【台湾の政治と軍事】 詳しいことは知らぬが台湾の議会は「国民代表」という四〇年前の大陸各省選出の代議員で構成されている。 ということは過去四〇年間総選挙はなかったということだ。 大陸へ帰り、全てが落ち着いてから総選挙を行うという建前である。 当然のこと、代議員の殆どは大陸系の超老人ばかりである。もちろんその間に死去した代議員も多い。 その場合はすでに決まっている補欠予備員が繰上げ代議員になる。それもないとき、初めて補欠選挙が行われるということらしい。 当然のこと補欠選挙の立候補補者は土着本省人という仕掛になる。だから日が経つにつれて国民代表のメンバーには台湾人が多くなるという仕掛けである。 それが待てぬと本省人は文句を言う。

十五年ほど前、台湾省選出代議員のエースは劉海宙氏だった。 劉氏とはボストンの実業家、何(ほう)博士の広壮な邸宅で偶然行き合わせた。 氏は、ニクソン訪中に反対する在米中国人留学生のワシントンに於けるデモの指揮を命ぜられて訪米中であった。 次に会ったのは台北の彼の私邸であった。 私が彼にボストンで会ったという話を私どもの福新手套廠の何(かー)社長にすると、何社長は「劉海宙国民代表は自分の子供である」と不思議なことを言い、「その証拠に劉氏の所へ遊びに行こう」と言って、私を台北の中心部にある劉氏の私邸へ連れていった。 日本の青嵐会系の代議士たちと親交があるという劉海宙国民代表は、その頃台湾の若手政治家のエースらしかった。 何氏と一緒に仕事をしている私に対し、彼、劉海宙氏は政治家らしいもったいぶった物腰ながら些かの親愛さを表明した。 後日、何社長が私に見せた戸籍謄本では、紛れもなく劉氏は何氏の子供になっていた。 戦前の台湾では、子供が生まれた場合、干支の日がわるいと一度生まれた子を他人の軒先に捨て、それを拾ってもらう習慣があり、劉氏もそうした迷信手続きを踏まれた一人だったのである。 ずっと後、何社長の長女、月雲(あうん)ちゃんを拙宅で預かり青山短大へ入れたとき知ったのだが、どういう訳か何氏の戸籍には劉海宙氏のみならず、他にも十数人のそうした拾い児の出生届がしてあった。 どこの国でも迷信はあるものである。 何氏の話では、劉海宙先生の父親は東京に住んでい、非常に有名なゴルフ場経営者らしいが、ゴルフをしない私はそれが誰であるか知らぬ。 そのうち台湾が独自の選挙するようになれば、先ず第一番に劉海宙氏が大統領に選ばれるのではないかという噂もあったが、昨年、突然蒋経国氏が逝去したときには副総統の李登輝氏が自動的に総統に昇格してしまった。 立教大学の載教授によれば、ラッキーボーイ李登輝総統は大正十二年淡水生まれ、京大からコーネル大学に進んだ農政の専門家、台湾大学の教員を振り出しに、台北市長、台湾省長を経て、故蒋経国氏の推挙により一九八四年に副総統に就任した無色透明の学者らしい。

彼らの政府は中華民国政府行政府と呼称し、旧台湾総督府と同じ地区にあるが、それは四川省から雲南省まですべてをあわせた中国全体の臨時政府という建前になっている。 その中の一省である台湾省の省政府は台北でなく台中にあることは余り知られていない。 省政府と共に、その役人たちの住宅地として「中興新村」という台湾唯一の計画された高級住宅地が台中市の西郊にある。 そう広くはないが、千里ニュータウンにも匹敵する西欧風一戸建ち住宅団地で、ギリシャ風のエンタシス石柱を配した劇場や英国様式の重厚な郵便局なども完備し、公園住宅都市としての風貌を充分持っている。  しかし、あまりにも静かで、かつ上品すぎ、賑やか好きの中国人にとっては居心地がよく無いらしく、多くの高級官僚たちはそこに住む利権を残したまま、別途に台北に私生活の本拠を置き、週末は刺激の多い台北へ帰るという二重生活を楽しんでいる。 彼らにとっては、台北は<東京>か<ニューヨーク>であり、台中はローカルなのである。 なぜなら、彼らの殆どは大陸から移ってきたエリートたちで、口でどう言おうとその心底では台湾などに埋もれてしまうつもりは毛頭ない。 ニクソン訪中までの台湾の街頭スローガンは「光復大陸」か「勿忘在絽」であった。 日本から来た友人がよく「あの母という字に似た字はどういう意味か」と聞いていたが、そのとき、「『勿』は漢文読みでは<なかれ>、そして『絽(りょ)』は<旅先>の意で、<旅先に在ることを忘れるな>という意味になる」と説明すると、「ああなるほど、母を忘れる勿れ(なか)れか」と、間の抜けたような感心の仕方をされたものだが、何れにせよ、それらのスローガンは「大陸へ帰りたい」という大陸系の人々の意志表示であった。 如何に立派な住宅地であろうと台中の田舎に朽ち果てる気の無い高級官僚のために中興新村を造営したのは失敗であったといえよう。

その後、事態が急変して「光復大陸」の望みが絶たれたとき、たくさんの街頭スローガンは一晩にして急変し、「処変不驚(変に処して驚かず)」に入れ替わったが、その替わり身の速さと文章のうまさには「さすが文華の国」だと感嘆久しうした。 それでもニクソン訪中の当日の全テレビは、朝から晩まで悲壮感にあふれた政府の宣伝番組ばかりで、「国を護るために国防献金をしよう・・」というキャンペーンをがなりたてていた。 「いったい今どき国防献金などする人が居るのだろうか」という私の質問に答えて、ある中年の台湾人は「この期に及んで献金などしても、総ては政府のお偉方のポケットへ入ってしまうばかりと思うが、小学校へ通っている私の子どもたちは涙声になって『貯金を下ろして国防献金をする』と言っているので、純真な子どもの心を傷つける訳にもいかず困っている」との答えだった。げに恐ろしきものは初等教育である。

私どもの取引先の高雄工場長に章(ちょん)さんという大陸系の退役空軍大佐がいた。 格調正しい日本語を話すので「何処で習ったのか」と聞くと、「軍隊で習った」とのこと。 我々戦前派の日本人は<良い鉄釘にならず>で、国民政府軍の兵隊などは無教養の狩り集め集団に過ぎぬと思ってるので、失礼をも顧みず章工場長に尋ねてみた。 「文盲集団のような中国軍人の中で、何故あなたがそのように立派な日本語を話すのですか」。 すると彼は答えた、「確かに国民政府軍の歩兵などはいい加減な寄せ集め集団で、よしんばその将校であろうと大した教養がありません。しかし飛行機に乗る空軍は違います、それは米空軍と較べて勝るとも劣らぬ立派な教養集団であり、空軍将校には少なくとも二カ国語以上の外国語の修得すら要求されます。 私はロシヤ語と日本語を専攻しましたから、私の日本語程度のロシヤ語も出来ます」。 なるほどそこで判った、現在の台湾政府の軍人の中には国際的に充分通用する立派な職業軍人が沢山いるということが。

とはいうものの、台湾の軍人たちが<一朝事あるとき>に共産中国の軍隊と戦えるのであろうか。これは明らかに「ノー」である。何も数百万人の共産軍と戦って勝てるはずが無いという意味ではなくて、そうした兵力の差以前にもう駄目である。 なぜなら、現在の徴兵制のもとの台湾の兵隊たちは、今や殆どが台湾本省人の子弟である。 いま小学校・中学校に通っている洗脳された第三世代とも少し違って、現に兵隊の年齢である彼らは大陸中国に故郷を持つ青年ではなく、大陸中国の政府が憎い訳でもない。 要するに大陸は他人である。彼らの心情はたぶんに<日本は兄弟、大陸は従兄弟>である。 戦う意志は<かけら>もない。 これが台湾の軍隊の実像である。 なぜ私がそう言いきれるか、その理由は簡単である。 わが美康公司の社員たちはみな予備役将校であった。 その彼らがそう明言するのである。 結論的に言えば、台湾が大陸中国とは別に生存し得ているのは一に懸かって大陸側が攻めて来ないからである。 攻めて来れば一たまりもない。

【台湾の教育・宗教】 台中周辺には旧彰化高女出身の女性によく出会う。 多くは近辺の医者の奥さんになっている。 彼女らは日本女性より美しい日本語を話す。 「そうですの」、「困りますの」、「美しいですのよ」というような、「の」を語尾に入れた、いまどき珍しい優雅な日本語である。 物腰も近ごろの日本女性よりずっと上品である。 戦前・戦争中、台湾中部の日本人の子女は台中高女に通った。そして裕福な台湾人の子女はその隣り町にある彰化高女へ通った。 完全な差別である。 とは言うものの彰化高女の先生方は皇民教育の理想に燃えた日本人教師たちであった。 日本式の婦徳を教え、厳しい小笠原流の作法と上流階級の日本語をたたき込んだ。 同じ事は台北第二高女でも行われた。 彼女たちと話をするとき、標準語もおぼつかない私は何時も恥ずかしい思いをする。 それほど彼女たちの言葉は優雅で上品なのだ。

戦争中、いや戦前もそうかも知れぬが台湾出身の俊才たちは日本の文科系の大学へは入れて貰えなかったという。 文科系では思想運動などをする可能性があり、それは台湾独立運動につながる虞を持っていたからだという。 だから、日本へ留学した戦前派は医専や大学理工学部で学んだらしい。私学では早稲田が圧倒的に多かったという。 現在の台湾の開業医の殆どは日本の医専卒業生であり、彼らのみならず日本に帰化して内地で医者をしている台湾の人も予想外に多い。 もっとも日中両国籍を持つ台湾の侠児�柄南氏の話では、氏の兄、�永漢先生は東大の経済学部を出ているというから、あながち全ての台湾青年が文科系入学を拒否された訳でもないようである。

戦後、日本に留学した台湾の青年たちの父兄は、かっての昔日本に留学した人が多い。 彼らの心情は今も日本人であることに変わりがない。 彼らを中国人として扱ってはならない。 むしろ「我々日本人は・・」というような呼掛けをする必要がある。 台湾で「日本の一流大学は・」と聞けば、「早稲田か近畿大学」と答える。 ことほど左様に早稲田や近大に留学する子弟が多い。 しかし彼らの家庭は例外なく、かっての<礼節を知った>旧日本人である。  大陸系の子弟は殆ど欧米の大学に進学する。台湾大学卒業生中、毎年二千人前後が欧米に留学すると聞いたことがある。 彼ら大陸系の子弟たちは大学を卒業し、二年間の兵役を済ませるとすぐ父兄が貯めたタンス預金のドル紙幣を持って欧米の大学に留学する。 勉強してくれれば尚結構だが、たとえそれが「遊学」であろうと、在台の父兄たちはその子弟が欧米の市民権を取り、そしてある日突然の政変にあたって彼らの海外落ち延び先になってくれればそれでいいのである。ひとたび子弟が留学先のパスポートを取得すれば、いままで台湾で隠匿しておいた外貨資産は総て秘密裡にそこへ送り届け、家族全員が何時でも台湾を立ち退ける用意をしておくのである。 そうした目的がある限り大陸系台湾人にとっては、世界で最も市民権が取りにくい日本へ子弟を留学させるなど思いもよらぬことである。 嘘か本当か知らぬが、在台中の主だった大陸系の人々の殆どは、既にそうした海外疎開の用意を完了しているとの情報もある。

