八、 大阪は世界で七番目に

大阪は世界で七番目に大きい大都会だと私は言ったが、たしかそれはロンドン、ニューヨーク、東京、シカゴ、上海、パリ、大阪の順であると学校の地理の時間に習ったのを記憶していたからだ。しかし、最近の国連統計によれば次のごとく先進国以外の国々に巨大都市が増加している。

メキシコシテイ 千八百万人 東京横浜地区 千七百万人 サンパウロ 千六百万人 ニューヨーク圏 一千三百万人   上海 千二百万人  カルカッタ 千百万人   ブエノスアイレス 千百万人   リオデジャネロ 一千万人   ソウル 一千万人   ボンベイ 一千万人 また、発展途上国で人口の都市集中化が進み、例えば千九百五十年に僅か二万五千人であったナイゼリアのラゴスの人口は、現在では二百五十万人にも膨れ上がっている。 阪神圏はたぶん二十番目くらいではないか。人口増加の是非は別としても、地球規模で見る限り大阪が既に世界の二流都市化したことは否めぬ事実であろう。そして、その最大の原因は「我が城の大きさ」が、そのまま発言権の大きさに比例するという大阪の風土にある、というのが私の見解である。 これが変わらぬかぎり、大阪の地盤沈下は止まらぬだろう。

大阪へ出た日に早速理屈を言ったのだから、どう考えても私は理屈っぽいと自ら認めざるを得ない。 とにかく、一ヶ月先に飯が食えるかどうかの瀬戸際だから、何としてもここで御内(みうち)労働事務官に食い下がる必要があった。

私の顔を一、二分間じっと眺めていた御内氏は、ようやく口を開いた。 「分かりました、その通りです。 私の体面にかけても何とかしましょう」。 瞬間、私は「しめた、これで来月も飯が食える」と思った。      御内氏は言葉を続けた、 「とは言ううものの、私は仕事を探す係ではなく、求職者の面接をするだけです。 あの奥の方の机に座っている人が仕事を探してくる係です。 今から貴方をあの人の所へ連れて行きますから、私の昔からの友人ということにしておいて下さい」。 そして、私たちは仕事を探してくる人の机の前へ行った。

「この人は私の古い親友です。何とか仕事を探してやってくれませんか」、と御内氏は言い、私はその人に<ぺこり>とお辞儀をした。 「ご存じの通りの状況で求人は少ないのです。 今日、一日歩いてようやく一カ所だけ臨時雇いの口を開拓してきました。 水道局の一時雇いで月給四千五百円です。三ヶ月経てば本雇いになる可能性もあるそうです。 もしそれでよければ、今すぐ行ってご覧なさい。 歩いて東へ十分、扇町公園の南側です」。 「有難うございます、すぐ行ってきます」、と言うような訳で、水道局の事務所へ急いだ。

みちみち考えた。月給四千五百円に対し、二食付き五千円の下宿代。 それだけで既に月五百円足らぬ。 通勤費は別にくれるだろうが、塵紙だとか散髪代とかで、月にもう五百円くらいはいる。 それに、昼飯代が要る。だが昼飯は食わずに済ませてもいい。 たしかわが国では、応仁の乱までは朝夕二食だけだった筈だから、それでもやってやれぬことは無いだろう。 それより、このチャンスを逃がしたら、一ヶ月先で飯が食えなくなる可能性がある。 ままよ、四千五百円でも、飢死するよりましだ。

古びた水道局のビルの階段を上がって、採用係の人に会った。 ところが、話が違っていた。 「折角来て頂いたが、もう採用は終わっています。 そのことは、今日お見えになった職業紹介所の人によく説明しておいた筈なのに、あの人は何を間違ったのでしょう。 ご覧なさい、この人と、この人と合計三人既に決定済みです」と、係の人は資料を見せながら言った。 それで引き下がっては、また元の黙阿弥になる。 なんとか食い込もうと、とっさに思った。 「よく分かりました、と言いたい処ですが、そうも言えぬ事情があるのです。まあ聞いて下さい、一ヶ月先で飢死する可能性があるのです」といいながら、世間話を交えつつ、今朝大阪へ出てきたいきさつを、わざと面白そうに説明した。

合槌を打ちながら聞いていた相手は、 「話を伺っている間に、どうやら、採用決定している人たちより貴方の方が良いように思えてきました。 上役と相談して貴方を採用するよう取り計らいましょう。 すぐ後で採用通知の手紙を出しますから、家で待っていて下さい」と言った。 しめた、これは旨くいったと思い、宜しくお願いしますと言ってそこを辞去した。 気が晴れたので、散歩かたがた梅田まで足取りも軽く歩き、阪神梅田の地下の理髪屋で金百五十円也を払って散髪した。 仕事に有りついたのだから、もう百五十円くらい費っても大丈夫と思ったのである。 そして、日が暮れてから服部の下宿へ帰り着いた。 すると、下宿屋の小母さんが「速達が来ていますよ」と言う。 おかしいな、誰も私の新住所を知っている人は居ない筈なのに、と思いながら速達を見ると、つい先ほど面接してきた水道局からだった。 「貴殿の採用に就き上役と相談した処、役所ともあろうものが一度決定したのを取り消す訳にいかぬ、と言われました。 ついては、来月の同じ日にもう一度同じ採用面接を行うので、来てくれれば必ず採用します」との文面であった。 考えてみるとあの頃は速達郵便の配達が非常に速かったようだ。

しかし、こちらは来月まで待つわけにはいかない。 そんなことをしていたら、来月の下宿代が払えなくなる。 これは大変だ、散髪などするのではなかったのに、と悔やんだが後の祭であった。 翌朝一番にまた職業紹介所へ行き、<これこれしかじか>で水道局は駄目だったと報告した処、それではいま丁度求人が入ったから其処へ行って来なさいと言う。 それは<後藤かいそう店>といって、すぐ近所にあるとのこと。 昆布か鰹節の問屋かと思ったが、海運業の会社だと説明してくれた。 どこでもいい、仕事さえあればとの一念で、そこを訪ねた処、即決で採用してくれた。 「いつから出社出来るか」と聞かれたので、気を変えられたら大変だと思い、「今日からでも出社します」と返事した。  その日から出勤して、ぐずぐず言いながら結局一年十一ヶ月勤めた。 初任給五千円、二食付きの下宿代と丁度同じ金額であった。 この収支予定では昼飯を食う訳にはいかぬと諦めて、最初の数日は昼食抜きにしたが、余りひもじいとは思わなかった。 これ以後、金がなくなると飯を減らす習慣がついた。 そして若い人たちにもよくアドバイスした「金がなければ飯を食うのを減らしなさい。食いすぎて死んだ人は多いが、飯を減らして死んだ人は余りいない」と。

入社したその日に、会社の裏側にある小さな倉庫で偶然、貿易講習所で机を並べた音成宜彦君に<ぱったり>と出会った。 二、三年ぶりである。 世間は狭い。 彼は講習所を卒業してすぐ小さな貿易会社へ入社し、今日は輸出貨物の検査に来たと言っていた。 「君はどうしてまたここに居るのか」と聞くから、「実は今日からこの会社へ勤めることになっったのだが、昼過ぎまで数時間従業員たちの様子を見ていると少しおかしい。 どうも彼らの卑屈な言葉使いや物腰が気になるので、どうしょうかと考えている処だ」と説明した。 すると彼は、「こういう会社に勤めて他所の貿易屋の書類を見ていれば、世界中のバイヤーの名前や住所がみな解るので好都合だ。 当分辛抱して情報を探り、後で僕と一緒に貿易会社を興そうではないか」と言う。 それもそうだと思い、当分辛抱する気になった。 音成君とはその後二十年ほど親しく付き合いしたが、結局、彼と共同事業はしなかった。

初め一週間ほどは、会社で大した用事もなく、通称<ぼんさん>と称する少年たちの後ろについて尼崎の製鋼所へ<はしけ取り>の立会いに行った。 そうした業界の経験は皆無だったので、全てが珍しく、私の好奇心をそそった。

日亜製鋼の岸壁から、有刺鉄線を数百トン<はしけ取り>して豪州へ船積するとかで、深夜にその立会いに行った。  工場の岸壁にある大量の有刺鉄線コイルを天井クレーンで<はしけ>に載せるのである。 荷役をしている労働者は二人、それに天井クレーンに乗っている人と併せて三人だけが仕事をしている。 それを側で眺めているのが、私たちの店からの二人を入れて、五人もいる。 年末も押し迫って、深夜は無性に寒い。風を引きそうだ。  「みんなで手伝って早く済まそうではないか」と提案したが、それぞれの役割があって駄目だと言う。 一人は<はしけ>の船頭、一人ははしけ会社の検数員、一人は工場側の検数員、それに立会いの我々二人で、それぞれ責任の持ち場があり、他人の仕事は手伝わぬ<しきたり>になっているとのこと。 不合理な話だと思ったが、新米のことゆえ遠慮しておいた。

私はこのとき初めて検数員という人たちの存在を知った。 ご存じない方のために説明すると、海運貨物の受渡しには必ず検数業者というものが中間に存在する。 例えば、阪神検数、扇港検数株式会社というような検数業者がおり、それぞれ多数の検数員を抱え、船会社や<はしけ会社>と特約して海運貨物の受渡し数量を確認するのである。 それだけでなく、船会社のその港に於けるすべての貨物の揚げ降ろし事務の代行もする。  だから、大きな外航船(これを本船<ほんせん>という)が、例えば大阪港へ入港すると、先ず第一番にその船に乗り込むのは、税関吏、市内にあるその船の代理店主、そして必要書類や事務用具を抱えた指定検数会社員数名である。 乗り込むと同時に検数会社員は、船内の狭い一部屋を借りて臨時事務所の店開きをするのが通例である。 要するに事実上、彼らは船会社や荷役会社の事務部門を担当しているのである。 こうした<縁の下の力持ち>的業者がいるということを世間は案外知らないようだ。

入社して数日目に、何かの用で会社の事務所に遅くまで居残りをしていた。 丁度居会わせた経理部長という肩書の白髪の紳士が妙なことを私に言った、「君は何も知らずに入社してきたのだろうが、運送屋という商売は普通より一格下の職業である。 昔から土方、荷物方と、もう一つなんとか方と併せて天下三方(さんかた)の一つといい底辺の人間のする仕事である。だから重役以下全員あまり立派な人はいない」。 私は<けげん>に思った。 仮にもこの会社の経理部長という地位にある人である。 人品も悪くない。年齢も六十才くらいであろうか。 その人が、何故新入りの社員をつかまえて自分の会社の悪口を言うのか、どうも不思議である。 しかし、その後四十年も大阪に住んでみてよくわかった。 世の中には、似たような人が予想外に多く居るものである。 そうした人々は大抵の場合その会社で冷遇されてい、そして能力もあまりない人たちである。 いいかえれば、他愛ない獅子心中の虫である。

こうした人たちとは正反対に、会社を辞めた後なお「わが社は、わが社は」と、前に居た会社の自慢を連発して<ひんしゅく>を買う人たちもいる。 概して言えば、この種の人は、部長になる可能性のあった人が課長で定年になったり、重役になれたかもしれぬ人が部長で他へ転出したような場合に多い。 親会社から<窓際族>部長を系列会社が断わりきれずに引き取ったような場合ですら、その天下り重役がことある毎に「わが社は・・」と、元の会社の自慢を連発しているケースも少なくない。  また、余り出世もせず定年退職した人が、中小企業者を相手に、もと勤めていた大会社の自慢話をしばしば披露するのも心無い所作である。 近年、定年退職予定者のためのゼミなどもあるそうだが、こうしたことに就いてのささやかな心構えなどを教えておく必要がありそうだ。

話を元の舞台へ戻す。  会社へ勤めて一週間ほど経ち、ようやく私の担当職務が決まった。 客先への請求書作成である。実費請求という形式を採ってい、その実費の計算テーブル表もあり、請求の内容は比較的簡単だった。 実際に要した費用の社内請求が回ってくるので、それに幾らかずつ上乗せして明細を記載し、請求書を作成するのである。 ただ、困ったのは普段使う簡単な英語が解らぬことだった。 輸出業務の代行だから、ささやかながら英語書類が多く、必然的に日常会話の中にも英語の単語が入って来る。  例えばあるとき、「レシートを貰ってこい」と言われた。 「レシートとは何ですか」と聞き返すと、「いや、普通のレシートでいいんだよ、君」と言われて困った。 今更「そのレシートという英語の意味が解りません」とも言い難く、適当にごまかさざるを得なかった。 ことほど左様に、その当時、私は英語を殆ど忘れてしまっていた。

