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巴里祭の男 (五) 雑貨貿易顛末→ハワイ・アメリカ→帰国

前回の後半は、私が若き日に親しくした数人の紳士方、即ち、女優桃井香織の父桃井真、移民法の乾精末博士、それに奇人山本象之助氏の三人について記述した。 後、もう一人だけ、その頃親しかった人の話を追加しておく。 それは大陸から亡命し、東京に住んでいた柳 澤民氏である。

柳 澤民(りゅう・たくみん)】先生の話を始める前に、まず、私と先生の<慣れ染め>のいきさつを説明しなければならない。 それは少々長話しになるが辛抱されたい。

昭和二十七年の夏と記憶している。 日比谷三信ビルのAAR社へ、乾博士を訪れてきた一人の外人がいた。 立派な口髭を生やした背の低い中年男で、名をレリオと名乗った。 自称するところによれば香港在住のポルトガル人である。 用件は、神戸港に押収されている密輸貨物を香港に送り還すべく税関に掛合にきた、と言う。 初めての日本訪問で勝手が判らぬ、取り合えず今夜の宿を世話して欲しいとのことで、乾博士が親戚の金森旅館を紹介した。 前にも述べた通り金森旅館は虎ノ門の放送会館のすぐ裏にあり、大蔵省関係の常宿になっていた。

ところが、レリオ氏と乾 博士がその翌朝、早速なにか軽い口争いをしていた。 何事ならんと、割り込んで聞いてみた。レリオ氏が言うには、「枕一つ増えただけで千円も余計に宿泊代を取るとはけしからぬ」とのこと。 乾博士は、「金森旅館側では、一人だけ宿泊すると言っておきながら実際には二人泊まったので、二人分の料金を請求すると言っている」と説明しているのだが、レリオ氏は<オンリーワン ピロウ>、つまり<たかが枕一つ>増えただけで千円も追加料金をとるというのはけしからぬ、と文句を言っているのであった。 どうやら、レリオ氏は日本到着初夜、早くも夜の女を旅館へ連れ込んだらしい。 たいてい恥ずかしい話であるのに、そのことは棚にあげ、堂々と宿泊料金を値切っている外人を目の前にして、私は、これから先、貿易商を始めるに当たって、これはなかなか大変な仕事だぞと思った。

そのレリオ氏のあとを追いかけて、また一人香港からやって来た。 ウィリアム徐(しゅう)と名乗ったその男は、小柄ながら色白で、普通の人間とは思えない程上品な風貌をしていた。我々はこの男に「有栖川宮の落胤」というニックネームを付けた。 レリオに神戸税関との交渉を頼んだが、結果がはかばかしくないので、自ら貨物返還を日本政府に掛け合うべくやってきたとの事であった。

彼も最初は乾 博士を頼って来たらしいが、途中で相談相手を替え、一見して身分ありげな在日中国人を連れてきた。 その人が柳 澤民先生であった。 柳先生は格調の高いオーソドックスな英語と、文法的な日本語を話す長身の老人で、私とすぐ親しくなった。

神戸港で押収されている貨物というのは、終戦後すぐに、密輸すべく香港から米軍の軍用船に積載して神戸港へ到着した、大きな木箱四十五個にのぼる大量の内容不明商品であったが、それは色々と紆余曲折を経た後、香港へ送り返された。 この返還交渉のため、私も頼まれて、何回か神戸税関審理部という所へ足を運んだが、結局、一文の儲けにもならなかった。

しかし、その仕事が終わった後、柳 澤民先生と非常に親しくなり、共に手を携えて貿易業をする事になったので、先生からいろいろ有益な話を聞く機会を得、私の人生にとって充分プラスになった。

先生はその頃、銀座東八丁目のポリドールビルにあった啓明交易という会社に居候していた。啓明交易というのは、昭和二十年・三十年代には比較的著名な会社であったから、まだ記憶されている方も多いと思うが、当時の富士、八幡両製鉄が<開らん炭>と<大冶鉱山の鉄鉱石>の輸入を再開すべく、戦前、三井物産の鉱石部長か何かをしていた香川峻一郎氏を社長にして創立した共産圏貿易専門の大手商社であった。

ところが、富士、八幡両社の期待に反し、共産党による新生中国は門戸を閉ざし、日本との国交および通商を拒否し続けて来、そのため啓明交易も開店休業の状態であった。そうした政治経済環境の折、啓明交易は人を介して、当時日本に政治亡命中であった柳澤民先生に近ずき、どうすれば開らん炭、大冶鉄鉱石が買えるだろうかと相談を掛けてきた。

出国以来ずっと故国の政変を観測し続けてきた先生は、その頃、もうそろそろ共産政府が態度を和らげて日本との通商に踏み切らざるを得ぬ頃だと判断し、もしそれが裏目に出れば先生自身が再び故国で獄につながれる可能性も充分覚悟の上で、啓明交易の香川社長を連れ香港経由で北京入りをした。 

ところが、虞れは一遍にふっとんでしまった。 予想外の大歓迎を受け、<開らん炭>の長期買付け契約を済ませ二人は意気ようようと日本へ帰ってきた。このことは当時、相当大きな新聞のニュース種になった。 そうした<いきさつ>から、私が面識を得た頃の先生は銀座の啓明交易に居候して、自分でも対中国貿易を始めようとしていたのである。

啓明公益の香川氏と柳先生の北京入りを手引したのは香港の泰安航運公司という当時共産中国の唯一の窓口であった海運会社である。 社長の羅宋強という人が周恩来と非常に親しく、アメリカが強要して実施したいわゆる「対中共禁輸」で完全に外との連絡を絶たれ、また自らも「完全孤立」政策を採った共産政府の、たった一つの細々とした海上輸送ルートが泰安航運公司であった。香港に本社を置く泰安公司はサンホセ、モルドバ、サンエレネストの三船を運航して、共産中国政府の必要最小限の輸出入物資を上海、青島、天津の港で出し入れしていた。

実は私も偶然の機会から、このアメリカによる「対中共禁輸」制裁の現場に行き合わせたことがある。 それは確か昭和二十六年の秋ではなかったかと思う。 大阪港第三突堤、杉村倉庫の岸壁に係留されたサンホセ、モルドバの二船が八幡製鉄の鋼材を満載して今まさに出航しようとした時、突然、進駐軍兵士数名がやってき、両船の甲板に駆け上がってピストルを突きつけ、全積荷の荷降ろしを命じたことがあった。 偶然、岸壁に居た私は、何の事かさっぱり判らず、唯あっけにとられていたことを記憶している。これが世界貿易史上で有名な「対中共禁輸」の始まりであったことを後日知った。

その折のサンホセ、モルドバの船会社が、数年後、私が柳先生を通じて幾ばくかの関係を持つことになった泰安航運公司であったのだ。泰安航運公司は海運業のみならず、中共政府との特別の関係を利用して対中共貿易も始めるべく、香港の本社内に泰安貿易公司というミニ会社を設立した。香港側の実務担当者は陳建衡(国建)という早稲田出身で、大戦中は南京政府の米統会々長、つまり日本の食糧営団に該当する政府の要職に在った人で、その人の親友である柳澤民先生が、泰安貿易公司東京駐在員という仕掛けになっていた。

それは、その少し前から、僅かながら余剰農産物などの輸出に踏み切っていた中共政府が、日本などの特定商社と取引を開始してい、だいぶ商売の可能性が出来てきたからである。

柳先生は私に、共同で泰安貿易公司の日本に於ける代理業務をしようではないかと持ちかけ、私もそれは望むところであった。そうしたある日、突然、柳先生が下阪してきた。 数日後に大阪港に到着するサンホセ号に<綿実(わたのみ)>が千六百五十トン載っている。 千四百トンは中国土産公司から安宅産業への積荷であるが、残りの二百五十トンは泰安公司の荷物で売り先はまだ決まってない。  綿実はサラダ油の原料である。安宅産業が千四百トンも買ったのだから、もう二百五十トンくらいは日本で売れるだろう、という泰安の<見込み買い>商品である。 それを我々が大阪で売りさばこうではないか、というのが柳先生下阪の理由であった。

安宅産業へ売り込むのが手っとり早いと考え、先生のお供をして安宅へ行った。 しかし、安宅の担当者は「あの綿実は、油分が十五パーセントあるという中国農産研験局の証明書付だったが、実際には十二パーセントしかないらしいので、困っている。 だから、これ以上買う訳にはいかぬ」と言う。

どこか他の食用油メーカーを当たってみようということになり、先ず、比較的著名な摂津製油という会社へ売り込みに行ったところ、その会社は安宅産業の管理下にあり、一緒に積んでくる筈の安宅の千四百トンもそこへ納入されることになってい、今、含油量不足の件で安宅と係争中なので、それ以上は買えぬとのことであった。

もう一社、吉原製油という大手サラダ油メーカーがあり、買ってくれるかも知れぬとのことであったが、この話も不調に終わった。 吉原製油は、当時、洋画家として名のあった吉原治良氏の父君の所有であったが、実務は私のパートナー山本象之助氏の大阪高商時代の同級生だった八頭司(やとうじ)専務が切り回していた。 だから、たぶん買ってくれるであろうと期待していたが、ここも同じく含油量の問題で商談が折れ合わなかった。

船は、もう明日神戸港に入る予定になっているのに、商品の売り先はまだ見つからぬ。 二百五十トンの荷物を神戸の保税上屋に保管すれば倉庫料も嵩むから、積んで来た船でそのまま送り返そう、ということになった。念のために、泰安航運公司の代理店をしている神戸の大同海運へ出向き、サンホセ号が神戸寄港後どこへ行くのか調べたところ、神戸港で積荷の綿実を降ろし次第すぐ北海道の小樽へ行き、そこで荷役を終えるとニュージランドへ直行する予定になっていた。

そうなると、我々の綿実二百五十トンは同じ船で出航地へ返送する訳にはいかない。さあ困った、どうすべきかと考えていたとき、彼、柳先生は香港の泰安公司に電報を打つという。電文は「どうしても買い手が見つからぬ。積み戻そう。さもなければ大きな損失を被る」といういささか手厳しい内容であった。まだ時間をかけて探せば客が見つかるかも知れぬし、第一、神戸港の保管料もまだ幾らかはっきり調べていない。おまけに、本船、サンホセ号は小樽からニュージランドへ向かうので、もとの青島(チンタオ)へ帰らないのは明白である。

にも拘らず、柳先生は「積み返したい」と電報を打った。 それは軽率であり、不可解な行動であった。 ところが先生は釈明した、「私はもともと外交官である。 外交交渉の要諦は、先ず最悪の状態を相手に想定させ、その後で、こちらの努力によってそうした最悪の状態を回避させることが出来た、という印象を相手に与えれば、後日、相手が感謝する。 もし反対に、初めに良いことを言っておきながら、後で情勢が悪化すれば、相手から恨まれる可能性が非常に大きい」。

「今回の場合でも、もし簡単に買い手が見つかりそうなことを言っておいて、後でうまくいかぬ場合は、逆恨みされるのが関の山である。 どうせ積み返せぬと判っている荷物だから、少しばかり香港側を困らせておき、何とかぜひ頼むと言ってきたら、<大いに努力してみます>と返事をすれば先方は感謝する。 これが外交技術というものである」と、先生は胸の内を打ち明けた。