私が初めて台湾へ行った頃は、国立大学は台湾大学と政治大学の二つ、そして台湾省立大学は中興大学と、旧台南高工が変身した成功大学だけであったが、近年、交通大学や東呉大学など国立大学もだいぶ増えたようである。 政治大学とか交通大学というような、日本人にとって大学には似合わぬと思うような校名は、すべてかって大陸にあった同名の大学を踏襲しているのである。 国立台湾大学は、もちろん日本時代の台北帝大の後身であり、その権威および入学の難しさは日本の東大に匹敵するという。 しからば昭和二十年の終戦と共に帝大が急変して台大となったとき、彼らはどのようにしてそれに対応したであろうか。 色々困難なことがあったであろうことは、想像に難くない。 その一端を聞いた人がいる。 わがロータリーの友人村田氏である。 二十年ほど前、私が仲人して日本の女性を台大医学部の林教授に嫁がせたことがある。 いきさつは後刻述べるとして、その結婚式に新婦の友人という触れ込みで村田氏が出席した。 盛大な結婚式は台北の欣欣大餐庁で台大医学部と私ども美康公司の共催で行われた。 私は媒酌人席にいたが、村田氏には台大医学部の教授連中のテーブルが当った。 席上、教授たちは口々に「台大医学部戦後の歴史は、即ち外国語との戦いであった」と述懐したという。 国語が日本語から中国語へ、そして医学用語がドイツ語から英語へと替わり、彼ら若き医学部の学生たちは四つの言葉の狭間に置かれ、語学の勉強だけで精一杯となり、残念ながら医術の修得にまで至らなかったという。 無理もない話である。 都立高校から北大、そして台大と勉強の場所を替えて精神医学を専攻した林憲教授は台湾高地小数族の精神医学の専門家として世界に名を馳せたが、彼にとって台湾という国はいまなお住むのが嫌な国であるらしい。 なぜならこの国の社会は政治家・実業家が優先し、金持ちでない限り学者は社会的に尊敬されぬ習慣があるからだ。 「金が万能の社会、それが台湾である」と彼はぼやく。 学者のみならず医者も同様である、例えば台北医学院という医大の創設者として名を知られた内科医の郭博士に初めてお目にかかったとき、博士の名刺には「三陽皮革公司社長」の肩書がついてい、医者よりも社長の方が値打があることを如実に知らされた。 郭博士のみならず、私が会った多くの医者は医者の名刺より先に社長の名刺を出すのが普通であった。

一五年ほど前のある一時期、台湾の医者が大挙して外国へ流出する騒ぎがあった。 例えば、高雄の医師会のメンバーが十数人グループを組んでブラジル移民に行き、現地の政府から医師免許を貰えずUターンして帰ってきたという事件もあった。 当時、高雄で手袋メーカー兼養魚場経営をしていた高雄医学院出身の載氏の話では、社会的地位が低い上に患者から訴えられるケースが頻発し、そうした場合民事裁判は患者側に有利な和解を勧める傾向があり、そのため医業に嫌気がさして多くの医師は海外に活路を見いだそうとするのであると説明した。 載氏自身も、「人の命を預かって訴訟事件の被告になるよりは手袋屋のほうがまし」であるとし、医者を廃業したのだそうである。

また二〇年前、私と提携した頃の梅氏は中和病院という高級精神病院を経営してい、その病院は、台大病院に次いで公務員健康保険の政府登録第二号であった。 現在はどうなっているか知らぬが、当時、健康保険はあまり普及していず、精神病院なども少なかったが、梅氏の中和病院は、精神不安定を理由に政府の金で長期に亙って<ずる休み>しにくる高級官僚で病室は常に満杯でり、彼にとって病院経営は有利な投資であった。

右に記述したようなことは、当時の台湾の医療制度の不完全さを示す一つのバロメーターと考えてまちがいなく、それは現在でもたいして改善されていないだろう。 だからこそわが親愛なる台大医学部の林教授は、いまなお日本へ移住したがっている訳だが、日本の医師免許は、あらためて取るとなると台大の教授でも難しいらしく、それがネックで彼の日本移住は実現していない。

私は外国旅行の折、日曜日にはその町の植物園と本屋街に顔を出す習慣にしている。 台北の植物園は義理にも立派とはいい難い。しかしわが大阪にはそれすら無いのだからよその悪口は言えない。 本屋街らしきものは台湾大学の周辺にある。 古本屋を覗いてみると、ほとんどが工学関係の技術書ばかりである。 電子工学、土木工学、繊維工学等々、技術書のオンパレードで、その間に哲学や文学書が少し混ざっている。 自然科学、特に動物・植物などの図鑑類は皆無に近い。 私は図鑑類のあるなしによってその国の文化の程度を評価することにしているが、その基準でいえば台湾は落第に近い。 彼らの学問はほぼ生産技術一本やりで、日本と非常によく似ている。 参考までにいえば、図鑑類の豊富な国はカナダ・オーストラリアで、特にオーストラリアは飛行場のみやげ物売り場にまで「オーストラリアの植物」、「オーストラリアの動物」、「オーストラリアの昆虫」などの本が積み上げられている。 それはちょうど、日本の飛行場のみやげ物やに電機製品が、そして韓国の飛行場には朝鮮人参が並んでいるのと似ている。 とまれ、台湾の本屋の技術書一点張りは、即ち台湾の今日的教育の動向を示すものと言えよう。

話を変えて台湾の宗教について説明する。 一口に言えば土俗的な<道教>が最も盛んで、キリスト教と仏教が僅かにそれに続く。台湾全土にわたって<廟>と称するグロテスクな妖怪変化を祭った<ゴテゴテ趣味>の建物が散在し、その本尊は<関帝>とよぶ髭面の大男であったり、<�祖(まそ)>と称するマリヤ様の中国版らしき女性であったりする。 各家庭でも祭壇を設けて似たような対象を祭り、折に触れては果物や饅頭を供えている。 仏教では観音信仰が定着しており、巨大なセメントの観音像があちこちにある。めったに見ぬが寺院もあるらしく、私が見たのは台中の郊外の丘の上にあった碧巌寺とかいう、台湾には珍しい白木作りの上品な寺院であった。 聞けば当主は日本の駒沢大学に留学中とのことであった。 関帝廟にしろ仏教寺院にしろ、台湾では日本の寺院のような檀家制度はなく、従って冠婚葬祭に特定の寺廟から僧侶が来るということもない。

セメントや石や木の彫刻で飾りたてた廟とも寺院ともつかぬ大きな宗教施設はいまなお沢山造営されてい、死後の幸せや子孫繁栄を願う金満家たちの信仰心の対象になっているのは日本と同じである。  わが隣組の親友黄堂慶雲博士は台南随一の南宝樹脂グループの総帥だが、先年物故した博士の父君は「行天宮」とかいう巨大な廟を数十年がかりで建造していた。 氏に招待されてその工事途中を拝見したところ、十数人の専属彫刻師のみならず、下絵描き、製材所、それに金箔師までが彼らの一生の仕事として雇用されてい、その規模構想の大きさに驚き入ったことがある。 その昔、例えば飛鳥天平の頃には、わが国でもそうした巨大な寺院建設が各地で行われ、また近年では奈良の薬師寺の造営などもあるが、黄堂博士の父君の「行天宮」はそれを自力で、しかもより古式通り本格的に造営したもので、そういう意味ではどのような神仏が信仰の対象であるにしろ、台湾の人たちの信仰心の深さは現在の日本人以上であると言えよう。 私の見たところ、黄堂家の華麗な「行天宮」は道教の廟であるらしかった。 道教は、わが国では明治二年の神仏判然令で抹殺され、いわゆる<庚申さま>などに僅かにその痕跡を残している。 しかし、<おどろおどろ>した妖怪変化を拝むという習性は人間の本性にわりあい合っているとみえ、いまなお白蛇信仰や<庚申さまの猿>などの姿で余命を保っている。それが台湾では、極彩色の「廟」だとか「宮」という形式で現在に残っている訳である。

日本のいわゆる「新興宗教」は、台湾政府の禁止にあって進出出来ぬままであるが、唯一の例外は天理教で、これは戦前からの宗教ということでいまなお多くの信者を保持している。 ニューヨーク辺りへも進出して白人青年の間で比較的人気のある創価学会は、近年どういうルートか知らぬが台湾へも進出していると聞いたが詳しいことは知らぬ。

と、ここまで一気に書き進め、さて少しおかしいと気付いた。 何がおかしいかと言うと、道教と、妖怪変化と、関帝廟などの関係が少々曖昧で、誤解を招く虞がたぶんにあると判ったのである。 以下、それらに就いて少しばかり解説しておくから、御用とお急ぎでない方はお読み願いたい。  【道教】は唐時代の国教で、もともと儒教と同じく天帝を祭る筈であったのが、いつの間  にか「太上老君」と称する神格化された老子を祭るようになり、その最大派閥である「天  師道」が明・清代に原始精霊崇拝に近い土俗信仰を包摂した。唐代には道経全書五千五百  巻を擁した立派な老荘哲学宗教であったのが、明・清に至って妖怪変化をも崇めるまでに  に変身し、わが国にもそれが導入されたという訳である。 しかし明治政府は、そのよう  な<おどろおどろ>した淫祠邪教の礼拝所は認められないとして、神道か仏教のどちらか  に変わるよう厳命し、道教そのものを抹殺してしまった。  その痕跡として残っている  【庚申さま】は、干支(えと)の庚申(かのえさる)の日の禁忌行事を中心とした道教に  起因する信仰で、本体は金剛・阿弥陀・観音・不動明王から道祖神・「生きた猿」にまで  および、現世利益をもたらすとされる、いわば「福の神」信仰である。  なお、吉良の仁吉の荒神山で知られる「荒神さん」は「庚申さま」と関係なく、仏法僧の  三宝の守護神といわれた神に、日本古来の<荒ぶる神>を習合した土俗信仰の三宝荒神で、  屋敷内の<かまど>に住むとされている。  台湾の何処の家庭にでもある祭壇には「太上老君」などの字が大書してあるところから見  ると、それが道教であると判る。 祭壇に置いてあるお経らしきものは、道教教典の「玉  皇経」などである。

 【関帝廟】は、清国皇室が守護神として三国史の豪傑関羽を祭ったことに起因し、目をむ  き髭を生やした関羽将軍のカラフルな木像が妖怪変化とともに祭ってある。それはいわば  わが国の八幡太郎義家のようなもので、満州族の清朝はこれを戦の守り本尊にして中国を  制覇したのである。           また、台湾から東南アジアにかけて散見する  【�祖(まそ)】という女性の風体をした神さまは、唐代に流行した景教(中国式キリス  ト教)の残像であるらしく、�祖の「�(ま)」は<マリヤさま>の「マ」らしい。  余談になるが、中国に多い「馬(ま)」という姓は<マホメット>の「マ」が転化したも  ので、馬(ま)氏は回教徒の子孫であると謂われている。 花柳界で、中村のことを<な  ーさん>、前田さんのことを<まーさん>と呼ぶようなものである。  キリスト教のマリヤ信仰は中国の「�祖」だけでなく、仏教にも取り入れられた。  例えば、京都醍醐寺の国宝絹本「�梨帝(はーりーてい)母像」は鎌倉時代の作品だが、  その母子像の原型はマリヤ像にあるといわれている。  【観音】さまがインド仏教のアバローキタ=スバラという中性の菩薩であることは明白だ  が、それがガンダーラのゾロアスター教(拝火教)を経由したときに女性姿になり、優雅  な白衣観音、楊柳観音、流水観音などに変身した。 また、シルクロードの国々の観音さ  まには<みみず>のような口髭が生えているが、わが国の子安観音は紛れもなく女性であ  る。

以上述べた数種類の信仰対象が台湾では混在し、彼らはその礼拝所をほぼ一括して「廟」と呼び、それを拝むのが彼らの宗教である。 しかし宗教と言えるほどの教義や儀式を持たぬので、私は、その内容不明瞭な彼らの信仰を、仮に一括して「道教」と呼んで先ほど説明した訳である。 もっとも台湾の信仰だけが内容不明というわけではさらさらなく、全世界の宗教は例外なく異教徒にとっては邪教であり、内容不明であることに変わりはない。

