軍人姿は、どうもいま一つ様(さま)にならない。 やはり帽子が要る。 室内で座っている折はいいが、立っているときの軍人が無帽では迫力がない。むしろ、間(ま)が抜けている。
テレビ映画で「榎本武揚・五稜郭の戦い」を見たが、編笠を冠った侍たちが戦っていた。それは少しく異様であったが、いくらか史実に即してのことであろう。
明治維新の頃は、まだ洋風の帽子が少なかっただろうし、だからと言って、今更、兜をつけて戦う時代でもない。  とは謂え無帽では集団戦闘にそぐわなかったから、まだしも網笠姿で、ということになったのではないか。
白虎隊の「鉢巻」姿なども、洋風の帽子が無かったことに起因する風俗のように思える。

と、いうような次第で、敦化路を通過する際、私は必ず無帽の蒋総統像を数分間眺める。
そしてそのつど、不運にも帽子を盗られて、整列点呼で殴られた昭和二十年を思い出すのである。

軍隊生活の話を始めた途端に、私は早くも数回「・・であります」という会話言葉を使った。 
司馬遼太郎氏によれば、「であります」言葉の出自は長州だそうである。
長州出身の大村益次郎が創設した日本陸軍は、先ず共通標準語をつくる必要があり、それには手っとりばやく長州言葉を採用した。そしてそれが、「であります」調だったと司馬氏は説明している。 
その結果が、例えば、「中村二等兵、ただ今帰ったであります」とか、「中村二等兵、便所(かわや)へ行ってくるであります」というような軍隊言葉になったのである。 

それに加えて、漢音読みの軍隊固有の言葉もあった。 編上靴(へんじょうか)や、物干場(ぶっかんじょう)などである。雅びな「やまと言葉」は、冗長すぎて軍隊には不向きだったからだ。
今でこそ何とも思わないが、当時、全日本を糾合して国軍を創設するには、先ず第一に言葉の統一から始める必要があったのだ。 

それに失敗したささやかな例として、陸・海軍用語の異いがある。 
陸軍の大将(たいしょう)・中将(ちゅうじょう)は、海軍では(だいしょう)・(ちゅうしょう)と発音した。 また、陸軍の用語「復員」は、海軍では「解員」と言う。陸軍では「大尉どの」、「班長どの」と言うように、敬称の「殿(どの)」をつけて上官を呼んだが、海軍では「大尉」「司令」などの肩書それ自体が敬称であるとの見解から、「どの」は付けなかった。しかし、これは双方の礼式令の違いだろうから、言葉の不統一というよりむしろ「制度」の違いというべきかも知れない。

姫路の兵舎には約一ヶ月ほど居た。その間、毎日のように「分解搬走」で重機を担ぎながら営門を走り出、そして走り帰った。 
普通、営門を出入りするときは、正式に隊伍を組み、衛兵当番の士官などに「かしらー右」などしながら、歩調をとり堂々と営門を通過しなければならないのだが、重機の「分解搬走」訓練の場合はそのような面倒な形式が不要であり、また勇壮に見え格好も良かったので、班長どのはいつも、我々を分解搬走で勢いよく営門を走りながら出入りさせた。 
そのコースは、城南練兵場を横切り、国道をまっすぐ市川橋まで走り、そこで下の河原へ下り、「匍匐前進・射撃」の訓練を繰り返しながら一キロ程先の小川橋まで遡り、橋の袂にある山陽皮革本社屋上にある機関銃陣地へ昇り、そこでまた射撃訓練、そして再び分解搬走で白鷺城天守閣の真下の公園高台まで帰り、そこで三十分ほど休憩し、そして近所の兵営まで走って帰るのであった。 少なくとも四、五キロメートルはあったろう。

尊敬すべき中塚分隊長殿
なぜ姫山公園高台で休憩するかというと、そこには毎日欠かさず中塚酒造次分隊長の、新婚ほやほやの奥さんが待ってい、巻寿司や餅などの補給が期待できたからである。 それらの食物は背中に担いでいる空(から)の弾薬箱に入れて持ち帰れば営兵にとがめられず、後で下士官たちが分け取り出来るからであった。後日聞いたところによると、この美人の若奥さんは、私たちの八反田地区へその頃婿養子に来た奥平知一先生の妹さんだったそうである。 
それにしても、殆ど他の上官たちに食われてしまう食物を、いくら新婚とはいえ、ほぼ毎日、よくもまあ辛抱強く運んだものだと感心する。 と言っても、私たち初年兵には一切おこぼれが無かった。頑健な体を必要とする重機関銃には、士官・下士官が払底していた。そのため、原則として下士官がなる分隊長に、我々の第二機関銃分隊だけは中塚兵長が分隊長に任じられていた。
やたらと暴力をふるう底辺の軍人社会に在って、八千種(やちくさ)村出身の中塚分隊長は珍しく温厚な人で、ついぞ暴力をふるったことがなかった。醸造業をしていた父君が事業に失敗したので中学校へ行けなかったという話を伺ったことがあるが、それにしては読み書きが立派に出来た。

終戦後一年ほど経った夏のある日、田舎の村役場前の大通りで、小さな男の子を膝に抱いたまま荷馬車を御している人を見かけた。膝上の子供に何か話しかけたり、歌を歌ってやったりしながら、動いている荷馬車の上に悠々と座っていた。ほほえましい、親子と、馬とメルヘンの世界だった。
よく見ると、軍隊でお世話になった中塚分隊長どのであった。懐かしく、つい駆け寄ってご挨拶をした処、「幼い子供を家の中に置いておくより、天気のよい日は連れて一緒に仕事に出た方が情操教育によいと思うのでそうしている」、とのことだった。
馬車曳きを楽しんでいるとのお話であったが、スリムで知的な風貌の人であったから、荷馬車屋には不釣合に見えた。その後、中塚元分隊長殿が神崎郡連合青年団長を委嘱されたとの話を誰からか聞いたとき、まさしく適材適所の人であると思った。

我々の中隊には、このような立派な人も居たが、暴力を日常の楽しみにしているような古年次兵が殆どだった。
初年兵を理由なく殴るのは、上等兵か兵長クラスが多く、さすがに下士官ともなれば余り部下を殴ったりせず、少なくともうわべでは、<乙(おつ)に澄ましている>という風に見えた。 
とは言うものの、明らかに暴力的な下士官も居た。 名前は忘れてしまったが、見るからに恐ろしそうな般若面(はんにゃずら)の伍長がいた。 二の腕に蛇の彫物をしたこの中年の男は、我々初年兵にとって恐怖の的であった。少しでも気にいらぬ事があれば、すぐ怒鳴り、すぐ殴った。憎々しげな口癖でこう言っていた、「上官相手では喧嘩できぬと思う奴は、しゃばへ帰ってからでもやって来い。宝殿(ほうでん)駅前荒熊旅館の黒錦だ、何時でも相手になってやる」。

戦後、汽車で通過する度ごとに、いつも私は宝殿駅前を見逃さじと眺めた。確かに、そこに荒熊旅館の看板を掲げた小さな旅館が存在した。 
あの鬼のような伍長と、そしてあの荒熊旅館はどんな関係であろうか。 あの旅館の主人だろうか。そうとも思えない。なぜなら、あんな鬼の様な男が主人では客が恐れて泊まりに来ないだろう。 あるいは、あの旅館にたむろしている<やくざ>かも知れない。 また、旅館の主人の子分という可能性もある。 それにしても、「黒錦」とは妙な名前だ。 相撲取りの<しこ名>のような気がするが、そうすると荒熊旅館の「荒熊」も相撲取りみたいだ、というようなことを考えながら、青年の頃の私は姫路と大阪を往復したものである。