果たせるかな、翌日早速、香港から返電があり「積み戻す訳にはいかぬ。もう一度努力して欲しい」と言ってきた。 先生はすぐ「判りました、努力します」と電報を打ち返した。 それに対して香港から折り返しまた「感謝します」という電報を受け取った。 まさに先生の言った通りであった。<適切>と言うべきか、<絞かつ>と言うべきか、とにかく時宜に適したこの<世渡り術>は、私の終生忘れられない思い出の処世訓となった。

一般に<先に喜ばせておいて、後で失望を与える>ような約束をする人は多い。 現に私の会社でも、そうした社員が過去に数名は居た。 彼らは例外なく<心の優しい社員>であったが、結果的には<会社に迷惑を掛けた社員>の烙印を捺され退社していった不幸な人たちであった。それらの元社員たちと比べて、いまもし柳澤民先生の説く外交技術を持った社員が、わが社に現れたら、私はその人をどう評価するであろうか。どちらにしても<ほどほど>の程度問題、というのが常識的な答えではあるが。

参考までに、いまなお鮮明に記憶しているこの時の電文を左に記しておく。 from OSAKA [ ABSOLUTELY NO BUYER. SHIP BACK. OTHERWISE INCURE HEAVY LOSS ] from HONGKONG [ CANNNOT SHIP BACK. PLEASE WORK HARD ] from OSAKA [ UNDERSTAND. WILL TRY OUR BEST ] from HONGKONG [ THANK YOU VERY MUCH ] 私はこのとき、ABSOLUTELY(絶対的に)と、INCURE(惹起する)という二つの英単語を憶えた。

その数日間、柳先生と神戸大阪で行動を共にしているうちに、はっきり気付いたことが一つあった。それは、先生がその日に会った人の名前を、いかに多くても、総て記憶していたことである。普通、我々は一日に数人の人に会えば、その内、よほど印象に残った人以外は、大抵その名前をすぐ忘れて仕舞うものである。 だから名詞を貰う必要がある。 ところが先生は違う。 総て記憶しているのである。 それに気付いた私は、大同海運を訪ねた日の夜、大阪のホテルで先生の記憶力をテストしてみた。先ず、大同海運本社で面会した十人ほどの人たち、それは部長クラスの人から、道案内の青年に至るまで階級や職務もまちまちであったが、先生はその全ての人々の姓を明確に記憶していた。その日、昼食を採った第一楼という広東料理屋の経営者、コック、それに給仕の名前まで記憶していた。更に驚いたことには、大阪へ帰る阪神電車の中で、偶然出会った私の旧友、北野氏の名前までちゃんと記憶していたことである。 東大阪市にある製釘工場の専務であった北野氏については、電車内の立ち話で「この方は私の旧友、北野さんです」と軽く紹介したにとどまるが、それでも先生ははっきりと記憶していたのである。 その日の昼間、私たちが会った人々は合計で十五人を上回ったが、先生はその全員の姓を記憶していた。

「私は外交官であった。 外交官が人の名前を記憶するのは当然のことである」と先生はこともなげに言った。 それはまあそうだろう。 外交官が相手の名前を忘れては仕事にならぬ。しかし、だからと言って総ての外交官が、あれほどよい記憶力をしているとは考え難い。 私は、後にも先にもあれほど、会った人の名を完ぺきに記憶していた人を、先生の他に知らない。それはまさに、驚くべき記憶力であった。

結局は金儲けにはならなかったが、色々の仕事を柳 澤民先生と一緒にした。 けれども、実の処、先生が何者であるか、それまで私は詳しくは知らなかった。ところが雨の降るある日曜日、神戸の安ホテルの一室で、先生は何を思ったのか、「まあ聞いてくれ」と前置きして、ご本人の一代記を私に語った。 それは次の通りである。

□□□□ 私は楊子江中流の一農家の長男として生まれた。 学校の成績がよく、卒業するとすぐ日本に留学した。 日本生活は、明治四十三年、大阪の天保山に、いま泰安貿易公司にいる陳国権氏と共に、手を取り合って上陸した時に始まる。まず、横浜の小学校で僅かな期間日本語を勉強した。 そしてその後、金沢の第四高等学校を経て東大に学んだ。 金沢以来、最も親しかった学友は池貝鉄工の岡崎嘉平太である。 一番困った科目は国文であった。 源氏物語などは<ちんぷんかんぷん>、さっぱり解らず、箸にも棒にもかからなかった。 しかし、それ以外の科目は、ほぼ総て良く出来た。

めでたく卒業し、《泰西の学問を身につけて》故郷へ帰った私は、緑林に入らんと志した。 由来、中国では出世をするためには、緑林に入るのが常道であった。 緑林とは、山賊・海賊の異称である「緑林・白浪」の、その「緑林」である。 後漢書劉玄伝にある、前漢の末、無頼の徒が緑林山に隠れて盗賊になった故事により、盗賊のことを雅びに「緑林」というのである。

言い替えれば、私は、<馬占山のごとく、張作・(さくりん)のごとく>、馬上天下を取ろうと思ったのである。だが、歳老いた母親は「おまえは十人もの兄弟の長男である、父亡き後はおまえがその面倒を見てくれるであろうと期待して、日本留学から帰るのを長い間待ちわびていた。 どうぞ出世の夢を捨てて、何処か給料のいい所へ就職して欲しい」と言う。 そう言われてはやむを得ない。残念ながら志を捨て、中国農業銀行に職を求め、次いで中国興業銀行に移り銀行員を勤めた。

しかし、時あたかも蒋介石総統の中国国民党運動の勃興期であった。 新生中国を目指して私も国民党に入党した。 いわゆる「西安事件」で、蒋総統が張学良に監禁されたときは、銀行員でありながら少将の肩章をつけて馬に乗り、西安に向け兵を動かしたこともある。

ところがその後、日本軍の中国侵略に遭い、我々は、国民党をとるべきか、日本をとるべきか、はたまたソビエトに指導された共産党をとるべきか、その決断を迫られた。

元来、中国人は一人立ちが出来ない。 誰か主人を持たねばならない。 主人運がよければ出世をし、悪ければ身の破滅になる。 主人とは、たいていの場合、それは外国である。折江財閥の宋家の美人三姉妹がその典型的な例である。 彼女らは、自らの肉体を武器にして、それぞれ三様(さんよう)の主人を選んだ。宋曖齢(あいりん)は<孔祥き>に嫁ぎ、アメリカを主人に選んだ。 孫文夫人宋慶齢(ちんりん)はソビエトを頼り共産党に身を寄せた。 宋美齢(めいりん)は蒋介石と結婚して中国の自力再生に賭けた。 将来、何時どのように国家権力が代わろうと、彼女ら三姉妹の中の、少なくとも一人は権力の座に在って宋家を守る<手はず>を整えている。

日本に留学したことのある私は、そうした主人選びの場に遭遇して、躊躇することなく日本を撰んだ。 日本と運命を共にしようと決心したのである。そして日本軍の支配下にある南京政府に勤め、横浜総領事、長崎総領事を経て、中央儲備(ちょび)銀行の参事、業務局長にまで昇進した。 中央儲備銀行は紙幣を発行する中央銀行であり、参事は日本流に言えば重役であった。 個人専用車を二台も貰った。

中華民国政府財政部長、周仏海氏の<鞄持ち>として日本政府を正式訪問したときが、私の人生の華であった。 相手の日本政府大蔵大臣は住友総理事から転じた小倉正恒であり、その<鞄持ち>は日銀業務局長新木栄吉であった。 そして、新木と私は東大の同級生であった。  我々二人は<旧かつ>を叙し、お互いの出世を喜びあった。 

そこまでは私の人生も順風満帆であった。  しかし儲備銀行重役として<天国>に住めたのも僅か二年に過ぎなかった。日本の敗戦。 南京政府の瓦解。 そして、重慶から国民政府が帰ってきた。私は捕らえられ、獄につながれた。 <地獄>に住むこと三年、延安の共産軍がやってきた。 台湾に逃れた国民政府は、その直前、私たちを獄から解放した。

私は共産軍の目を逃れ、急きょ香港に移った。 しかし、香港政庁は私の長期滞在を拒否した。国民政府のもとにあった中国の多くの要人たちは、香港を経由して台湾に走った。 だが私は台湾には行けない。 国民党支配下の台湾は、私にとっては、いわば敵国のようなものであった。そのとき、私にとって行くべき国は日本しかなかった。 例えそれが敗戦と瓦歴の山であろうと、日本という国は、つい先日までの私の盟友であった。 盟友と言うよりも、むしろ主人であった。

日本へやって来た私は政治亡命の手続をとった。 その折、今までの「柳如祥」という名を変え、新たに【柳 澤民】と名乗った。 そしていま、阿佐ヶ谷の「井出」の家に寄ぐうしている。 井出公(こう)は、元中央儲備銀行東京支店長である。 戦争中、東京支店は帝国ホテルの二部屋を借りて豪勢なものであった。 あの物資不足の折柄でも、そこにスコッチウィスキーの二本や三本は必ず置いていた。 井出公も私のお蔭で幸せをしたものだ。然るに最近、井出の家族たちが私に敬意を払わなくなった。 大げさに言えば忘恩の徒である。

私の<落はく>に対して、出世したのは敗戦国の新木栄吉である。 先輩がパージ(追放)で居なくなったお蔭で彼は日銀総裁になり、次いで駐米大使にまで起用された。 運のいい男だ。

日本へ来た当座、新しい民主日本は過去の亡霊を背負った私に冷たかった。 一度は共産党下の中国へ帰ろうかとも思い、事実、帰国を促す声もあったが、その後、大陸に吹き荒れた<三反五反運動>で多くの友人が処刑されたのを知って、帰国を取りやめた。啓明交易の香川社長を連れて北京へ行ったときは、ひょっとしたら逮捕されるかも知れぬと覚悟していた。 それが予想外に歓待されたので、そのまま留まろうかとも考えたが、多くの人々に会って状況を探ってみると、共産中国もまだまだ流動的で、<三反五反運動>のような粛正運動が再び起こる可能性も充分あると見たので、不本意ながらまた日本へ帰ってきた。

前にも言った通り、生涯の盟友は、明治四十三年に共に大阪天保山へ上陸した陳国建である。 戦争中、米統会々長をしていた陳公(こう)は、幸い香港政庁の長期滞在許可を得て香港に居住し、もとの部下であった羅宋強が経営する泰安航運公司のお世話になっている。 羅公は周恩来と親しく、そのため今は中共の経済面における香港探題を務めている。陳公は私に、手を携えて貿易商売を始めようと言ってきたが、さて私のような経歴の人間に商売が出来るかどうか、たぶんに疑問である。

話は遡るが、私が南京政府に務めて、やりたくてやれなかった仕事が一つある。 それは中国の初等国民教育である。私が日本へ来て、先ず感心したのは小学校の校舎だった。 どんな田舎へ行っても、例えば小さな山に登って下の村を見渡すと、たいてい大きな建物が一つ二つ見える。 「あの建物は何か」と聞くと、「さあ、はっきり知りませんが、たぶん学校でしょう」と、誰もが答える。大きな建物は即ち学校である、というのが日本であった。 これは私にとって新鮮な驚きであった。 我が中国には、そのような伝統も習慣もなかった。 日本が、負けたとはいえ世界の一流国家になった原因はここにあると思った。 我が中国も、世界の侮りを受けず、外国の主人を持たずにやって行けるようになるためには、まず中国全土に立派な小学校を建てるところから出発すべきであると考え、そのことは<親分>の周仏海氏に折に触れ進言してきたが、その周公もいまは亡い。 天国に住むこと二年、地獄に住むこと三年、総ては夢と消えてしまったのだ。

