釣り鐘二題
 
 

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高尾 (二代高尾と号し、石井高尾と呼ぶ)

全盛が世に聞こえたといわれる石井という人は、近年になって近江彦根の城主
井伊直孝に召抱えられた石井吉兵衛元政という人で、詩歌管弦の達人だった。

殿様の側近として十九才のとしに初めて江戸に出、ある人の誘いにのって吉原
遊郭に遊び、高尾大夫と一晩をすごしたところ、どんな前世の因縁があったのか、
互いに思い思われて二晩が三晩と重なり、ついに将来のことまで誓い合うなかと
なって、その年も暮れ、翌年も春の初めから通いはじめて如月(きさらぎ)二月の
寒さも気にならず、弥生(やよい)三月に花が咲いても気が付かぬほどのこころと
なり、あわれと詠()め侍(はべ)りしとなん誠にや、羽を並ぶる鳥、枝を連ねる
紅葉(もみじ)も色深くそのうちお金が尽き、たとえていえば、千年の松もいつか
は枯れ、万年の岩もいつか砕けて姿を消すのとおなじりくつで、しょせんは苦界
に身を沈めた花魁の身の上。 

そのとき、こころも染めぬ他の人からの身請けの話が急に決まり、高尾は驚い
て、石井吉兵衛へこのことを知らせる手紙を書いて送った。しかしさて、どうにも
出来そうでないことと分かってい、せめて今宵は別れの盃だけでもしようと、吉
兵衛の来るのを、いまかいまかと待っていた。
                         
ところがその日の吉兵衛は、殿様の歌会が催され、おまえも一緒にやれといわ
れて参加して歌を作っていた。集まったのはみな風雅の人たちばかりで、昼過
ぎごろに高尾から手紙が届き、それにはただ慌ただしく一行のみ、今すぐ来て
くれと書いてあるだけで、とびたつばかりに思ったものの、和歌の会の進行はま
だ半ば、とても途中で抜け出す雰囲気ではなく、気にしながら夜も更けてからよ
うやく会も終わり、お客たちが帰ったので、吉兵衛も自分の小屋に戻った。 

しかしそこはまだ殿様の屋敷内、門限があって深夜に外へは出られず、ただ物
思いするだけで、虫の声からしてようやく夜が明けるかと思ったとき、とつぜん
に表の戸がたたかれ、それは水鷄の音にあらず、一緒に勤務している若侍数
人が、殿様の言い付けで、「きょうの昼ごろ、吉兵衛がなぜか物思いにふけっ
て、身体が常ならぬようす、煩っているのではないか見て参れ」とのことで、や
ってきたという。

「まことに有り難い話だが、いささかも煩うことなく、物思いもしていなかった。 
殿様がなぜそのようにご覧になったのだろうか。 もはや夜も更けているので、
それでは失礼して、寝させていただくとしよう」と、いかにも平然としたようすな
ので、使いの人々がよけいに怪しみ、この由を殿様に申し上げたところ、それ
ではとにかく吉兵衛を呼んで参れ、との仰せ。 

再度の使いが来たので、いったい何事かといぶかりながら、吉兵衛はすぐさま
殿様のまえに伺候した。 
井伊直孝侯、吉兵衛をご覧になって、「おまえのきょうの不快はまことに甚だし
そうであった、さぞかし難儀なことであろう。 
それにしても、おまえの小屋は狭すぎて保養するにも難しい。  いまから出入
りのものの家にでも行って、この枕をやるからゆっくり休み、病いを養うがいい」
と仰せになり、御枕を一つくださった。 
吉兵衛、枕をおし戴いて、すぐさま殿の御館を出、風が吹くなかを、日本堤に
向かって急いだ。

ようやく吉原の大門(おおもん)を閉じる鐘がなる夜中の十二時ごろ、高尾の住
んでいる揚屋孔雀屋(あげやくじゃくや)(揚屋孔雀屋は今はない。今田町から土手へ上
がる前に孔雀屋という所があるが、つまりそこにあった長屋のことである)に行くと、なかからおお
ぜいが迎えに出て、さきほどから郭(くるわ)の三浦屋から何度も迎えがきたの
で、高尾の家の世話をしている男衆が出て行ったが、帰ってこないので、その
男の女房が心配して、夫を迎えに行き、すぐ帰って来て、高尾が自害したらし
いと報告した。 

聞いた吉兵衛が驚きあわて、その女房を連れて郭(くるわ)の三浦屋へ行き、
高尾のまえに近寄り、「吉兵衛が来たぞ、なぜこのようにはやまったのか」と、
声を大きくして言うと、高尾はすでに息も絶えだえ、吉兵衛の裾に手をかけ、
眼をうちひらき吉兵衛の顔を見てにっこり笑い、そのまま灯が消えるように息
が絶えてしまった。
吉兵衛の悲しさは筆舌に尽くしがたい。 

ふと見ると、そばに書置きが封して置いてある。
みんなが集まって開いてみたところ、「吉兵衛と深く将来を誓った甲斐もなく、
思いもかけぬ他人からの身請け話が決まり、吉兵衛の薄い力ではどうにも
ならぬことであるし、きょう吉兵衛が来たならば一緒に死んで、西方浄土で
添い遂げようと思ったのに、心変わりしたのか、夜も半ば過ぎるまで待った
がまだ来ない。 
この上は一人で先に死に、操を立てようと思いきわめました。 
亡くなったあとでもし訪ねてきてくれたなら、来世にてお待ちいたします」と、
なかなか哀れな書置きであった。

吉兵衛が、殿様から戴いた例の枕の中を開けてみるとたくさんの黄金が入っ
ていたので、それでもって高尾の菩提を厚く弔い、仏の道も違わず野辺の煙
にし、それ以来、襟引き締めて喪に服していたが、日々に病があつくなるよう
な感じで引き籠ってしまった。
 
        

しかし卯月四月も過ぎると、彦根に帰城しなければならなくなり、いまは移り変
わった萎れ花の心で江戸を出立し、彦根への道すがら、たびたび殿様に願い
出て、近江国は草津の駅で、ようやく長い暇をたまわり、ほっとして京都の南郊、
深草の里に庵(いほり)を結び、髪をおろして元政法師(げんせいほうし)と名を
変え、法華の行者となったときは二十才(ほんとうは二十六才の出家)であった。

そののち、「身延道(みのぶみち)の記」や、その他いろいろな和歌や詩集を作つ
て世に名を残し、道徳諸仏の御心にもかない、高尾大夫の亡き後を弔いつつ、
行年四十六才でこの世を去った。 

ふつうよりだいぶ遅れて、二十六才で出家したとはいえ、こと学問については、
たとい千年たった後でも、この法師に勝るほどの者は出ないであろう。

 

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