私の机の前の席にいた玉井という中年の人は社長の従兄弟であった。 京大で社会学を専攻したそうで、中央公論に載ったラスキーの「世界人権宣言のために」というのを熱心に読んでいたのを記憶している。 スポーツ用品屋を閉め、私よりほんの僅か前に入社したらしく、重役修行一年生のポジションであったようだ。 私はこの人に感謝することがある。

ある日、この人が何か仕事の事で所長の宮浦氏から激しく文句を言われていた。ところが当のご本人の彼は、「わはっ わはー」と大きく笑ってばかり居た。 「笑うなっ」と宮浦所長が怒鳴っても、「だって、それはそのー」と相変わらず大きく笑い続けていた。 後で、「何故あのように笑い続けたのですか」と聞いてみた。   彼の答えはこうであった、「相手が目上の人の場合、反論しても喧嘩になるし、だからと言って済みませんと謝れば、先方は自分が正しかったと自惚れる。 こういう場合、<わはわは>と大きく笑うしか外に方法がない。 社会生活の一つの知恵だから、よく憶えて置きなさい」。 

私は彼の忠告に感謝し、今でも折々この手を使用しているが、なかなか便利がいい。 世の中には、こんな簡単な世渡り技術も持ち合わせず、<ぎぐしゃく>した人生を送っている人の如何に多いことか。 人間、自分が優位にある場合の会話は楽にこなせるが、一旦相手から文句を言われたような場合、それをどのように<かわす>かはなかなか難しく、技術を要することである。そうした技術を持ち合わせぬ人は、どうしても<ぎぐしゃく>した社会生活を送るようだ。そういう人はすぐ判る。気難かしい取引先へ一人で行かず、いつも同僚を誘って二人で行く性質の人たちである。 このような社会生活必須の技術は、例えそれが学問でなくても、専門学校などの教科に組み込んでおく必要がありそうに思う。

請求書の作成は、仕事としては余り難しくもなかったが、一日平均数十通もあり、毎晩遅くまでの残業で下宿屋の規定夕食時間までには帰れない。食べない夕食代は下宿屋のもうけになってしまう。 処がよくしたもので、午後七時を過ぎる残業には一時間三十円の残業代が貰える。  「夜泣き蕎麦」一杯が三十円だった。それを二杯食べて腹ごしらえし、夜十一時まで残業することにした。 そうするとまだ残業代が残る計算になる。都合によるとそれで昼飯も食えた。 有難いことに残業の仕事は有り余るほど有った。  二ヶ月目から二食付き五千円の下宿契約を変更し、<飯なし間借りのみ毎月三千円>の約束に変えてもらった。 月給五千円プラス残業代二千円から間借料三千円を払えば、ほぼ三千円残る。これを、毎日二食ないし三食の食事代に充当すればよい。 即ち、一日当りの食費が百円ということになる。 しかし当時、ライスカレー、どんぶり物などはすべて百円だった。こっぺパン一個が十五円だ。 一日百円の食費では、三食はおろか二食もおぼつかない。 ところが幸い、私の米穀配給通帳は福崎の田舎に置いたままである。 それを理由に、田舎から米を貰って来ることにした。 これは金を払わなくてもいいので、コストは往復の汽車賃だけだった。

田舎から運んできた米を会社の湯沸し場で炊くことにした。 そのためアルミの平鍋を近所の市場で買った。 問題は<おかず>である。 大阪駅のガード下に「そごう」の食品売り場があった。 そこで、百匁四十七円の塩昆布を買って来<おかず>にした。 百匁買えば十日分あった。最も安上がりの副食である。 つまり毎日、朝晩二回、塩昆布のお茶漬けという仕掛である。  しかしそれだけでは、学校の理科の時間に習った食物の三要素、つまり含水炭素、脂肪、タンパク質のうち、脂肪と蛋白質が足らぬような気がした。だから土曜日は市場で、<ごぼう天>二本、金五円也を買ってきて追加した。 <ごぼう天>の原料は魚と天ぷら油だから脂肪も蛋白質もあるし、おまけに不足している野菜も<ごぼう>で採れるから、われながら名案だと思った。  私は今でも、<ごぼう天>は、そうした意味で最も理想的な副食物ではないかと思っているが、栄養学の本に<ごぼう天>礼賛が出てこないのは何故か。 これは私の素朴な疑問である。

数カ月その様な食事を続けていると、どうした訳か、顔から手足までが透き通った、いわば白人の体のような皮膚になってきた。 白人優越の頃だから、しめしめ俺もこれで白人の仲間入りが出来たと一人ほくそ笑み、事実、女性たちからは「色がしろいわね」と褒められた。 しかし、男の友人たちは「おまえ、この頃何処か体が悪いのではないか」と言う。 だが、体は至極快調だったし、仕事も人並以上にした。 数カ月後に私の担当が変わったとき、後任者は、とても一人でこれだけの仕事量をこなせぬと言い張り、その後は二人分の仕事になった。

結局私はここで一年十一カ月月給を貰ったのだが、これは私にとって戦後唯一のサラリーマン生活である。 色々な経験をしたが、そのうち、自分が担当し最も記憶に残っている事柄を二、三述べることにする。   先ず、「ビルマ向け軍服の水の上の火事」である。 ある日、例によって夜遅くまで請求書作成の残業をしていた。 十一時過ぎであったろうか、目の前の電話がなった。 こんなに遅く何だろうと受話器を取り上げると、大阪港の住友倉庫からだった。 「お宅の荷物が沖合の<はしけ>の中で焼けている、すぐ来てくれ」とのことである。 どこの荷物かと聞けば、松坂屋貿易部のビルマ向け貨物であると言う。 さあ大変と思ったが、どうしていいか分からぬ。 なにしろこちらは入社して半年も経たぬし、現業の知識は皆無に近い。 取り合えず松坂屋へ電話し、誰でもいいから行ってもらおうと思い、番号簿で調べて電話を掛けた。 夜中、おまけに相手は百貨店だから誰も居ないかもしれぬと思ったが、待つまでもなく「はいはい、松坂屋です」と応答があった。「夜分恐縮ですが貿易部の早川さんに連絡つきませんか」と、二、三日前来社したことのある人の名前を思いだして言った。 すると驚いたことには「はい、私が早川です」と電話の相手が言った。 後で聞けば、早川氏は丁度その夜不寝番で店内巡回中に、偶然、目の前の電話が鳴ったので取り上げたところ、それが私からの電話だったそうだ。 世の中にはこのような偶然が間々あるものだ。 「いま、大阪港の住友倉庫から電話があり、お宅のビルマ向けの貨物が焼けているそうです」と告げると、「何ということをしてくれるのです、責任をどう執ってくれるのですか」と電話越しにすごい剣幕である。 「腹をた立てている場合ではありません、すぐ住友倉庫へ直行して下さい」と言った。 

早川氏と私は、住友倉庫の前へ殆ど同じ時刻に到着した。 見れば、沖合いの巨大な本船に接舷している<はしけ>から、大きく黒い煙が星空に向かって沸き上がり、煙の根元の方には蛇の舌のような紅い火が<ちょろちょろ>と動いている。 瞬間、「大したことはない」と思ったが、ちょっとばかり格好をつけ、「何ということをしてくれるのです、責任をどう執ってくれますか」と、早川氏が私に言ったのとそっくり同じせりふを住友倉庫の責任者に、今度は私が怒鳴った。 「誠に済みません、総て私どもで責任持って処置しますから」と、だいぶ地位のありそうな小粋な人が言った。 名前は忘れたが、革の長靴を履いたその人の名刺には<ステベドア キャプテン>という肩書がついていた。

「ステベドア(通称ステベ)」というのは海運関係ではなかなか権威のある、少々威張った職種である。 少年のころ学校の<商事要項>という教科書には、確か<海運貨物積み付け専門家>というような説明があったような気がする。 英和辞典によれば、「stevedore=沖仲仕・船荷積卸し人足」となっている。 立派な革長靴を履いた住友倉庫の偉い人の名刺の肩書が<沖仲仕>ではおかしいから、やはり<海運貨物積み付け専門家>という方が社会的通念に叶っているのだろう。  また、『住友倉庫はステベ業を兼営している』というような場合の「ステベ」は集合名詞だが、英語のstevedoreは個人名詞らしい。

放水すると全ての貨物が水浸しになるので、消防艇は待機させたままで延焼している梱包だけにバケツで水を掛け、一時間程でようやく鎮火させた。 その間、我々岸壁に居るものは、所在なく沖の方を眺めているだけであった。 <川向こうの火事>と同じである。 相当大きく煙は上がったが、焼けたのは四ベールだけであった。 本船「レンエバレット」はその四ベールを残し、あとの全ての積荷貨物を取りきればすぐ神戸へ向け出航するらしい。 松坂屋の早川氏は「これは第一回船積みで、同じ品物がまだ大量に本田(ほんでん)二丁目の梱包所にある。今すぐ焼けた四ベール分だけを追加梱包し、レンエバレットを神戸まで追いかけて積み込みたい」と言う。 私は何も分からぬので、住友倉庫の人たちにそれでよいかと聞いた処、「焼けた四ベールを港から持ち出すことや、保税倉庫である本田(ほんでん)の梱包所の荷物を規定時間外に動かすことは明らかに関税法違反である。 しかし、場合が場合だから止むを得ぬ。どうぞ遠慮なく好きなように荷物を動かして下さい。税関との交渉は全て住友が責任もって担当します。たとい関税法違反で揉めたとしても、まさか大阪税関が住友倉庫の「関税貨物取扱業者」の免許を取り消す訳にはいかぬでしょう」と、立派なことを言う。 さすが住友だ、と感心した。

早川氏と二人で、焼けた四ベールの荷物と共に、松坂屋貿易部が借りている本田(ほんでん)の梱包所へ来てみると、あるはあるはビルマ向けのカーキー色の軍服が数万着、未梱包のままうず高く積み上げてあった。 聞けばこの大量の軍服は、松坂屋が国際入札で落札し、ビルマ政府に納入するため鐘紡へ特注した品だそうであった。 深夜に梱包要員を叩き起こし、明朝八時までに四ベールだけ作り上げるよう依頼し、ひとまず早川氏と私は会社へ帰ることにした。 時刻は既に朝の五時前、東の空は明け始めていた。

梅田の会社へ帰りつくなり、私は新聞程の大きな白紙に昨夜起こったことの顛末を詳しく書き記した。 会社に対する報告書である。 その末尾に次のようなことを記した。  先ず、宮浦所長は松坂屋へ正式にお詫びに行かれたい。また島田次長は千代田火災に保険の交渉に行って下さい。(これは早川氏から依頼されていた。) それから、浅野課長はエバレット汽船へ神戸における追加積みの交渉に行くよう頼みます。 竹村通関係長は大阪税関、住友倉庫と事後処置の打ち合せをして下さい。 そして私、中村は朝八時ごろ、本田二丁目の松坂屋梱包所から、新しい四ベールと共に神戸港「レンエバレット号」に向けて出発する予定です。 

書き終わり、すぐ前の喫茶店でコーヒを一杯飲み終わり、そして本田の梱包所まで逆戻りした。梱包はまだ出来上がっていなかった。 出された渋茶をすすっていると、会社の竹村通関係長が血相を変えて飛びこんできた。 元陸軍士官とかいう威勢のいい中年男である。 「おまえは何という無茶なことをするのだ、保税の外国貨物を夜中に税関吏の立会いもなく勝手に移動させるとは。 会社の免許を取り上げられるぞ」と、怒鳴りたてる。 ところが私の方は、<知らぬが仏>でいっこう気にならない、「住友倉庫の偉い人が責任持って税関と交渉すると言ったから行動しただけで、もし看板を取り上げられるのなら住友が先に取り上げられるでしょう」と返答した。 竹村係長は「後で大変なことになっても知らぬぞ」と捨てぜりふを残して、あたふたと又、税関へ向かってタクシーを走らせた。

四ベールの軍服を載せたトラックに乗り、初夏の阪神国道を突っ走って神戸港の岸壁へ到着したのは昼前であった。 「レンエバレット号」は、その巨体を兵庫埠頭に横ずけしたまま私たちの来るのを待っていた。 荷物は本船のクレーンで高く巻き上げられ、軽い音を立て甲板に落とされた。 意外にあっけない幕切れだった。 見上げた群青色の空には、白い雲が浮かんでいた。昨夜からの疲れが一挙に出てきて眠くなった。 考えてみると、一睡もしてなかったのだ。 