さきほども三宮の裏通りで「小父さん、今晩私といかが?」と、声を掛けてくれた女性が居た。「有難い申し出だが、小父さんはご覧の通りの老人で、もうその必要がない。それにお金もない。もし小父さんがまだ若くて、お金があれば貴方の相手をさせて頂くのだが、ご免なさい」と返事をした。まだ若い女性がそのような商売をしなければならないというのは、<よくせき>の事情があってのこと。 それも多分、戦争のせいだろう。 戦争で零落した私にとって、彼女の商売を蔑む気にはなれない。 気の毒に、彼女だって好んでその様な道に入った訳ではなかろう。いわば、私と彼女は同じ運命にあるのだ。 お互いに丁重に扱いたいと思った。 老残の亡命客(ぼうめいかく)の長ばなしを聞いてくれて有難う。     □□□□□□□ 以上で柳 澤民先生の伝記を終わるが、先生を<寄ぐう>させていた井出という温厚な紳士の弁明もここに付け加えておく。「なるほど、柳先生は、私にとっては恩人であるが、私の子供たちにしてみれば、只むやみに気ぐらいの高い<居候>に過ぎない。長い間には、ついぞんざいな口をきくのもやむを得ぬことと思うが、その辺りが先生にとっては我慢ならぬ処らしい。まあ当分ご辛抱願うしか致し方ない」。

なお参考までに、戦後派の諸氏のため少しばかり注釈を付け加えておく。第二次大戦中、中国大陸では三種類の紙幣が流通していた。 聯銀券、儲備銀券、それに法幣である。 聯銀券は、王克敏が主席を務めた北京政府系の紙幣。 儲備銀券は北京政府と・鴻志の南京政府が・精衛のもとに統一された統一南京政府の紙幣。法幣は蒋介石氏の国民政府が発行した紙幣であった。周知の通り北京・南京の両政府は日本軍の<かいらい>政権だったが、聯銀券は儲備銀券のほぼ二倍の価値で通用した。 法幣は日本軍占領下では無価値に近かったが、重慶や香港では儲備銀券並に流通したと烽、。

我々日本人の間では、いわゆる<満ゴロ・支那浪人>から石原完爾・近衛文麿に至るまで、数多くの対中国関係の人々の伝記が流布されてい、また中国側でも中国共産党や蒋介石氏周辺の政治家については、その事績の文書化がわりあい多く実現している。しかし、日本に味方して「敗軍の将」となった中国人の伝記は余り見受けない。 短い<聞き書き>ながら、我が柳澤民先生の<ひとりごと>はその方面に関心を持つ人たちの興味の対照ではなかろうかと思い、敢えて記述した次第である。

ここで再び私の編年体による自伝に戻る。 時は昭和二十八年頃からだ。前にも述べた通り北浜一丁目で山本象之助氏と二人で細々と「レオ貿易」を始めてみたが、輸出受注は二ヶ月に一回もない。 これでは開店休業と変わらない。山本氏は、それでも他に二、三カ所の会計顧問を請け合っているので、僅かとはいえ収入がある。だが私は完全に無収入だった。 巳むを得ず、そして例に依って、三度の飯を二度に減らすことにした。 アメリカ向け航空郵便が一通七十五円、そして昼飯のライスカレーが百円だから、一食抜けば外国郵便が出せる。 どちらにしょうかと、よく迷ったものである。

いよいよ生活費が無くなると、山本氏が名案を出してくれた。「タイプライターを売ればよい」と言うのである。 「それを売ってしまえば外国へ手紙が出せぬではないか」と言うと、「そしたら自分の家にある折り畳み式の古いタイプライターを会社へ持ってきてもいい」とのこと。それは名案だ、背に腹は換えられぬ、と私のタイプライターを知人に売ってしまった。 これはもともとある友人から買ったもので、少々愛着もあったが致し方なかった。

タイプライターの外に、当時、無性に欲しくて、とうとう買えなかったものが二つあった。ホッチキスと、<はかり>である。 手紙が二枚以上になると、どうしてもホッチキスが要る。今のように、簡易なステープラーと称するホッチキスがない頃だ。 巻ワイヤーを使用する大きなものが、一台四千円もした。現在の金に直せば六万円になるだろう。 なくてもいいようなものだが、無いと何となく不便である。 第一、客先から<ホッチキスもない貧乏会社>、と見破られぬかと心配だった。 と言って、買う金もない。 一計を案じて、他所から来た手紙についているホッチキスの弾(たま)を取り外し、こちらの手紙の斜め上部分に針で穴をあけ、とった古い弾を差し込んでまた折曲げておくという、いささか厄介なことをしたものだ。 「ホッチキスに恨みは数々ご座る」という気持ちは、いま以って残っている。

だから内田洋行の「トーホー」という簡易なステープラーが出現したときは、非常に、と言ってもいいほど嬉しかった。それかあらぬか、数年後、偶然にも私は内田洋行の久田会長とトーホー精機の河村社長一行をホノルル空港へ出迎えに行くことになった。 そのいきさつは後で記すつもりであるが、久田氏一行を迎えたときは、何かしら小さな運命のようなものを感じた。 久田氏とは、その後氏が亡くなられるまで長らくお付き合い願った。

欲しかったもう一つの方、<はかり>は外国郵便を出すときに料金を計算するためどうしても必要だった。 郵便局で計ってもらえばいいようなものの、そうすると、もし僅かに料金が超過する場合、内容物を減らして料金を節約するのが、郵便局の窓口では難しい。 みすみす高い料金を払う羽目になる。 だが、その<はかり>も高くて、とても買えなかった。結局の処、<はかり>は田舎から貰ってきた。 まだ幼稚園の頃、事情があって私の家で立派な<はかり>を買ったことがある。 それが実家の押入の隅で寝ていたのを、風呂敷に包んで大阪へ持ち帰った。 その<はかり>は私どもレオ貿易の箕面の事務所で、いまなお使用している。分銅の一つが行方不明になっているが、充分使用に耐える。 いわばそれは、私が飯が食えなかった頃のモニュメントである。 <はかり>というのは耐用命数の長いものだ。 

輸出商売はどう考えても順調とは言えなかったが、輸入の方は僅かながら生活費が稼げた。例えば、【中国の筆、墨、画箋紙】を小量ずつ数回輸入し、比較的多くの利益を得た。 客先は戎橋の丹青堂や京都の長谷川松寿堂だった。筆は、上海の老文元と李鼎和、墨は同じく上海の曹素考、画箋紙はそのころ国営化された中華製紙第二廠からの製品であった。 筆と墨はおよそ二倍の値で売れた。 画箋紙も三割程度の口銭を稼げたが、少し問題があった。 というのは、民営工場の頃、数量がいつも不足していた。 通常、百枚の束を一反というのだが、実際には常に九十四枚しかないのである。 これは伝統的な中国の習慣であった。 それを知らぬものだから客先からクレームを受けた。 客の方は専門家だから初めからそれを知っていて値切るのだから、始末が悪かった。 ここで中国のために弁明しておくが、一反が九十四枚というのは、もともと公認の習慣であり、詐欺でもトリックでもなかった。 もし問題とすべきであれば、それを百枚分の計算で代金授受するところにある。しかしそれも、「一度に沢山買える人、つまり金持ちは、金持ちらしく<おうよう>に社会へ還元すべきだ」という、<仁者の徳>を勧奨する仕掛けで、それなりに褒めてもいい社会制度だったのである。

さすがに、民営工場が中共政府に接収されて国営工場になってからは、そのような数量不足は無く一反は百枚になった。 しかし、品質は目に見えて悪くなった。国営というのも<善し悪し>だと思った。この商売のお蔭で、私は今でも画箋紙の品質の見分けがつく。 画箋紙は竹のパルプから造ったものでないと墨のにじみがよくない。 竹パルプ製の本物の画箋紙はよく見ると、絽(ろ)の織物か豆腐の表面のように平たく涼しげである。ところが当時の日本には竹のパルプがなく、楮(こうぞ)やみつまたを使っていたので、毛布にアイロンを掛けたような厚っぽったい表面で、墨を吸い過ぎてにじみ具合いが悪かった。だから中国の紙が高くてもよく売れたのである。 最近は、インドネシアや島根県で、画箋紙用の竹パルプを造っていると聞いたが、詳しいことは知らぬ。  

墨についていえば、実は私はその善し悪しを全然しらぬ。 しかし、「曹素考」の墨の値段表で見る限り、高いのと安いのとの間に百倍の値の開きがあった。 使ってみれば判るのだろうが、見た目では変わらなかった。 日本の墨客(ぼくかく)たちの話では、曹素考の墨は総て本当の楳(すす)を練って造ったものだから良い品質だとのことだったが、あるとき「曹素考」墨廠主人、曹述擁という人から、唐紙に毛筆で書いた立派な手紙が舞い込み、墨の原料のカーボンブラックを輸出して欲しいと言ってきた。 なーんだ、やっぱりカーボンブラックを使っているではないか、と気落ちがしたのを憶えている。

依頼に応じてカーボンブラックを送りたいと思い、通産局へ輸出承認申請書を出した処、「貴方は何を馬鹿なことを言っているのだ、カーボンブラックは火薬の原料で、中共向け輸出禁止品目の中の最も厳しいものであるのを知らぬか」と大目玉を食った。 それまで私は火薬が何で造られているか知らなかったのだ。

手紙の中で曹述擁氏は、自分は孔子の五十数代直系の子孫である、と説明していたが、さすがにその筆跡の美しいこと、目を見張るばかりであった。 手紙の最後に「秋安」とあったのは、多分、<敬具>の意で、それも秋の時候の挨拶を兼ねていると解釈したが、その手紙は何処かで亡くしてしまっていまはない。惜しいことをした。 

十五年ほど前、私どもの台湾の取引先に端木(たんもう)という姓の人がいた。 変わった姓の上に、少々<気どり屋>だったので、どのような素性か調べた処、その人の父親は東呉大学の学長で国民代表を兼ね、孔子直系の末えい、中国きっての名門であるとのことであった。「曹素考」墨廠の曹氏も孔子直系、東呉大学の「端木」氏も孔子直系。 どうやら孔子直系の子孫はあちこちに沢山いるようだ。「老文元」の白い筆は、穂先が少し<飴いろ>に変色してい、穂先全体が真っ白な日本製の筆と簡単に見分けがついた。 日本製の、特に細筆は穂先の毛が<ぴんぴん>していて、墨を弾くので書きにくいことが多い。 その点、中国製は穂先が柔らかくて、すこぶる書き易い。 少々、値は張るが、素人書家はぜひ中国製の筆を使うべきだ。 そうでないと、下手な字が余計に下手になる。もっとも最近は「筆ぺん」という気のきいたものが出来た。これは細字に関するかぎり中国の筆よりも書き易い。 ところが、街の書道塾の先生方は「筆ぺんを使うな」と言うらしい。もう少し上達して、筆が自在に動かせるようになればともかく、それまでは絶対に「筆ぺん」を使うべきであるというのが私の持論だ。 特に、年賀状を書くときなど、「筆ぺん」は非常に便利だ。 私は筆ぺんを世紀の大発明品だと思っている。