わが国の真言・天台密教は神秘的直感と象徴的儀礼を主とし、呪文をとなえ、両手の指を組み合わせて印を契ぶ。 真言とは呪文のことであり、般若心経の<掲帝 掲帝 波羅掲帝>というのがその代表例だが、不可解な呪文を唱え、奇妙な呪法(護摩を焚いたり加持祈祷をする)を行ずるのは、それが表現と精神の一致を主張する大日経に由来するとしても、仏教徒でない人々にとっては邪教としか映らないだろう。 まして、盛大に火を焚くので近年有名になった阿含教などは、阿含経が小乗仏教典の一つであると知っている私でさえ、古代ササン朝のゾロアスター教(拝火教)と何処が違うのかとツアラストラに聞きたくなるくらいである。 日本の神道でも、判ったような判らぬような古木や、岩や山などを神体にするから、幕末の勤皇家の<何ごとの おわしますかは知らねども ただ恭けなさに涙こぼるる>という歌に象徴されるような曖昧な結果になり、ひたすら臨場感のみに頼っている訳である。

むかし私がハワイに居たとき、蒲鉾やの渡辺さんの次男が重度の身体障害者で、それを拝んで直して貰うべくオアフ島の西海岸の<拝みやさん>へついて行ったことがある。 白人の婆さんの<拝みや>は、広い部屋いっぱいを緑の木の葉で隙間なく飾りたて、正面の祭壇はたしかマリヤ様の像を安置して、すごく<おどろおどろ>したムードの中で何か判らぬ呪文を唱えていたから、ルルドの水を持ち出すまでもなくキリスト教の一部には邪教に近いものがあるのを知ったことがある。 というような次第だから、私がここで道教だけを特に非難しているのではないということをご承知願いたい。

台湾のあちこちで見かける極彩色の寺院風の建物を指して「あれは何か」と尋ねると、「廟(みょう)だ」という答えが返って来る。 京都東山の大谷廟などの如く、元来<廟>の意味は先祖の礼拝所だが、台湾のみならず東南アジア一帯の華僑の間では、「廟」とは、道教・仏教に拘らず、我々の神社仏閣と同じような意味の建物を指すのである。 本来、道教では、道士の居る所という意味の「道観」が仏教でいう寺院に相当するのだが、中国人の間ではそれも「廟」と呼んでいる。 「道観」については、白居易に<沈々たり 道観の中>という詩がある。 前にも述べたことがあるが我々日本人は、神道は神社・神宮、仏教は寺院と使い分けしている。しかし例えば、国道二号線を走っていると西宮と芦屋の間くらいの所に「神宮寺」という看板が立っている。 私はいつもそこで一瞬奇異な感じになるのだが、考えてみると、仏法僧三宝を祭るのが三宝荒神だとすれば、その寺が「神宮寺」という院号であってもおかしくない。 また「仁和寺の宮」とか「輪王寺の宮」という貴族もあったのだから、「宮」と名のつく寺院があってもおかしくない道理になる。 黄堂博士の台南の「行天宮」は名称から考えて道教の寺院、つまり「道観」だろうが、「宮」となっている。 要するに、わが国の明治政府が「神」や「宮」という漢字を神社神道の独占物にしたのが、我々をして誤解を生ましめたのである。

もう一つ、余談を付け加えておく。 先ほど私は「廟(みよう)」といった。中国語には、(上海語の一部を除き)Bの濁音、つまりバビブベボの発音が欠落しているので、廟(びょう)を<みゃう>と発音する。 馬(ば)という姓も<ま>と発音するのだ。 だから、バナナ、ビニール、ボーナスのことを台湾ではそれぞれ、マナナ、ミニール、モーナスと発音する。

またしても私は宗教の解説に深入りし過ぎたようだ。 原因は、葛城山の一言主神(ひとことぬしのかみ)を詠んだ芭蕉の句、<猶見たし 花に明け行く神の顔>に尽きる。

【台湾の結婚式】 一五年ほど前、訳あってバンコックの聯泰紡織というポリエステルメーカーを預かっていた梅氏を訪ねてバンコックへ行ったとき、たまたま話が日本人の結婚の話になり、「日本ではトラック一杯の未婚女性に対して二、三人の未婚男性と言うが、それは本当のことか」という梅氏の質問に対し、無責任に「それは本当だ」と答えたことがあった。 それから二ヶ月ほど経った頃、「友人の台大医学部の教授が日本の嫁さんを求めているから、世話をしてやってくれ」と梅氏が言ってきた。 そこで、隣りの銀行の窓口にいた<年増>の美人に「台湾へ嫁に行かぬか」と話をかけ、わざわざ台北まで見合いに連れて行った。彼女はもともと上海生まれの日本女性であった。 飛行場では現地の人たちが賑々しくおおぜいで出迎えて呉れ、その夜は豪華大餐庁という台北きっての大レストランで歓迎パーティが催された。 誰言うとなく「二人で各テーブルに挨拶回りしたら・・」と言い出し、お見合いの二人は揃って参会者たちのテーブルを巡回した。 「おめでとうございます、おめでとうございます・・」と口々に祝辞を述べ、二人のカップルは仕方無しに「有難うございます・・」を連発している間に、いつの間にか婚約が決ってしまっていた。

そして結婚したのが台大の林憲教授と徳島県出身の才媛、楠さんであった。 私と梅玉麟氏がそれぞれの側の仲人ということになり、台北のレストランで披露宴が華々しく挙行された。 受付は我々の美康公司の社員たち、設営は台大医学部の連中という割り振りで、約二八〇人が出席し、主賓は台湾で最も名誉ある学士院院長の�(うぇい)博士であった。�博士は、最初の数分間は北京語で、そしてその後は日本語で祝辞を述べた。 続いて台大医学部長や、新郎の同僚教授らが堰を切ったように日本語による祝辞を次から次へと述べ立てた。 中には不謹慎にも「日本のことわざに<女房と畳は新しいほど良い>というのがあるが・・」というようなスピーチもあった。 梅氏が後日私に説明した所に依れば、本来国家公務員(台大教授は国家公務員である)がこうした表向きの宴会で日本語のスピーチをすることは蒋介石総統に対してはばかるところがあるとしたものだが、主賓の�博士が日本語でスピーチをしたので、後はもう大丈夫だろうとばかりに彼ら台大の教授連中が、戦後二〇年間喉の奥にしまっておいた日本語を取り出し、ここぞとばかりに延々と日本語の弁論大会をやったのであるとのことだった。

来賓の祝辞が終わって宴会になり、まず新郎が<お流れ頂戴>のため各テーブルを回り、その後ろに介添役の友人数人が続く。 新郎は<お流れ>を飲むふりだけで、杯を後ろの介添役に廻す。介添役はそれをまた後ろの介添役にまわすという仕掛けで、結局、後ろの介添役が<お流れ>を総て飲み干すという仕儀になる。 私も介添役の一人になり、だいぶ沢山の老酒を飲まされた。 受付を見ると、参会者が赤い紙に包んだお祝いの金を思い思いに持参してきている。 日本と違ってその金額は常に偶数、つまり四百円とか六百円とかで三百円や五百円はない。 偶数はめでたく、奇数は不吉ということらしい。

結婚式が始まる前に新郎は新婦を迎えに行き、新婦を伴い帰って自宅の祭壇と両親に挨拶し、それから市役所へ結婚届に出向いたようであった。 そこまではまあ日本とたいして変わらぬが、その後が少々変わっていた。 写真館へ行くのである。 そして延々数時間かけて結婚写真をとる。 写真館にはロココ調のカウチ椅子や花束、それにギリシャ神殿風の背景など、色々な撮影用の小道具が完備してい、それを使用してまことに<歯の浮くような>ロマンチックなポートレイトを数十枚も撮るのである。映画俳優が撮るようなポーズで、夢のように優雅に、あられもないくらい恥ずかしそうに寄り添って撮りまくる。 頬を摺り寄せたり肩をくっつけたり、斜めから撮ったりアップで撮ったり、いやもう見ている方が恥ずかしくなるのだが、風俗習慣というのは恐ろしいもので中年者同士のわが新郎新婦は延々と写真を撮りまくった。 後で新郎教授から聞いた所では、台湾の結婚式のメイン イベントは写真撮影であり、それが日本の三三九度の杯にも匹敵するとのことであった。 そういう次第だから、神式、仏式、あるいはキリスト教式などの結婚儀式は、台湾では欠落している。 食事は大衆式中華料理が習慣になってい、円卓テーブルが三〇卓も四〇卓も並ぶが、そのコストは安く、それでいてお祝いの金が沢山集まるので、初婚の場合などはそれで新婚夫婦の家が一軒、充分買えるそうである。

わたしはこの結婚式以外にもあと二回ばかり日本と中国系の間の、いわゆる国際結婚の媒酌をしているが、それは両方とも日本国内に於ける結婚式だったので、実際に外国(台湾は外国である)の結婚式なるものについて経験したのは、この林・楠(くすのき)ご両人の結婚式だけである。

エエッ、「その中年の新郎新婦はその後どうしているか・・」ですって ? 聞くも野暮なことである。 楽しく暮らしていて、ご亭主の国際医学会議の帰りなどにはときたま訪ねて来られる。 「夫婦は何語で喋るか・・」ですって ?  もちろん日本語。なにしろ教授は都立高校から北大までいった秀才だし、<愛しき故里>というハードカバーの詩集まで出版している剣道四段である。むしろ、会話はともかく、政府に提出する中国語の文章が書き難い、<ちゃきちゃき>のもと日本人である。 ご亭主の兄は一橋出身の陸軍少尉で、ファーストナショナル信託銀行の社長をしておられたころ、台北ロータリクラブを引率して姉妹提携した大阪北ロータリーを訪問されたことがある。 兄は銀行頭取、弟は国立大学教授、兄嫁の里は銀行・保険会社のオーナー、妹の主人は外交官(もと亜東関係協会大阪弁事処長)という台湾版<華麗なる一族>である。

【台湾の動物・植物】 動物でいちばん多いのは何といっても人間。 いまや一千九百万人を越すそうだ。 その他の動物は日本と殆ど変わらぬ。熱帯だからといってキリマンジャロのように象やライオンがいるわけではない。 日本にいなくて台湾にいる動物は水牛くらいなものだろう。その水牛も現在では僅かである。 ある年、姫路の水瀬富雄君が「水牛の原皮の供給源を探したい」というので、台湾へ彼を案内したことがある。 彼と私と、それにユニオン製靴の水口社長が同行した。  台北では友人が「今や自動耕うん機の時代で、水牛は南部(台南・高雄辺りのこと)にしか居ない」という。 車をとばして台南に近ずくと、水口氏が「ああ、いた居た」と嬉しそうに声を挙げる。 みれば遥か遠くの水田に水牛が数頭うごめいている。 新永和皮革廠を訪問すると、郭社長が「水牛の原皮など見たことがない。 第一、生きた水牛そのものが今や台湾では数える程しか居ない」という。 諦めて台北へ引き返したところ、南海皮革の張さんという人が「水牛の原皮はバンコックから買っている」と言って、そのシッパー(供給源)の名前と住所を書いた紙切れを呉れた。 水口氏がそれをそっと彼のポケットに入れてしまったので、「ああ、彼の義父の会社に内緒で渡すつもりだな」と思い、私は知らぬ顔をしていた。彼の義父はパシフィック オーバシーズという著名な原皮輸入会社のオーナーであった。 それはともかくとして、そのときの台湾旅行は実に愉快で、水瀬君は三陽皮革廠買収の交渉をし、水口氏はユニオン シュー チェーンの台湾市場展開という企画をたてて現地の靴チエーンの徐一発社長と渡り合い、我々はそれを後日<産業観光>と名付けて懐かしがったものであった。

帰国してから数日後、水瀬君と同じ地区の梅谷製革所社長がやって来「先日、水瀬の社長と台湾へ行ったというが、何をしに行ったのか」と聞くから、「水牛の原皮を探しにいったのだが、台湾に水牛は居なかった」と答えた。 すると彼は「水牛の原皮は、水瀬のすぐ西隣りの工場がバンコックから毎月二百枚ほど買って革に仕上げている」と、事もなげに言う。 何のことはない、百億円の大旦那水瀬君は、隣家の零細企業と付き合いがなかったのである。 そのため、我々はわざわざ台湾まで水牛の原皮を探しに行ったという訳だ。 そのような次第だから、日本に居なくて台湾に居る動物は水牛だけというものの、それも今ではもう絶滅に近い。