二週間ほど経って、松坂屋貿易部から招待状が来た。 日本橋四丁目の松坂屋大阪店八階の食堂へ私を招待するというのである。 当時、松坂屋の八階は進駐軍将校専用の高級食堂だった。 出席したところ、相客は鐘紡水島工場長と大阪税関の部長であった。 主催者の説明によれば、先般の事故の後始末と慰労会を兼ねているとの事だった。 食事はスープから始まりデザートに至るフルコースの洋食で、ウエイターが後ろにずっと立っていた。 私の生まれて初めての正式洋餐であった。 ところが、これが後日、会社の所長の耳に入って叱られた、「そういうときは会社の偉い人が出席すべきである。身の程を弁えろ」。 しかし、松坂屋は確かに二十五才の私を名指して招待してくれたのだ。

この件について蛇足を三つ付け加えておく。  その一、火災は、本船甲板上から船員が煙草の吸殻を<はしけ>の上へ落としたのが原因らしか    った。 その二、現業知識が皆無と思われた私が、この様に複雑な突発事故をほぼ一人で処置し得たのは、    たぶん前歴を偽ってこの会社へ就職してきたのであって、本当は通関業務に精通してい    たのではないかとの疑いが、上役の間で濃厚になった。しかし、竹村通関係長が       「もし少しでも業務を知っておれば、あのような大それたことをする筈がない」と力説    し、みながそれを納得したらしい。 その三、松坂屋の早川氏とはそれ以後会ったことがない。しかし、新聞紙上の辞令によれば、氏    は二、三年前、天満橋松坂屋の店長になっている。 もちろん重役であろう。

その数日後に、突然、所長の前へ呼び出され、明日から外へ出て得意先回りをするよう命じられた。 そのとき「仕事の内容や輸出手続きのことは解っているな」と、念を推されたので、「はい、解っております」と返事した。 しかし、「冗談ではない、そんなものが解っている筈がないではないか」と言いたい処を、やや意地になって「解っております」と答えただけである。  お蔭で、あくる日から早速困った。 担当前任者から、インボイスをどうのこうのと説明されたが、そのインボイスというのが何のことか解らない。 現在では、インボイスという簡単な英語などは貿易に関係のない人でも知っていようが、その当時、つまり昭和二十五年にはそうポピュラーな言葉ではなかった。 そっと内緒で、使い走りの<ぼんさん>に聞きに行き、「その様なことも知らぬか」と笑われたのが記憶に残っている。

私の担当する得意先は鉄鋼関係の商社と、そのメーカーであった。 当時、鉄鋼関係で輸出の花形商品といえば亜鉛引き鉄板と棒鋼材だった。 アングルなど型鋼材はまだ輸出されてなかったと記憶している。 メーカーは、淀鋼、大同鋼板、尼鋼、八幡製鉄など、そして輸出商社は、日商、不二商事(いまの三菱)、白洋産業、日本鉄鋼興業等であった。

鋼材の輸出価格はトン当り平均三百ドル程度であったから、現在の相場とあまり変わらない。 それを、通常百ないし二百トン単位で輸出するのだから、当時としては非常に大きな金額を扱うことになる。 一件当りの船積費用の請求もたいてい二、三十万円になる。 それを狙ってリベートを要求する商社員も多かった。 代表的な例が日本鉄鋼興業のY氏である。

戦争中、在阪の鉄鋼問屋は企業整備で二つの統制会社に纏められた。 それが大阪鋼材と日本鉄鋼興業である。 大阪鋼材は近年まで新聞の株式欄に名が出ていたが、日本鉄鋼興業の方は早くに倒産した。 Y氏は当時二十八才で独身、飛ぶ鳥落とす勢いの日本鉄鋼興業の貿易部員であった。 私の月給が五千円位だったから、彼のそれは私の三倍と見て一万五千円くらいか。 そこえ、一回輸出船積する毎に、リベートが数万円ずつ彼の懐に入ってくる。毎晩その金を持ってキャバレーへ通う。 当時、大阪南のキャバレーは、美人座、ミス大阪、有明、シスコで、少し遅れてユニバースが出来た。 メトロは記憶にない。  彼、Y氏の<お目当て>は「ミス大阪」のナンバースリー「まゆみちゃん」だった。 ぽちゃっとして、なかなか美人だった。 彼一人で行くと、ご執心なのが丸解りになるので、子分に私をつれていく。 私の方は、昼は例によって百匁四十七円の塩昆布のお茶漬けか、一個十五円の<こっぺパン>の生活をしながら、夜は彼のお供で「ミス大阪」行きという<ジキルとハイド>みたいな毎日であった。 二人で豪遊し、「まゆみちゃん」にチップを弾んでも、一晩、一万五千円から二万円で済む。 Y氏の懐にはリベートの金がまだまだ余る。 そのうち、彼が思い付いたのが、外車を買って自分の会社に貸付け金儲けをするという商売だった。 プリマス四十七年型を五十万円で買って来、本当に会社へ貸し付けた。 誰の名義にしたのか、どうういう段取りで話をつけたのか知らぬが、二十八才の平社員が、富士・八幡製鉄の一次問屋であった自分の勤務する会社へ重役用の外車を貸し付けたのだから、貸す方も貸す方、借りる方も借りる方、そして時代も時代であった。 「てんやわんや」の、懐かしくそして大らかな時代であった。 その会社が倒産した後、Y氏は東欧圏専門の貿易会社の役員になり、一時は羽振りも良かったようだ。しかしその会社も解散し、その後どうしているのか知らぬが、まだ存命であろう。 だから名前を伏せ、「Y氏」としたまでである。

もう一つ、大口のリベートを取った人の話を追加する。 たぶんもう故人になられたと思うので、実名を挙げる。斉藤靜夫氏だ。 もし存命ならばご容赦願いたい、すべては時効で刑事訴追もないだろうから。 昭和二十五年、斉藤氏は淀川製鋼の貿易担当嘱託で部長待遇だった。 淀鋼指定の後藤回漕店と大日通運の二社が内・外港向け船積を代行した。 毎月の彼に対するリベート支払いは後藤回漕店が平均二十五万円、大日通運もほぼ同額、つまり斉藤氏のポケットには両社併せて毎月五十万円は入ったと考えてよい。 金を運んだ私が言うのだから間違いはない。 ところが、いつしかリベートを取っているという噂が広がり、斉藤氏は居たたまれなくなって辞任した。

そして二ヶ月後、彼は左前になった第一通商の取締役鉄鋼部長に就任した。巷間の噂によれば、 彼は資本金五千万円の第一通商へ二千万円の追加出資をし、役員の地位を買ったと謂う。 第一通商の役員になったその直後に、彼はまたもや後藤回漕店へ現れた。 白析長身、ボルサリノの帽子を被った彼の姿をみたとき、我々は、「彼がまたリベートの前交渉に来た」と噂しあっ た。 事実、再び彼の新会社から仕事を貰い、そしてまたリベートを運んだ。 ただし、そのときの担当は私でなかったから、いくら払ったか知らない。 程なく第一通商は第一物産と合併し、彼は第一物産の鉄鋼部長に就任した。今度は役員ではなかった。 その後、第一物産は数社合併して三井物産という名前に変わった。 

それ以後の彼を、私は新聞の辞令でしか知らぬ。 そして、その新聞辞令を三回見た。 最初は、「斉藤靜夫 命ブラジル支配人」、二回目は「斉藤靜夫 命帰朝、田村駒常盤出向」、そして最後は「田村駒 代表取締役斉藤靜夫」であった。

なぜ私が、斉藤氏のいわば不名誉な古い話をここに婁々記述するか。 理由は簡単、ただ私の積年の恨みによるものである。 月給五千円、昼飯も食いかねた青年に、毎月金二十五万円也のリベートを運ばせた立派な「英国風紳士」に対する、ささやかな恨みである。 韓国の李御寧先生によれば<うらみ>には二種類あるそうだ。「怨」と「恨」である。訓読みではどちらも<うらみ>だが、「怨」は外の人に対するうらみ、そして「恨」は内なる自分に対するうらみだそうだ。 そうするとこの私の<うらみ>は、外なる斉藤氏に対する怨みではなく、案外、叶えられなかった内なる私に対する「恨み」、つまり英語で言う A LASTING REGRET 《千秋の憾み》かもしれない。

以上、私はリベートについて二つの例をあげたが、ことほど左様に当時はリベートを取る習慣が多かった。 私見では、現在の日本は、政治家は別として、世界有数のリベート慣行の少ない国である。「恥の文化」の社会だからかも知れない。 これが他国に類例のない総合商社という巨大な商業集団を作り上げた原動力であろう。 もし一人一人の社員たちがリベートを取っていたら、総合商社など経営できる筈がない。 

【リベート】 私の四十年の経験によれば、リベートが非常に慣行化している国はアメリカと韓国である。 しかし、その両国のリベートの習慣には少々違いがある。  もっとも、ここで言うリベートとは、内緒で受け取る不徳義なリベートのことであって、損保やメーカーの<歩戻し>のことではない。

アメリカ人の取るリベートは、わりあい細かく、いわば<きちょうめん>とも謂える。きっちり計算し、端数までも取りきる。 また、ニューヨーク在住の木曽公認会計士から聞いた話では、百貨店などの家電売り場では一個売れば一ドルという程度の細かいリベートが半ば公然化し、ソニーもパナソニックもみなそのようなリベートを売り場の担当者に支払っているらしい。その領収書が決算期毎に数千枚にもなるが、これについて米国の税務署はとやかく言わぬそうだ。 清教徒のつくった倫理の国だからリベートの慣行が少ない筈だが、米国商業社会の主導者はユダヤ人で、彼等は「プロテスタンテズムの倫理」の外にある。そしてユダヤの宗教法典タルムードにはリベート禁止の明文がない、と私は解釈している。 ロッキード事件などもそうしたアメリカの経済風土に多分に起因している。

隣の国韓国のリベートの特色は、社員が取るだけでなく、往々にして社長自身もそれを取る処にある。先ず社長が仕入れ先を指定し、仕入係が発注し、検査員が納入時に検品する。そして、その三者がそれぞれその都度リベートを要求するというのも不思議なことではない。 いわばリベート王国だ。 何故、社長がリベートをとるかと云えば、実際の資本家が外にいて、社長といえども何時くびになるか判らぬ会社が多いらしいからだ。

その点台湾や香港では、殆どの場合、仕入れは資本家の身内が担当するからリベートを要求されるケースは比較的少ない。 ときたま仕入係が社長より偉そうにしているのも、そのためである。仕入れ権を自分の手中に置くというのは、中国人資本家の<世に処する身の知恵>であろう。 リベートとよく似たものに賄賂がある。特定する売買取引が存在し、その代金収受の内いくらかを割り戻すのがリベートだが、「賄賂」は特定取引がなくても包括的な便宜供与の謝礼として支払われる。 だから、吉良上野介が受け取ったのは「賄賂」であって、リベートではない。 田中角栄氏のピーナツも、リーベトというより賄賂に近いようだ。 また、マルコス元大統領が受け取ったのは、取引額の十パーセントというレートまで設定してあったというから、賄賂というよりはリベートと言った方がより適切であろう。    わが国の【賄賂】で有名なのは<シーメンス事件>で、これにより大正三年山本権兵衛内閣は瓦解した。 ヨーロッパでも二、三年前にオランダのユリアナ女王の夫君が、それを取ったとか取らぬとかの新聞記事を見たような気がする。 フィリピンの賄賂には伝統と歴史があり面白い。 建国の英雄アギナルド将軍やマッカーサー元帥への賄賂について、後に触れてみるつもりである。

得意先担当として貿易商社と製鋼所の間を回り始めて二ヶ月ほど経った頃、有名な[ジェーン台風]が関西一円を襲った。 芝浦工大教授高橋裕氏の「都市と水」によれば、次のごとく説明されている。  千九百五十年九月には、ジェーン台風が大阪湾及び瀬戸内海東部に高潮を発生させ、大阪を中 心に千九百三十四年の室戸台風以来の大災害となった。大阪市の西部低地帯は室戸台風の頃よ り一ないし一、五メートルも地盤沈下していたことも広範囲の浸水の原因となった。

このとき私が担当し、既に<はしけ取り>され水上にあった鋼材は約二千五百トン、<はしけ>の数にして二十杯ほど、全量すべて亜鉛引き鉄板であった。 記憶は定かでないが、その内、完全に沈没したのは<はしけ>四杯、半浸水が十杯ほど、それに雨濡れ冠水が五杯ほどであった。 はしけ一杯が平均百トン、トン当り三百ドルと仮定して三万ドル、即ち一口に付き一千万円の商品である。現在の貨幣価値に直せば、<はしけ>一杯分、約一億五千万円の鋼材である。 それが二十杯、水没、半水没、または冠水したのだからメーカーも商社も目の色をかえた。