意外に沢山の利益を得た筆・墨の輸入も数回で終わりになってしまった。 外人船員たちが手荷物として持込み、安売りしたので一挙に値が下がってしまったのである。

相当大量、高値で仕入れた墨の在庫を持つことになった戎橋の「丹青堂」の主人に、「お気の毒ですね」と言った処、「私は丹青堂、枡屋仁兵衛十三代目の当主として婿養子に来た。 この店を預かったときと同じ品を同じ数量だけ次の十四代目に譲ればよいのだから、時の相場など余り気にしていない」との事だった。 長年、南の商店会会長と、商工会議所の小売部副部長を務めてきた丹青堂主、堀剛二氏はさすがに名前通り剛直な人であった。 同じ品を同じ数量だけ受け取るべき彼の跡取り、即ち第十四代目枡屋仁兵衛は、医学部を出たがついに医者をしなかった長男、文人氏である。私ども箕面中央ロータリーの精神科医浅井先生は、この丹青堂の現当主、堀文人氏と阪大で同級だったそうである。

私が筆墨を納入していた頃、丹青堂は戎橋の店を鉄筋の建物に改築した。 鉄筋は、当時としては珍しく、そのため一時税務署ににらまれたこともあったらしい。 三階は上品な和室になってい、そこは将来、書画教室に貸す予定らしかった。 堀氏は、その部屋が自慢で、私に「見てくれ」と言った。床の間の<縁かばち>が古びた雑木で、それには無数の鋸の刻み痕がついていた。 氏の話では、それは材木置き場の下敷に使われていた枕木を活用したものであるとの事であった。 「料亭などの建築は、高級材料を使い仕事の手間を抜くが、私の方は安い材料を使って、その代わり仕事に数倍の手間を掛けるのが誇りである」と、堀氏は自分の見識を私に語った。だから、いまでも私は、立派な日本建築を見る度に、そのどちらであろうかと詮索する癖がついている。後日、俳優花柳章太郎の「きもの」という本を読んでいた処、「奈良市富雄の丹青堂主、堀氏のお宅へ毎年一回招待され、その立派な造作を拝見するのが楽しみであった」という文章が出てき、なる程と思った次第であった。

筆墨の他に、いま記憶に残っている輸入商品としてアイススケートのエッジと、ヘッドのメタルスキーがある。

まだ存在しているかどうか知らぬが、日本にはKKMというブランドの【アイススケートエッジ】を造っていた<みたまや金属>という会社があり、その関係者が西洋のスケートエッジの輸入を依頼してきた。 輸入したのはドイツのポーラー社のフィギュアー用スケートエッジと、スエーデンのギルベルグのスピード用スケート、それにカナダのCCMブランドのホッケー用エッジだった。

その頃、現在のフェステバルホールの地にアサヒアリーナというアイススケート場があり、なかなか繁盛していた。 みたまや金属は、そこで貸スケート靴屋をしてい、それに装着するスケートエッジが要ったのである。 なんでも、自社で造るKKMブランドのエッジは耐久力がなくて貸靴用には不向きとのことであった。ギルベルグやポーラーというのは、当時、世界一流のスポーツ用品メーカーで、そのような有名メーカーが名もないレオ貿易に品物を売ってくれる可能性は少ないのではないか、と危倶したが、案ずるより易しであった。もっとも、ポーラーについては、途中で美津濃が総代理店であると横やりを入れてきたが、私共への品物はドイツから直接出荷してきた処をみると、何等かの誤解があったのかも知れない。

ヘッドのスキー】は、塩冶というスキー好きの夫婦が輸入を依頼してきたもので、二十セットほど輸入した。 世界で初めて出来たメタルスキーとかで、これは売れると、塩冶夫妻が意気込んでいたが、輸入したうちの半数近くが、スキー板の中心部に剥離損傷を起こし、消費者から返品をくい、アメリカのヘッド社へ品質クレームをつける羽目になった。ヘッド社は、新製品なので品質の安定性に問題があった、と率直に謝ってきた。しかし当方は品物に自信がなくなり、ヘッド社の数回にわたる勧奨にも拘らず輸入を中止してしまった。近年、美津濃かどこかが代理店をして「ヘッド」の商標のあらゆるスキー関連の輸入商品を市販している。 察する処、ヘッド社もだいぶ大きな会社になっているようだが、私がメタルスキーを輸入した頃は同社もまだそんなに大きな会社ではなかったようだ。

いまから振り返って考えてみるに、本当は私も、もっとスキーやスケートなど有名ブランドのスポーツ用品の輸入を熱心にすべきだったのに、僅かばかり手掛けただけで中止してしまい、残念なことをしたと思っている。それもこれも、私が田舎者で、スキーとかアイススケートとかいうハイカラなスポーツとは、完全に無縁の存在であったに起因する。 その点、私の子供は十年近くもカナダのモントリオールにいたので、アイススケートをほぼ唯一のスポーツホビーとしているようで、彼がスケート靴を持って近所のアイススケート場へ出かけるのを見るたびに今昔の感に耐えない。

そうした日銭稼ぎの輸入をしていた頃の思い出に、一つだけさわやかなことがある。田舎の祖母が私のことを非常に心配しているという話を風の便りで聞いた。 安心させなければいけないと思い、ちょうどそのとき集金してきた筆墨の輸入代金の現金を持ったまま田舎へ帰り、何気ない様子で、祖母の前でその現金を出してみせた。 たかだか二、三十万円の金であったが、その頃はまだ千円紙幣がなく、百円札の札束だから随分の金額に見えた。それを見た祖母は「お前が何も持たず大阪へ出ていったときから、どうして暮らしているのだろう、腹を減らして困っているのではないかと、片時も心配せぬときはなかった。 いま、その金を見て、初めてほっとした。 もう死んでも思い残すことはない」と言った。「よくもまあ、そのような馬鹿なことを。 私はすこぶる楽しく暮らしています」と言いながら、その札束の中から百円札を数枚引き抜いて祖母にプレゼントした。

「もう年寄りだから金の使い道もないので、お金など要らない」と言いながらも、祖母はそれを嬉しそうに受け取った。 幼少の頃から特に可愛がってくれた祖母への恩返しが一度に出来たように思えて、非常に嬉しかった。もっともその金は、実は、大半を翌日、資金として用立てしてくれた山本象之助氏に返すべきものだったから、いわば<見せがね>に過ぎなかった。

次に輸出商品の方に移る。 そのころ扱った輸出商品は、零細な、いわゆる雑貨商品ばかりであった。もともと志したのは鋼材の輸出だったが、それは二、三回船積しただけで、後はうまくいかなかった。 進行していた市場の再編成と系列化が一段落して、我々のような零細業者の参入を許さなかったのである。

雑貨とは、文字通り種々雑多な商品であるが、そのうち記憶に残りそして特筆すべきものは、木の彫刻と、そして不思議な因縁でその後二十年の長きに亙り付き合いを持った、ハワイ及びカリフォルニアの蒲鉾メーカーに納める諸資材、特に蒲鉾板である。

木の彫刻については、「日本の木彫」というカタログまで印刷し、ついにはそうした商品の海外からの引合いがあれば、通産省やジェトロまでが私どもへ照会してくるという処までなった。カタログに載せた木彫は大きく分類して三種類であった。 先ず、大きな仏像のようなものは岐阜市徹明町の児玉美光堂という仏師の作品に依存した。 小さな木彫類は飛騨高山の一刀彫りを主とし、みやげ物の範躊にはいる簡単なものは醒井(さめがい)の焼き杉細工を取り扱った。

岐阜の仏師、児玉美光師は楊柳観音とか仁王像のような大型彫刻が専門で、芸術家ぶらず、彫刻職人として勤勉な人であった。 頼めばどの様な木彫でも新聞紙の上に筆で原図をさらさらと書き、それを短期日の間に彫ってくれた。もっとも、小さい彫刻は得意でなかったようで、あるとき二十センチほどの小さな仁王像を数個依頼した処、出来上がってきたのは夜店の<鯛焼き>と変わらぬようなものであった。 美光師の話では、彫刻師には、<のみ>で叩いて大型の彫刻を造る人と、小刀で削って小さな木彫を造る専門家と二派あって、師は、前者つまり大型の仁王像などを造る仏師だとのことであった。 道理で、師がいやいやながら造った小型の仁王像は、目もあてられぬような不細工なものであった。

いちど、キューバから百万円ほどの、木彫の注文としては予想外に大きいオーダーが入ったことがある。半金を前払いとして送金してき、あと半金はD/P、つまり<代びき>で船積して呉れとのことであった。 品目は、楊柳観音、阿弥陀仏、仁王像などの五十センチから一、五メートル程度の大きさのもの数十体であった。全て児玉美光師が制作し、日本郵船の氷川丸でハバナ港向けに船積した。 <代引き>で送ったにも拘らず、付けてやった荷為替手形が落ちてこない。 調べてみると、郵船のハバナ港代理店は代金入金を待たずに、その貨物をそっくりバイヤーに渡してしまっているらしい。 大阪の日本郵船に「貨物をすぐ返送してくれ」と、当方で保管していた船荷証券を提示して強硬に申し入れた。 もちろん同時に、バイヤーへは何度も代金支払いを督促したが<なしのつぶて>だった。郵船の話では、いくら電報を打っても現地代理店のユナイテッドフルーツ社から的確な返事が来ないので困っている、とのことであった。 現地代理店が、日本郵船のような大会社の本店からの照会を、<ないがしろ>にするとはどうしたことかと不思議に思えた。

ちょうどその頃、キューバに共産革命が起こった。 毎日の新聞にその記事が出ている。 それに目を通していて、ふと気付いた。 革命の総大将の名はアーネストゲバラである。 私が代金を督促しているバイヤーの名はアーネスト ゲラである。 さては同一人物かと思った。もしそうであれば、督促など中止して「革命成功おめでとう」と、電報を打った方が将来のために得策ではないかと考えた。

ところが、この予想はすぐ外れた。 アーネスト ゲラ氏から手紙が来て、「代金支払いが遅延してまことに申し訳ない。 既にご存じのことと思うが、同志、アーネストゲバラ氏が率いる共産革命が成功して、我々は今や自由な労働者の国になった。 その騒ぎで、いま銀行が閉鎖されているから送金出来ぬが、なるべく早く送るようにするので今暫く待って欲しい」と言ってきた。そしてその後間もなく、実際に送金を受け取ってほっとした。

しかし、この数十体もの仏像はいったい何処へ行ったのだろう。 室内装飾用しか用途がないと思える仏像が共産革命後のキューバで、果してどのような家庭で飾られるのであろうか。 革命前ならば、立派な装飾品を飾る大金持ちが居たであろうが、共産主義社会となったいま、そのような大きな仏像を飾るにふさわしい立派な部屋を持った家屋があるのだろうか。 ひょっとすると、大統領府にでも飾られているのではないかと思い、気をつけてキューバの写真を眺めることにしているが、三十年来、まだその仏像のある写真にお目に掛かったことがない。 どなたかこの仏像のキューバでの行方をご存じの方はいないだろうか。

話はそれるが、先ほど私は日本郵船のキューバの代理店が【ユナイテッドフルーツ】社であると言った。 最初、郵船の担当者からこの会社の名前を聞いたとき、私は不思議に思った。 ユナイテッドフルーツとは日本語に直せば<連合果物>ではないか。 たかが果物屋が何故、日本郵船の代理店をしているのか。 それについて、郵船の社員はこう答えた「ユナイテッドフルーツ社は中南米に於ける巨大な財閥で、その船舶部門が当社の代理店をしている。 彼らは誇り高く、日本郵船すら馬鹿にしているらしいので困っている」。 どうやら、<たかが果物屋>と思った私の方が認識不足だったらしい。