黒錦伍長の般若面(はんにゃずら)は、横幅ひろく、奥目・獅子鼻で、厚ぼったい唇の奥には金の入れ歯が鈍く光っていた。 体つきも、横に広くがっしりとしてい、怒り肩に筋肉が盛り上がっていた。
一般的に言えば、この人のように、横広の顔の人の方が、面長(おもなが)の人より、どう猛・喧嘩好きな悪人が多いのではないだろうか。 と、言うことは、縦長でのっぺりした、女性で言えば<瓜ざね顔>のような男は、平均して平和愛好型であると言いたい。 
テレビの芝居を見ても、悪役は多くのばあい幅広顔であるに対し、善良な色男はのっぺりした馬面(うまずら)が多い。 
もともと日本人は混合人種だから、アジア地域あちこちの人種が混ざりあってできている。その雑多な原人種のうち、ある特定地域の特定人種は、元来が「幅広顔」のどう猛・喧嘩好きではなかったろうか。 
そしてまた、ある別の地域の別の原人種は、太古以来「面長」で優さ型性質だったのではなかろうか。 

現に、韓国の人たちは、幅広顔で<どう猛・好戦的>なのは新羅・高麗人、そして、面長で典雅な顔の人は百済・任那系であると言う。 
また、十八史略によれば、「竜頭烏かい」、つまり頭が長く上唇の尖っているのは帝王の相であるという。福田赴夫のような人相だと思うが、言い替えれば面長(おもなが)の馬面がよいということになる。

 

唇の格好にしても、「温厚そうな厚いくちびる」とか、「意志の強そうな薄い唇」という表現があるが、反対に、「鈍重そうな、その厚いくちびる」や、「軽薄そうな、その薄い唇」という形容も何かの本で見たことがある。
薄い唇のアラン ドロンは軽薄か、それとも意志が強いのか、どちらであろう、と謂うようなことを考えてみると、人間の顔は面白い。

私は、「宝殿駅前、荒熊旅館の黒錦」という<せりふ>を思い出す度に、人間の性質と顔形(かおかたち)の相関関係を、つい考えてしまうのである。それにしても、荒熊旅館は宝殿駅前にまだあるのだろうか。新幹線は宝殿駅を通らぬので、もうそれを、車窓から眺める機会もない。 (後註:坂井元兵庫県知事の生家は宝殿駅前の旅館だった、と誰かから聞いたことがある。さては・・・)

入隊後二ヶ月ほどして、我々の部隊は全員、九州へ向け出発した。深夜に完全軍装を整えた部隊は兵営を出、すぐ前の城南練兵場に集結した。
予期を遥かに越えた大がかりな出陣であった。寝具用の藁マットから鍋釜に至るまで、あらゆる武器・生活用具をすべて車両に載せ、歩兵砲から夏冬の被服一切、それに当座の食糧など、驚くほど大量の物資が、武装した三千人もの兵士たちと共に、一挙に出ていくのだから、まことにゆゆしいことである。
前夜から通達があって、なるべく音を立てず粛々と行動せよとのことであったが、そのように大がかりな大移動だという認識がなかった。東の空がしらじらと明け、周囲の状況が見えるようになったときは、その偉容に感動すら覚えた。
何時とはなく、見送りの家族も参集し、さしも広い練兵場もほぼいっぱいになっていた。
家族や留守宅に今日の出陣を知らせるな、とのことだったので、私はその指図に従っていた。ところが、いつの間に知らせたのか、大半の兵士たちの家族が見送りにきていた。 私は所在ないまま、周辺の兵士やその家族たちの様子を眺めていた。
伊藤春次という精悍で粋な準尉が、赤ちゃんを背負った若い奥さんらしい人と別れを惜しんでいた。奥さんは泣いている様子だった。

夜が完全に明けきった頃、我々全員は物資・車両と共に駅前の大通りを行進し、姫路駅から特別列車に乗って九州へ向け出発した。 九州のどの辺りへ行くのか、我々初年兵には知らされてなかったが、たぶん下士官たちは知っていたのだろう。
列車は関門トンネルを越え、日豊線に入り、宮崎県富高駅へついた頃は日も暮れていた。線路事故か何かでそれから先は不通とのことであった。 
富高で臨時下車し、物資を満載した車両の後押しをしながら、真っ暗闇なぬかるみの道をだいぶ歩いた。泥濘は編上靴を越えて巻脚絆に達し、雨は外被を通して益々激しかった。
富高はいまの日向市で、高千穂の峰を源流とする耳川の河口にあり、海岸は神武天皇東征の出発地と言われる美々津港である。富高小学校で仮眠をとり、また汽車に乗って目的地、高鍋に到着したのは翌日の夕方であった。

結局我々は、ここ高鍋の山中で終戦の日を迎えることになるのである。 昼は高鍋高原で陣地用の長い地下壕を掘り、夜は竹薮の中の仮設兵舎で寝るという生活が数カ月続いた。

たいして書くほどのことでもないが、兵制の参考までに私の所属した部隊名を言えば次の通りになる。 記憶が薄れているので、少し間違っているかも知れないが、それはどうでもいいだろう。 
第二総軍、第十四方面軍、第百十五師団、第四百四十五連隊、第二大隊、第六中隊、第三小隊、第二分隊、である。
師団司令部は児湯郡妻町、即ち、今の西都市にあり、師団長は確か、陸軍少将谷干城という西南戦役の名将と同じ名だったと記憶しているが、お目にかかったことはない。 
連隊本部は茶臼原県民農業訓練所にあり、連隊長は堀龍市中佐。堂々として見事な職業軍人である。 
第二大隊長は、一年志願兵あがりの痩せた川本少佐。 ひ弱な予備役将校。 
第六中隊長は、赤松福雄中尉。加古川の米屋さんらしい。幹部候補生出身だが職業軍人のような風貌をしていた。(最近になって知ったが、この人は僕らと同じ商業学校の卒業生だったらしい。) 
第三小隊長は、古岡見習士官。京城高商出身の韓国系志願兵、平凡でスマートな青年。
実際には四百四十五連隊と言わず、護路二万二千七百三部隊といい、また、第六中隊と呼ばず、赤松隊と呼称した。つまり私は護路二二七〇三部隊、赤松隊の兵隊であったのだ。

高鍋というところ
赤松隊の仮設兵舎近くに、見るからに古めかしく堂々とした藁葺の農家があった。 老主人は真っ白な顎髭を蓄え、古武士の雰囲気を漂わせた人であった。日中に、白衣の正装をし、床の間を背にして端然と座り、書見台に向かってよく古書を読んでいた。 どんな素姓か知らぬが、この老人の書見中の姿は、この世の人とも思えぬくらい神々しく、しかも威厳に満ちていた。 

老人の話によれば、高鍋の歴史は次の通りである。
応神天皇の十四年、秦始皇帝十五世の孫、融通王が百二十七県の民を率いて帰化した。「弓月の君」といい、高鍋藩秋月氏はその直系の子孫に当たる。 その昔、立花、島津と並ぶ九州の大大名であったが、太閤秀吉に攻められ落城した。しかし、「秦始皇帝以来の名家あたら惜しむべし」ということで、日向高鍋に自耕給領三万石を与えられ、全藩士自ら耕しつつ団結して秋月家を守り、明治維新に及んだ。  
白衣の老人は、そうした自耕藩士の最後の一人である、と自分を説明した。