台風が去ったのは午後三時頃だったと思うが、その日はどうすることも出来なかった。翌日、翌々日に掛けてその後始末を開始した。 これはなかなか厄介であった。 先ず、<はしけ>を退避させていた現場へ出向き、商品や<はしけ>があるかどうか確認する必要があった。  商社や製鋼所の担当者たちは、すぐ現場へ商品の確認に行こうとせきたてる。 私が道案内で呉越同舟、相乗りタクシーで築港へ向かって出発した。 処が、<はしけ>の主たる退避場所となった安治川尻への道がまだ不通である。 運転手のいやがるのを宥めすかしながら、迂回を重ねてようやく安治川尻へ着いた。 しかし、二十杯もの<はしけ>が同じ場所に退避している訳ではない。  あちこち探し回り、ようやく見つけた<はしけ>もあれば、いくら探しても見あたらぬ<はしけ>もある。 確かこの辺りに退避させた筈だが見あたらぬと、水中をのぞきこんで探さねばならぬこともあった。 そして、たとえ<はしけ>は健在でも、屋根のシートをめくって水濡れの程度も調べなければならぬ。 商社や製鋼所の担当者は横暴である。 彼らは自分の荷物のことだけしか念頭にない。 ところがこちらは呉越同舟のお客様たちを一人で案内しているのである。 一人の客が<はしけ>の中を点検している間、他の人たちは<いらいら>しながらそれを待っている。早く次の自分の荷物を探しに行きたいのである。 気持ちとしてはよく解るが、要するに、一方を立てれば一方が立たぬのだ。 相手は皆お客様だから機嫌をとらねばならぬ。これには往生した。 特に気難し屋は淀川製鋼の西井という人だった。紳士然とした中年男だったから、乱暴な言葉も吐かず、どちらかといえば大人しいのだが、とにかく気難し屋であからさまに不快な顔をする。後年、淀鋼の営業担当常務になった人だが、無口なだけよけいに気をつかった。

沈没、半沈没の商品には海損保険請求の手続きをし、水を被っただけの品は製鋼所へ送り返すことになった。  はしけ会社や船会社との交渉で、国際法まで持ちだし理屈をこね回し、我々を困らせたのは日商の何某とかいういかにも賢そうな社員だった。 その部下にどんぐり目の猿面冠者が居て、その間を<ひょうきん>に取りなしてくれた。名前は香春晋太郎といった。いま、日商岩井の常務取締役をしているそうだが、そのように出世するとは思えぬ風体であった。

幸い軽い水濡れだけで済んだ鉄板は、梱包をし直し再船積した。  それは汎韓物産という韓国系商社の鉄板二百トンだった。 外装の木枠が濡れているので、梱包をやり替えようということになった。 ところが物資不足の折から、おまけに大きな台風の直後だから、どこの梱包会社も忙しくて請け合ってくれない。 汎韓物産東京支店の人が下阪してきたので、一緒に梱包屋探しに回った。  かねてから親しい白洋梱包の菊田氏に無理やり頼んだが、材料も時間もないとのことで、なかなかうんと言わない。 その事務所でねばりにねばって三時間、遂に<うん>と言わせた。 ほっとして表へ出、「引き受けてくれて有り難かったですね」と言った途端、「けしからぬ奴らだ、引き受けるものなら初めから<うん>と言えばよいのに、数時間も<ごたく>を並べて難しそうに言って」と、東京からきた汎韓物産の人が吐き出すように言った。 正直な処、これには恐れ入った。 私は感謝し、彼は腹を立てた。 十人十色、人さまざまである。 こうした場合の諺を、昔、友人の音成君が教えてくれた。       手を打てば 鯉は近寄り鹿は逃げ 女中茶を汲む猿沢の池 いい得て妙である。

東京から来た人が腹を立てた相手は梱包屋の菊田氏であって、私の三時間にも及ぶ説得の努力には感謝してくれた。 感謝のしるしに夕食をご馳走すると言う。 夕闇の梅田の繁華街を二人で歩いた。 繁華街とはいうものの殆どがバラックの商店街である。 にわか造りにしては小粋で、新しい寿司やがあった。 そこへ入った。 四人がけのテーブルが幾つか並んでいると思った予想に反して、内部は大きな白木のカウンターになっていた。 箸は出ず、お茶と醤油皿が出てきた。手の指で摘んでたべるのらしい。 取り合えずビールを注文した。 そして、握り寿司を頼んだ。

出された握り寿司を見てびっくりした。 上に載っている魚が下のご飯よりも大きいではないか。こんな贅沢な握り寿司を初めて見た。 口に入れると、とろけるように美味しかった。 いままで、握り寿司といえば七個か九個皿の上に載っている、一皿百円のものしか知らなかった。 手で摘んで食べることも、ご飯より大きい魚が載った寿司があることも知らなかった。

余り美味しいので、次から次へと<ぱくぱく>食べていて途中で気懸かりになってきた。 いったい幾らするのだろう、もし予想外に高ければ勘定方が困るのではないか。 そっと横目で隣席の汎韓物産の人の様子を眺めた。 こころなしか、その人の気持がうわずっているように見える。 「お陰様でもう腹一杯になりました。 ご馳走さまでした、出ましょう」と言うなり席を立った。勘定しているのを、そっとさりげなく見やった。 三千数百円払っていた。 今の貨幣価値に直すと五万円くらいではなかろうか。 後で聞けば、<まぐろのとろ>一個が八十円であった由、握り寿司がそのように高価なものとは知らなかった。 申し訳ないことをしたと思った。 これが私の手で摘んで食べる高級握り寿司の初体験である。

ジェーン台風以後、私の暮しが少し楽になってきた。 たまには自前でビールも飲めるようになった。 もちろん、昼飯のライスカレーにもありついた。 というのは、次のような次第による。

ジェーン台風による二千数百トンの鋼材の後始末を通じて、得意先商社などが私の能力を信頼し、殆どの船積業務を一任してくれるようになった。 とやかく指図せずとも、任せておけば大丈夫うまくやってくれると思うようになったのである。  鋼材の輸出は、他の繊維雑貨などと違って金額が非常に嵩ばる。 船積みで一つ失敗すれば、数万、数十万ドルの入金が少なくとも一週間や二週間遅れる。 それは如何に大商社といえども痛手になる。 だからそれまでは、商社員の習慣として船積手続きから片時も目を離せなかった。

そこへ私が現れた。 「総て任してくれ、適当にやってのけるから口を挟まないで欲しい」と見栄を切った。 「リベートもしかるべく私の方で配慮するから心配するな」と商社員の気になる方面もついでに取り仕切った。  その代わり、リベートのリベート、つまり内緒銭(ないしょがね)の運び賃も貰った。 だから、懐も少し楽になってきた。  もっとも、商社員の中には生来<けち>でリベートのリベートを渋る男も居る。 そういう場合は、その男の会社へ行き上役のすぐ側で、リベートに関係があるような話を、わざと大きい声ですることにした。 効果は<てきめん>、たいていの要求は通った。

「総て任してくれ、責任持ってうまくやるから」と商社や製鋼所に言っても、本当にうくやらぬと<ぼろ>がすぐ出る。 仕事は手続きでありシステムである。 一人では何もできぬ。 味方に入れなければならぬのは、先ず<ぼんさん>という使い走り小僧たち、次に通関がかりのボス、それに税関の役人たちである。

<ぼんさん>たちの協力がなければ船荷証券が速く入手できぬ。 これは安く買収できた。近所の<串かつ屋>に僅かばかり金を預け、「<ぼんさん>が私の名刺を持って来れば、只で食べさせてやって呉れ」と頼んでおいた。 昼働きながら夜間高校に通っている<ぼんさん>たちは腹がへる。 少し食べさせてやれば恩に着る。 いま、私を兄か父親のように頼って来る双葉産業の宇野君もその頃の<ぼんさん>の一人だ。 彼は、夜間で立命館大学まで行った。

通関がかりのボスにはリベートの裾分けを渡した。 ところが、彼は「税関吏を常に飼っておかぬと、さあというときに旨くいかない」と言う。 尤もなことなので、折にふれ、税関吏には<付け届け>をした。賄賂という程のものではないが、それに近いようなものをしばしば差し上げた。これは非常に効き目があり、私の扱う貨物は最優先で通関出来た。そういう便宜は大税関では難しいので、小さな「税関出張所」を常用した。ところがそれが嵩じて、ある晩若い税関吏が、一杯飲みたいばかりに、税関の印鑑箱をそっくりひっさげて我々の事務所へ来、「さあ、どの書類に判を捺しましょうか」と言ったのには驚いた。 驚いた、と言うより恐ろしくなって、それから税関に対する<付け届け>を自粛することになった。 手が後ろへ回るのは誰だっていやだ。

ところで今日は平成元年春の彼岸である。 朝からよい天気だが少し寒い。今年の冬は雪も殆ど降らず、久しぶりに暖かかった。大気中にフロンガスが増え気温が平年より一、二度上がったといって科学者たちはフロンの製造を禁止するよう求めているそうだ。 桜の開花は平年より一週間ほど早いという予想が出ていたが、ここ数日はまた寒さがぶり返して来、染井吉野の開花は足踏みしているようだが、中央通りのしだれ桜並木はもう二分咲きである。

この春、拙宅、つまり箕面池田の住宅地で、目立つのは木蓮の花だ。ある日、急に<ぱっと>咲く真っ白な花は目を見張るばかりに鮮やかだが、それも希に見ればこそであって、こうあちこちに沢山見かけるようになると感興も薄らぐ。 子供の頃、祖母が<木連尊者>の精であると言い、なるほど、とそのような気がしたのはどういう訳だろう。 隣家に咲く大きな白木蓮を眺め、しばしその理由を考えてみた。 先ず、枯木のような葉一つない木に突如として咲く<白い>大輪は蓮の花に似て、そのコントラストは諸行無常の仏教のムードにぴったりだ。 紫木蓮も少し遅れて咲き始めているようだが、この方は木連尊者ではなく、どちらかといえば妖艶な歳増(としま)の感じだ。 数年前から初老の女性が紫色に髪の毛を染めているのを見かけるようになったが、なかなか美しく上品なものだと思った。それは紫木蓮の花に似ていた。

ところが最近、この紫色の毛染めも大衆化し、<かぼちゃ婆さん>たちも染め始めた。 見ると、かえって異様で美しさのかけらもない。 美しく上品だと思ったのは、最初のころ染めていた人々が上品で美人だったので、紫の毛染め自体が上品で美しい訳ではなかったのだ。 いわばパブロフの条件反射みたいなもので、紫に染めている老女をみると途端に美人だと思ったのは私の誤解であった。

【木連尊者】の白木蓮はインドから渡来したものかと思い<仏典の植物>という本を調べてみたが、木蓮は出てこない。 仏さまの国インドは熱帯だから、春先に咲く白い花木はないらしい。数年前カナダのモントリオールで、初夏の野の花を採取したことがあるが、その時気がついたのは寒い国々では紅い花は少なく、殆どが白かブルーの花であるということだった。スイスのチューリッヒでも野の花を摘んだが、みなゼンチアナ(りんどう)のような淡いブルーか白い花だった。それに対し、熱帯の花はハイビスカスやブーゲンビリアのように毒々しく紅い花が多い。  木蓮はインド産ではなく、たぶん東アジアからの伝来であろう。似たような白い花の咲く<こぶし>もたぶん温暖帯の花木と思う。 なお、木連尊者という仏さまは、お釈迦さまの十大弟子の一人で<うら盆>の創始者らしい。

箕面池田の住宅地を見る限り、毎年咲く花木にも相当<はやりすたり>のようなものが見受けられる。十五年ほど前には一戸当り二、三本の桜が植っていたが、今では二軒に一本くらいに減ってしまった。 成長が早い割に、すぐ弱ってしまうからだろう。 庭の雑草類にもだいぶ変遷や遷移がみられる。 二、三年前、拙宅の庭では<仏の座>や<とうばな>が全盛だったが、今日見るところ、それらは殆どなくなって、虫眼鏡で見るような<ときわ櫨>が返り咲いていた。 柳田国男の随筆の中に、「郊外の新居に移って十年間、この間の草木の有為転変は一つの巨大な歴史である」という文があるが、確かに拙宅の庭の草木も毎年激しい攻防戦を繰広げているようである。 今年はどれが勝つか、というのを見るのも楽しみの一つである。

この一年十一ヶ月の給料生活中に二回住居を替えた。 最初は前に述べた阪急服部で間借りした四畳の部屋である。 次が江戸堀のYMCAの真裏にあった倉庫の二階、そして三回目が吹田市役所前にある旧家の離れの六畳である。