そのユナイテッド フルーツ社が、いまや世界に悪名を轟かせていることは周知の通りである。参考までに、その一端を岩波新書の近刊「バナナと日本人 鶴見良行」から拾い出してみる。  ミンダナオ産のキャベンデッシュ種を日本へ輸出しているのは、多国籍企業四社である。米国 の「デルモンテ」「キャッスル・クック」「ユナイテッドフルーツ」と日本の「住友商事」。 ブランドでいうと、それぞれ「デルモンテ」「ドール」「チキータ」「バナンボ」になる。こ の四社で日本の市場の九割近くを押さえている。   なかでも米系三社の比重は大きく、歴史も古い。 「チキータ」のユナイテッドフルーツとい う会社は一八七0年にベイカー船長がいく房かのバナナをニューヨークに運んだ時にその前身 が始まっている。ベイカーはジャマイカ・ニューヨークを往復する八五トンのスクーナー船の 船長だった。これ以後、中南米とハワイで食品作物の栽培業に手を染めた彼らは、今日、世界 的な農事産業(AGRI-BUSINESS)の多国籍企業に成長していった。

 一九七五年に年産二十億ドルに達した世界バナナ産業の三五パーセントをユナイテッドフルー ツ、二五パーセントをキャスル・クック、一0パーセントをデルモンテが支配している。 彼 らは一九六0年代になってフイリピンのミンダナオに日本向け専用のバナナ農場を開設した。 (中略) ダバオの生産現場では二つのことが起こっている。 その一つは、言うまでもなく、 農家、労働者が搾取され、貧しくなっていることだ。 もう一つはクリスチャン・フィリピノ、 モロ族、バゴボ族など、どのような集団であれ、その自主的・能動的な主体としての成長が、 麻農園からバナナ農園へという外国企業の進出によってぼろぼろに傷つけられていることだ。(後略)

木彫の他にも「工芸品」と称していろいろな木製品や民芸品を輸出した。 その当時、帰国した進駐軍兵士やその家族などの影響もあって、アメリカでは日本趣味が流行していた。イサムノグチによる岐阜ちょうちん風のランプシェードが、「AKARI(あかり)」というブランドでアメリカの室内装飾業界を風・した頃で、岐阜県や静岡県で作られた安物の日本趣味雑貨が大量に米国へ輸出された。 私も、「あかり」の似せものから木製の台所用品まで雑多な商品を輸出した。 それを雑貨と言わずに、ちょっと気取って「工芸品」と呼んだ。その工芸品の輸出で想起するのは、人間国宝、大野昭和斉さんである。

そのころ私は阪神電車のセンタープール前駅のすぐそばにある尼崎市営アパートの四階に住んでいた。(当初センタープール前駅はまだなく最寄駅は出屋敷であった) 後年、兵庫県知事から転じて東京都知事選挙に打って出、そして惨敗した社会党の理想主義者坂本勝氏が、当時尼崎市長をしてい、工場地域の中にあった湿地帯の水を一か所に集中させて競艇場をつくり、さらにその周辺一帯を埋め立ててつくったのが私の住む市営住宅群と、そして小・中学校であった。 まだ公団住宅も無い頃だから、わが国に於ける高層公営住宅の<はしり>であった。

間取りは、今で言う二DKで風呂はなかった。 家賃は二千七百円。 当時の借家としては高い家賃である。 家内の父が阪神電車を定年退職し、社宅を出なければならぬ予定になっていたので、その頃としては物珍しい市営アパートを申し込んだ処、運よく抽選に当たった。ところが、退職金で小さな居宅を買ったためアパートの方は必要が無くなった。そこへ<もぐり>で私たち夫婦が入っていたのである。

私たちの階段の四階は、扉を向い合わせて二戸、即ち私宅と向いの高田さん宅であった。高田さんのご主人はビタミンB一六の発見で有名な京大の高田亮平博士の長男で、森永製菓の技師だった。 奥さんは黒川染工とかいう会社のオーナーのお嬢さんでなかなか見識が高く、市場へ買物に行くのに袴をはいていったと噂されていた。ご夫婦は私共と同年輩だったから、もしまだ森永に在社されていれば今頃は役員をされているだろう。私の子供も、高田さんのお嬢さんも、その頃、そのアパートで生まれた。

ある日のこと、一人の初老の紳士が突然、私どものアパートへ訪ねてきた。 少し猫背で、鼻の下に美髭を蓄え、眼光が鋭かった。 その人は名前を大野昭和斎と名乗った。 昭和の時代であるにも拘らず「昭和斎」とは奇妙な名だと思った。

アメリカへ木で作ったお盆を少しばかり輸出することになり、岡山県大阪事務所で倉敷の大野さんという木工工芸家を紹介してもらった。 二、三枚、木製盆を郵便で注文したところ、わざわざ現物を持って私どものアパートへ訪ねて来てくれたのが、その昭和斎さんである。 ご本人の話によれば、倉敷民芸館の工芸部長か何かをしてい、制作品は岡山の天満や百貨店の特選品売り場に出ているとのことだった。ご自身の作られた木の角盆の角(かど)の部分を示して、「斜めに薄い木の<かすがい>を入れているので、このアパートの四階の窓から下へ落としても壊れぬし、百年経っても<ぴりっとも>しません」と説明された。 そして、「このように立派な木工芸品は世界中どこにもありません。 日本の誇るべき工芸品だからアメリカへ輸出して、世界にその真価を問うてみて欲しい」との事であった。

ところが<木製お盆>を欲しいという私共のお客さんは、シカゴで小さなギフトショップを経営している上原という日系の上品なご夫婦だから、そのお盆の工芸品的価値は判るのだが、もっと安い物が欲しいのであって、それも沢山は要らない。意気込んでいる昭和斎氏の懇望もだし難く、その一年後のアメリカ行きには、わざわざお盆の見本を一枚携えたが、彼の地では誰も興味を持ってくれなかった。

結局の処、十個か十五個ほど大野さんからお盆を分けて頂いただけで、余り商売にはならなかった。 そのお盆は、すべて漆塗の角盆で、表面に岡山特産の<いぐさ>の畳表が張ってあった。どういう<いきさつ>だったか忘れたが、売れ残りのお盆が数個あり、そのうちの幾らかを田舎の兄の家へ送ったり、友達に差し上げたりし、残りの一、二個は私宅でその後数十年間、何気なく常用していた。大野氏との付き合いもその後余り進展せず、私の脳裏から「大野昭和斎」の名は半分消え去ってしまっていた。

ところがつい二年ほど前、ふとNHKテレビを見て驚いた。人間国宝【大野昭和斎】というタイトルで、見覚えのある大野氏が木工芸品を制作している姿が三十分に亙って放映されていた。 さすがに少しは歳をとったような風情ではあったが、紛う方なきその昔、尼崎のアパートの四階へ訪ねてきた大野昭和斎その人がテレビに写っているではないか。 髭もそのまま、やや猫背の後ろ姿も三十年前とそっくりであった。


大野昭和斎

うかつにも私は、大野昭和斎氏が人間国宝に指定されたのを知らなかったのである。 あわてて、それまで家で毎日使っていた「万歳」という飾り文字が大きく漆で塗り込んである昭和斎先生の角盆をきれいに布巾で拭き直し、食卓の横の飾り棚に飾り直した。人間国宝と、かって知合いであったことや、その制作をまだ持ち合わせていたことが、余り嬉しかったものだから、そのときあちこち吹聴してまわった。そのお盆はいったい幾らくらいの値打のものだろうと友達連中に聞いてみたところ、百万円は下らぬだろうと言う友人も居れば、使い古して傷もついているだろうからまあ五千円がいいところ、と言う人もいた。 確かに、幾らかは使っているので新品には見えぬが、目だつような傷もなく、そのお盆は今や私の家の家宝に昇格して壁面を飾っている。 それを見るたびに、昭和三十年ごろの細々とした雑貨輸出商売を思い出す<よすが>となる。

確か、大野昭和斎氏の住所は倉敷市西阿知だったと記憶しているので、折りがあれば一度訪ねてみたいと思っている。しかし訪ねて行っても、そのように偉くなった昭和斎先生が、昔のように親しく話をしてくれるかどうか疑問である。

次は【蒲鉾板】の話に移る。 蒲鉾板というのは魔可不思議な品物である。食べられる訳でもなし、必ずしも蒲鉾の生産行程で要る訳ではないし、包装資材でもないし、後で役に立つという程の物でもない。それでいて今迄数百年の間、蒲鉾といえば蒲鉾板が必ず付き物である。 息の長い、いわば「不用商品」である。もちろん世界中で、蒲鉾板があるのは日本だけである。いや、厳密に言うとハワイ・カリフォルニアの蒲鉾屋を除けば、蒲鉾板という存在価値のない資材を使って蒲鉾という伝統食品を造っているのは、世界中で日本だけである。

この蒲鉾板、簡単な板切れに過ぎぬように見えて、造るのはなかなか難しい。五枚や十枚であれば、それは誰でも造れる。 だが、数千、数万枚造るとなると大工や指物師でも造るのが難しい。 なぜそんなに難しいかというと、鋸屑(おがくず)や<木ぼこり>をつけずに量産するのが至難のわざである。 鋸(のこぎり)やかんなを使った後で拭いて奇麗に仕上げればいいではないかと素人は思うだろうが、たかが一枚数円に過ぎぬ安い大量生産品を、一枚々々、六つもある外面を拭いて仕上げていたのでは間尺に会わない。 仮に、丹念に拭いたとしても鋸が屑の三つや四つは必ず残る。鋸屑が残っていたらどうなるか。 それは必ず蒲鉾の魚肉に混ざる。少なくとも現在の蒲鉾生産方式では、蒲鉾板を洗って使ったりしないから、理屈の上では、鋸が屑が魚肉に付着することになる。

しかし現実に、蒲鉾の魚肉に鋸屑(おがくず)が入っていたのを見た人は先ずいないだろう。 それは「蒲鉾板」メーカーが、自動的に、鋸屑や<木ぼこり>を付着させない蒲鉾板生産技術を持っているからである。 このようにわりあい簡単にみえて、しかも難しい生産技術が要ることを消費者は知らない。現に数十年前、私が蒲鉾板の輸出を始めた頃、何軒かの製材所や大工がそのため幾ばくかの損をしているのに出くわした。

更に難しいことがある。 蒲鉾板は白身の木でなければならないということだ。 赤身や節(ふし)があると、白い魚肉に色がつく。香りのある木でもいけない。木の香りが魚肉に移るからである。 だから桧は使えない。松の木も匂いと脂(やに)があるから使えない。 杉材の芯の部分は赤身だから駄目である。 さわら材などは蒸したときに蒼く変色する虞があるから不適当である。たかが飾りに過ぎぬ蒲鉾板も、いざ造るとなると予想外に難しい。 もっともこのようなことは、多かれ少なかれ、他のどのような商品にも当てはまるだろう。 私のように「物を造る工程」というのに興味を持つ者にとっては、こうした一般に知られていない簡単な生産上の、<あい路>をどう解決しているかということを見るのががたまらなく面白い。