その点、植物は大違い。 まず、百種類を越す椰子の木がある。 戦前、総督府が在った辺りの大通りには、まっすぐな大王椰子が亭々としてそびえている。 大阪の御堂筋に該当する中山北路の街路樹は樟(くすのき)と、そして幹と気根が幾重にも絡みあった奇怪な形の�樹(ようじゅ=がじゅまる)。 松江路(しょうこうろ)には観葉植物と同じゴムの木の見事な並木がある。 野生のハイビスカスが多く、彼らは仏桑花(ぶっそうげ)、または朱�とよぶ。 紅と白の蔓薔薇も多く、若い世代はそれをローズメリーと呼んでいる。 たわわなブーゲンビリアの中国名は九重葛(ここのえかずら)。 サンタンカは仙丹花、クレオメは酔蝶花、ポインセチアは聖誕紅、ランタナは馬桜丹、ジャスミンは夜香木、アメリカデエコは日本と同じく海紅豆(かいこうず)。薄紫の華やかな大木ジャカランダ(南洋桜)は、非州(あふりか)紫�。 かってスペイン人がヘルモッサ(麗しの島)と名付けたこの島の英語名はフォモーサ(FORMOSA)、名に違えず熱帯の美しい植物が一年中咲き乱れている。 四十年まえ、わが梅氏は国民党政府の後を追って空路この島に入った。 空からみる台湾は全山緑、青い山を初めてみた彼はその美しさに感激したという。 彼は大陸に在って、山に木が生えているのをそれまで知らなかったのである。 その時の台湾の人口は六〇〇万、そこへ大陸から二〇〇万人がやってきた。 にもかかわらず食べ物に困らなかった。 それが台湾である。

中国共産党に追われた蒋介石氏の国民党は、最初、海南島へ行くつもりであった。 しかし調べてみると、水と食糧が不足することが判った。 やむを得ず、そしてもと日本人とのあつれきも覚悟の上で、彼らは台湾へ遷都した。 台湾は彼らの期待に充分応えた。 なにしろ年に二回の蓬莱米と、四回採取できる野菜があったのだから。  そして今や人口は四〇年前のちょうど二倍、一九〇〇万人に達し、なお食物は余りかえっている。うまし国、台湾。 それは植物において特に豊穣である。

【夜の台湾】 断っておくが私の台湾は、すべて少なくとも一〇年以上まえの台湾である。 特に、夜の台湾は間違いなくそうである。 西門街というのが盛り場で、老人たちは<せいもんちょー>と発音し、戦後派は<シーメンテン>と呼ぶ。 その頃、つまり私の美康公司が最盛期のころ、主に白人バイヤーがよく行ったクラブは「メイフラワー」、そして日本人は「東雲閣」、現地人は「白玉楼(ぱいいーろう)」と相場が決まっていた。メイフラワーの中国名は「五月花」で、わが梅氏はメイフラワー(彼はゴガツバナと呼んだ)、および東雲閣きっての上客で、若い美人のホステスたちが群がった。 彼はそこで胡弓を引き、自慢の京劇の声色をホステスと共に楽しんだ。 クラブといっても日本と違って大量の中国料理が出され、「乾杯(かんぺい)、乾杯」が西瓜の種と共に延々と続くのであった。

政府の規定では、<売りに一%、仕入れに一%、合計二%>の交際費が認められたので、嘉新グループ十数社の副総経理である彼は、我々と供に連夜社費で豪遊した。 その頃のホステスは不思議なくらいの美人揃いで、三十才過ぎは殆どいなかった。 源氏名、つまり<あけみちゃん>とか<まゆみちゃん>とかいうような芸名は、中国式に英華(いーふぁ)とか��(まりー)で、「美」や「麗」の字がつく華やかな名前も多かった。

ダンスホールでは、そのころ世界一と謂われた「しんじゃぽー(新加坡シンガポール)」を始め、MGMなど数軒の巨大なホールが、美女数百人と共に<わが世の春>を謳歌していた。 夕方から出向き、七時になると九時まで二時間の休憩に入るので、その間、美人ダンサーたちを引き連れて酒家(ちゅうちゃ)ハウスへ食事に行き、酒がまわった頃にまたダンスホールへ引き返すというのが通例であった。 それ以後も、もしダンサーが必要なときはホールのマネージャーに規定料金のダンサー持ち出し料を払えば、彼女たちを営業時間中に何処へでも連れ出せた。 彼女たちの中には日本語や英語の出来る者も少なくなかったが、常時携帯を義務付けられている身分証明書によれば、その多くは「不就学」となっていた。 北京語・台湾語、それに日英両国語と、数種類もの言葉を使い分けられる彼女たちが何故「不就学」なのか不思議であった。

ある晩、梅氏のお供をした「しんじゃぽー」の遊びの途中、知合いと称する台湾の実業家たち数人と夕食二時間の休憩時にダンサーを連れてセントラル ホテル(中央大飯店)へ食事に行ったことがある。 そこは二階が中国式の個室食堂になってい、美人ダンサーを横に侍らせた円卓での食事となった。女性がそばに居るものだから紳士方は見栄っぱりを始め、誰いうとなく「最高の洋酒をたくさん持って来い・・」と支配人に命じた。 ボーイがクルバジェのナポレオンを持ってきて「これが最高のウイスキーです」というと、誰かが「それを木の箱のまま全部持って来い」と、まことに景気のいい話であった。 運ばれてきた二ダース入りの木箱を横に置いて、男たちが痛飲、というよりは<がぶ飲み>を始めた。ダンサーたちも女だてらに<好的(はおで)、好的>と言いながら際限なく飲みはじめた。彼ら彼女らはそれを老酒(らおちゅ)と同じ様なアルコール度の薄い酒だと思っていたらしい。 飲むほどに酔いが回り、皆へべろけになり、二時間後、またホールへ帰る頃にはほぼ全員が夢うつつであった。 途中で一人のダンサーが車の中で激しく吐き始め、大騒ぎになった。 その車は運悪く丁度その日おろしたての嘉新グループの役員乗用車で、梅氏は「これは大変だ、明日、社長の張氏がこの車を見たら、私は大目玉を食うことになる」としょげかえってしまった。 いくら総支配人だといっても社長に頭が上がらぬのは当然のことだから、気の毒で見ていられなかった。 梅氏は国際人だからクルバジェのナポレオンが何であるか知っていたが、他の旦那方はウイスキーとブランデーの区別もつかず、「とにかくいちばん高いのを持って来い」と大尽風を吹かし、その結果が新車の中で吐き出すという羽目になってしまった。 車のシートに吐いた汚物を眺めながら梅氏は撫然として、「これはだいぶ高価な吐き物だ」と呟いていた。 クルバジェがどうの、ナポレオンがどうのというような知識は、所詮、若い女性が週刊誌的学問をひけらかすのと大差なく、インテリジェンスとか教養とかいうものとはおよそかけ離れた存在で、私はどちらかというとそうした商業主義の通俗的知識を軽蔑してきたが、それにしてもアルコール分が何度であるというくらいなことは知って居らねば、成金社会で失敗するという典型的な例であった。

連夜のクラブ・ダンスホール通いが一〇年も続いて、我々がそれに飽き始めたと同時に、そうした華やかな遊興地帯にもようやく秋風が吹きはじめ、次に、グルメ食堂ブームがおこった。 確か、高雄のメインストリートにあった「老利(らおりー)」が最初だと思うが、今でいう即席「海鮮料理や」が台北の線路のすぐ西側に開店した。 「海味珍(はいうぇーちん)」といい、生きたままの魚類から食用蛙に至るまでを店頭に並べ、その場で料理して食事に供する仕掛けは台北では物珍しく、押すな押すなの盛況であった。 そのころ既に盛業中であったわが美康公司の連中は、顧客のお供をして連夜「海味珍」に押し掛け、同料亭の最高の客筋になっていた。 そして私も当然そのおこぼれに預かった。

その頃、「楓林小館」という上海・広東料理の高級レストランが開店し、味の良さで台湾随一といわれた。 東京にも「楓林別館」という高級中国料理店があったが、聞くところによれば、「楓林」という有名な高級餐庁が昔、上海か香港にあり、台北のも東京のもその名にちなんだということであった。 私は昼飯は必ず楓林小館と決め、梅氏や美康の社員たちとその豪華な食事をたっぷり二時間掛けて楽しんだものである。

梅氏の親友、�(せん)世留氏は民興紡績と台湾手套廠の代表を兼ねる傍ら、自由中国のノーベル賞と自賛する「嘉新文化基金」の執行秘書役であった。 二十八才で潮州の県知事をしたという文化人であったが、どういう訳か北斗(ぺいと)の遊所通いが好きで、梅氏ともども私も何回かお供をしたことがある。 北斗は台北の北方の山麓にある有名な温泉郷だが、実際は食事を供する遊廓のような所で、建物や料理はともかく、義理にも上品な遊び場所とは言い兼ねた。 「新生閣」という数階建ての料亭が有名で、日本人の団体客も多く、そこの箸袋には「・・空に火がつく新生閣にー、おれの闘志がまたおどる・・」という替え歌が印刷してあった。 春をひさぐことも兼ねたホステスたちはみな若く、指名すると待機中の自宅から彼女たちの兄の運転するオートバイに乗せられ、ポンポンとエンジンの音をたてて料亭へ出勤してくるシステムになっていた。 ここのホステスも若くて美人ぞろいで、三十才を過ぎればみな引退するらしかった。 しかし引退した後、そうした女性はいったい何処へ行くのであろうか。 いわば<苦界に身を沈めた遊女たち>だから、その後が悲惨ではなかろうかと私は心配した。

ところが梅氏の解説ではその反対であった。 多くの場合、彼女らの出身は食うや食わずの貧乏百姓である。一生懸命媚びを売って金を貯めている間に、たいてい誰かに見初められる。 <誰か>とは、海外の華僑であることが多い。 海外で懸命に働いてこがねを貯めた華僑たち、その職業は雑貨の小売商であったり中華食堂であったりするが、こがねが出来ると、いままで連れ添い力を合わせて働いてきた中国人の女房たちはきまったように贅沢になり、時として財産分けを求め家を出ていく。 老境に差しかかり女房に逃げられた亭主は、新しい共同生活者を探しに北斗へやって来る。 働き者の若い北斗女性を見つけると、彼女を嫁にしてわが住む異国へ連れて帰る。 亭主は厨房でコックをし、女房はテーブルを拭き皿を洗い、そしてレジに座る。 中華食堂の下働きなどは、貧乏に生まれた若い彼女たちにとっては何でもない仕事である。 夫婦が力を合わせて新しい生活を切り開き、そして成功する。 それは北斗の女性の叶えられ易い夢である。 彼女たちの今の境遇は、決して<苦涯に身を沈めた>のでなく、むしろ希望に胸を躍らせる青春であると梅氏はいう。 事実、彼は東京の赤坂と、パリのモンマルトルで中華料理やのお内儀さんになっている幸せな北斗の女性を見たという。

ある土曜日、�氏と梅氏と、そして私とが新生閣で食事をしていた。 そこでも梅氏は絶対の人気者で、若いホステスたちときゃーきゃー話をしていた。 何故人気があるかというと、彼は若いホステスたちと本気になって、というよりは<むきになって>会話をするのである。 「初老の男が年甲斐もなく・・」と、何度か思った。  しかし彼は言う、「貧乏生まれの若い芸者とはいえ、彼女らには彼女らのプライドがある。 顧客風を吹かせたり、子供扱いしたりすると彼女らは内心で嫌がり、その客に懐かない。 私は彼女らを尊敬し、少なくとも遊んでいる間だけは彼女らを対等に扱う。 彼女らはそれを知っているから、私にたいして親近感を抱くのである」。 さすがに梅氏は苦労人であった。