服部の農家の二階、四畳の部屋を借りていたとき、一度<凍え死>しそうになったことがある。それは大阪へ出てきてまだ二ヶ月目くらいの春先のことであった。 当時、私は炬燵を持っていなかった。 ある日の夕方、仕事から帰って布団の中に潜り込み、二時間ほど辛抱したが全然暖かくならない。 足が冷えたままで、全身震えていた。これでは寝つく訳にいかぬと思い、風呂へ入って温まろうと考えた。 起きてまた身支度し、六、七分の道のりの阪急服部駅前にある風呂屋へ行った。北風の激しい寒い夜だった。 処が運悪くその日は風呂屋の休日に当たっていた。 そのまま帰ったのではまた寒くて寝られぬだけだ。 電気炬燵を買おうと思った。私はまだその頃、電気炬燵を見たことはなかったが、それがあるということだけは知っていた。 服部駅前の電気屋はもう閉まっていた。 電車に乗って梅田まで出、大阪駅前の電気屋を二、三まわって尋ねたが、冬もぼつぼつ終わりに近ずいていたので、もう何処も電気炬燵は売り切れだった。 

万事休す、寒くても致し方ない。 諦めて、終電車に乗り、服部まで引き返した。 電車を降り、産業道路をとぼとぼ歩いて四畳の間借りへまた帰りかけた。今は繁華街になっているが、その頃は産業道路の両わきは見渡す限り田圃であった。風は激しく、寒さはいよいよつのる。 そのうち、雪が降り始めた。 激しい吹雪になった。 ふと見ると、道路のすぐ側に稲藁を円形に積み上げたのが幾つか立っている。私の田舎ではこれを<つぼき>と呼ぶ。 その<つぼき>と<つぼき>の間に入って、暫し雨宿りならぬ雪宿りをした。 体は完全に冷えきったままである。

風下の<つぼき>の陰は雪も吹き込まず、僅かな温もりがあった。 体を屈めて<つくばい>になり、じっと雪の止むのを待った。 しかし、吹雪はますます激しくなり、それが何時しか牡丹雪に変わった。 寒さは五臓六腑に染みてくる。 三十分も経ったろうか。そのうち、体が不思議に軽くなってきた。寒さも余り感じなくなった。頭脳が<もうろう>としてきた。何か<ふわっ>として、いわば蓮の華の上に座っているような安らいだ気持ちになった。

そのとき、はっと気付いた「そうだ、俺はいま凍え死しかかっているのだ。このままでは死んでしまうのだ」。 すぐ立ち上がり、よろよろと産業道路を歩き、また帰り始めた。 幸いなことに雪は止んでいた。 ようやく帰りついて、冷たい布団に潜り込んだが体は完全に冷えきったままである。 まんじりともせず、夜は開けた。 朝日が差し込んでも起きられない。 九時過ぎになって下宿の小母さんが階下から上がってきた。襖を開けるなり「どうしましたか、いつも朝の早い貴方が今日は起きてこないので心配になり様子を見にきました」と言う。

布団の中から顔だけ出し、「寒くて寒くて、とうとう寝られませんでした」と、震え声で返事をした。 小母さんは下へ降りたと思うとすぐ、炭火の入った火鉢と暖かいうどんを持ってきてくれ、「これを食べて温まりなさい」と言った。 衰弱しきって、もうどうにもならないと思った体が、その熱いうどん一杯で<しゃん>としてきた。 そして午後からまた出勤した。 昨夜から今朝にかけての疲労こんぱいが嘘のようであった。 やはり若かったせいだろう。

丹波哲朗とか色々な人々が、よく死後の世界を見てきた話をする。嘘のような、まことのような、そしてまた嘘のような話である。 そうした話を聞く度に、私は四十年前のこの時のことを思い出す。 蓮の掌(うてな)に載って安らいだような、あの吹雪の夜の稲藁の陰。 夢幻の世界がそこにあり、それはとりも直さず、あの世の世界だった。 別に蓮の華が見えた訳ではないが、そのような<ふんわり>とした気持ちになったことは間違いない。 思うに、仏道の修行者たちは荒行の合間に似たような境地になり、そしてそれを<極楽浄土>とか<死後の世界>とか言ったのではなかろうか。    誰が書いた何という本だったか忘れたが、若い頃に読んだ本の中に、確か次のような文章があったのを憶えている。 モルヒネに胃の痛みを和らげて月を愛でしは、天性の風流人(尾崎)紅葉なり。   「願はくは花のもとにて春死なんと言いしは西行(さいぎょう)なれども、春は暖かく、う  じ虫など生まれんも汚らし」、 されば、「冬の夜ふけて遠く櫓声を聞く、起って窓を開け  れば霜白し。かかる夜に死なん」と言えるは(斉藤)緑雨なり。 まこと私も、同じ死ぬのなら、明治の文士緑雨醒客の言う通り、<冷えきった如月の雪の夜>か、<窓の外は見渡す限り一面の白い霜の夜>に死にたいと思う。 そうすれば、あの吹雪の夜の<蓮の掌(うてな)>の安らぎで極楽へ行けるだろうと、今でも思っている。       美(うる)しきもの見し人は、       はや死の手にぞわたされつ、       世のいそしみにかなはねば。       されど死をみてふるふべし       美しきもの見し人は。         フォン・ブラーテン 生田春月訳 (堀田善衛)

この下宿屋にはちょうど私と同い年の一人息子がいた。何もせず毎日<ごろごろ>してい、既に人の良さそうな嫁さんも居た。 ある日の深夜、階下に住む家主の一家から急に争いの大声が聞こえてきた。 驚いて出歯亀の耳を澄ますと、誰か他所の人の大声であった、「一体、お宅の息子は何を考えてこの様な手紙を出したのか。相手は紛れもなく私の嫁だ。見ず知らずの他人の大事な嫁に懸想ぶみを出すというのは、いったいどういう了見だ。息子も息子なら、教育した親も親だ。新聞紙上で謝罪しろ」と、威勢のいい男の声が怒鳴っている。 

母親が「えらい済まぬ事をしてしもうて、これ息子、お前早う謝りなさい。まあ貴方さん、聞いて下さい。息子が何もせず遊んでばかりいるので、嫁でも貰えば正脈(しょうみゃく)に仕事でもするかと思い、これこの通りいい嫁を貰ってやったのに、何という馬鹿なことをしてくれたのか。 これ、嫁や、お前も一緒に謝りなさい。 悪いことしたと謂っても、所詮はお前の亭主ではないか。それからついでに頼んで置くが、ねえお前、こんな事があったからとて見限って里へ還えらんといてや。 それからこちらさんも聞いて下さいな、つい昨日うちの息子も、二階の四畳に下宿している中村さんのようにこれから真面目に仕事する言うて呉れた処ですのに・・」と防戦にこれ努めていた。 そして、遂に私の名前まで出てきたのには驚いた。  その時の話の様子では、この息子は以前にも一度何処かよその嫁さんに<付け文>したことがあるらしかった。 常習犯と言うべきか。

それから二十五年ほど経って、偶然、服部へ行く用事があったとき、思い立ってその家を訪ねてみた。 田圃の中の一軒家だったのが、高速道路と産業道路の交差点になり、トヨタ自動車のショールームや松下電気の工場などに挟まれ、日当りもままならぬくらいの繁華街になっていた。「今日は」と声をかけ門の内をのぞくと、紛れもないその昔の花嫁さんが、テレビに出てくる<田舎の婆さん>そっくりの風体で洗濯物を干していた。 転(うた)た、今昔の感に耐えなかった。 と、同時に「ああよかった、あの嫁さん、離縁して里へ還らずにいて呉れたのだな」と思った。 後日、あの辺りで生まれて育ったという豊中南ロータリーの西口氏にこの話をした処、氏は、その<付け文(ぶみ)>をした下宿屋の軟派息子と同級生だったそうで、「あの父と子は、どちらもその方の達人であった」とのことである。 道理で、あの大トラブルの晩に父親の方は一言もものを言はなかった筈であると、妙な処で思い当たった。 性質だけでなく、行動も遺伝するのだろうか。 それとも、性質が遺伝するから、必然的に似たような行動をとるのであろうか。

そしてそれは、生物学でいう【学習】と【洞察】の内のどちらの行動であろうか。 生物学では、動物の行動について次のように説明している。  先ず、「走性」というのがある。魚やぞうり虫などが光の刺激を受けると一定の方向へ体を移 動するような生得した単純行動である。 次に、「本能行動」がある。クモが巣を張ったり、 アヒルの子が親鳥について歩いたりするように、生まれつき持っている性質や能力によって一 定の形をとる行動であり、個体差がない。  もっと我々に身近なものに「反射」がある。目の前に突然、大きなゴミが飛んでくると、思わ ず目を閉じるような行動である。 ある反射を、それとはまったく関係のない条件のもとで繰 り返し起こさせると、その条件と反射が結び付いて、新しい条件刺激さえあれば、一定の反射 が起こるのを「条件反射」という。  さらに高等な動物になると、条件反射がベースになって「学習」とよぶ行動が起こる。英会話 や、ピアノや自動車運転ががうまくなるのは「学習」行動による。 いろいろな試みの行動を とり、誤りを重ねているうちに、成功した行動が記憶に残り、やがて誤りなく成功する行動を とるようになる現象を「試行錯誤学習」といい、個体(個人)差が激しい。 (最近、ワープ ロなどの説明書に「学習機能付き」という言葉がしばしば出てくる。どういう仕組みになって いるのか知らぬが、私がいま使っているこの「一太郎」の漢字変換も、なかなか立派に「学習 機能」が備わっていて、なまじの人間より賢い。人間もしっかりしないとワープロに負けそう だ)  さらに進歩したほ乳類、特に猿や人間になると、未経験のことに対しても先を見通して行動す る<見通し能力>ができる。チンパンジーに、手の届かぬ高い所にバナナを吊して見せると、 箱を積み重ね高くしていってバナナを取る。 これが【洞察(discernment:insight)】である。  金網越しに餌を見せると、鶏は金網の前で右往左往して騒ぐだけであるが、犬の場合は、初め は直進しようとして金網に遮られるが、何回か試行錯誤した後、金網を迂回するようになる。 それが猿になると、初めから金網を迂回しなければならないことを「洞察」する力を持ってい る。 (社会環境が幸せになると、競争意識の少ない人は「洞察」能力が減るのではないかと、 私は憂いている。 私の周辺を見ているとそれが感じられる。 それにしても、「洞察」能力 こそ企業運営の基礎条件ではなかろうか。)

長々と生理学に於ける動物の「非定型行動」について説明したが、されば、この服部の下宿屋父子の「女性に対するアプローチの類型行動」は右のいろいろなパターンの中のどれであろうか。お考え願いたい。

この服部の、二階四畳の部屋は数カ月で終わりにし、次は江戸堀YMCAの真裏にあった倉庫の二階に替わった。 あまりにも月給が安いので、少し昇給して欲しいと会社へ申し出た処、それならば会社の倉庫の二階が空いているのでそこへ移れば家賃が要らぬではないかと、半ば転居を強制されれたので、それに従った迄である。 それまで服部では、通勤電車の駅まで十分くらいかかったのが、今度はYMCAの裏から表にある市電の乗り場へ行くだけだから一分もかからなかった。 これは便利であった。

処が、半年ほど後にこの倉庫が売却された。 手前勝手な所長は、ある日突然に「倉庫を売却したので君には出てもらわねばならぬ。 何処か転居先があるか」と薮から棒みたいなことを言う。 「半分強制的に倉庫へ転居させておいて、よくもまあ急にそのようなことが言えたものだ」と苦情の一つも言いたかったが、またしても「はい、転居先はあります」と見栄をきってしまった。  およそこのように、後先も考えず「はい、大丈夫です」というような安返事をするのは、私の悪い癖であって、その原因は私の見栄っ張りにある。 だから、すぐ後で困ることが多い。 私が何か聞いたり頼んだりした場合、もし相手がこのように即座に安請け合いをしたら、私は絶対にその人を信頼しないし、尊敬もしない。 やはり、ゆっくりと思い入れよろしくあってから、やおら「承知しました」とか「はい、大丈夫です」とか返事してくれる人の方をより尊敬し、より信頼することにしている。  にも関わらず、である。 私のこの<安請け合い・安返事>の癖はいま以って直らない。 不徳の致す処であろうか。 はたまた、<おっちょこちょい>のなす業であろうか。

「はい、転居先はあります」と所長に返事し、そして内心<しまった、馬鹿なことを言った>と後悔したが、後悔先に立たず。 慌てて会社の三軒ほど隣にあった不動産周旋屋にとびこみ、何処でもいいからすぐ転居できる間借り先を、と頼み、吹田の旧家の離れ座敷六畳、月三千五百円也を斡旋してもらった。 泉殿神社と市役所の間に位置する門構えの農家の裏座敷で広い鈎型(かぎがた)の一間(いっけん)廊下が付いていた。 先代がサンルームに使用したとかで、障子も雨戸もすべて透明の総ガラスでプライバシーは皆無、おまけにどうしたことか天井から塵が四六時中落ちて来、三日も掃除をせぬと畳の上に塵の層ができる始末であった。 その家賃が月三千五百円、そして少し昇給していた私の月給が五千三百円。 どうして生活できたか不思議な時代であった。