初めてこの人の書見姿を垣間見たとき、私は一瞬ぎくりとした。 障子をすべて開け放した広い座敷にただ一人、床の間・違い棚を背にし、白衣・白ぜんの老人が何時までも正座している風景は、少々異様であった。部落を見おろす丘の上にあったその家の構えは、天井の高い藁葺きの大屋根に、朽ちかけた長い濡れ縁付きの三間続きである。 もしこの老人が、ちょんまげでも結っておれば、忍者の頭領百地三太夫か服部半蔵家を訪れたのと寸分違わぬシーンだから、驚くのは当然である。
 
このような現実離れした老人と、私が何故親しくなったか、それは理由とも言えぬほど簡単な理由による。 
中隊の米つき当番で、この家の臼を数回借りた折りに、婆さんと親しくなったからである。 将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ。 気むずかしい老主人と親しくなるためには、先ず、その婆さんと近しくすればよい。 何処の土地でも、婆さんは人懐っこい。

百科辞典によれば、「高鍋町は、宮崎県中部、児湯郡(こゆぐん)。小丸(おまる)川口に臨み、日豊線が通る。旧高鍋藩三万石の城下町で、藩校明倫堂を中心とする文教の伝統を残している。県立高等営農研修所がある。洪積台地が広く、サツマイモの生産が多い。南九州化学(肥料)、宝酒造の工場がある。城跡は舞鶴公園。人口二万人」。
宮崎市の北方約三十キロメートル。海岸寄りにある日豊線高鍋駅から少し離れた内陸の小都市だ。西方約二十キロメートルに西都(さいと)市、つまり、かって我々の師団司令部があった妻(つま)の町がある。   

高鍋へ来てからは、重機関銃の分解搬走訓練が減った代わりに、地下壕掘りという少々危険な重労働が待ち受けていた。 
山の横腹に「コの字」型のトンネルを掘るのだから、先ず落盤よけのための支柱と天井板が要る。大きな鋸を持って付近の山へ行き、松の木を切って四寸角の柱と六分板をつくった。 
木挽作業の監督は、鬼の「黒錦」伍長である。彼は大工の心得があったらしい。 仕事始めのとき、我々ににこういう訓辞をした。  
              
「大工が家を建てるとき、先ず第一に、自分が今日から毎日大工仕事をする場を定める。いちばん便利のいい位置に、なるべく広い場所をとる。仕事の邪魔になるものは総てかたずけ、身辺に置かない。次に、適当な高さの立派な作業台を作る。そして悠々と時間をかけ、『のみ』や『かんな』を納得いくまで磨く。すべての準備が終わってから、やおら本当の大工仕事にかかる。最良の条件で仕事をするから、能率も上がり、手順の狂いもない。 反対に素人大工は、良い仕事場所を作らず、道具の整備もせず、狭く不便な条件で仕事をしようとする。だから、間違いが多く、能率も挙がらない。 貴様らの木挽仕事も同じことだ。 先ず、広く使い勝手のいい場所と丈夫な作業台をつくれ。場所は、広ければ広い程よい。鋸の目立てを充分にしてから仕事にかかれ。」

これは適切な訓辞であった。まさに卓見である。 
日頃、我々初年兵をやたらに殴りとばす嫌な班長であったが、このときばかりは感心し、そして尊敬した。 何か手仕事をするとき、自宅、会社を問わず、私は必ず、広く作業勝手のいい場所を確保し、それから仕事にかかる習慣にしている。そしてその始まりは、四十年前の「黒錦」伍長の訓辞にある。 本当は彼に感謝すべきだが、余り何度も殴られたので、どうも、その気になれない。
地下壕掘りの作業も、彼が立て役者だった。測量から土の運びだし、それに落盤避けの構築作業など、殆どすべてが彼の手の内にあった。たぶん、かれの本業は土木作業の監督だったのだろう。

小隊の地下壕掘りは、洪積丘陵の斜面に、50メートルほど離れた同じ標高の左右二カ所から逆L字形トンネルを同時に堀り進み、地下中央部で両方をつなぐ作業である。
2メートルほど進む毎に、両側に木の支柱と天板を差し込み、用心しながら手掘りを進めていった。落盤の危険が充分あるので、万一に備え、節を繰り抜いた太い青竹をトンネルの片隅に置いた。
水準器一つで測りながら数十メートルも離れた両方から掘り進むのだから、丁度まん中でうまく両方がゆき合うか危まれたが、数十日の工事の後、両方が通じたときは僅か五十センチ程度の高低差があっただけで、左右のずれは皆無であった。期せずして全員が万歳をとなえたのは当然である。
この辺り一帯は柔らかい泥岩層で、硬い石は砂利のかけらすらない。何かの目的で石が要る様な場合、どうにもならなかった。 石がないということが如何に不便なものかということを身に染みて知った。
半日捜しても、小石のかけらすらない不思議な土地であった。
いろいろ苦労したが、結局の処、この地下壕は使われずじまいで終戦になった。    

私たちの小隊の重機関銃には、二人の古狸がいた。 神崎郡山田村出身の高部(たかべ)上等兵と、名古屋出身と自称する生田上等兵である。 ご両所は実役(じつえき)6年、中隊きっての古兵(こへい)だった。
途中で一階級進んだ高部兵長は、本職が左官の由(よし)で、中隊長用の別棟兵舎に美しく土壁を塗り、将校たちの覚えがめでたかった。 出身の山田村牧野という所は、私の里の村に二、三の姻戚関係があり、そのせいか私に親切であった。
「おまえは独り身だから何時死んでもよいが、俺には嫁も子供も居るので戦死する訳にはいかぬ。今おまえを大事にしてやるから、敵が攻めて来、鉄砲を撃ってきたら、俺の前に出て代わりに弾に当たって死んでくれ」
と言うのがこの人の口癖だった。 
また、「隣の生田上等兵は、本当は、おまえと同じ田原村の出身だ。だから、おまえには親切だ」と教えられた。なるほどそう言われてみると、気性の激しい生田上等兵も、私だけはあまり殴らなかった。
 

情報によれば、本土上陸の米軍は間もなく日向灘沿岸、それも高鍋小丸川の河口に上陸する筈で、我々はそれを遥撃すべく、高鍋郊外に陣地を構築しているのである。

赤松中隊は4ケ小隊で構成され、第1、2、3小隊は機関銃、小銃、てき弾筒分隊より成り、第四小隊は歩兵砲小隊であった。 
そのうち重機関銃が配属されているのは、第1、第3小隊に各2分隊ずつだけであった。
重機関銃は1ケ分隊に1台ずつ、つまり4台だけが我々の中隊に配置されていた。
もっとも、すぐ隣の第二小隊の重機関銃手は誰であったか、いっさい記憶がない処からみると、我々の小隊の2台だけであったかもしれない。 
標準編成では1ケ小隊が100人程度らしかったが、我々の小隊は40人程度、中隊全員でも200人に満たなかったから、標準の半分程度の人数だった。