�氏と梅氏が「明日は日曜だからみんなでドライブしようではないか」と、ホステスたちにいった。 一も二もなく賛成すると思った彼女たちが、「明日は駄目です」という。 聞けば彼女たちは、その翌日は団体で香港のボーリング大会にゆくことになっているとのことであった。 「何と優雅な。それにしても出国と外貨管理の厳しい台湾政府が、よくもまあ彼女たちに外貨やパスポートを渡したものだ」と、不思議に思った。 梅氏の説では、たぶん政府の高官が北斗の常連で、その男が職権でうまく彼女たちの香港行きの手筈を整えたのであろとのことであった。 ところ変われば、変わったことがあるものである。  そして、あれはだから、ボーリングが盛んな頃のことである。

話は変わるが戦前の台湾に多額納税議員が二人いた。 基隆(きーるん)の顔氏と、霧峰(むほう)の林氏である。 顔氏は基隆炭坑を所有し、基隆から野柳・金山に至るまで他人の土を踏まずに歩けるといわれた。戦争中に政府の命令で基隆炭坑の半分を三井炭坑に譲り渡し、その役員も兼ねた。 その末�の顔さんはいま台北の中心部に大きな貸しビルを建て、その七階全部を自分の住宅にしている。半年は台湾に住み、後の半年はロスアンゼルスの家に住んでいるらしい。 すごい金持ちだが、彼に言わせると日本の金持ちには及ばぬという。 しからば誰が日本一の金持ちかと彼に聞くと、「鹿児島の岩崎さんである」と言う。 指宿ジャングル温泉の岩崎さんのことである。 岩崎氏は先年、オーストラリアの東海岸の地所を百万町歩も買って、それがオーストラリアと日本の両国政府で問題になったことがある。 いまテレビで宣伝しているクインスランド州のゴールドコーストという観光地は、岩崎氏の開発地ではなかろうか。 金持ちと金持ち同志は親しいようであった。

もう一人の多額納税議員、林氏は、かって台中平野の西部数千町歩を領有した大地主であった。その末�の女性は台中駅前にパレスホテルを建て、そこに住んでいた。 ある日、私は福新手套廠の何(か)氏に案内されてそこで泊まった。 玄関でチェックインしたが部屋の鍵をくれない。 請求すると、「台中では客に部屋の鍵を渡さぬことになっている」という。 部屋の鍵を客に渡してしまうと、火事や犯罪の折に危険であるからだそうだ。 「日本式旅館だって鍵を掛けないではないか」と言われて、なるほどと思った。 それはいい、しかしその後がおかしなことになった。  ホテルのボーイが夜の女性を世話するという。 「要らない」と答えたが、「恥ずかしがらなくてもいい」と言う。  返事をせずに部屋へ入って、横になり<うとうと>したと思うと、女性がそっと部屋に入ってきた。 これは大変と、かねを少し握らせて追い返したところ、ボーイが現れて「あの女性で気に入らなければ、別の女性を世話する」と言う。 「要らないといったら本当に要らない」と言って断ったが、そのごたごたで、もう夜も遅いのに目が醒めてしまい、蒸し暑くて寝られない。 仕方がないので、大きく音をたてて一〇分間ほどシャワーをとりベッドへ戻ると、何とそこに女性がまた横たわっている。 アッと小さく声をあげた途端に腹が立ってきた。 もういい加減にしてくれと思いつつ、彼女に小銭を渡してお引き取り願ったが、腹の虫が納まらない。

別室の何氏に電話し、「起きてビールでも飲みませんか」と言うと、早速やってきた何氏が「それでは貴方に最もふさわしい女性を紹介する」と、また同じことを言い出す。  「もう結構です」と返事をしたが、彼は「いや、こんどこそ正真正銘、貴方に似つかわしい立派な女性だから、心配するな」と自信ありげに言う。 「その女性は台湾一の大地主、霧峰の林家のお嬢さんでこのホテルのオーナーである。 少し神経衰弱気味で、夜昼なしのような生活をしているから、たぶんこの時間でもロビーの受付に座っているはず」とのことで、むりやり私をエレベーターに乗せ、一階の玄関まで連れていった。

その女性は居た。 誰もいない深夜のフロントに唯一人ぽつねんと座っていた。年の頃は五十才過ぎ、うるんだような大きな目はあらぬ方を眺め、下膨れの豊頬はほんのりと紅がさし象牙いろの皮膚にはまだ残(のこ)んの色香をたたえ、この世のものとも思われぬ風貌であった。 一瞬私は「この人は白痴ではなかろうか」と思った。 年老いた楊貴妃という感じで、おずおずとものを言い「医者をしていた主人が数年前に亡くなり、娘を頼ってアメリカへ行きましたが、程なく帰ってきて今はこのホテルの中に住んでいますの。少し<おつむ>が重く、不眠症で困っていますのよ」と、いかにもゆっくりと、そしてこころ細げに話しかけるのであった。 名にしおう林家の末�、そして台湾最後の<お姫さま>は、深夜のホテルの幽玄の世界にひっそりと座ってい、私をしてしばし中世、唐宋の世界に導きいれた。 <がさつ>な何氏は、「貴方に似合いの女性です」と言ってくれたが、唐詩選の世界は私にとってこの世のものでは無かった。 三十分ほど話をし、そうそうに自室へ引き揚げた。 優雅な言葉つきからして、彼女もたぶん彰化高女出身の一人であったろう。

台北、台中の夜に触れたのだから、台南の夜にも言及しなければ片手落ちである。 しかし私は台南という街をあまり知らない。 わが畏友黄堂慶雲博士は、今は帰化して拙宅の近所に住んでいるが、もともと台南の生まれである。 接着剤の専門家で、「接着の科学」と、「接着とはどういうことか」の二著を岩波新書で出版している。 台南では、南宝樹脂、ヘキスト南宝など数社のほか、広大な南宝ゴルフ場まで経営し、学者と事業家の二足のわらじを履く器用人である。 既に述べたように台南は清時代の旧都で、オランダ植民地の名残りジーランディア保塁や、鄭成功とその日本人の母を祭る延平郡王祠があり、いわば日本に於ける奈良と京都を併せたような町である。 ジーランディア(海陸城)に残る赤い煉瓦はすべて四百年前にバタビヤ(いまのジャカルタ)から送られてきたものである。 <日本恋しや・・>のじゃがたら文で有名なバタビアは、オランダ王室特許の世界最初の巨大な株式会社、オランダ東インド会社の東洋経営の拠点であり、そこにはバター・チーズやぶどう酒から医薬品に至るまで総てが蓄積されていた。 医師フォン・シーボルトも東インド政庁の自然科学調査官としてそこから日本へ来、文政一二年に追放され再びバタビアへ帰ったときには既に哺乳類二〇〇、鳥類九〇〇、魚類七五〇、爬虫類一七〇、無脊椎動物五〇〇〇、植物二〇〇〇種類の標本をそこへ送り届けていた。 台南ジーランディアの赤煉瓦は、今だにバタビアで同じ物が焼かれているという。

十数年まえ、彼に招待されて台南へ行ったことがある。 台南の駅前には台南大飯店という大きなホテルがある。 不思議なことに、彼は台南に帰っても両親の家に帰らず、台南大飯店に宿泊するのを常としていた。 ホテルの最上階は華やかなダンスホールとキャバレーになってい、彼はそこの美しい女性たちと夕食をとるのが慣例であった。 女性たちは台南随一の資産家の御曹子(そのころは彼の父君が健在だった)と食事をするのを喜んだ。 あるとき彼の泊まっているホテルの部屋へ、階上のキャバレーの女性から誘い出しの電話が掛かってきた。「黄先生いらっしゃいますか」という彼女の電話に対して、彼が明らかに「没有在(めいよ つあい)」と答えた。 もともと「居ない」というときには「不在(ぷーつあい)」というべきなのに、なぜ彼が<没有在(居ることがない)>と言ったのか聞いてみた。 すると彼は、中国人でない人が少々おかしな中国語を使っていると見せかけようとするとき、そうした不規則な言葉を使うものであると説明した。 そこで判ったことが一つ。 つまり我々が中国人なまりの日本語として「駄目なことの話よ・・」というような一風変わった冗談言葉を使うことがあるが、それと同じように中国人社会でも標準的でない外国人中国語が存在するのである。 そしてわが黄堂博士はキャバレーのホステス相手にそれを使った会話を楽しんでいたという次第である。

ひと夜、黄堂氏(彼は今でも台湾では黄先生と呼ばれている)に連れられて<ざこば>へ行った。台南の街の中には「ざこば」という、今は懐かしい日本なまえの大衆食堂街がある。 食堂街というよりは<街頭うどん・そばやまち>といった方が適切な通りである。 常夏の町、台南のグルメたちは夕方になると「ざこば」へ繰り出し、名物の<一口皿うどん>を食べるのを楽しみとしている。 夜の「ざこば」はその昔、下駄ばき浴衣姿の台南市民の健全な遊び場所であった。「ざこば」は、たぶん今でも在ると思うし、また、末永く在って欲しいと思う古きよき日の<メルヘン>の世界の名残りである。

少しく台湾の説明に道草を食い過ぎた。 先をいそごう。

一五、 漣たつ厄年の頃

二十数年も前のことになると、もうどれが先にあったことか、ものの後先が判らなくなってしまっている。 あらゆる古記録のない私の人生は<ぼう洋>としていて、記述するのに難しい。 中年の頃の時代意識が特に曖昧である。 しかし、北区梅ガ枝町から東区本町へ移ったのが確か厄年の三年ほど前だったのだけは覚えている。 ニューホンマチビルの隣り組、APS歯科材料会社の原田氏とそこで旧交を復活したが、三才年長の彼がそのころ京都の料亭で<厄除け>祝いをしたのを聞いているから、逆算すると私は四〇才前に本町へ事務所を移したことになる。

そのころに四国の【ダイヤモンド手袋工場】を買収した。 皮革製の輸出向けスキー手袋を造っていた旧知の平賀君という青年が資金に窮して援助を求めてきたので、彼を工場長にしてそっくりそのまま、バイヤーも付いたままで引き取った。 ところが引き取ってみて驚いた。 平賀君という青年がとんでもない男だったのである。 <スカッと爽やかに>ビールを飲む加山雄三とよく似た<おとこまえ>の平賀君は、歯切れのいい標準語を喋り、優しく男らしく、知的センスに溢れた慶応ボーイの典型に見えた。 銀座・有楽町で数軒の喫茶店やレストランを経営していた女性が、亭主と店の総てを捨てて彼に嫁いできたという恋女房と共に四国に移り住みスキー手袋を造っていた彼は、その典雅な容貌といい、チャーミングな話ぶりといいまさに映画に出て来る青年実業家そっくりであった。 なるほどこれなら新しい奥さん(彼はそのために前の奥さんと離婚していた)が惚れるのも、オリンピヤ スポーツのゴンザレスというバイヤーが信頼するのも当然と思えた。 ところが工場を任せてみると話が違っていた。 いやもう大違いであった。

事務所から僅かにガラス扉一枚を隔てた工場内には絶対に入らない、いや入ろうとしない、それでいて外車を乗り回すハイカラ男だったのだ。 工場を経営しながら工場の中に入らない経営者などに物が造れる道理がない。 それでいて麻雀が大好きで、毎晩、工場の職長や倉庫係を集めて麻雀三昧である。 そのうち大阪から送った原料皮革の消費量や在庫数字が常におかしいということが判ってきた。

慌てて四国まで出向き、皮革消費量のチェックをしてみた。 彼らは「大阪から支給してくる皮革の品質が悪いから、手袋のダース当り皮革が沢山要るのだ」と弁明する。 もしそうであれば使用出来なかった屑革が残らねばならない。 しかしその残り革は皆無である。 数日間、白鳥町の眺洋館という料理旅館に泊り込み調査している間に面識のある仲居さんがやってきてこういうことを言った、「お宅の平賀さんが子分たちを連れてきてしょっちゅう居続けマージャンをする。 ひどいときは三日も居続けすることがあるが、それでよく工場の管理ができるものだ。 おまけに、話の口ぶりでは倉庫の皮革を賭けてばくちを打っているようだから用心しなさい」。