元禄時代に建ったというこの藁屋根旧家の当主は、これまた、日がな一日何もせぬ怠惰な中年男で、いとこ夫婦とかいう豊艶な奥さんを持っていた。 門長屋に一組、土蔵に一組、裏の物置に二組、それに離れ座敷の私と、都合五組の間借り人を置き、その家賃で生活していたようだ。 八十才過ぎの爺さんがいて、息子が仕事をせぬと、その大柄で艶かな奥さんに<しょっちゅう>こぼしていた。 <しゅうと>に叱られた奥さんは、亭主に「貴方が仕事をしてくれぬと、私がお爺さんに叱られる」と意見をしていたのを、何度か盗み聴きしたことがある。 しかし、ご亭主は馬耳東風、いかにも<ぐーたら>旦那であった。

二十年ほど後、吹田市役所へ行ったついでにこの家も訪ねてみた。 近所は変わり過ぎるほど変わっているのに、どういう訳か、この家を中心とした数軒の大きな藁屋根集団だけは、そっくりそのまま残っていた。 長々と続く土塀も、細い路地も、門長屋もすべて昔のまま、懐かしい時代劇の舞台のようだった。  ご夫婦の話では、変わったのは、爺さんが亡くなったのと、当時中学生だった娘さんが嫁入りしたことだけだそうであった。

「あの頃、仕事々々といろいろ事業をした人はたいてい資産を無くしてしまった。 私は先見の明があったので何もしなかった。 だから、家も、土地も山も、何も無くさず今日まで保全できた。幸いこの辺りも、今度は高速道路がつくことになって、所有地を高い値で政府へ買い上げてもらうことになり、区長の私がその交渉に当たっている」と、旦那は私に胸を張って言った。 昔、庭を隔てた向こう側の湯殿の刷りガラスが水蒸気で濡れると、豊満な裸体のシルエットが浮かび上がり、私の目を楽しませてくれたルナールの絵のような奥さんは、まだ<残んの色香>を僅かに発散させていた。 そして、そばに座って亭主の顔を頼もしそうに眺めていた。 めでたしめでたし、であった。

会社の主だった取引先の一つにに恩加島製鋼所といういうところがあり、大谷重工の鉄板製造部門であった。 仕事も多かったので、殆ど隔日に出かけていった。 オーナーは鷲尾嶽(わしおだけ)という<しこ名>で十両までいった相撲取りとかで、片方の耳が変形していた。 この大谷社長が出社すると大変だった。専務の末久三男氏以下全社員はもちろんのこと、来客も総て最敬礼してお迎えすることに決まっていた。 天皇陛下の行幸と同じである。 もし来客の中でそれに不服な人は、机の下へ隠れていてくれとのことであった。

私は、それがいやだと<だだ>をこねたが、それならば取引中止だと叱られたので止むを得ず机の下へ何回か潜り込んだのを記憶している。 大谷社長が特大の机にどかっと座ると、末久氏が恭々しく進み出、書類を差しだし、印鑑を頂く場所をご指示申し上げると、左手の掌(ひら)で握った大きな印鑑をそこへぎゅっと捺す。するとまた、次の頁をめくり「ここでございます」と指し示す。そこへまた、ぎゅっと大きな印鑑をお捺し下さるという仕掛けで、遠くから眺めていてなかなか面白かった。 まことに大谷氏は、悠揚せまらぬ大人物であり、末久氏もまた辛抱のいい人であった。

その恩加島製鋼所が倒産するという噂が出、会社から「なるべく仕事を辞退するように」との指図が出た。 処が、担当者として余りにも親し過ぎたので断わりきれずに仕事を続けていた。 それが露見して所長から激しく叱責された。 けれどもその直後に、債務は全て親会社の大谷重工が責任を持つという声明が出され、会社は慌てて仕事を再引受することになった。 そのため、所長と次長が挨拶に出向いた。 先方は「昨日、もう仕事は引受けませんと言ったではないか」と皮肉を言う。 所長は「形式的にはそう申し上げましたが、実際には他社が手を引いた後も、わが社は仕事を続けていたではありませんか」と弁明した。 そばで聞いていた私は少々腹が立った「あれほど激しく、仕事をするなと私を叱ったくせに。いい気なものだ」。

首尾よく明日から仕事を再開させてもらう約束を取り付け、梅田の会社近くまで帰った所長は、突然「昼飯を食おう」と言うなり次長と私を連れ、すぐ近所の「パリス」という高級洋食堂へ入った。  年輩の方々は記憶されていると思うが、当時、梅田界わいではパリスがほぼ唯一の「A級」洋食堂であり、雨が降れば傘をさしてまで「いらっしゃい、シロスでございます。おコーヒだけでもどうぞ」と、働き者の<ママさん>が連呼し続けた姉妹店のキャバレーシロスと共に、梅田の名所でもあった。

そのパリスで、普段、文句しか言ったことのない所長が、何を思ったのか私に大きなビフテキの昼飯を食わせてくれた。 外から眺めるだけで、いままで入ったことのなかった「パリス」レストランの壁には、高峯秀子とそっくり同じ顔をした特別大きい裸体画が描かれていた。 女優高峯秀子から、よく苦情が来ぬものだと思った。 それは、まぶしい程の全裸体であった。

当時、恩加島製鋼所の輸出担当は田手直徳という<しょぼくれた>感じの人であったが、その後付き合いも何もなかった。ところが二十年後、西宮高原のゴルフ会員権を買い、その名簿を見ていて、運営委員のメンバーのトップ近くにその名前を発見した。 聞けば、田手氏はハンデーがシングルのゴルファーで、その方面ではなかなかの名士らしいが、私の古い印象と全然合わない。

製鋼所や貿易商社ばかり回っていると、鉄鋼貿易業界の内情が徐々に判ってきた。 製鋼所や、鉄鋼問屋から鉄の乙波(オッファー)を取り付けて、貿易商社へつなぎ、もしそれが成約すればブローカー口銭が貰える。 これは、わりあい簡単な仕事で、すぐ金になった。 都合によると、会社から貰う月給よりもブローカー口銭の方が多い月もあった。

昼飯が食いかねた身分から、内緒のあぶく銭、といってもそれはたかが知れたものであったが、たまにはキャバレーへも行けるゆとりが出来た頃、突然、母が兄を連れ大阪へやってきた。 相談ごとがあると言う。  何ごとかと気になったが、話は後回しにし、取り合えず心斎橋見物に連れていった。 三人で歩いていて、ふと気が付くと道行く人々が振り返って我々を見ている。 おかしいな、と思った途端に気が付いた。 それは、兄の風体(ふうてい)である。少々異様であった。 どういうつもりか、兄の髪の毛は<ぼさぼさ>で、長らく散髪もしていない様子、それにちびた古下駄を履いている。 いくらその当時でも、心斎橋をそのような姿で歩いている人はいなかった。慌てて母と相談し、兄を服部時計店の隣の理髪屋へ放り込み、そしてその間に、隣の喫茶店で母から出阪の目的を聞いた。

それによると兄は近々結婚するという。 めでたいことだ。 ところが問題は結婚式の費用である。 それを多少なりとも私に負担せよと言う。 これはえらいことになった、田舎へ帰る度に懐具合いの良さそうなこと言っていたのは、母や祖母に心配を掛けまいとする、親心ならぬ子ごころだったのに、それがいわば裏目に出たのである。

いか程の割当かと聞いたところ、<これこれ>の金額だと言う。予想外に安かった。 「はい、分かりました。なんとかします」と、例に依って即座に安請け合いの返事をした。 だが後になって考えてみると、それは私の数カ月分の月給に相当する。 田舎で生まれ育ち、田舎しか知らぬ母は、大阪にはお金が落ちていると思っていたのかも知れない。

結局この金は、全額は調達出来なかった。 少し足らずめの金額を届けたが、母は苦情を言わなかった。 母の期待を少し下回り申し訳ないと思ったが、致し方なかった。 何しろこちらは安月給とりの身空(みそら)、そう簡単に予定外の金が手に入る筈はない。 それにしても、そう多くない金額とは謂え、どのようにしてその金をつくったか。 それは、少々、会社で内緒事をしてつくった。 取り立てて悪質な方法とも言えぬが、言うなればやはり非合法である。 そのようなことを何回もやれば、どう考えても警察行きだ。 だから、二度とやりたくなかった。 二度やる前に会社を辞めようと思った。 しかし、<ふんぎり>がつかない。

念のため言い訳をして置くが、社員の義務としての仕事は充分に果たした。 いや、充分以上だったかも知れぬ。 ある時所長が、外回りの営業社員全員に、それぞれの毎月の取扱量を報告させたことがあった。 それによると私が二千五百トン、二位の高橋・杉本チームが千七百トン、それ以下はせいぜい六、七百トンどまりで、私一人に依る扱い高が大阪営業所のほぼ半分を占めていた。  もっともその主たる原因は、私の担当が数量金額の異常に嵩ばる鉄鋼関係だったことによるのであるが、それにしても気をつかうことおびただしく、得意先回りで寧日がないという状態だった。その上、生活費補給のための貿易ブローカーもしなければならぬし、会社の事務所へ顔を出すのは朝出勤したときだけという状態が続いた。 そしてそのことは、所長にとって面白くないことだったらしく、「あの男はいったい毎日何をしているのか」と不興げな言葉が出ているとの情報が私の耳にも入ってきた。 これではいよいよ以って辞めざるを得ない、と思った。

ちょうどその矢先に転勤命令が出た。 神戸の本社へ行き、通関の係をせよ、という。 そうなると、もう内緒の貿易ブローカーも出来ない。 くどいけれどももう一度言う、六畳の間借りが月三千五百円。 それに対して、先月昇給して手取り五千七百円。 またしても昼飯が食いかねる。 業界でも一流といわれたこの会社が、何故、明らかに最低生活費にも満たぬ給料で、社員を働かせようとするのか、その了見が解らなかった。 もっとも、後から振り返ってみると、その頃は何処の会社も似たり寄ったりで、まともな給料など出していなかったようである。

辞めよう、と決心した。 辞めて、一度田舎へ帰って出直そうと思った。「帰りなん いざえん、何ぞ帰らざる」、まさに陶淵明の心境であった。 労働再生産費用を支出してくれぬ会社に未練はなかった。 そう思いかけると、もう辛抱ができない。 帰って出直そう。 田舎への帰心、矢の如きものがあった。 案外、まだ乳離れしていなかったのかも知れぬ。

辞意を漏らしたとき、二十人ほどの同僚が近所の食堂の二階で一席設けてくれた。彼らは口々に「辞めるな、辛抱せよ」と言う。 処が、一人だけ反対のことを言った男がいた。 高橋という柔道四段のその男は、東亜同文書院で会社の社長と学友だったらしい。 「俺は前々から、君が間違ってこの会社へ来たと思っていた。ちょうど良い機会だ、遠慮せずに辞めて新しい天地で羽ばたけばいい」と、彼は言った。 

辞表はあっさりと受理された。 さて辞めてどうするか。 とにかく一度、田舎へ帰ろう。 そしてその後は、当分、鉄鋼貿易ブローカーでもしようと思った。 向こう数カ月分の生活費には当てがあった。 ちょうど幸いなことに、少々まとまったブローカー口銭の入る予定があったから、それを起爆材にして月給取りを廃業し、自前の商売を始めようと考えた。 生活費も貰えぬ月給取りはもう<こりごり>だ。 もし将来私が人を雇うときが来たら、雇った人たちには必ず労働の再生産が出来るだけの給料を払うぞ、と心に決めた。 そしてそれは、その後四十年間守ってきたつもりである。

当てにしていた大口のブローカー収入のほうは結局<画餅>に終わった。 それには次のような<いきさつ>がある。 非常に親しくしていた取引先にH産業の貿易部があった。Y製鋼所の商事部門である。 殆ど毎日そこに顔を出していた。 貿易部は女の子を入れて僅かに五人、全員が留守勝ちだった。 ある日、例に依って訪ねたが誰も居ない。 海外から電報が入っている。 暫くすると外から電話が掛かってきた。 中堅社員のFという人からである。 「何か電報がきていないか」と聞くので、目の前の電報を読み上げた。 バンコクのタイウパコン社から、鉄の丸棒が百五十トン欲しいとのこと。 ところがH産業は鉄板専門業で、丸棒を取り扱った経験が全然ないのでどうしていいか解らない。