古岡小隊長は、前に述べたようにインテリの見習士官で、実戦の経験もなかった。
しかし、私たちの中隊には、珍しくも海部中尉という重機関銃将校がいた。加えて、数人の重機関銃下士官が居、彼らは実戦の古強者であった。
重機の下士官たちは、「敵が攻めてき、朝子さんが射撃を命じても絶対に撃ってはならない。敵は、先ず重火機をさきに狙うから、下手に撃つと真っ先に重機がやられてしまう。だから、なるべく撃たずに隠れていて、敵が逃げだした場合や、味方の小銃手が突撃したときにのみ援護射撃をするから、下士官の指図を待て」と、何度も念をおした。 「朝子さん」とは、傲慢な下士官たちからの、半島出身の古岡見習士官に対するニックネームであった。

妻の釣り橋
その頃、我々の中塚分隊長は、心臓脚気とかで、遠く離れた妻町の野戦陸軍病院に入院していた。古年次兵の話では、心臓脚気という病気は症状がいっさい外に現れず、そのため兵隊が仮病にもっともよく使う病名である、とのことだった。 

確か、入院後二ヶ月ほど経ったある日、命令が出、私と、ある頼りない衛生兵の二人が妻町まで、退院する分隊長を迎えにいった。
いま大和民族の古里ではないかと言われ、有名な西都原(さいとばる)古墳群を持つ西都市は、その頃、児湯郡妻町といい、高鍋高原から西へ歩いて数時間の道程だった。 
陸軍病院は町外れの種畜場のような建物を借りていた。 
分隊長殿は既に中隊復帰すべく身の回り品を梱包し終わっていたので、迎えにいった私たち二人は、それを棒に通して担いでお供するだけであった。
ところが、いざ帰ろうというときになって珍事が持ち上がった。 陸軍病院の病舎のすぐ隣にある食堂で突然若い娘が泣きだしたのである。 分隊長殿は慌ててその娘を宥めに懸かったのだが、彼女は袖にすがりつき泣き止まない。 
初年兵があまり眺めていては失礼と思い、知らぬ顔をして、その辺りの畦道を半時間ほど散歩しているうちにようやく治まった。
「離せ 短剣に錆がつく」という、その頃はやった歌とそっくりの情景であった。
艶福家の中塚分隊長は、我々二人の初年兵に荷物を担がせ、そして、ご本人は手ぶらで、まことに楽しそうに歌を歌いながら、爽やかな初夏の風が吹く妻の大釣橋を渡った。 

私たち二人の二等兵もついつり込まれ、棒の間にぶら下げた荷物を、彼の歌にあわせて揺すぶりながら従った。 高鍋の中隊へ帰りついたのはもう夕方のことであった。

町外れにあったあの大きな釣橋は、まだあるのであろうか。 それとも、もう近代的な高速道路に変わってしまっているのだろうか。 いつの日か再度、西都市を訪ね、あの釣橋をもう一度渡ってみたいと思いながら、まだ機会を得ないままである。

建国記念日の仕掛け人
ところで、今日は平成元年二月十一日、建国記念日である。昨日、「明日は建国記念日で、休み」と教えられたとき、まことに迂かつな話だが、「そのような休日があったのか」と思った。数年前、新聞に「紀元節を考える会 国民運動」とか、なんとかいう記事が出ていた。代表に、黛敏郎、山岡荘八升田幸三の名が列記してあった。 「ああまた、佐藤正忠氏が仕掛けたな」と、そのとき思った。 
しかしその頃、三笠宮が大反対していたので、まさか「建国記念日」が国の祭日になるとは考えなかった。 だから驚いた訳である。ひょっとしたら、昨年も建国記念日があったかも知れない。日常、新聞を見ないと、どうしてもこのように世間離れした知識不足になる。 

もともと、「なんとかを、なんとかする会」というような長ったらしい名前の会は、雑誌「経済界」主幹佐藤正忠氏のよくする処であり、黛、山岡、升田というような先生方を発起人の名に連ねるのは、佐藤氏の常套手段で、そうした彼の団体の支持者名簿には、ひょっとすると私の名前もいつの間にか入っている可能性も無しとしない。
黛敏郎氏が旗を振ったのか、佐藤正忠氏がプロモートしたのか知らぬが、紀元節が復活したのは、私たちの世代にとっては懐かしい。いま丁度、旧「妻(つま)町」、現在の西都市に関係があることを述べている時に「建国記念日」がまわってきたというのも、なにかの因縁かもしれぬ。 
と、いうのは、西都市は多分に、日本の建国神話発祥の地である可能性があるからである。

「雲にそびゆる高千穂の・・」という、その高千穂は宮崎県に二カ所ある。 
一つは、既に述べた日向市を西へ数十キロ遡った「高千穂の峰」であり、もう一つは、宮崎市にある旧官幣大社「宮崎神宮」が、神武天皇の「高千穂の宮」の跡であると言われている。 
そして、西都市及び西都原古墳群は、その二つの「高千穂」の丁度中間点にあって、何れにしろ建国神話の渦中にある由緒深い場所なのだ。 僅かばかり東にそれた高鍋の山中でも、その時代の物と思える石器の遺物が沢山出てくる。 

復員で帰る折、私も、石器の〔斧〕と、秤に使用する〔分銅〕を数個持って帰った。
持ち帰った当座はそれを机の引出しに大事にしまっていたが、その引出しが一杯になり邪魔になりだした。そこで、今度は床の間の掛軸の下に置くことにした。すると母が、毎日の掃除の邪魔になると苦情を言う。
「置き場所に困る」と、村の新制中学校の先生に話した処、中学校が教材として貰ってもいい、と言ってくれた。さっそく、先生の気が変わらぬうちに学校へ持って行き、ほっとしたことを記憶している。 

骨董品のようなものは、ちゃんとした保管倉庫か飾り棚がない限り、自宅へ持って帰ったら後で困る、ということをそのとき知った。 
だから私は、骨董品とか珍奇な参考品などを自分で持つという習性が今もって皆無に近い。

なにはともあれ、今日の建国記念日で、「雲にそびゆる高千穂の、高嶺おろしに草も木も、なびき伏しけん大み代を・・」という紀元節の歌を思いだし、同時に日向の国を懐かしく思った次第である。 

それともう一つ、「雲にそびゆる高千穂の・・」の歌のメロデイは、たしかハイドンかヘンデルの「王宮の花火」か、「水上の音楽」かどちらかにあったと思い、黛敏郎の「題名のない音楽会」という本をとりだし、調べてみたが転用メロデイの記事の中にはなかった。レコードで聞いて、調べようと思う。 

参考までに言えば、「たんたん狸のxxxxは、風に吹かれてぶーらぶら・・」のもと歌は、日本福音連盟の聖歌第六八七番「BEAUTIFUL RIVER」。「オタマジャクシは蛙の子 なまずの孫ではないわいな・・」は、南北戦争の軍歌、「リパブリック賛歌」。そして、我々の子どもの頃はやった「夕空はれて秋風ふき・・」という<故郷の空>は、スコットランド民謡の「COMMING THROUGH THE RYE」が元のメロデイだそうである。

メロデイで思いだしたが、軍隊はすべて<らっぱ>の合図で一斉行動する。

その<ラッパ>のメロデイは、「おきろ おきろ はよ起きろ 起きないとととさんに叱られる・・」が起床らっぱ、「新兵さんはつらいやね・・ また出て泣くのかね・・」が消灯ラッパ。 そして、「出てくる敵は皆みな殺せ 出てくる敵はみなみな殺せ・・」が突撃ラッパであった。