佐藤正忠氏を現代の怪物であると言っても彼を知らない人は知らぬ訳だから、ここで少し説明しておく。 「横手から」という有名な作家のエッセイがあるが、その秋田県横手市で、彼は確か昭和四年ごろ土地の郵便局の電信技手の長男として生まれた。 子供の頃、ひどい吃音だったのでそれを直すべく、キケロが海岸の岸壁に立って波に向かい雄弁の稽古をしたのにヒントを得て、雄物川の河岸に立ち荒れ狂う急流を前にして話の練習をし、その傍ら吃音でも出来る職業を目指し書道の稽古に努めた。 だから彼は、現在では書道家としては玄人はだし、それに演説も人並以上のうまさである。 成年に達すると、米一斗を背負って雄物川の渡しをわたり苦学を志して東京に出、明治学院大学の学生となった。

そして大学の演劇部から借りた<つけ髭>と袴を着用し、学費を稼ぐために夜の銀座の街角で易者を始めた。 その初日、ようやく夕闇になったころ一人の若い女性が初めての顧客として彼の前に立った、「明日、私は映画のニューフェイスの試験に応募するのですけれど、合格するでしょうか」。 手相もろくに見ず彼はその女性に答えた「合格しますとも、絶対合格しますよ」。そしてその翌日の同じ時刻、同じ場所へ母を伴って現れた昨夜の彼女は小さな贈物を差しだして言った、「易者さんありがとう、おかげで合格いたしました」。その女性が後に有名になった女優若山セツ子さんであった。  易者をしながら日本中を見学しようと思った彼は、天眼鏡とぜいちくを持って南は鹿児島から北は北海道まで旅を続けた。 流れながれて北海道根室の夜の歓楽街に居たとき可憐な子供三人の旅芸人と知合いになった。それが後日成人して舞台にでた<こまどり姉妹>の幼き日であったと謂う。

旅の易者の経験を綴って出版した「学生易者」という小さな単行本は予想外に売行きがよく、その頃のベストセラーの一部に食い込んで彼は思わぬ金を得るという好運を掴んだ。 それに力を得て日本中の有名人と親しくなることを志し、紹介もコネもなく只飛び込みだけで遂に一五〇人に余る日本中の名士と面識を持つことができた。 その中には一度の申し込みで会えた名士もいれば、百回以上も押し掛けたのちついに会えた水野成夫国策パルプ社長や、夜中に屋敷の中の雪隠(せっちん)の陰に待ち伏せして会うことに成功した故三木武吉氏もいた。

その後、有名な「市村学校」担当の秘書としてリコーの市村氏に雇われ、さらに政財界人の知己を増やすことが出来た。 そして私が知った頃の彼は「フェイス」という大型のグラビヤ雑誌を出版する傍ら、有名人と有名人が知合いになる橋渡しをすることを業としていた。 例えば、日本触媒の故八谷泰造社長が日経新聞のコラムに「佐藤さんという顔の広い人にお茶の千宗室先生を紹介して頂く機会を得た」と書いていたように、彼は知らない間柄の有名人と有名人の顔合せを計画的に斡旋し、それによって彼の出版する「フェイス」誌の大型広告注文などをほぼ自動的に有名人たちから獲得していた。 そのほか、単に特定の個人と個人の間を取り持ちするだけでなく、有名な財界の巨頭などを囲む若手小グループの会合を幾つか主宰し、有名になる以前の有望な若手実業家の発掘をし、それらの人々に感謝されながら自分自身の社会における発言権をも強めていった。

その当時の彼の顔の広さを例えば政界を例にとってみると、佐藤栄作氏があるパーティの席上で「佐藤正忠君は私の落し児であるという説があるが、確かに顔かたちやからだつきが非常に酷似している」という思わせぶりなスピーチをしたことがあるし、三木武夫氏と中曽根康弘氏のどちらもがわざわざ「私は佐藤君の仲人である」と公の席で発言している。 また彼の弟のカメラマン成定君は福田赴夫氏の写真をほぼ独占して撮っていたし、彼自身も、どうしたきっかけか知らぬが渋谷道玄坂にある大平氏の二号さん経営の料亭へ入り浸りという状態で、ことほど左様に歴代首相に近い間柄であった。 日本国内だけでなく、ロバート ケネディ来日の折には小坂徳三郎氏に頼まれて歓迎実行委員会事務局長としてケネディと共に日本全国を旅行しているし、ライシャワーと親しく、トリュード カナダ首相と会い、メンデス豪州首相にも面識を持つという多彩さであった。

財界では岩佐富士銀行、田実三菱銀行頭取から「フェイス」廃刊の折に多額の借金をしたことがあるし、小山五郎三井銀行社長を囲む<大山会>という小グループを主宰してい、そしてそれには私も参加したことがある。 産業界では、新日鉄の永野氏の郷里を訪ね友人の郷峰保氏を永野日商会頭秘書に送り込むなどし、また石原慎太郎氏のために日本鋼管の赤坂氏をスポンサーとして紹介し、自動車業界についていえば日産の川又社長と親交を持つ傍ら豊田英二郎氏とも親しく、さらに東洋工業の松田社長に石原氏を売り込むといったふうに、財界の一流人のほぼ総てを総嘗めにしていた。 さらにそうした社会のみならず学者芸術家とも近く、例えば「徳川家康」の著者山岡荘八先生と将棋の升田幸三八段は常に彼の親代りとして、主だった彼のパーテイに羽織袴姿で出席していた。 財界の大久保彦左衛門として有名であった平凡出版の故岩堀喜之助氏の話では財界の内輪で「佐藤正忠蒙古の黄塵説」というのがあるらしく、その理由は、地位も金も名誉も要らず、したがって敷居の高いことで有名な故小泉信三先生の家へ財界のある人が恐るおそるお伺いしたところ、奥の部屋から聞き慣れた佐藤正忠氏の屈託ない笑い声が聴こえてきた。 少々危険だから入れないでおこうと障子に目張りまでしているのに、気が付くといつの間にか座敷の畳の上に嵩かくなっている<蒙古の黄塵>と彼はそっくりだというのである。

私が彼に連れられていったグループ集会の幾つかを思いだしてみると、まず産経新聞の鹿内社長邸における晩餐会がいちばん印象的であった。 高輪の高級住宅街にあるその邸は木造三階建で、門の呼び鈴を押すとまず印半天を着た老庭師が扉を開けてくれた。 少し歩いて玄関につくとそこに居たジャンパー姿の書生がすぐ奥へ注進し、代わって産経新聞の竹岡秘書役が現れた。 とりあえず竹岡氏に三階のラウンジへ案内され、そこでカクテル酒を頂いてから階段を下りて食堂で夕食となった。 帝国ホテルからボーイが運んできたフルコースの洋食が出、蝶ネクタイのウエイター数人が食事のあいだわれわれの後ろに直立していた。 鹿内氏は着流しの和服姿でどっかとマスターテーブルに座り、その隣には唯一人の女性として氏の奥さんが着席した。 招待されたのは数人だけ、佐藤氏が鹿内氏の隣に座って幹事役となり私の席はその隣であった。 食事が終わりかけるとその場で「これからの日本はどうあるべきか」という格調の高い話が始まった。 テキサス大学を出てきたとかいう中尾栄一氏は「アメリカの小学校の教科書では先ず最初の頁に星条旗の絵が出て国家に対する国民の義務がうたってある。 それに反してわが日本では国家政府の悪口ばかりをいう教師によって教育が行われているという現状を正さねばならぬ」と熱っぽく主張し、そして後年アラビヤ石油社長に就任した水野崇平氏はロンドン大学のラスキー教授の説を持ちだして社会政策を論じ、続けて鹿内御大は「石橋議員の態度はまるでソ連の代理人のようである」と、社会党を批判し、なかなか白熱した発言が次々と続くのであった。 参考までに付け加えると、このときの中尾青年が中尾栄一前経済企画庁長官で、彼もその頃は房々とした髪の毛があった。 会社用の広壮な邸とは謂え、庭番の老人、学生風の書生、それに竹岡秘書役、さらに帝国ホテル派遣のウエイターたちという総て男ばかりによる接待には女々しさのかけらもなく清新な雰囲気が漂い、さらに鹿内氏が隣に同席している夫人の<内助の功>を堂々と感謝したりするので、「なるほど、世の中にはこのように格調の高い家庭を持つ人もいるものだ」と、私は内心羨望の念を禁じ得なかった。 ところが会が終わって門を辞し、まだ感激が醒めやらぬというのに佐藤氏が「あのように上品そうに見えるが、実は鹿内氏には奥さんに内緒の女性が他にいて色々苦労しているらしい」と言ったので、「なんだ、そんなことだったのか」と、一瞬拍子抜けがしたのを覚えている。

それにしても後日佐藤氏から、「鹿内氏が、あの中村という男はなかなか話せる立派な人物だと言っていた」と聞かされたとき、何とはなく嬉しかったものだが、よく考えてみるとそれは、<鹿内学校>入門のご挨拶として佐藤氏が選び私が持参した大きな地球儀の代金、金五万円也に対する鹿内氏からのお礼の言葉の代わりではなかったか、と思えるふしもないではなかった。

もう一つ心に残る会合は<大山会>という名の、そのころまだ副頭取であった三井銀行の小山五郎氏を囲む会合である。 小山氏は、当時既に将来の大物との呼び声が高く、それをより彼を大きくしようという意味で<大山会>と名付けたのであった。 その席で小山氏は、「先ず、ロゴス(理性・主体者)は誰かということだ」と言って企業と銀行の関係を熱心に論じていたが、その<ロゴス>という言葉の意味が私にはとっさに理解出来ず、後になってようやく、聖書の冒頭にある<始めに言葉ありき>という有名な文句の、その<言葉>の原語が<ロゴス>であるということに思い当たって、「ああ、あのとき小山氏が言っていたのはこのロゴスのことであったか」と、思いあたったのであった。 小山氏はその会合のすぐ後に昇格して社長になり、程なく銀行協会会長に就任し、日経新聞のコラムで「久方ぶりに現れた大物銀行会長」と評された。 その会合では、佐藤氏と私のほか誰と誰が出席していたのか殆ど記憶にないが、ひょっとすると森ビルの森泰一郎氏と東急建設の専務の何とかいう人が出席していたのではないかと思う。 いずれにしろ、<ロゴス>という哲学的で、そして香りの高い西欧の言葉を使う財界人を目の当たりにして私はそのアカデミックな文化の感触に酔い、「さすが東京の風土だ」と感激したものである。 その感激は今に至るまで残り、そしてそれは「すきやねん大阪」というような土俗的雰囲気との対比において私の確固たる<東京信仰>と化して現在に続いている。

佐藤氏が私をこうした小グループ会合に何度も連れて行った原因を考えてみるに、それはたぶん、私の<話の接ぎ穂>的能力を彼が期待したのではなかったかと思う。 私のいう<話の接ぎ穂>的能力というのはつまりこういうことだ。  私は自分でも不思議なくらい当為即妙に会話の途絶えたときにすぐ然るべき話題を出すとか、あるいは相手の話に適当な理論的<あいずち>を入れるという能力があり、それは会合の途中でよくある<何とはなしに話が途切れた白けムード>のときに座を盛りたてる役目を果たすことになるのである。 言い替えれば、私のような人間が一人混じっておれば、そのグループ談話がわりあいスムースに継続され、主催者も安心してそうした会合を持てるということを佐藤氏がよく知っていて、そのために私を利用しようとしたのであろう。極端な言い方をすれば、私はいわば<高級たいこもち>であった訳だが、それはそれなりにこちらも楽しませてもらったのだから不服をいうべき筋合いものではない。