F氏は、私に「適当に返事をしておいてくれ」と言って電話を切った。 私は知合いの鉄鋼貿易商である瑞穂商会から丸棒の乙波(オッファー)を貰い、H社の名前で返電を打ち、そしてそれが成約した。  だいぶ利幅を大きく取って値決めしたので、確か百数十万円の利益が出る計算になった。 F氏と部長格のK氏は相談して、会社への申告利益は一割もあれば充分だ、あとはみんなで山分けしようと言う。 そうすると一番の功労者である私の分け前は予想外に大きくなる。

それを知った新入社員のU君が、こんな依頼をしてきた「私に近々結婚する女性がいる。彼女はいま結核で寝てい、どうしても治してやりたい。最近、米国からヒドラジッドという特効薬が輸入されているらしいが、値が高くて買えない。 ついては、今度の輸出船積が済めば相当多額に内緒の金が入るらしいが、その内から五万円程を融通して貰えぬだろうか。それでヒドラジッドを買いたい。その内緒の金の配分権は貴方にあると思うので、折り入ってお願いする」。

まことに身につまされる話なので、「よく分かりました。いずれ船積が済み、代金が入金したら、相談してそのように取り計らいましょう」と殊勝な返事をし、彼を喜ばせた。

やがて船積も滞りなく済み、代金も入金し、メーカーへの支払いも総て終わったが、F氏とK氏の方からは肝心の分け前について何の相談もない。 U君と私はいらいらしながら待っていたが、一ヶ月経っても何の音沙汰もない。 そうこうしている中にU君が意外なことを言ってきた、「あの金はF氏とK氏ですでに分配が終わったようですので私はもう諦めます」。 そんな馬鹿な筈はない、と思い、私はなお待っていた。 いわば十八史略でいう<尾生の信(びせいのしん)>である。 待ちくたびれ、そして田舎へ帰る前日に、とうとう意を決してF氏に言った「いろいろお世話になりましたが、実は会社を辞め当分田舎に帰ることになりました。長らく有難うございました」。本当は「あの分け前を頂けませんか」と言いたかったが、それは遂に言えなかった。

するとF氏は、「ちょっと待って下さい」と言うなり、なにやらK氏と相談していたが、「長い間ご苦労さんでした」と言って、紙に包んだ<餞別>をくれた。少なくとも五万円や十万円は入っていると思ったが、開けてみると一万円だけであった。 うまくいけばそれで一年くらい暮らせるかもしれぬと期待して会社を辞めたのだが、さあ困ったと思った。だがすべては後の祭であった。 今更、口争いするのも大人げなかったので、この話はそれで終わりになってしまった。

後日の情報によれば、誠実清潔のシンボルのように思われていたK氏は、その金で豊中駅近くに住宅を購入し、いまもなお居住されているらしい。 そして、F氏がその分け前を何につかったかは聞く機会を得なかった。

気の毒だったのはU君である。彼は当てにしていた金が入らなかったので、たぶんヒドラジッドは買えずじまいではなかったろうか。 U君とはその後数十年会う機会もなかったが、つい先年、ひょっこり私を訪ねてきた。今や、初老の紳士になり、Sという比較的著名な金属会社の貿易部長をしている。 大学を出た娘さんの就職先を世話して欲しいとの事であった。 喜んで斡旋したが、事情があってその話は結局駄目になった。 しかし私は、昔の彼の落胆を思いだし、せい一杯、その斡旋には勉めたつもりである。 そのお嬢さんが、かっての昔、ヒドラジッドを必要とした女性との間に出来た子供であるかどうかは知らない。 

その後、星霜二十五年色々なことがあり、偶然、K氏もF氏も私どもの会社の嘱託として出勤願うことになった。 特にF氏は、それが十年の長きに亙った。 両氏とも地方の著名な素封家の出である。 何故、その様に私の期待を裏切った人々と、なお親しくつき合ったかと、疑問を持たれる方々もあるかも知れない。 しかし、それ、歌の文句にもあるではないか、   ▽ 昨日の敵は今日の友 語る言葉も打ち解けて △  うらみつらみだけで一生を渉れるものではない。 まして相手は敵と言うほどのものではない。たかが私の期待を裏切っただけの人々である。 旧交を暖めるにしくはない。

処で、ここで思い出したことがある。  【キリストの愛】には、エロス、ストルゲ、フィリア、アガーペの四種類あると曾野綾子さんは言う。 エロスはご存じの通り、ストルゲは親子兄弟の肉親愛、フィリアは同志友人に対する有償の愛、そしてアガーペは<汝の敵>に対する無償の愛で、この愛こそキリスト教の神髄らしい。 西国街道(百七十一号線)を、池田から伊丹へ向い軍行橋を渡るとすぐ南側に「アガペ―友愛」という大きな屋根看板があがっている。どんな商売の会社か知らぬが、アガペは友愛でなく「愛敵(あいてき)」が正しいと思うので、そう言いに行きたいのだが少し恥ずかしいので躊躇している。   さらに言えば、「昨日の敵は今日の友」という態度は、キリスト教で説くアガーペの精神に近いものではなかろうか。

ここに至って急に、実名を秘し、アルファベットのイニシアルだけによる人名や会社名が多く出てきた。 登場する会社はすべて現存し、知名度もあり、登場人物もすべて、いまだ訃報を聞かぬので、迷惑を掛けるやも知れぬと思い実名を遠慮した次第である。  

九、 捲土重来いまだ知るべからず

捲土重来未だ知るべからず、杜牧の名言を胸に秘め、田舎へ逆戻りした私を迎えた母と祖母は何事ならんと訝かった。 心配させてはいけないと思い「実は、鼻の調子がよくないので、田舎で手術をしようと思い帰ってきました。 それが済み次第、すぐまた大阪へ戻ります」と言い訳し、事実、福崎の町の耳鼻科医院でさっそく鼻の手術を受けた。 上唇をめくりあげ、鼻の骨を削り取る手術である。 若い医者は「貴方の骨は、どういう訳か老人のように硬い。いくら<のみ>で叩いても削り取れない」と、手術の合間に愚痴をこぼした。 前に耳の手術をしたときも同じ様なことを言われたが、どうやら私の骨は青年の頃から異常に堅いらしい。 少々特異体質らしいが、日常生活に関係がないまま今日に至っている。

ちょうど歳の暮れだったから、正月を田舎で過ごし、久しぶりに数週間ゆっくりした日々を持った。 いわば鋭気を養ったわけである。 もっとも内心では、この先どうすべきかという心配が胸にあったが、既に一年有余の都会生活で、生きていく自信みたいなものが出来ていたし、ここ一番は親に心配させぬことが肝心と、腹をくくり泰然としていた。

松の内が過ぎると、すぐ大阪へ引き返した。 吹田の間借り六畳はそのままにしていたので、住むところを探す必要はなかった。 なんだかんだ併せると、節約すれば二、三カ月分の生活費が懐にあった。

さあ心機一転、鉄鋼貿易ブローカーでも始めようと、今までの知合い先を年始の挨拶かたがた訪問した。 大ビルの大谷製鋼所を訪ね、営業担当の庄田という人と話していた時に、偶然、旧知の山本象之助氏と会った。 山本氏や庄田氏は、中山製鋼所の大番頭として著名であった片桐仲二氏の戦前の部下である。 「新年おめでとうございます、 本年もどうぞよろしく」と挨拶すると同時に、「これから鉄鋼ブローカーでも始めようと思いますので、何かいい話があれば一口乗せて下さい」と頼んだ。 すると山本氏が「実は、大東商事という新しい会社が鉄鋼の輸出業務を始めることになり、私も参加したのですが、貴方も一緒にやりませんか」と耳よりなことを言う。

渡りに舟で、早速、山本氏の後ろについて泉尾にある大東商事の事務所へ行った。 処が、開店早々とかで机椅子が五、六個、それにブローカー風の人が数人たむろしているだけで、事務用具すらない。 社長の宮内とかいう人は東京へ行って留守とのことであった。

貿易業務をするには英文タイプライターが要ると言うと、「社長が帰ってきたら買って貰いますから」と山本氏が言う。 「私の、会社での立場はどうなりますか」と聞くと、「それも社長が帰ってから具体的に話し合いましょう」とのこと。 その他、何を聞いても「社長が帰ってから・・」という返事ばかり。 少々心配だったが、父親ほどの年齢で、しかも紳士然とした山本氏が言うのだからまあいいだろうと思い、宮内社長の帰阪を待つことにした。

ところが、待てど暮らせど宮内氏は帰ってこない。 今日帰る、明日帰ると言いながら、とうとう二週間以上過ぎてしまった。 「いったいどうして呉れるのですか」と山本氏に詰め寄ると、「貴方が東京へ行って、直接話しあったらどうですか」との返事である。

夜汽車で東京へ出、宮内氏の東京の会社という所へ行った。 それは日比谷の交差点、有楽町の三信ビル四階にあり、「AAR」という社名のサインボードが出ていた。 三信ビルは、いまでもなお東京で最も立派なビルの一つであるが、その頃はちょうど進駐軍のビル接収が解除された直後で、一階のアーケードから八階まで殆どの入居者が外国系の会社で、一歩ビルへ入ると日本とは思えぬくらい華やかであった。 行き交う人々は大半が白人で、日本人らしき人たちすら英語で話をしていた。 吹抜け二階の天井は、ゴシック風アーチでコバルト色に塗られ、それに重厚な玄関の扉やエレベーター群は燦然と金色に輝いていた。 一歩そこに入れば、それはもう燦ゆいばかりのアメリカの世界であった。

四階四百六号室の英語で看板が出ているドアを開け、おそるおそる「宮内さんはいらしゃいますか」と声をかけた。 「いま居ませんがどちらさまですか」と若い女性が返事した。この少女が、その後の四十年間、親しくしてきたジロー金森節子夫人であった。 「何処にいらっしゃるでしょうか」 「築地ホテルというところに居るようですが、どういう訳かここへもあまり来ないのです」 「じゃ、訪ねてみますから、そのホテルの場所を教えて下さい」 「都電の築地停留所のすぐそばの浜側です。お会いになったら、是非こちらへ来るよう言って下さい」 と、云う次第で築地ホテルへ行った。

小さいけれども上品なホテルの一部屋に、宮内という色の浅黒い中年の人は若い女性と宿泊していた。 私が来意を告げると、「話は大阪からの電話で聞いてよく知っています。 しかし今の処、お金がないので、三信ビルへも出れないし、このホテルの宿泊費も払えないので、ホテルを引き払うわけにもいかぬのです。幸い、ホテルの食事だけは<つけ>がきくので、ご飯だけは食べれるのですが、<金欠>でどうにもなりません。 貴方、少しお金を貸してくれませんか」と言う。 人のよさそうな目がロイド眼鏡の奥で笑っている。 悪びれた様子もない。  一緒に宿泊している女性は、大阪から連れてきたガールフレンドであると紹介された。

さあ困った。 資本家と頼んだ人が一文無しでホテルに無銭宿泊し、その上、私に金を貸せという。 話が逆さまになってしまった。 金がなければ、買収した三信ビルの会社へも行けぬし大阪へも帰れる筈がない。 えらい人を資本家に撰んだと悔やんだが、後の祭りであった。 「私に金などあるはずがありません。 しかし、貴方はこれから一体どうするつもりですか」 「いま、東京で弁護士をしている叔父に出資を依頼している処です。 叔父から金が入れば、それで東京と大阪の会社を経営するつもりです」 「叔父さんは出資を承諾しているのですか」 「原則的にはオーケーなのですが、英語も読めぬ私に貿易会社の経営は出来ぬだろうと心配しています」 「それでは私が貿易実務を代行することにしましょうか」 「そうして頂ければ有難い。 もう一度三信ビルの[AAR社]へ行って、仕事の内容を把握してきて呉れませんか」 と言うような訳で、また三信ビルの四階へ舞い戻った。

「宮内さんは居ましたか、何時お金を持ってこちらへ出社すると言っていますか」 「叔父さんからの金が入り次第、こちらへ出社するそうです」 「貴方が大阪からお金を持ってきたと思っていました、こちらでは宮内さんの出資を待っているのです。 大阪の大東商事という会社は大きな会社だと聞きましたが、どうなのですか」 「大阪の方でも、宮内さんが東京からお金を持って帰るのを待っているのです」 「それでは話が違うじゃありませんか」 「とにかく宮内さんの叔父さんの出資を待ちましょう。 それまでに、このAARという会社の業務内容を私に教えてください」 結局、私はここで一週間ほど留まることになった。 これが私の、その後延々四十年続く三信ビルとの<慣れ染め>の始まりである。