軍歌
ついでに軍歌の話をする。 歩兵は歩くばかりだから、どうしても軍歌を歌う機会が多い。 幼稚園の遠足でもないから、ぺちゃくちゃ騒ぎながら歩く訳にはいかない。だからと言って、黙って長時間歩かせるのも、いわば異様である。必然的に軍歌を歌うことになる。 

私たちの小隊で最もよく歌ったのは、「ここはお国を何百里・・」の『戦友』で、次によく歌わせられたのは、     
ドイツの国を行き過ぎて ロシヤの境に入りにしが   寒さいよいよ勝りきて  哀れはかなきポーランド・・
という、<しゃば>では聞いたことのない歌だった。 歌の題名も教えられず、歌詞も定かでなくなったが、後日誰かに聞いた処によれば、「福島安正中佐のシベリヤ横断」の歌だそうである。

この歌については、もう一つささやかな記憶がある。 
それは数年前、マニラに住む同業の友人コーンフェルド氏の家を訪ねたときのことである。 
動乱のポーランドを逃れ、マニラに移り住んで四半世紀、ようやく幸せな身分になったが故国のことは忘れられない、と彼が身の上話をした。 
そこで私は、「日本にも、ポーランドの歴史を語った歌がある」と言って、   
聞くも哀れなその昔 滅ぼされたるポーランド・・
と、歌って聞かせてやった。 
英語に翻訳しながら歌うのだから、少々面倒であったが、彼は充分満足していた。
ポーランド流民と、そのシベリヤ自然史博物学に就いては後で述べる。

ニセ神主
建国神話の地、高鍋高原に於ける地下壕掘りの合間に、意地が悪く、特に嫌われていた上等兵が、ある日、私の入隊までの職業を聞いた。
「爆弾担ぎをしていました」などと言えば、またもっと重労働を押し付けてくると思ったので、とっさに「神主をしていました」と嘘を言って、東京で習った神主の作法をしてみせた。
すると彼は「神主であれば八卦が見れるだろう、俺の運命を見てみろ」と、言うから、子供のとき「主婦の友」の付録か何かで読んだのを思いだし、いい加減な運勢判断をして見せた。 
処が、それが評判になり、数日後に中隊指揮班から迎えが来、いなせな伊藤準尉が八卦を見ろという。
「何を見ましょうか」と尋ねると、「俺の結婚の可能性と子供が出来るかどうかを占ってくれ」と言う。 
「おかしいですね、もう結婚して子供も居る、と手相に出ていますが」と、答えた。
姫路の練兵場を出陣の日、空が少し明るくなった頃、確か、赤ちゃんを抱いた準尉の奥さんが微かに鳴咽していたのを見ているので、このような八卦を言ったのである。
しかし気の強い伊藤準尉は、「馬鹿なことを言うな、もっとよく性根をいれて見よ」と、言う。 
こちらは自信があるから「いくら見ても同じです、不思議であります」と、とぼけてみせた。
「貴様のような当たらぬ八卦見はだめだ、いいからもう、あっちへ行け」と追い返された。

処が数日後、小隊の古参軍曹が、「大隊本部の門脇大尉から、貴様を出頭させよという命令が来ている。貴様は大尉どのを知っているのか、それとも何か原因について覚えがあるか」と言う。
普段付き合いのない大隊本部の偉い人からの出頭命令だから、私はおろか、軍曹も気にしているのである。 
翌朝、上等兵に引率され、私は初めて大隊本部へ出頭し、門脇大尉にお目にかかった。 大隊本部まで数キロメートルのみちみち、引率の上等兵も心配し、「貴様、何か悪いことでもしたのではないか」と何度も私に聞いた。 
その頃、何処へ行くにもすべて歩いていった。「歩兵」とはよく言ったものである。

けげんな気持ちで大尉に会うと、開口一番、彼は「おう、八卦見が来たか、一つおれの運勢を見てくれ」と言う。「なーんだ、そのことか」と、安心して、出まかせの運命鑑定をしたが、今度はさっぱり当たらなかったようである。
「うん、当たらずとも八卦は八卦だ。もういいから帰れ」と言われ、またもや上等兵どのに引率され、自分の中隊へ帰った。一日仕事であった。
地獄のような軍隊も、地位の高い人は結構その生活を楽しんでいたようである。

たまごエネルギーの臨床的研究
残壕掘りの頃の思い出をもう一つだけ加えておく。 それは食べ物の話である。
軍隊も食糧が不足し、昼食は殆ど水ばかりの<だんご汁>だった。それで土方と同じ仕事をさせるのだから、たまったものではない。 みんな空腹で、疲労困ぱいしていた。 
そのようなある日、私は何かの用事で丘陵の一本道を歩いていた。すると、自転車の後ろに石油缶を積んだ中年の男が私を呼び止めた。「兵隊さん、卵を買わぬか」という。 
見れば、石油缶の中に、籾ぬかと共に、鶏の卵が沢山入っている。 しめた、と思って「全部買おう、何個ほどあるのか」ときいた処、石油缶に三杯ほどあるとのこと。 「全部買うから、ここで待っていてくれ」と言うやいなや、一目散に穴掘りをしている小隊へ走って帰り、古参軍曹にそれを報告した。 さっそく小隊じゅうの現金をかき集め、今度は上等兵と私の二人が、自転車を留めて待っている件(くだん)の男の所へ急行し、全量買い取ってきた。

さあ、それからが大変だった。 穴掘り作業は臨時休業し、みんなで卵を分けあい、土壕の側で火を焚き、みんなでゆでて食べることになった。 
下士官は5個、上等兵は3個、そして一、二等兵は2個ずつ、の配分になった。 
普段おとなしい古岡小隊長も、このときばかりは悪ねだりして、一人で十個もせしめたが、「本性見えたり」と、下士官たちに散々悪口を言われた。 
私は、ご注進の<ほうび>として下士官なみに五個を割当ててもらった。 
その日の午後は、盆と正月が一度に来たようで、日頃の厳しさも何処へやら、全員がいっとき<ふくいく>としたムードに包まれた。 
食べ物が人間の心に与える影響は大きかった。

翌朝、例によって起床らっぱで飛び起きようとしたが、その瞬間、軍曹が「ちょっと待った」と大声を出し、皆を制止した。
念のために調べる。けさ、朝立ちしたやつは手を挙げろ」と、彼が言った途端、はっと気がついた。 私の股間が立っていたのである。 慌てて挙手をし、周囲を見回すと、何と驚いたことに下士官以下全員が手を挙げていた。 絶えて久しくそのようなこともなく、半栄養失調状態であった我々が、昨日食べた鶏卵数個で全員<朝立ち>していたのである。 
たかが鶏卵に、そのような威力があると判って本当にびっくりした。 と同時に、そのことに素早く気付いた軍曹の機転と慧眼に尊敬の念を覚えた。

参考までに、昨日の午後食べたゆで卵が、今朝からだの一部の筋肉の勃起という生理現象を起こすまでの課程を、生理学でおさらいしてみよう。
先ず、植物と違って、人間という動物は、外部からエネルギーを体内に取り入れるには捕食による。昨日、鶏卵を食べたのはこの行為である。 体に取り入れたエネルギーは、すぐその場で消費してしまうのではなく、一旦ATP(ADENOSINE TRI-PHOSPHATE アデノシン三リン酸)となって筋肉中に貯蔵され、必要に応じ取り出して消費される。 今朝の勃起に費されたエネルギーは、昨晩中はATPの形で保存されていたと考えられる。
もしATPの形で筋肉に貯蔵されているエネルギーが有り余っているような体の場合は、何も昨日貯金したATPを今朝すぐ慌てて取り崩す必要がない。 
宵越しの銭(ぜに)を持たぬ江戸っ子のように、我々の体も重労働の上の粗食で、エネルギーの補給が著しく不足している状態だったから、昨日の午後取り入れたエネルギーを今朝すぐ消費してしまったのだろう。今朝の勃起で消費したというより、本当は昨夜の内に、既に半分消費していたと考えられる。なぜなら、勃起は、朝だけでなく、実は寝ている間ずっと断続している現象だそうだからである。