私の<話の継ぎ穂>能力に依存するのみでなく、佐藤氏自身もまたたぐい稀な<聞き上手>であった。 たしか小田急の安藤楢六会長を囲む会合のときだったと思うが、安藤氏が経済と民生のバランスについて相当理屈っぽい自説を述べておられた途中のことである。 佐藤氏が「ちょっと待って・」と言うやいなやポケットから大きな手帳を取り出し、「うん、いい話だ、実にいい話だ。それから、うんそれから」と言いながら安藤氏の話をメモし始めた。 こうなると当の安藤氏もなお熱が入って来る。 しかし側でお相伴している私たちにとっては、それは些かおもねりが過ぎるように見えて楽しくない。 会が終わって外へ出たとき彼に聞いてみた、「なぜそんなに熱心にメモをとったのか」と。 すると彼は答えた、「会社の第一線を退いたお爺ぃちゃんというのは話を聞いて貰いたくて、もらいたくてしようがないものだ。 それを聞いてやれば功徳になるし、そのうえ間違いなくお金にもなる。 特に私は「フェイス」という雑誌を出版していてその記事にもなるから、心を込めて聞いているということを示すと共に併せて雑誌記事のネタを記録しているのである」。 なるほどその通りで、あれだけ熱心にメモまでとって聞いてくれれば、社費でその人の雑誌に一頁広告を出す気持ちになるのは当然であろう。

彼、佐藤氏が有名人をかき集める方法についてその手段をいちど垣間みたことがある。 三井不動産の江戸秀雄会長のお嬢さんで京子さんという歌手が小沢征爾と離婚して帰国してきたときのことである。 江戸氏も心配しているし気の毒な女性だから<江戸京子後援会>をつくって援助してあげたいということで佐藤氏が立派な色刷り表紙をつけた分厚い後援会名簿を印刷した。 それには千人もの有名人の名が並んでおり、たしか会長副会長は例に依って山岡荘八、升田幸三になっていたと思う。 頁をめくっていくと私の名もいつのまにか挿入されていた。おまけに大ホールを借りた<江戸京子リサイタル>の予定表まで印刷されているという手回しのよさであった。 「これは立派な後援会だ、処でこの発会式を兼ねたリサイタルは本当にやるのか」と聞くと、「実はそれがうまくいかない。 肝心の江戸氏が、娘のことは暫くそっとして置いてやってくれといううので、折角後援会を作ったが当分の間は開店休業だ」と佐藤氏はいう。 何のことはない、佐藤氏にかかると朝野の名士を連ねた後援会などは印刷屋の仕事だけで出来あがり、事前にその人たちの了解を取り付ける必要もないというのが政財界のしきたりらしかった。 だからこそ、あるいかがわしい団体が後日に問題を起こしたとき「そのような団体の役員になっているのを知らなかった」というような言い訳をする有名人が多いが、それは表面上知らぬふりをしながら内実は喜んで黙認しているからなのである。 言い方を換えれば、彼ら名士たちは余程立派な団体でない限り最初は積極的に参加せず、その団体が社会に認められてもう安心という頃になって初めてその構成員であることを誇示し、もし反対の場合は「勝手に名前を使われた」と言って逃げるのである。 だからこうした先行きあやふやな団体から、「名を連ねさせてもらうがよいか」などと正面切って了解を取りにこられてはかえって都合がわるいわけである こうした露骨で不明朗な東京政財界のしきたりは、地方で生活している私たち庶民にとっては<たぶん、そのようなこともあるのではないか>とうすうす推察しているものの、内心はで<それほどひどくはなかろう>と好意的解釈をするのが常であるが、事実は想像以上に徹底してい、そして佐藤氏はそうした習慣を逆手にとって彼の武器としていたのである。

まあそれはそれで佐藤氏や政財界のお偉方がみんなに都合のいい便法として慣習化していらっしゃるのだから、わざわざ外野から怪しからぬといってけちを付けるほどでもない。 ただ、佐藤氏がそうした有名人にまさに<歯の浮く>ような見え透いたお世辞を言うのに対して、彼ら名士たちが何の恥ずかし気もなく悦に入っている、その心境が私には解り難かった。 佐藤氏の秘書をしていた聡明な今井夫人などは「うちの社長ほど腹の黒い人はめったに居ないと思いますが、それがどうしてあのそうそうたる名士の方々には解らないのでしょう」と、つねずね漏らしていた。 耳に快いことを言って貰えば楽しいのは人間誰でも同じだが、だからといってあれほどの名士諸先生方がなぜ易々諾々として佐藤氏の掌のひらの上に乗るのかは、今から考えてみても不思議な程であった。

ところでここ十五年ほどの間に、<なになにを何とかする会>というような長ったらしい会合やパーティの名称が随分増えている。 もともとこうした長い名前は佐藤正忠氏の発明のようなもので、例えば彼が選挙に立候補する直前の東急ホテルにおける集会は「佐藤正忠に活をいれる会」、石原慎太郎氏の当選祝賀会は「石原慎太郎君に注文する会」というような仕掛けである。 ずっと後日、彼とあまり親しくなくなってからのことであるが、新聞に「紀元節を考える会大行進」という催しが報道されていた。 どうもこの長い名前には佐藤氏の匂いがすると思いながら更に続けて記事を読んでいると、果たせるかなその代表メンバーは黛敏郎、山岡荘八、升田幸三となっていた。黛氏もまた佐藤正忠氏の掌のうちの一人であった。 要するに佐藤正忠氏が画策したパーテイにはいつもこうした長いタイトルがつくのである。

以上でもって佐藤氏という<現代の怪物>のプロフィルをほぼ説明したと思うが、その佐藤氏があるときこういうことを言い出した、「中村さん東北へ講演旅行に行きませんか」。 「実は作家の石原慎太郎氏が選挙に打って出たいというのであちこちその筋に紹介し、話もほぼ固まってきた。 そして都合で私自身も出馬してみたいと思い立ったので、二人揃って私の故郷秋田県と、大蔵省の近藤鉄夫君の地盤である山形県へ『文化大講演会』と銘打って石原氏を看板にした講演会を持って回ることにした。 ところが石原氏はもとより私も将来の立候補者だから、いわば講演会では前座でなく真打ちでなければならない。 ところが聴衆がまだ半分くらいしか入場していない頃に始める前座の講師に適当な人が見あたらない。 地元の市会議員や県会議員にいい加減な話をさせると、折角の文化大講演会の初印象が悪くなるので困っている。 貴方が前座を引き受けてくれぬだろうか」、というのが佐藤氏の私に対する申し出であった。 さらに詳しく聞いてみると、佐藤氏を頼って「選挙に出馬したい」といって現れた石原慎太郎氏を既に財界の渉外部長藤井丙午に紹介し、藤井氏の示唆で佐藤栄作に会わせたところ「稀にみる立派な青年だ」と惚れ込まれ、その佐藤栄作の指図で二人揃って日本鋼管の赤坂武社長に面会し、日本鋼管からの軍資金援助も既に確約して貰っているとのことである。 推薦母胎としては、砂上の楼閣ながら「日本の若い世代の会」というのを彼らの仲間うちででっちあげ、選挙の準備はほぼ出来上がっているという状態であった。 もともと佐藤正忠氏は別に「新宗連新報」とかいう新興宗教団体の横の連絡報のようなものを発行してい、それを介して「巷の神々」という宗教に関する著書を執筆した作家の石原慎太郎氏と親しかったのである。 だから、かって産経新聞に連載された「巷の神々」の中の<おどる宗教北村さよ>さんの記事に<辣腕の少壮実業家S氏>という名で佐藤正忠氏が出てきたこともある二人の仲であった。 その作家、石原氏が「この日本を何とかしなければいけない、私はそのために選挙に打って出たい」と言って佐藤正忠氏にその手引を頼みに来たのが、今回のそもそもの始まりらしい。 そして一橋で石原氏の学友であった近藤鉄夫氏も、湯沢の税務署長をしていた折のその付近の酒屋の旦那衆を後ろ楯にして山形県から立候補することに腹を決め、大蔵省を退官して「日本の若い世代の会」の名のもとに石原氏と行動を共にすることになり、<それなら私も>とばかり佐藤氏も名乗りを挙げたのであった。 この近藤氏も最初の選挙二度ばかりは苦杯を嘗めたものの、二〇年の後にはめでたく河本派の領袖として経済企画庁長官に就任したことは周知の通りである。

佐藤氏の依頼に応じて私も彼の故郷秋田県横手市へ行き、そこで石原慎太郎氏一行と落合い、いよいよ「文化大講演会」の始まりとなった。 私はせいぜい一週間くらいしか会社を空けられぬので秋田県の巡業だけつき合うことにして、場所は大曲(おおまがり)横手、本荘、由利、それにうまくいけば角館(かくのだて)も加えて、それぞれ土地の公会堂か学校の講堂を借りた講演会に参加した。 暮れやすい秋の日の東北はどことなくうらぶれて活気が無い。 最大の横手市でも人口は僅か五万人たらず、本荘と由利の間などは国道とは謂え車も通り難い数十キロの山道に隔てられた過疎地帯である。 先ず地元の横手の市民ホールであったか学校の講堂であったか忘れたがそこで二日続けての文化大講演会が始まった。 街にはそのポスターや立て看板が賑やかに並び、夕暮れ時には会場へどっと聴衆がおしよせた。 私が前座を勤める頃にはもう八〇%以上も席が塞がり、これはさい先がいいぞと我々を喜ばせた。 何を話したのか殆ど忘れてしまったがとにかく私は、すぐ後で出演する佐藤氏と石原氏を持ち上げるような話をし、それが終わった時には予期以上の拍手があり、俺もなかなかいけそうだと内心ほっとしたものである。 佐藤氏は「努力は天才に勝る」という演題で、吃りを直すために雄物川の水に向かって演説の稽古をしたことや、米一斗を背負って東京へ出、いまでは朝野の名士数百人と親交を持つに至った立身出世�を語って地元の聴衆に感銘を与えた。 石原慎太郎氏は「今や新しい時代の流れが�々として日本に押し寄せてきている。この流れに従ってわれわれは立ち上がろうではないか」というようなことを彼一流の口調でまくしたて、大半が若い人たちであった聴衆はその美文に酔って会場を揺るがすような大拍手となった。

ところが、初日の成功に気をよくして私たちが夜遅く宿舎へ帰りつくと、「あれではさっぱり駄目だ」と水をさした男がいた。 われわれの講演会を観戦に来ていた政治広報センターという会社の宮川隆義社長であった。 「本来こうした講演会の目的は選挙運動のための後援会員を集めることである。もっと簡単にいえば、今日の入場者をそのまま後援会員にしてしまうのが講演会を開催する目的である筈だ。 しかし今日のようなやり方では誰が入場したか判らない。 いわば軍資金の浪費に過ぎぬ」と、選挙プロである宮川氏が酷評する。 選挙にずぶの素人の佐藤氏と石原氏が「なるほどそういうことであったか」と感心し、「それではどのようにして来会者の名簿を作るのか」と聞いたところ、「会場の入口に係員とノートを置き、入場するときに名前と住所を記入させるのである」とのこと。

早速文房具やでノートを数冊買って来、翌日の講演会では受付にそれを置いて参会者に住所氏名の記入を求めることにした。 しかしこれは失敗してしまった。 僅か三〇分ほどの間に千人もの人がどっと入場するので、一人が氏名を記入している間に側を通って数人が入場してしまう。計算してみると一割ほどの人の住所氏名しか記入されていない。 それを宮川氏がまたけなす、「入り口の幅が広すぎたのだ。一人しか通れない狭い通路にして、そうした入り口を沢山作るべきだった」。 「それならそうと最初から指導してくれればいいのに、後になって言うとは薄情だ」と非難すると、「私はプロの選挙屋だから、そうしたノーハウには代価を伴う。ところが貴方がたは私との間の顧問契約を渋っているではないか」と宮川氏が言い、それには我々も返事のしようがなかった。

そこで翌日の大曲市における講演会では宮川氏の言うとおり沢山の狭い入口を設け、今度はうまくほぼ入場者全員の住所氏名を確保することが出来た。 にも拘らず宮川氏がまた「その入場者名簿は役に立たない」とケチをつける。 「年齢が記入されていないので選挙権のない子供の名前を後援者名簿から除去することができない。 これからいろいろな後援会活動の案内書を送るのに子供が混じっていては話にならぬ」ということだ。 腹が立つやら情けないやらで、佐藤氏に「宮川社長と契約したらどうか」と言ってみたが、「顧問料がべらぼうに高いのでもう少し見合わせて置く」とのことであった。