私と「蒲鉾板」の出会いは中山という一風変わった友人の仲介による。京都羅生門の<ういろう屋>の次男であった中山氏は私より十才くらい歳上だった。 どういう訳か生来の小嘘つきであった。異常なくらい僅かずつの嘘を(しょっちゅう)つき、約束を破ることの天才であった。 その上、無類の酒好きで、昼間でもコーヒーの代わりに焼酎を飲んでいた。 この人の兄さんも有名な小嘘つきだったから、犯罪先天性説ではないが、まあ嘘つきの家系だったのだろう。 それでいて頭は悪くない。兄弟とも同志社かどこかの大学を出ていた。 <ういろう屋>をしていた彼ら兄弟の父親はもともと鉄道省のキャリヤ官僚だったそうで、ういろう屋を継いでいる三男は五色豆屋の娘と結婚していた。京都らしい組合せの縁組である。【嘘つき】という烙印を捺される人は世間に多い。つかなくてもいい嘘をつく人たちである。 つかなければいけない嘘をつく人を誰も嘘つきと呼ばない。 例えば、日銀の総裁が新聞記者に対して「公定歩合を上げません」と嘘をついたとしても、誰もそれを嘘つきと思わない。 なぜならば、職責上、嘘をつかなければいけないから嘘をつくのである。ところが往々にして世の中にはには、嘘をつかなくてもいい場合でも本能的または習慣的に嘘をつく人が居るものである。 そうした人に対して世間では、「あの人は嘘つきだ」という。私がレオ貿易を一緒に始めた山本象之助氏がそうだった。 そしてここでいう中山氏もそうだった。 彼らは大きな嘘はつかない。 つねに連続して「小嘘」をつくだけである。

その中山氏が、以前からハワイ向けに蒲鉾板の輸出をしていた。ところが輸出商談に嘘が多すぎてハワイの三和(みつわ)蒲鉾の古本という二世のバイヤーが困っていた。 そして、いよいよもう中山氏に愛想が尽きたので、代わりに私に、蒲鉾板を船積してくれと依頼してきたのが、私の蒲鉾板輸出の始まりである。

トーマス古本という三和蒲鉾のオーナーの話では、ハワイにはまだ他にも数軒蒲鉾メーカーがあるとのことだった。 桜橋のアメリカ文化センターへ行き、ハワイの職業別電話番号簿で調べて他の蒲鉾メーカーへも売り込みをかけ、また後日訪問したりした結果、ホノルルとヒロ、それにカリフォルニアまで殆どの蒲鉾メーカーと親しくなり、その後の数十年間、金額は僅かながら驚くほど安定した取引を続け得たのであった。 おまけに、「かねてつ」という日本一の蒲鉾メーカーと兄弟以上の付き合いをさせて頂いたものだから、昭和三、四十年代を通じて、私の生活はほぼ「蒲鉾」という一種異様な産業社会に<どっぷり>浸かっていたと言っても過言ではない。 それも、環太平洋、つまり日本・ハワイ・カリフォルニアを結んで、英語を使っての話だから、余り他に類例がない人生だろう。

アメリカの蒲鉾メーカーへの輸出は蒲鉾板だけではなく、てんぷらの竹串、鳴門巻の麦藁ストロー、かじき鮪・はも・ぐち、それに蒲鉾や竹輪の製造機に至るまで、ありとあらゆる水産練り製品材料に及んだので、当然のことながら蒲鉾製造の知識も<門前の小僧>で概略を掴み得た。

後になって考えてみると、その頃のハワイの蒲鉾業界は、小さい業界ながら未曽有の好景気で、ホノルルだけでも三和、奥原、紅白、朝日、城間、大丸、渡辺と、七つの蒲鉾メーカーが<しのぎ>を削って競合し、当時の日本では考えも及ばなかったテレビによる宣伝合戦すら演じていた。その内、奥原と渡辺の二工場が三和(みつわ)と共に早くから私に蒲鉾板などの注文をくれていた。渡辺蒲鉾の渡辺氏は少々お人好しの嬉しがり屋で、いろいろ風評のある人ではあったが、ホノルル蒲鉾業界の元祖として私の知る以前に既に在ハワイ日系一世中の成功者として名を成し、日系では珍しいくらい大きな家に住んでいた。 また、戦後いち早く日本行き観光団を組織し、春秋には大勢の日系一世二世を引率して来日し、渡辺観光団の名は日本・ハワイ両地のホテル・観光業界では誰知らぬ者のない有名人であった。 教養もないし風采も上がらぬ熊本県天草出身の日系一世であったにも拘らず、彼はそのユーモラスな行動と共に、一時期、ハワイに於ける第一級の名物男の感があった。 ホノルルの街の何処かに小さな事件でもあると、彼はすぐとんで行って記事にし、それを《弁当わたなべ》のペンネームで日系新聞に投書するという子供っぽい癖があった。 たぶん彼は蒲鉾屋で成功する前は弁当の仕出し屋だったのだろう。

彼が観光団を引率して大阪へ来たときには、私も心斎橋にあった阪急ホテルまで面会に行き、蒲鉾板の注文をもらうのを常としていた。 なにしろこの人は、英語は全然出来ず、日本語の手紙なども、投書癖の割に<たどたどし>かったので、受注の確認などは文書によるよりは口頭に依ったほうが安全だったのである。その点、奥原蒲鉾のジミー奥原氏はルーズベルト高校出身の日系二世だったからビジネスライクな英文の手紙を呉れ、商売が非常にしやすかった。

二、三年ハワイの蒲鉾屋相手の商売と雑貨輸出を続けている間に、自分自身のそうした現状に疑問を持ち始めた、と言うより不安になってきた。年齢もようやく三十才を越え、どうやら子供も生まれるらしいのに、いわばその日暮しの、不安定な<貿易屋ごっこ>を何時までもしていていいのだろうか。 日本経済は私が大阪へ出てきた頃とは打って変わり、もはや戦後ではないかのような大発展をしている。 朝鮮戦争の恩恵により戦前の財閥系諸企業は再び息を吹き返し、産業の再編成が急ピッチで進んでいた。 にも拘らず、私の周辺は取り残されたままである。 これでは折角志を立てて大阪へ出てきた甲斐が無い。

私は何処かで間違っていたらしい。 何処で間違ったのか、初心に戻って考え直してみる必要がある。 やはり、何も知らずに素人のまま貿易というような特別な業界に進んだのが災いの元ではなかったろうか。 一言(ひとこと)に貿易と言っても、いろいろな種類があり、海外の客筋や市場動向も多様だろう。 それを殆ど知らずに、ただ<闇くも>に少年の海外文通趣味と変わらぬような商売の仕方をしていては後で悔やむことになり兼ねない。 もうこのような商売を止めようか。 それとも続けるのであれば、何がいけなかったのか虚心に考え直してみるべきだ。 そうしたことを<とつおいつ>考えているうちに、「そうだ、一度アメリカへ行ってみよう。アメリカ市場をこの目で見て、いままで何が間違っていたのかを知ろう。そしてその上で、貿易商売をまだ続けるかどうか決めよう」と思いたった。

そう思うと、もう辛抱が出来ない。 二か月後に出産を控えた家内に言った。「私はアメリカへ行く。もしいま行かなければ、子供が生まれ、そしてその後は子育てなどで生活費も嵩み、おそらく一生涯外国などへ行くチャンスはないだろう。行くとすれば今しかない。子供が生まれる時に側に居た方がよいだろうが、子供などというのは、居ても居なくても月日が来れば必ず生まれるのだ。 しかし、私のアメリカ行きは今を措いて一生チャンスはない。ぜひ行かせてくれ」。私の性質を知っている家内は、別に反対もしなかった。 わりあい<すんなり>と私のアメリカ行きは決まった。だが問題は旅費と、後に残る家内と生まれてくるであろう子供の生活費である。手元の金は、夫婦が日本で向こう一ヶ月暮らせる程度しかない。 金の計算から言えば、もともとアメリカ行きなど出来る筈はなかった。

ではどうしたか。 先ず要ったのはアメリカまでの飛行機賃である。帰りの分は現地で何とか工面するとして、最低限ハワイまでの片道切符代が要る。これははっきり憶えている。一三万七千円だった。 渡航の手続きをしてくれた近鉄航空の人が、是非とも往復切符を買えと勧めるので困った。 金が無いとも言えず、何時帰るか判らぬから片道でいいと言うと、切符は一年間有効だと言う。 もっと長くアメリカに居る可能性があると言えば、ビザの延長を申請しても米国政府は最長一年以内しか滞在を認めぬと忠告してくる。その上、ハワイ迄の切符を買うよりはニューヨークまでの切符を先に買って置く方が東海岸へ行くのには割安だと言う。いろいろ言い訳にならぬような言い訳をして、とにかくハワイ迄の片道切符を買った。 十三万七千円は、支払うべき雑貨の仕入れ代金などの支払いを中止して流用した。 仕入れ先には申し訳ないが、背に腹は代えられなかった。

ハワイへ着けば、例え肉体労働をしてでも金を稼ぐつもりでいたが、当座の懐銭(ふところぜに)に数百ドルくらい無いと心細い。ところが有難いことにシカゴのバイヤー上原さんから近々四百ドル、前に積んだ品の代金を送ってくれることになっていたので、それをハワイで受け取る段取りにした。

あとは家内の生活費と病院の分娩費用だけだ。これは、ハワイへ着いてから、その都度工面して送ればいいと、頼りにならぬような事を莫然と考えていた。 今から考えて見ても随分無責任な話だ。 処が、案ずるより生むがやすしで、後日、男気があって親切な福富という友人がかけずり歩いて、家内の生活費などのすべてを調達してくれた。 だから彼には一生頭が上がらない。

一〇、 いよいよハワイ行き

いよいよハワイ行きということになって、初めての洋行ではあるし、まだ外貨制限も厳しいため私の周辺に外国旅行の経験をした人もいなかったので、些か不安だった。 先ず、ホノルルの空港へ到着したとき、誰か知人が迎えに来てくれていないと便利が悪い。ホテルも何処で泊まるのか全然見当がつかない。取り合えずそれまでの処、ハワイの人で顔見知りは蒲鉾屋の渡辺さんか古本さんかしか居ない。そこで渡辺さんに手紙を出して「近々貴地へ行くが、お世話して頂けるであろうか」といってやったが、待てど暮らせど返事が来ない。 やはり商売人は利に聡いから、妙な男が日本から転がり込んでも相手にしないのではないかと、不安になってきた。

そこで東京の三信ビルで貿易ブローカーのようなことをしていた親友の青木氏に、誰でもいいからハワイに住んでいる親切な人を紹介して欲しいと頼んだ。青木氏は、以後二十年に亙り私が親しくした人だが、亡くなるまでとうとう彼の本当の素性を知らずじまいであった。 とにかく、善人で、常に夢を見てい、そして英語が日本人離れしていた。付き合い関係も殆どが外人で、日本人との付き合いは余り多くなかった。 東京に住んだ経験のある古い人たちは記憶がおありだろうが、昭和二十年代、日比谷の三信ビルの地下にピータースレストラントという有名な欧風食堂があり、その名義人はロバートピーターという東京で現地除隊した濠州人の大男であった。青木氏はピーター氏の親友で、二人で一時期、築地の都電前でブラックキャットという進駐軍向けの高級食堂を経営していたことがあり、私もその経営に少しばかり荷担していた。そうした訳で私は青木氏と親交を持っていた。