私のロータリーの知人に志水という神経医学の教授がいる。 教授の話によれば、IMPOTENTの主訴で大学病院を訪ねる老人の殆どは、充分勃起している人だそうである。 ただ、本人がそれに気付いてないだけらしい。
しからば、それをどうして証明して見せるか。 そのための簡単な方法に「スタンプ法」がある。 萎びているPENIS に、ミシン目で接続したままの郵便切手を巻き付け、その両端を糊かセロテープで張り合わせ就寝する。 翌朝、目が醒めたとき、もし切手のミシン目が破れていたら、それは就寝中に勃起していた証拠であるらしい。

「睡眠」は、<深い眠り>と<浅い眠り>の二つが交互に連続している。 そして「レム睡眠(Rapid Eye Moving sleep)」、つまり<浅い睡眠>のときは必ず「勃起」しているのだが、本人は寝ているので、それに気付いていないのだと、志水先生は言う。

この説に従えば、前日にゆで卵を食べてエネルギー補給した我々第二小隊の面々は、その夜の「レム睡眠」中は、ずっと勃起していたと考えられる。 しかし、そのような非生産的な現象に、長時間エネルギーを消費していたとすれば、折角のゆで卵も翌日の土壕掘りのエネルギー源になり得なかったのではないか。
さらに考えてみると、「捕食」で取り込んだエネルギーも、その消費が余りにも忙しければ「ATP」という糖質貯蔵物に変化する時間的余裕もなかったのではないか。 そして、そのような場合、はたして、ATPになるという課程を省略し、直接消費エネルギーたり得る可能性はあるのだろうか。 この辺のことは、食物および生理学を専攻するクラスメート井上太郎博士などに聞いてみないと解らない。

話がだいぶ外れてきた。 ここでまた高鍋に於ける軍隊の話に戻る。初年兵生活にようやく慣れた頃、幹部候補生の試験が待っていた。戦前、陸軍から「配属将校」を受け入れていた中等学校以上の卒業生は、陸軍へ入隊すれば幹部候補生試験の受験資格がある。合格すると、特別教育を受けた後、甲種または乙種の幹部候補生になる。 
甲種は士官、そして乙種は下士官に任官する。 それを、「甲幹」または「乙幹」と略称する。 その試験が近ずいて来たのである。 よほど偏屈者でない限り、ほぼ有資格者全員が志願する。一日も早く将校か下士官になれば、それだけはやく楽になり、殴られ通しの期間も短くなるのだから、みな志願するのである。 私も当然志願した。私たちの小隊長、古岡見習士官が担当し、中隊の有資格者全員に対する夜間講習が開始された。場所は近所の民家の納屋である。 毎晩、各小隊毎の仮設兵舎に於ける夕食が済むと、我々「幹候有資格者」は夕食後の雑役を免れ、講習を受けに行くことになった。 講習は毎晩八時頃に始まり、十一時頃に終わる。 この時点で私は一世一代の大失敗をした。 というのは次ぎに述べるような事件を起こしたのである。

さあたいへんの大失敗
その運命の失敗日より二週間ほど前、何かの命令を受け、私は丘のずっと下の方にある部落へ行った。その折り、とある民家で親切な接待を受けた。その家の息子さんは軍隊に行ってい、老夫婦だけだった。 息子の代わりに食事を提供するから何時でも来いと言われた。四六時中腹がすいていたから、この申し出は有難かった。しかし、厳しく忙しい軍隊の初年兵に、出かけて行く時間などある筈がない。 あったとしても、民家への出入りは厳禁されている。 何かいい方法がないかと考えていた矢先に、夜の「幹候」講習会が始まった。 最初の数日は、まじめに講習会に出た。 その後、夜、小隊の兵舎を出るときは、講習を受けに行く風にしておいて、講習会場へは行かず、夜陰に紛れて下の目指す農家へ行った。
風呂に入り、ご馳走になって、講習の終わる時間を見計い、なに食わぬ顔をして、みなが寝ている小隊の宿舎へ帰ることにした。 数回この手を使って、たらふくご馳走になって帰ってきたが、誰からも怪しまれなかった。 

ところが、ある日、その日は私一人だけでなく、同じ小隊の近藤と角田という二人の戦友を連れ民家へ行った。もちろん三人とも二等兵である。
例によって歓待され、腹一杯ご飯を頂き、ゆっくり休ませてもらって予定の時刻に兵舎へ帰った。 

忘れもしない、その晩は小雨が降り、ぬばたまの真っ暗な夜であった
。近藤と角田は左側の入口、そして私は右側から、両手で手探りしながら勝手知った入口をそっと開けて入ろうとした。 両入口付近は下士官たちの寝ている所なので、特に用心して音を立てぬよう気配りし、入ろうとしたとき、突然、オクターブを落とした、小さいが、しかし厳しい下士官の声がした、「帰ったか!」。  
私はどきっとした。そして反射的に小声で答えた、
はっ、帰りました
後の二人も帰ったか」 
はっ、左側の入口にいます
よしっ!」。 

そこで突然、下士官は大声をあげて怒鳴った「点呼、点呼!」。途端に、闇夜をつんざいて「非常呼集」のらっぱが亮々(りょうりょう)と鳴りわたった。 
入隊して初めての非常呼集であった。 中隊全員が武装して広場に集合し、かがり火のもとで中隊長の点呼を受けた。 その間わずかに数分であった。 何がなにやら分からぬまま、私も参加した。

しかし、その後が大変だった。 私たち三人は数日間殴られっぱなしだった。 本当にもう死にたいと思うほどであった。 上等兵に殴られ、下士官全員に殴られ、準尉に殴られ、そして遂には中隊長宿舎にまで呼び出された。
本官は貴様らを離隊逃亡罪で軍法会議に懸ける」、と中隊長は言った。
途端に、近藤と角田の二人が泣きだした。「泣くなっ」 と、中隊長が叱った。
「当然、軍法会議に懸けるべき処だが、貴様らには幹部候補生の試験が目前に迫っている。それまで待ってやるから、必ず試験に合格せよ。 もし落ちたら、軍法会議にかける」と、中隊長は少し声を和らげて言った。  
助かった、と思った。「有難うございます。しっかりやるであります」と、私は答えた。さすがに、中隊長は殴らなかった。

後で分かったことだが、あの夜、「非常呼集」の訓練をすべく中隊本部で予定を立てていたのだそうだ。 そのため、幹部候補生の受験講習も早めにきりあげ、中隊全員が、少なくとも下士官以上はそのつもりで待っていたのだそうだ。そして、もし万一誰かが居なかったら、その兵隊は離隊罪に問われるので、念のため、前もって員数点検した処、私たち三人の初年兵だけが居なかったという訳である。 
その夜「非常呼集」をするという情報は、既に流されていたので、普段内証で外へ出かけていく古い兵隊たちもその日は大人しくしていた。ところが、予想外にも初年兵が三人居ないので、週番下士官の裁量で「非常呼集」を遅らせていた。
それを知らない中隊長が、なぜ呼集を懸けぬかと詰問したので、全てが中隊長の知る処となり、それでも強行すれば、三名不在の事実を大隊長に報告しなければならぬし、それはとりもなおさず中隊長の大きな失点になるという不祥事であったのだ。 