横手、大曲、本荘と泊まりがけで巡回すると、必ず土地の有力者が接待してくれる。 数日間、朝昼晩と三食とも判で捺したように二の膳三の膳付きの豪勢な<しょっつる鍋>である。 始めの一、二度はそれでも美味しそうに戴いたが、後はもういけない、見ただけでも嫌になる。 しかし相手は将来の大切な後援会の有力者たちであるから不愉快な顔は出来ない。 石原氏の秘書の山本という人が私の顔を見て「いちどビフテキを食べたいですね」と言ったときは私も真剣な顔をしてあいずちを打ったものである。  彼は逗子の旅館の息子で、石原氏とは一橋で同級だったそうで、後年、「あの太陽族はいまどうなったか」というグラビヤ雑誌の記事の中では、この山本さんが石原裕次郎たちのいわゆる<太陽族>の総大将であったそうだ。 念のためロータリーの全国名簿を繰ると、昭和五六年度の逗子ロータリー会長に山本淳正という人の名が出ているが、たしかこの人がその山本さんであったと思う。

山本さんはおおぜいの人の前では石原慎太郎氏を<先生>と呼んですこぶる丁重に扱っていた。ところがある日、ひと気の少ない夜行列車の中で石原先生がかじかみながら小さい声で「寒い、網棚にあるオーバーを取ってくれ」といった。すると彼は「もういい加減にしろ、ここでは誰も見ていないからそのくらいな物は自分で取れ」と、たしなめていた。 さすがに一橋のクラスメート同士であった。 その<鳥海>と名付けられた急行列車に食堂車があることを知ったとたん山本秘書は、生き生きとした声で私に「ビフテキを食べに行きましょう」と言った。 毎日の豪華なしょっつる鍋に彼は余程あきあきしていたのだろう。 それにこの急行列車の中で、私はもう一つ印象に残る会話を聞いた。それは選挙プロの宮川隆義氏が東京都会議員二人を石原氏に売りつけていたことである。 前に述べたように宮川氏は「政治広報センター」という選挙請負会社の社長であったが、彼は車中で石原氏の隣に座るやいなや「石原さん、貴方と大松と今東光の三人は今度の選挙で落選することになっているのをご存じですか」と切り出した。 ぎょとして石原氏が「ええっ、本当ですか」と聞き返すと、「今度の選挙では貴方とバレーボールの大松と今東光がそれぞれ五〇万票程度の得票で、当落線上すれすれにあることは我々選挙プロの間では定説になっていますよ。それでも気にならぬのですか」と、宮川氏がいう。

そのころベトナム旅行で肝臓ジストマにやられ少々やつれていた石原氏が、途端になお顔色を蒼くし、「宮川さん、どうしたらいいでしょうか」と心細そうに聞いた。 私は食堂車へ移ったのでその後どのような会話が交わされたか聞かなかったが、翌日、宮川氏が「結局、石原氏に一人二百万円の約束で都会議員二人を売りつけた」と言っていたから、石原氏を気弱にさせたうえ、都会議員を彼の子分として売り込んだらしい。 「なるほど、宮川氏の商売はそれだったか」と、私はそのとき感心したものである。 ところがあにはからんや、その後の参議院議員選挙で石原慎太郎氏が三〇〇万票という有史以来例の無い大量の票を得たことはいまなお人口に<かいしゃ>している通りである。 アメリカ式選挙学の大先生と自称する宮川氏が如何にいい加減な八卦を見るかということを、そのとき私は如実に知ったのである。 ところが、その宮川隆義氏が過日の海部総裁選出のとき、毎日のようにテレビに数回も<政治評論家>として登場し、面(つら)の皮も熱く政治の先行きを予測していたのには驚かされた。 そしてその肩書は二〇年前と同じく「政治広報センター社長」であったから、いまなおその方面で<当たるも八卦、当たらぬも八卦>を商売にして活躍しているらしい。

宮川氏が自ら説明した処に依れば、もともと彼は小説家になる前の故梶山季之と組んで週刊誌のトップ屋をしていたが、政治関係を専門に追っている間に選挙そのものが面白くなり、アメリカの選挙活動を見学してその手法を持ち帰り、そしてそれを商売にして、野党の松野幸靖候補を逆転当選させて岐阜県知事にしたのが<選挙請負屋>としての彼の商売の始まりであるとのことであった。 候補者個人の名前を黒色で印刷するだけの選挙ポスターからアメリカ並に候補者の顔を色刷りで入れるように変えたり、古めかしい提灯を下げるだけでなく簡易ネオンサインの華やかな看板を選挙事務所の前に掲げたりするのは、彼がアメリカから持ち帰った手法であると自慢していた。選挙カーに乗るのも男だけでなく、新劇の女優たちを動員して楽しいムードにするという新しい選挙戦も、彼がアメリカから持ち帰るまでは誰もやっていなかったそうである。

「中村さん、貴方も一つ選挙に立候補しませんか」というので、「いったい幾らあれば当選するでしょうか」と参考までに聞いた処、「年齢が三〇代、四〇代、五〇代と代が換わる毎に一万票、それに故郷があるかないかで一万票ほど票数が違います。貴方の場合はもう四〇代ですが、姫路という故郷がありますから合計しめて五千万円位でいける筈です。 ただしその内の一千万円は子分の県会議員一人か二人を選挙違反で占領下の沖縄へ逃亡させる費用になります」と、なかなか明快な返事であった。 会社を閉めてしまえばその程度の金は何とかなると思ったが、結局の処、私の優柔不断でそれを決断するまでには至らなかった。  もしそのとき思い切っていたならば、河本派の近藤鉄雄氏や、青藍会の中尾栄一氏のように大臣になっていたかも知れぬし、そうはいかなくても西武の森田重郎参議院議員やクラウンレコードの有田寿一議員くらいにはなっていたであろう。なぜなら彼らは総てその時の我々の仲間であったから。

「文化大講演会」での石原慎太郎氏の講演は、その折、かれこれ一〇回以上も楽屋から聞いていたので、<さわり>の部分は今でも記憶している。 「ーーかの五・一五、二・二六事件の青年将校たちは、それが例え否定的な意味においても日本の歴史をつくることに貢献し得た。しかるに現代の青年は何をしているのだーー。 「ーー日露の風雲急を告げたときロシヤ駐在武官であった軍神広瀬武夫は故国の難に赴くべく、恋人であったロシヤ貴族海軍中将の娘と別れて決然として日本へ帰り、旅順港で戦死したーー」 「ーー私だって決然として故国に帰ったことがある。若い頃、オートバイに乗って南米ペルーのパンパスの草原をひとり旅したことがある。 そのときある若い美人が私に恋をした。 彼女の名はカルメン・マリヤ・テレサ。カルメンは泥棒だ、そしてマリヤテレサは女王さまの名だ。泥棒と女王さまの名を持った美人の彼女は言った『私の父はペルーでいちばんの大地主だ、もし貴方が私と結婚してこの国に残れば貴方はこの国一の大金持ちだ。大統領になることも夢ではない。ミスターシンタロー、どうか貴方はこの国に残ってくれ』。 しかし私は決然として日本に帰ってきた。 あの広瀬中佐のように決然として帰ってきたのだーー」

彼、石原慎太郎氏がこういうと、若い聴衆はうっとりとしてそれを聞き、彼の言葉に酔うのであった。 それはまるで言葉の魔術ともいえた。 <それが例え否定的な意味に於いても>日本の歴史をつくることに貢献し得た・・、というのは、どうやら<うまくはいかなかったものの>という意味らしかったが、「そのような難解な言葉は聴衆にとって理解し難いだろうから、もっと易しい言葉に換えたら」と楽屋で彼に示唆してみたが、「若い聴衆を言葉で酔わせるだけだから、意味は判らなくてもいい」と彼が返事したのには<なるほど>と感心させられた。 また、時間の都合で講演を短くする必要があるときには、楽屋で秘書の山本さん相手に「それではカルメン・マリヤ・テレサを省略しようか、それとも広瀬武夫を省略しようか・」などと打ち合せをしていたが、肝心の聴衆の方は、そのような講演の中の冗談に類する部分はいわば彼の当為即妙のアドリブだと解釈し、始めから意識的に仕組まれた<既製品>であるとは思ってもいなかったようである。

それにもう一つ、彼の講演の中に「もし現在の日本のように原子力を恐れるあまり成田空港の建設にあくまで反対していたならば、将来、北京が国際空港になり東京はローカル空港に格落ちしかねない」という部分があった。 それを夕食の席で、「原子力とジェット飛行機と国際空港の話はかけ離れていて相互整合性が少ないのではないか」と注意を喚起してみたが、慎太郎氏も佐藤正忠氏も「まあ、話というのは七〇%も合っていれば誰もわざわざ異議を唱えてこないから心配いらぬ」という。 彼らの説によれば、学者、政治家、評論家などは自分の商売仇きのことについては、それがよほど酷くない限り間違いを指摘しないものだそうで、なぜなら、もし自分が他から間違いを指摘されたら困るから、<商売は相身互い>でお互いに遠慮しあうので、そう神経質になるほどのことはないとのことであった。 聞き手である大衆が理解できぬと判っている言葉をわざと使ったり、少々あやふやな内容をさも自信あり気に吹聴するのは政治家社会の常習であると、私はこのとき初めて知ったのであった。

ところで何故石原慎太郎氏におおぜいの大衆がなびくのか、いや大衆のみでなく、故佐藤栄作総理から最近では彼の自民党総裁選に投票した五〇人もの国会議員たちまで、なぜそんなに多くの人々が彼を支持するのであろうか。  かってある週刊誌の記者が「大衆を馬鹿にしながら、その馬鹿な大衆に依って支持されている石原慎太郎」と表現していたが、その秘密を私は彼との数日間の旅行でほぼ知り得たといえる。 先ず、彼の体つきである。大柄で肩幅が広く、その<格好よさ>は日本人というよりは<西洋人>に近い。 いや西洋人よりも、より西洋人らしい。 実に堂々としてスマートなのだ。 次に言葉である。彼が如何に乱暴な<べらんめぃ>を喋ったとしても、尚、私たちの丁寧語よりも明析かつ優雅である。 しゃきっとして歯切れのいい標準語、それは既に述べたようにわが社のかっての社員、平賀君の特技であり、そしてそれによって平賀君は銀座でレストランを数軒も経営していた賢い女性を二度目のワイフとして射止めたのであったが、石原慎太郎氏の言葉もそれ以上に、あくまで典雅で知性に溢れ、そのうえ男らしかった。 当然のこと、立居振舞いも上品ですっきりしていて、どこの貴族の末�であろうかと思う程であった。 

ishiharaKen Nakamura and Mrs.Ishihara

こうしたことに就いては、必ずしも生まれつきというだけにとどまらず、彼自身が日常から充分気を付けていたとも考えられる。 その証拠に、旅行中見ていると彼はいつも白い靴下と黒い靴しか履かなかった。 鞄の中を覗いても靴下は真っ白いものだけだった。 終生、白足袋しか履かなかった故吉田首相と同じことを彼は意識して実行していたのである。  <なるほど、そういう仕掛か・>と合点のいった私は、そののち彼の真似をして白い靴下しか履かぬことにした。 たぶん一五年もそれを続けたと思うが、なにさま<白い靴下>は靴墨の黒や茶色が付着し易くて、目の醒めるような白色を留めておくのが難しい。 そしてそういう訳で、現在ではもう<白い靴下>は止めている。 しかし、石原慎太郎氏はたぶん今でも純白の靴下しか履いていないだろう。 黒い服に真っ白い靴下を常用していて、肩幅は広く足は長い、それに知性が溢れていて弁舌爽やかな紳士ということになれば、いかに自信過剰な有名人であろうとも、内心では、彼に<お近づきになりたい>と思うのは当然であろう。 そしてそういった比較的単純な理由で、石原氏の人気はいまなお想像以上に高い。 うらやましい次第である。

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