その青木氏が、彼のハワイの知人宛の紹介状を書いてくれ、それを持って私はハワイへ飛んだ。昭和三十一年師走の二十五日だった。 青木氏の話では、その紹介状の宛先であるギルバートボールズ氏は、学位を幾つか持ったキリスト教の牧師で、在ハワイ日系人の父と称せられ、ハワイの日系人であれば誰でも知っている<生き神様>のような存在であるとの事であった。 たぶん、その人の家で泊めて貰えるかも知れぬと青木氏は言った。

懐に<なけなし>の金、一〇五ドルを持って私は日本航空のDC-6Bというプロペラ機に乗り羽田を飛び立った。 客席は五列で、三列目と四列目の間が通路になっていた。乗客の内、約三分の一はアメリカに留学する自衛隊の軍人たちであった。
 
 夜明け前に飛行機が寂しい島に着陸した。もうホノルルへ到着したのか。それにしても活気がなさそうだと思ったが、そこはウェーキ島だった。(最近のウェーキ島) 私は給油のためウエーキ島に着陸するということを聞いていなかったから、もうハワイへ着いたと思ったのである。そこで夜明けを見ながら朝ご飯を食べたのだが、注文したハムエッグが無く、ベーコンエッグが出てきた。 なぜハムがなくてベーコンがあったのか、未だに疑問に思っている。どうやら、アメリカではハムよりベーコンの方が普遍性があるようだ。 私はややこしい西洋料理を注文する英会話能力を持ち合わせぬから、異国でレストラントへ入った場合、いつも躊躇せず「ハムエッグ」を注文することにしているが、どうやらこの傾向は大方の日本人に共通のものと思える。 その証拠に、東南アジア辺りの食堂へ入って、さてメニューの中のどれにしょうかと思案していると、「メダマヤキか」と、相手のウエイターが先に言い出すことが多い。 もっと省略して「メダマ、か」と聞かれることも多い。、だから、目玉焼きは日本人旅行者の常食と考えてもいいのではないか。ついでに言えば、日本人旅行者のナイトクラブに於ける飲物では、「水割り」がいちばんポピュラーのようだ。  東南アジアのナイトクラブで何を飲もうかと思案していると、「水割り(みるわり)かー」と、バーテンダーが聞くことが多い。

飛行機は十二月二十五日、クリスマスの深夜にホノルル空港に到着した。移民官が「お前のバスネスは何か」と英語で聞いたのが、私の語学力不足で聞き取れず、慌てて日本航空の社員が寄ってきて通訳してくれた。 バスネスと聞こえたのは、ビジネスのことであったのだが、それにしてもハワイ到着第一関門で、早速、英語が通じないので先が心配になってきた。

税関は予想したより簡単に済み、さあもう外へ出てもいいということになったのだが、真夜中のことだし、勝手も判らぬので、大きなトランクを提げてその場でうろうろしていた。すると大きな黒人の赤帽がやって来、私の荷物をワゴンに載せた。 反射的に私は「サンキュー」と言った。日本を立つときに誰かが、そのようなときアメリカではチップを渡すものだと教えてくれ、その額は普通一ドルくらいと聞いてきたので、持ってきた一〇五ドルの金の中から一ドル紙幣を出して赤帽に渡した。後日、ハワイの人に聞いた処では、そのような場合五セントか、せいぜい一〇セントでよかったらしい。ワゴンを押す赤帽の後ろについて七、八歩あるくと木のドアがあった。 それを開けた途端に驚いた。 そこはもう道路で、タクシーが待っていた。 私は、外へ出るまでにまだまだ長い通路や他の部屋を通るものと思い込んでいたのである。たった数歩トランクを運ぶだけで、<なけなし>の一〇五ドルのうち早くも一ドル費やしてしまったのだから悔しかったが後の祭りであった。

タクシーの運転手はどうやら日系人のようであったが、英語も日本語も通じない。 ポケットから青木さんに貰った紹介状を取り出し、封筒の宛名を示して「ここへ行け」と言うと、判ったらしく車を発車させた。 初めてみる熱帯の夜は椰子の葉が搖れ思ったより涼しかった。 やがて車は広い大通りに出、どちら向きに走っているのかは判らぬが予想外に長い道のりを走る。 どうやらメインストリートらしく、両側の建物は事務所や大きな店のショールームになっている。それがどういう訳かすべて電灯をともしたままで、それにしては人が殆ど居ない。 深夜だから人が居ないのは当然だが、なぜ電灯をつけたままなのだろう。 電気がもったいないではないか。それとも今日はクリスマスだから、それを祝って電灯で飾りたてているのかしら。 それにしては、いやに静かだ。と、いうようなことを考えているうちにもタクシーはどんどん走り、料金メーターも上がっていく。 そのうち道の両側がだんだん寂しくなってきた。どうやら街を外れたらしい。 どこまで行くのだろう、と思っているとまた両側に商店街が現れた。しかし今度は前より小さな町並みだ。メーターがぐんぐん上がるので気が気でない。大通りを左折れして坂道を上り始めた。 相当スピードを出しているが、飛行場を出てからもう三十分か一時間近く走っている。  坂道は曲がりくねってどうやらジグザグコースのようだ。どんどん山の上の方へ登っていく。 坂道の両側の住宅は広い庭が付いてい、高級住宅地のようだ。 とうとう山の頂上まで来てしまった。 いったい何処まで行く気だろうと思った途端に車が停まった。運転手が手振りでここだという。 メーターは五ドル七十セントまで上がっていた。えらいことになった。 一〇五ドルの持ちがねの中、さっき赤帽に一ドルやり、ここで五ドル七十セント払えば、もう後は一〇〇ドルを切る。 下手をするとハワイで飢死にするかも知れない、と思うと気が気でなかった。 

とにかく運転手に料金を払い、彼が指し示す家の玄関のベルを押した。 深夜だから寝ているらしくなかなか起きてこない。 数分経って、ようやくドアが開いた。途端に私は<どきっ>として、一瞬、心臓が止まったような気がした。 ドアを開けた人は、ひょろひょろの、とてつもなく背の高い老人だった。 筆のように背が高く、そして細かった。手に持って出てきた燭台の蝋燭が、その人の高い鈎鼻を半分照らしていた。 それは子供の頃に見た絵本の中の魔法使いの老人にそっくりだった。その人がボールズ先生で、歳は確か八十才であった。 蝋燭の光で紹介状を読んだ【ギルバートボールズ牧師】はたどたどしい日本語で言った。 「青木の手紙では貴方をここに泊めて欲しいと書いてあるが、いまボールズ夫人は高齢で、しかも重病だから泊める訳にはいかない。 下のホノルルの町のYMCAに今から電話して頼んでおくから、今夜はそこで泊まりなさい。 明朝、私がそこへ訪ねて行くから、話はすべて明日にしましょう」。そう言われては無理に泊めてくれとも言えなかった。 「判りました、それでは YMCA までの地図を書いてくれませんか。 今から歩いてそこまで行きます」 「いや、遠い所ですからとても歩いては行けません」「いいえ、私は歩き慣れていますし、それにまだ若いのですから大丈夫です」「いや、とても歩いて行ける距離ではありません。 タクシーで行きなさい」もうこれ以上タクシー代など払える金はないと思い、押し問答のようなことを言っていると後ろの暗闇から声を掛けた男が居た。 気が付くと、その人は私を載せてきたタクシーの運転手で、まだ車を返さずに先生と私の問答を見ていたのである。運転手は何か私に解らぬ英語で、先生と二こと三こと話をした。 そして先生は言った、「この運転手が、どうせ帰り道だから貴方をYMCAまで無料で乗せて行くといっている。 この人は私を知っているようです」ただであれば大歓迎、私はそのタクシーでホノルルの町まで引き返した。 後で判ったが、ホノルル飛行場は市の西はずれ、パールハーバー寄りにあり、ボールズ先生の家はホノルルの東はずれ、カイムキの町を左折れして山を登った頂上、つまりマウナラニサークルにあったから、大阪で言えば伊丹の空港から生駒の山頂へタクシーを走らせたようなものである。参考までにいえば、サークルという地名は、山の頂上で自動車道がくるりと回って下へ引き返す地点を言い、そこがその山一帯に建っている住宅の中で値段も最高の住宅地である。言い替えれば、山麓付近の住宅は安く、上へ登って行くほど上品で高級な住宅が建っているのである。

ボールズ先生は太平洋を見おろすマウナラニ山の山頂に家を建て、すぐ隣家に住んでホノルルの街で産婦人科医をしている長男に看取られて引退生活を送っていた。この人の次男が、戦後日本の六・三・三制学制改革をやってのけたボールズ博士で、先般のNHKテレビ放送によればまだノースカロライナに健在らしい。ボールズ牧師については、以前に青木氏から《断片的》に説明を受けたことがあるが、それがどこまで真実か判らなかった。《断片的》とは、例えば、師が横浜のフレンド女学校の校長であったとか、ララ物資・ケア物資の援助を主導し、その功績で天皇陛下から勲四等を貰ったとかいう話である。ララ物資・ケア物資というのは、確か終戦直後の物資欠乏期にアメリカの民間団体から食糧や衣料を大量に送ってきたことがあり、我々の世代の人の脳裏には今でも微かにララ・ケアの名が記憶されている筈である。しかしそれがどのような経路で、そして如何なる機構のもとで日本の民間に配布されたのか。または、政府による正式の配給物資となったのか。その辺りのことは、今となれば古い新聞の記事でも引っ張り出して調べない限り判らない。 青木氏は、それがボールズ牧師の企画主導によるものであったと言うが、もしそれが本当であれば、ハワイ・カリフォルニアのプロテスタント教会筋の日本向け救援活動ではなかったかと思われる。

フレンド女学校というのは、私にとっては確かそのような名前の学校があったという程度の知識にとどまるが、あるとき小説を読んでいて偶然この名前が出て来、ああそうかと思ったことがある。その小説というのは瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」で、その中に『神近市子が津田塾を出たものの就職口がなく、結局、横浜のフレンド女学校のオーナーであったボールズ夫人の秘書になって幾らかの収入を得た』という記述があった。 たぶんこのボールズ夫人が、私がハワイへ到着した晩に重病であるとボールズ牧師が告げた師の奥さんであったろう。 ちなみに、ボールズ夫人は旦那さんより四才歳上だったから、そのとき、夫人は既に八十四才の高齢であった。何れにせよ、ボールズ夫妻がフレンド女学校の校長か、もしくはオーナーであったのは事実らしい。  神近市子女史は、のち、大杉栄刺傷事件を起こし、戦後は参議院議員になった著名な女性社会運動家である。

話は元の舞台へ戻る。 ボールズ牧師の家から無料タクシーに乗せられてホノルルのダウンタウンにある中央YMCAに着いたときはもう深夜の一時を過ぎていた。YMCAというから簡易宿泊所のような所と思っていたが、どうしてどうして実に立派なホテルであった。 部屋へ案内されたが、その押入のような所の扉が大きな一枚ガラスの鏡になってい、床は深々とした総絨毯張りで、その少し前に出来た大阪のグランドホテルよりも美しかった。それでいて、部屋代は一日僅かに二ドルとのこと。 後で判ったが、この中央YMCAはちょうどその頃出来たての<ほやほや>だったそうだから、なお美しく見えたのである。