調べてみて判った。 「AAR」はアメリカン アジアチック リプレゼンテーションという長ったらしい社名の略称で、創立した男は黄(ふぁん)という香港人だが今は米国に居る。  東京の責任者はツーリンという私と同い年の白人。 米軍を東京で現地除隊し、この会社に勤めたがロスアンゼルスの母の元へ帰りたくて、夕方になると西隣のアーニーパイル劇場の後ろに沈む夕日を眺めて涙をこぼすセンチメタルな青年であった。 そしてその父親代わりの乾(いぬい)精末博士という老人が、事務所の中の一角を借りて国際顧問業をしている。 応対に出た少女は乾博士の姪の金森節子さんで、彼女は夜間高校の生徒だった。

[AAR」は事務所の半分を「ブリテッシュ インポート」という会社に<また貸し>してい、実際は[AAR」と「ブリテッシュ インポート」の共同事務所になっていた。 ブリテッシュ インポートは、社長のブラウン氏と、同棲している秘書の加代子さんのほかには、桃井という社員と女事務員が一人が居ただけである。 この桃井という青年は、いまテレビに出てくる桃井香織の父親で、彼はその後、私と色々関わりを持つことになる。

両社とも、外人の特権で消費物資を輸入し、それを進駐軍家族の専用ミニスーパー、つまり「PX」へ売り込むために創業した輸入貿易商であったが、商売がうまくいかず開店休業の状態のようだった。  まず先に音(ね)をあげたAAR社が、大阪の実業家と称する宮内氏の出資を仰ぐことにしたのだが、その宮内氏が約束に反してお金を持って来ないので困っている処だった。  AARと宮内氏の仲を取り持ったのは岡田宗一という堂々たる風采の紳士で、彼は、後日我々が<ゆきがや夫人>と呼んだ、夢のように妖艶な和服美人と雪が谷の高級住宅地で同棲し、大阪の本宅には殆ど帰らないそうであった。  岡田氏は、大正末期に大阪の田村駒本社で、前に述べた山本象之助氏と同僚だったらしい。その<よしみ>で、山本氏の知人である宮内氏と AAR社 の仲立ちをしたということである。 そしてそれに、相部屋の ブリテッシュ インポート社 も加わるつもりのようであった。

書けば随分ややこしい話であるが、結論から言えば、文(もん)無しの AAR、ブリテッシュ、乾博士、岡田氏、それに山本氏の全員が、これまた文(もん)無しのドンキホーテ宮内氏の金を当てにして、くっついていた訳で、そこへ似たような私が加わったのである。

まる一日ほどAAR社に座り込んで、内容がほぼ判りかけた頃に、築地ホテルの宮内氏から呼び出しがあった。 出かけてみると、例の若い彼女と一緒に居た。 「弁護士の叔父がだいぶ乗り気になっているのですが、私では信用出来ぬというのです。 あなたが行って説得してくれませんか」 「私でよければ行ってきますが、場所は何処ですか」 「江東区の砂町です、地図はここにあります」 「じゃ、行ってきます。 何か気をつけることはありませんか」 「叔父には<じゃじゃ馬娘>がいます。 味方にすると役に立ちますから、うまく言いくるめて貴方のガールフレンドにして下さい」 というような次第で、今度は砂町行きとなった。

錦糸町で乗り換え、焼け跡のバラック商店街を抜けて、目指す宮内弁護士の家へ着いた。 私のイメージでは、弁護士先生といえば大学教授のような紳士だと思っていた。 処が、宮内先生は案に相違して風采の上がらぬ<ちょび髭>を生やした、貧相な老人であった。 「甥が金を出せとせきたてるのですが、あの男は信用なりません。 貿易などという仕事は私には解りませんが、貴方のような専門家が見てAARという会社は見込みがあるのでしょうか」 「詳しいことは私にも判りませんが、外人の特権をだいぶ持っているようですから、上手に利用すれば面白いと思います」 と言っている処へ、奥から若い女性が現れ先生の横に座った。 余り美人ではなかったが、真っ赤なマニキュアをし、格好よく足を組み煙草を吸い始めた。

「この娘が、有楽町へ出勤したいのでぜひAAR社を買い取ってくれとせがむのです」 「そりゃお父さん、私も女ですからあの様にきれいな仕事場へ出勤し、外人と英語でしゃべってみたいのです。 ねー、買って下さいな」 「困るなあ、おまえにも。 ハンドバッグを買う話と違うのだよ」 「だって私、あそこで働いてみたいんだもの。 ねーお願い、買って」 「中村さん、貴方の話を信用して、少し出しましょう。 ここに百五十万円あります。とりあえず、これだけ持っていって下さい。 私は刑事弁護士ですが、やくざなどという連中はいくら一所懸命弁護してやっても、感謝して謝礼を呉れるような者は居ません。 先に保釈金を積ませておいて、それを取り上げるしか方法がないのです。 因果な商売で僅かばかりずつ貯めた金ですから、大事につかうよう甥に言って下さい。 尤も、まあ半分は娘にせがまれて出すようなものですが」 「解りました、そのように宮内社長にお伝えします」。 そういうような訳で百五十万円預かり、築地ホテルへ引き返した。

宮内社長は大喜びで、これでホテルの支払いができ、三信ビルの事務所の先月分と今月分の家賃も払えるとのことであった。 先ずは、取り合えずめでたかった訳だが、肝心の私の立場に付いての話が一向進んでいない。 「私の地位や報酬はどうしてくれるのですか」と詰めよった。 「一両日中に大阪へ帰りますから、大阪の会社で話合いましょう。 先に帰っていてください」 「解りました、AARで調べ残りがありますから、それを済ませたらすぐ大阪へ帰ります」 「貴方が 東京へ来てくれたので助かりました、今後、力を併せてやりましょう」 と宮内氏は上機嫌だった。

そして翌日、私は大阪へ帰った。 処が宮内氏、またしても大阪へ帰ってこない。 なすすべもなく、<荏ぜん>日を過ごすこと十日、ようやく帰阪した宮内氏は、またしても私たちの待つ泉尾の大東商事の事務所へ現れない。 聞けば、彼は新築した岸の里の自宅を債権者に取られ、すぐそばのアパートに居るという。 やむなくアパートまで訪ねていった。 その頃の南海電車、岸の里駅付近は、緑豊かで、まさしく「岸の里」という地名にふさわしい閑雅な田園住宅地であった。 それがつい先月、四十年振りに同じ「岸の里」駅へ行って驚いた。 緑は皆無、代わりに木造安普請の工場や住宅が処狭いばかりにたて込み、岸の里駅も吹きさらしのバラック建で、ペンキすら塗ってない。 韓国ならいざ知らず、今時の日本にこのような汚い風景があろうとは考えられぬような街に変わっていた。 この四十年、日本人の【英知】はいったい何処へいっていたのかと考えざるを得なかった。 まあ、その話はおくとして、肝心の宮内氏である。  またしても彼は、東京でお目にかかった例のガールフレンドと一緒に居た。 六畳ほどのアパートの一部屋である。 私が話かけるまでに、今度は彼の方から切りだした、 「貴方に迷惑を掛けて済まぬが、先日の金は、東京の借金払いですべてなくなり、文(もん)無しで大阪へ帰ってきた。 いままた、別の方で金策しているから、もう暫く待って欲しい。 処で、一つ頼みがある、きいてもらえぬだろうか」と言う。 それまた、お出なすった、と思い、用心しながら聞いてみた、 「どんなことですか、難しいことはいやですよ」 「実は、家を取られてしまい、居るところがないので家内子供たちを、紀州の、元いた女中さんの家に預けている。 処が、子供が<やんちゃ>をして近所に迷惑をかけ、居ずらくなったので大阪へ帰りたいと家内が言ってきている。 子供が三人も居るし、荷物もあるので、迎えに行きたいのだが、私は金策のためここを離れられない。 済まぬが貴方が代わりに行ってきて呉れませんか」 「行ってもよろしいが、先に往復の旅費だけは下さい」と、前の東京行きで懲りたから、せめて汽車賃くらい先に巻き上げておこうと思った。 「当然のことです、僅かですがこれだけお渡しします。 大人二人と子供三人分の汽車賃はそれでほぼ足りると思います」 「何処へ連れて帰るのですか」 「とりあえず明日の昼ごろ迄にこのアパートへ連れてきて下さい。それまでに適当な家を探しておきます」。

私はすぐ紀勢線に乗り、御坊駅でバスに乗り換え、梅の名所、南部(みなべ)の、元、女中さんの家を訪ねた。  両親が亡くなり、残された若い娘ばかり三人家族の農家であった。 そこへ宮内氏の奥さんと子供三人が身を寄せていた。 今夜はこの家で一泊し、明朝みんなで大阪へ帰ることにした。 夜になった。 その家の娘さんたちが私のために寝床を敷いてくれた。田舎の<田の字型>の家である。 もうだいぶ暑くなっていたので、蚊帳を釣らねばならぬ。 蚊帳は二つしか無いらしい。一つは奥さんと三人の子供用、もう一つはその家の娘さん三人が寝る。 すると、私一人は蚊帳がない。 夜中に蚊が出てきて<ちくちく>刺す。 痒くて痒くて、とても寝られない。 目をあけると、開け放された両隣の部屋がほのぼの見える。 片や娘が三人寝ている。そして反対側の部屋には奥さんと子供が三人。 奥さんといえども女だ。 どちらを見ても女ばかりだ。どうも気になる。 しかしそれより、一晩中、蚊に往生した。 そこで、ふと思いだした。 酒の席の<ざれうた>である。 ゝゝ私一人が<やれほれ>蚊帳の外ゝゝという、あの歌とそっくりの経験であった。 自慢ではないが、そのような経験をした人は、世間にそうざらにはいないだろう。

ここまで書いてき、おや、少しおかしいぞと思った。 正月早々に大阪へ戻り、旬日ならずして東京へ行った。 そして昼は三信ビルへ出、大半の夜は、「巴里祭の男 一」で述べた通り、書家奥平君の部屋へ転げ込んでいた筈である。 彼の住居は芸術院会員青山杉雨先生の家であり、それは等々力(とどろき)にあった。 残雪と<泥ねい>の世田谷を歩いて往復した記憶は鮮明である。 それは間違いなく寒い冬であった。 そして一、二週間東京にい、間もなく大阪に帰り、その後十日ほど経って南部(みなべ)へ行ったと記憶している。 だがその南部の農家の夜は、蚊が多くて寝られなかったのも事実である。蚊帳の外で一人寝たのは、創作でも何でもない。 間違いなく、全てが事実なのだ。 とすると、何処かで数カ月ずれている。 それが思い出せない。

友人の歴史学者大庭博士によれば、中国史はもともと紀伝体であるという。 紀伝には、本紀、世家(せいか)、列伝の三種があり、それぞれ帝王、諸侯、豪傑の個人伝記である。 それを組み合わせて編年体の中国史を作り上げると、何処かで年数のかみ合わぬ箇所が出て来、辻妻の合わぬ場合があると謂う。 下手をすると、史書相互の間で百年近くも時代の歯車がかみ合わず、格好がつかなくなるらしい。

それほどの違いではないにしても、編年体でつずっているこの自伝で、既に半年近くの歳月のずれが出てきた。 よく記憶していると思っていても、やはりどこか曖昧である。 記録を残して置くべきだった。 しかし、数カ月の日時のずれ程度は、大勢(たいせい)には影響がない。

宮内氏の奥さんと子供たちを連れ、天王寺へ帰ってきたのは翌日の昼前だった。 天王寺駅の地下道を通り、駅前広場へ上がった所に大きな看板が立っていた。 美空ひばりの公演広告であった。 それを眺めた宮内夫人は長閑な声で「ああ、ひばりちゃんか、懐かしいな。見に行こうかしら」と言った。 これが彼女の帰阪第一声だった。

帰る家もなく戻ってきた母と子が、今夜、何処で寝るのかしらと気にしていたのに、うららかな声で、<ひばりちゃん>を見に行きたいと彼女が言ったとき、私は思わずほっとした。  ドンキホーテーの宮内氏に、まさにうってつけの大らかな奥さんであった。

岸の里のアパートへ案内すると、子供たちは早速その廊下で駆けっこをし、管理人に叱られていた。 私が密かに心配していた宮内氏の若い彼女は、どこへ消えたのか居なくなっていた。 まだ母と子たちが落ち着くべき宿は探し得なかったらしく、宮内氏は、今から再度、母子の仮住いできる旅館を探しに行くから手伝って欲しいと言う。 確かその辺りに旅館が在った筈だと宮内氏が言い、諏訪の森神社の近所へ、宮内夫婦に子供三人、それに私の都合六人が出かけた。  神社の境内に家族を残し、すぐそばの旅館に行き、宿泊交渉をした処、子供連れはお断りですと言われた。 それを聞いたとき、奥さんは「三界(さんがい)に家がないのか」と言いつつ、初めてはらはらと涙を流した。 

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