とにかく、その後数日間は殴られっぱなしで、横面が腫れ上がってしまった。 「離隊罪」というのをそのとき初めて知ったが、それは「勝手に所属部隊を離れる罪」であって、軍隊から逃亡した場合の「逃亡罪」よりは少し軽い罪だそうである。 なるほど、兵隊がどんな理由であるにしろ、勝手に隊を離れるのを許していたら規律や秩序が成り立たなくなるだろうから、「離隊罪」が存在するのは当然である。

それから三週間ほど後に、連隊本部で「幹候」の試験があり、私は合格したが、近藤と角田は不合格であった。 しかし三人とも軍法会議にはかけられなかった。
このときの試験は、後から考えてみると、随分いい加減なものであったようだ。 
中隊で実施した受験講習が半ば終わった頃、担当の古岡見習士官が「どのくらい貴様たちが勉強しているか参考までに、簡単な試験をしてみるから、軽い気持ちで答案をだしてみよ」と言って、一時間ほどのテストをしたことがある。その翌日の講習前に、テストの結果が口頭で発表された。テストで最も良い点をとったのは、井川というおよそ軍人に一番不向きな<ふにゃふにゃ>したおとなしい男だった。 

ところが、連隊で行われた「幹候」の試験の結果も、彼が、我々の中隊の序列第一番で合格しているのである。 
また、連隊本部に於ける筆記試験の折、丁度私の隣の席にいて、何も書かずに白紙答案を出した西山という戦友も、ちゃんと合格していた。もっとも、彼は、女のような井川と違って、将校にうってつけの男らしい男であった。 
それにしても、白紙の答案を出した男が合格したというのは腑に落ちない。 すべてを勘案するに、「軽い気持ちで」と古岡見習士官が言った、あの講習会の試験の結果をそのまま序列にし、その内申書を連隊長に提出し、連隊もまた、その序列のまま合格発表したらしい。 
ただ、少しは面接試験の結果も加味したらしい。 というのは、我々の中隊での序列第一番の井川候補生が、連隊に於ける合格序列では第17位という低い位置にあったことから推察がつく。 当時連隊には、配下に、確か17か,18ヶ中隊しかなかったから、各中隊の序列一番の者を連隊合格序列の1番から17,8番に順次に組み込めば、その中で最も頼りなさそうなわが中隊の井川が、ビリに近い17番にランクされてしまったという推理が成り立つ。 
一見、厳格に序列考課をしているように見える軍隊も、この辺りで少し『ぼろ』を出していたような気がする。(これは、いまごろのキャリヤ官僚の昇進とよく似ている。日本の役所では、昔からこうした伝統があったのであろうか。)

幹部候補生試験の数日後、合格者全員は連隊本部へ呼び集められ、「上等兵の階級にある昭和二十年度第三次幹部候補生」を命じられた。 
その日から二等兵の衿章が、上等兵の三つ星に変わった。 幹部候補生の場合は、その衿章のすぐ横に通称「座金星(ざがねぼし)」とよぶ真鋳のやや大きい星を付けるのだが、物資不足でそれが貰えず、太い竹を削って、それに似たようなものを作り衿に縫いつけた。
その日、一緒に幹部候補生になった中に、商業学校からの同級生榊原弘君がいた。彼は神戸高商から商大在学中のままの現役入隊であった。そして偶然、私と同じ赤松中隊だった。 もともと、姫路のメインストリート二階町の老舗「榊原弘盛堂」の長男で、典雅な風貌の秀才であるから、私たち田舎の<がさつ>な生徒とは余り交友がなかったが、軍隊で、諺通り「同じ釜の飯を食った仲」になったので、戦後も親しく付き合いをすることになった。

その後の数カ月、つまり終戦までは、我々「幹候」だけが、ひと塊りになって特別訓練を受けた。テキストは、いままで使っていた歩兵操典の代わりに、「歩兵戦闘教練」とかいう新しい教科書のようなものを使った。 
話によれば、長年使用された「歩兵操典」の中に新しい戦争にそぐわぬ箇所があり、それを修正したのが「歩兵戦闘教練」であるとのことであった。 しからば、具体的にどの様に変更されたか、という一例として次のような説明を受けた。 
歩兵操典では、「空から機銃掃射を受けた場合、すぐその場で地面に伏せる」ときめられていたが、新しい歩兵戦闘教練では、「先ず、機銃掃射の弾道を見、それを僅かに避けて伏せる」と、改正されたのだそうである。
数カ月の特別訓練の後、「甲幹」と「乙幹」に分けられる。 どちらに組み入れられるかは、我々にとって重大な問題であった。 将校と下士官では身分に大きな開きがあるからである。
しかし前にも述べたように、重機関銃は将校が足らぬので、私の場合は余程成績が悪くない限り「甲幹」になれるのではないかと思っていた。
そんなある日、姫路市荒川出身で「乙幹」上がりの嵯峨山軍曹が「貴様は学校の配属将校からの内申で<士適>になっているから、『甲幹』に間違いない」、と内緒で教えてくれた。 <士適>とは<士官適任>のことである。
彼の説明によると、最終出身学校の配属将校が、毎年の卒業生について「士適」、「下士適」、「兵適」の三種に分け、その内申書を前もって所轄師団へ届ける。三種の比率は、その学校と、卒業年次の「教練査閲」の成績によって師団から事前指示するのだそうである。
中等学校の場合は「下士適」の比率が多く、高専、大学と進むに従い、「士適」が多くなるよう軍が指導しているので、大卒者は大半が「士適」の内申になっている、とのことであった。 真偽の程は知らぬ。

八月十三日、例によって「幹候」の訓練中、道端で偶然、岩崎益隆君に会った。彼は、小学校、商業学校と十一年間、共に遊んだ同じ村の親友である。 私と同じように、痩せて<ひょろひょろ>になっていたが、相変わらずの鼻めがねをかけ、楽天的な性質は変わっていなかった。聞けば彼は、隣りの中隊、即ち「大高隊」にいると言う。中隊長大高大尉は、もと、滝川中学の配属将校であったと言った。九州の山中で、村の同級生に会うというのは意外であった。

翌々日は、運命の八月十五日。 
この日、私は十数名の重機関銃「幹候」と共に、兵舎のすぐ下にある民家集落付近で演習をしていた。 
昼頃になり、全員ひと休みすべく近所の<ほこら>で横になっていた。 

ちょうど頭の上に、絵馬額があり、それには三十六歌仙の小野の小町が描かれていた。

確か、「花のいろは移りにけりな・・」まで解読したときである。急にサイレンが鳴りだした。あとを読まずに立ち上がった。 「すわ、敵機来襲か」と思ったのである。
 
 
 
 

処が何処となく様子が違う。ふと外を見ると、部落の区長らしい人が住民を集めて泣きながら話をしている。聞き耳を立てると「玉音放送があって、戦争は終わった」と、言っている。慌てて中隊へ帰ったが、下士官以下だれも様子が分からず、うろうろしているだけである。将校は誰もいなかった。たぶん大隊本部か、連隊本部へ呼び集められていたのだろう。

数日後に全ての兵器が回収され、高鍋中学の校庭に集積された。敗戦がようやく実感となった。

私たちの九二式重機関銃も、遂に使用することなく目の前から消えて行った。
(そして、私が同じ重機関銃を再び目にするまでに三十年の歳月を必要とすることになる。)

中隊長から「軽挙盲動せず、復員の指図を待て」との訓辞があった。
高部(たかべ)兵長は「アメリカがやってきて、我々は重労働にこき使われるのではないだろうか」と心配そうに言う。 
中塚伍長(この人は少し前に伍長に昇進していた)は、「カフエーというのは確かアメリカからきたものだ。また紅い灯、青い灯で遊ばせてくれるかも知れぬぞ」と楽天的。
最古参の船田軍曹は、「復員後の就職あっせんを考えろ、と本部から言ってきた。おい中村、アッセンというのはどんな字だったか」ときく。

一緒に入隊し、一緒に重機に配属された小川二等兵は「もうこうなれば上官も何もない。偉そうに言うと、しばきあげるぞ」と、打って変わったように上官に対し挑戦的になる。 
「被服係の門脇大尉が軍服などをトラックに満載して郷里へ送ったそうだ。我々も早く泥棒に行かぬと損をするぞ」と、実利的なのは生田上等兵
話だけは、まさに<てんやわんや>だったが、実際はほぼ平静に推移した。 
そのうち、いわゆる「ボッダム辞令」が出、私は「免幹部候補生、任陸軍兵長」の通達を受けた。

終戦の日からちょうど一カ月経った九月十四日、連隊長の告示が読み上げられた。明朝の貨物列車で全員姫路に向け出発するという。 
告示は
       「明九月十五日朝九時、予は高鍋駅頭に在り

という簡潔直截な末文で締めくくられていた。
大部隊を率いる武人、堀龍市中佐の面目躍如とした美しい文章だと思った。

そして翌九月十五日、連隊長以下全員、高鍋駅から、長蛇の無蓋貨車に乗り姫路へ向け出発した。
気の毒なのは朝鮮出身の兵隊たちである。彼らは、同じ貨物列車の特別車両に分乗し、下関で切り放され、関釜連絡船に乗るとのことであった。将校数名と数十名の下士官が主体で、一般の兵隊はほんの僅かだった。 彼ら全員とも、こころなしか、寂しそうな顔だったのが、いまなお印象に残る。 
私は目で、そのなかに古岡小隊長を探したが、どういう訳か、見あたらなかった。

姫路へ帰る列車は、途中、広島に停車した。 駅舎もプラットホームもなかった。 見渡す限り、瓦れきの山、というより、瓦れきの海であった。 
全てが煉瓦いろ一色の荒野で、バラックもなく、そして人かげも疎らであった。 私たちは、まだそれが「原爆」というものの被害だとは知らなかった。
私と半年間隣あわせ、そして生活を共にした井上一等兵(この人は病気で入院していたため幹部候補生を免じられた、いわゆる《落幹=おちかん》だった)が、「私は広島の出身だからここで降りる」と言って下車した。
 

「井上古兵(こへい)どの、家は何処でありますか」と尋ねた。 
すると彼は、全くの焼け野原の一角を指さして、「あの辺だと思うが、跡形もないようだ」と言う。
「どうされるつもりですか」と、線路わきに降りている彼に質問した。
「分からない。しかし、私の帰る所はここなのだ」
「姫路へ一緒に行かれませんか」
「家のない姫路へ行ってもしょうがない。広島しか帰る所がないんだ」「
じゃ、お別れですね」
「そうだ、では元気で・・」 
一瞬彼はひるんだが、思いなおしたように、とぼとぼと瓦れきの海を南に向かって歩いていった。 

痩せた、病み上がりのような体に、身の回り荷物が重そうだった。 残暑の日差しが、瓦れきに反射してまだ暑かった。 帰るべき家があるだけ、私の方が幸せだった。 
「古兵どの、さようなら・・」と大きな声で言いたかったが、何故か声が出なかった。 「古兵どの」は、一等兵および二等兵で、自分たちより先に入隊した人たちに対する敬称である。

そのとき、我々の列車も「ごっくん」と一回だけ鈍い音を立て、無人の広島駅跡を出発した。 
病気あがりで、ひ弱な、あの井上一等兵は、その夜、一体どこで寝たのだろうか。そしてその後、いったい何処へ行ったのだろうか。

哀れな話
列車が姫路駅に着いたとき、一人の見知らぬ婦人が声を掛けてきた。「浅田二等兵の消息をご存じではないでしょうか、私は浅田の姉ですが」。 
私は、はっとした。浅田は私たちと一緒に入隊し、一緒に重機関銃に配属された隣の分隊の同年兵であた。少しおっとりしていたので、古年次兵から一番多く殴られた。 そのためかどうか分からぬが、終戦のちょっと前に突然居なくなった。いわゆる「逃亡」である。一週間ほど大規模な山狩りが続けられた。部隊が総出で探したが、遂に彼は見つからなかった。
その後、終戦のどさくさに紛れて、彼のことは、半分忘れてしまっていた。 終戦になったので、ほっとしてもう先に自宅へ帰っているだろうと思っていたが、姉さんの話では、まだ行方不明とのこと。
終戦から丸一ヶ月も経っているのに、まだ帰っていないというのはどうしたことだろう。ひょっとして自殺でもしたのでは無いだろうか。 それとも、まだ九州の山中に潜んでいるのだろうか。 もう少しの間だけ辛抱しておれば、終戦で帰れたのに、と思うとかわいそうに思えてくる。

もう一つ、かわいそうな話がある。 前に述べたクラスメートの岩崎君だ。福崎の家へ帰りついた翌日、先ず岩崎君に会うべく、彼の家を訪ねた。
村役場のすぐ先である。出てきた彼の姉さんに「岩崎君はもう帰っていますか」と聞いた。 途端に姉さんは<ほろり>と涙を流した。「戦病死しました」、と言う。  
そんな馬鹿なことがあるものか、と思った。

「私は岩崎君と終戦の二日前に会いました、だから彼も、もう帰っていると思い会いに来ました」

「八月十五日に戦病死した、との公報が終戦後はいりました」

「ええっ、そんな馬鹿な、 どんな病気でしたか」

「何もわかりません、ただ戦病死の公報が入っただけです。お会いになったときの様子を教えてくれませんか」

「道で会ったときは、私と同様に痩せていましたが、にこにこしていましたよ。病気とは思えませんでした。 不思議ですね」     

彼の姉さんは、また目に涙を浮かべた。    私はいたたまれなくなって、焼香もせず彼の家を辞した。
その後当分の間、私は、彼の戦病死は誤報ではないかと、微かな期待をかけていた。 しかし遂に彼は帰って来なかった。 
滝川中学の配属将校であったという大高大尉の住所を調べ、岩崎君の戦病死の模様を聞きたいと思っていたが、遂に機会を得なかった。 
考えてみると、岩崎君も不運な男である。選りによって、終戦の日に戦病死するとは。しかし、十九才の少年が、発病後僅か二日で死ぬというのは、いったいどのような病気であろうか。ちょっと理解に苦しむ。

次の頁へ移る

この頁の初めに戻る

いちばん最初の頁へ戻る

ご意見ご感想ご提案 email

1 inserted by FC2 system