部屋に荷物を置いた途端に急に腹が減ってきた。気がゆるんだせいだろう。下のロビーへ下りて受付で深夜番をしている黒人の青年に「何処か食事をする処はないか」と聞いた。 「表へ出ると道が斜めに交差している。そのすぐ向こうに<カネスイン>という日系の深夜食堂があってネオンサインが出ている」と教えてくれた。外へ出てみると道などはなく、ただ<だだっぴろい>運動場のようだった。しかしよく目を凝らして周囲を窺うと、それはどうやら大きな道路と道路の交差点らしかった。 それまで私の頭にあった道というのは、日本の小さな道路だったから、アメリカのあの巨大な道路が理解出来なかっただけである。 すぐ先にあると教えられたカネスインのネオンサインも遥か彼方にあった。 その食堂に入るや、飛びつくようにしてメニューを見たが、殆どが二ドルか三ドルの高価な料理ばかりである。 もう一〇〇ドルを割った懐の金だから、いちばん安いもので辛抱しようと決心し、たった一つだけメニューの最後にあった五〇セントの品を注文した。それは「サイミン」という名で、運ばれてくるまでどのような料理か判らなかった。 何でもいい、値さえ安くて腹が膨れればよかった。 沖縄系の女性らしいウエイトレスが運んで来たのを見ると、それは今でいうラーメンだった。「サイミン」はハワイの東洋人の間で最もポピュラーな簡易料理であり、それはたぶん、その後わが国に出現した「ラーメン」の<濫しょう>ではないかと私は思っている。

食事を終わってYMCAへ帰り、ベッドに潜り込み、少し<うとうと>したと思うと、枕元の電話のベルが鳴った。 目を覚ますと既に熱帯の太陽が窓の外の樹木にさんさんと降り注いでいた。受付からの連絡で、ボールズ先生がロビーで待っていると言う。 慌てて身繕いをし、下のロビーへ下りてみると、コバルト色のタイルで出来た中庭のプールの側でボールズ先生が待っていた。 そのとき、YMCAの従業員たちの先生に対する態度が非常に丁重だったのが印象的だった。先生は「お前は商売のためハワイへ来たらしいが、それにはこのワイキキの中央YMCAでは便利が悪い。今からすぐ日系人が沢山居る街中のヌアヌYMCAへ連れて行くから、そこへ移りなさい。そこは料金も安いので長く滞在していても大丈夫だ」と言い、有無を言わせず私をヌアヌYMCAへ連れて行った。 ヌアヌYMCAで先生は主事や副主事や、そして数人の事務所の人たちに私のことを宜しく頼むと言い、ちょうど居合わせた日系の元老らしき人々にも紹介してくれた。東京で聞いてきた通り、日系人たちのボールズ先生に接する態度は非常に<いんぎん>で、尊敬されていることが一目瞭然だった。

ところが私は少し面白くなかった。 というのは、昨夜泊まった中央YMCAは大阪随一のグランドホテルよりも、より美しく立派で、ロビーからプールサイド、それに食堂まですべてが優雅で、上品そうな白人ばかりだったのが、ヌアヌYMCAの方は日本人、中国人、それに小錦のような現地人ばかりで、建物も古い木造でペンキもだいぶ剥げていた。 私は、「憧れのアメリカへとうとう来た」という感激でいっぱいだったから、出来れば美しい中央YMCAの方に滞在したかったのである。

しかし、それを察した先生は、「お前は商売に来たのだし、お金も沢山持っていないだろう。それに、お前が今日から相手にしょうとする日系の商人たちは殆どこのヌアヌに住んでいるから、金持ちの観光客ばかりのワイキキでは不向きである」と説明する。そう言われては一言もない。お金のないのはもう昨夜から頭の痛い処だから、ワイキキに住むのを諦めてヌアヌYMCA宿舎の入居手続きをした。 いちばん心配していたのは、予定した通りの長期、つまり私は約半年間ハワイに滞在するつもりであったのだが、そのような長期に亙ってホテルなりYMCAが滞在させてくれるであろうかということだったが、それは予想に反して、YMCA側は幾ら長くいても構わぬと言い、一週ニドル九十セントの低料金を示してくれた。 この宿泊料は思いがけぬ安さであった。一ヶ月でも十五ドルで足りる。 但し、これは二人相部屋であった。入居手続をすませると、ボールズ先生は「今から市バスに乗る練習に連れていく」と言う。「お前は車を持たぬし、タクシーを常用するほどの金もないだろう。唯一の交通手段は市バスだから、乗り方をしっかり憶えなさい」と言いながら、自身で切符の買い方から乗り換えの方法まで実演して見せてくれた。乗り換え切符は「トランスファープリーズ」と言って乗ったときにすぐ運転手から貰って置けとか、「お前の泊まっているYMCAはフォート通り(現Pali Hwy)とベレタニヤ街の角だから、帰る道が判らなければ、そう言って誰かに送って貰え」となかなか懇切丁寧だった。処が一つ困ったことには、私は「フォート 通り」のフォートという発音が出来ないらしい。先生はそれを教えようとして数十回近く私にフォートの発音を稽古させたが、結局諦めてしまった。そのとき気が付いて以来数十年、私は英語のFの正しい発音が出来ないことになっている。自分ではちゃんと発音しているつもりだが、アメリカ人に言わせると私はFの発音が出来ぬ生まれつきの性質らしい。

とにかく先生は非常に、と言っていいほど心の細やかな人で、昼ご飯のときパンにバターを塗る方法まで無作法にならぬよう指導してくれるという具合いで、非常に親切であった。戦前に日本を離れたそうで、そのため日本語の会話は少々ぎこちなかったが、「ハワイ報知」という日系新聞などは十分読めていたようである。むしろ、日本語は文法的にも相当出来た、という方が妥当である。ある時、私に「日本語で名詞を形容詞に直すのには、名詞の後ろに〔的〕という字を付け加える」と言はれたので、「なるほど時間的とか納期的というような日本語は名詞でなく形容詞なのだ」と、そのとき初めて気が付いた次第であった。

ヌアヌYMCAへ移った日は丸一日ボールズ先生に伴われて、ホノルルの街のあちこちを市バスで見学してまわったので市内の地図は概略のみ込めた。 何処へ行っても日系の人たちは、明らかに先生を尊敬し、そしてその先生が私の事を宜しくと頼んで呉れたので、私まで尊敬されいくらか気恥ずかしかった。

しかし翌日はもう私一人だった。 うかうかしていると喰いはぐれるので、すぐ商売を始めねばならない。 先ず、以前から蒲鉾板を買ってくれていた奥原蒲鉾へ電話をした。するとジミー奥原氏がすぐYMCAまで訪ねてきてくれた。 初めて会った奥原氏は、予想に反して少々異国人の風貌で、西郷隆盛のような体駆と顔つきだったが、白人に似て大きな目は少々鳶いろの感じだった。沖縄出身の二世で、近所に住んでいる両親に会ったとき「天皇陛下は如何お暮しでしょうか」と質問されたのには面くらった。二、三日は彼がその親類縁者、それに友人たちの間を<見せ物>よろしく、精力的に連れ回ってくれたのには感謝するより先に疲れが出る程であった。その後すぐ正月である。 異国の正月というのがどのようなものか判らぬので、YMCAに泊まっている青年たちに様子を聞くと「すべての商店や食堂が休みになる」と言う。それでは正月中は食事に有りつけぬことになるので、慌ててYMCAの斜め前にある日系の食料品店へ行って大きなバナナを一と房と冷凍のソーセジを一パック買い、それで正月を過ごそうとした。処が遠藤さんというその店の主人が私の買物をいぶかって「貴方は数日前からYMCAに泊まっているようだが、何故そのような品を買うのか」と聞く。「正月あいだに食べるため買ったのだ」と言うと、「それであれば正月は私の家に来なさい。そしたら食事の心配は要らぬではないか」と言う。有難くお受けした処、元旦の日の朝一番に迎えに来てくれた。これは本当に有難かった。元旦の深夜まで遠藤さん宅で過ごしてYMCAへ帰ったところ、受付にメモが置いてあり、奥原氏が留守中に迎えに来ていた。もう一人、つい二、三日前知合いになったダウンタウンのみやげ物やの夫婦も迎えに来てくれていた。 このとき初めてハワイの人たちの親切と人懐っこさを知った。<渡る世間に鬼は無し>であった。 元旦の二日目と三日目は、再度、奥原氏の親類縁者の間を<たらい回し>され、おかげで正月中は大忙しで、買ったバナナもソーセージも食べずじまいであった。

この調子では、日本出発前に手紙を出したが<無しのつぶて>だった渡辺蒲鉾の渡辺さんも本当はいい人であったかも知れぬと思い直し、正月明けに訪ねてみた。会うなり渡辺氏は人のよさそうな顔で「まあ、貴方は何故私に到着を前もって知らせなかったのか。そうすれば飛行場まで迎えに行ったのに」と言う。手紙を出したが返事は貰えなかったと言うと、そのような手紙は受け取っていないとのこと。ところが、側で話を聞いていた奥さんが「何か知らぬが先ごろ日本からきた手紙が神棚のそばに置いてある」と言う。 調べてみると鴨居の上に祭ってある伊勢皇太神宮の棚に私が投函した手紙が封を切らずに置いてあった。と言うような訳で、「べんとう渡辺」氏が返信をよこさなかった理由も判明したが、だからといって苦情の言い様もなかった。

ハワイへ到着した週は初日から沢山のジェット機がひっきりなしに離着陸を重ね、それは総て南西の方へ向けて飛び立っていた。 話に依れば何でも軍需物資の大量入れ替えで、そのジェット機群はグアムへ向けて移動しているとの事だった。「折角ハワイへ来られたのにこうやかましくては不愉快でしょう」と現地の人々が言ったが、私は灰田勝彦の<あこがれのハワイ航路>という歌を思いだし、「とうとう、夢にまで見たあのハワイへ来たのだ」という嬉しさから、ジェット機の音など全然気にならなかった。

     かにかくにジェット機の音まで楽しけれ われ見たり来たりホノルルの町という歌をそのとき作った。 《かにかくに》というのは、吉井勇の <かにかくに祇園は恋し寝るときも・・・>や、石川啄木の <かにかくに渋谷村は恋しかり おもい出の山思いでの川> などに使われている初句で、この言葉をとり入れるといささか有名な歌の<盗用>みたいな感じがするが、こうした慣用句を常套的に使うのは日本古来の「和歌」の習慣に過ぎない。 というよりはむしろ、「和歌」というのはそれに依って成り立っているといってもいい。前に述べたことがあるが、そっくり同じ <うぶすなの森の山もも ふるさとは・・・>という、上の句を使った歌が柳田国男とその兄、宮内省お歌所寄人井上通泰の歌にある。少々長くなるがこうしたことについての柳田国男の見解を左に引用してみる。 題詠の歌は実状を詠まなくても、想像でいいわけである。 だから妙令の処女にも何々の恋と 言うような歌を詠ませることになる。 今から考えればじつに不穏当な話だが、題詠は「四季」 だけでは寂しいので、「恋」と「雑」とを添えている。時々そんな題が出ると、<わが背子が ・・>などと想像で作るわけである。 いまでは題詠は軽蔑すべきものとみられているが、和 歌の伝統からいえば、こうして口を馴らしておいて、何時でも必要なときに詠めるように訓練 しておくのだった。つまり柔道の乱取りみたいなものである。それを何度もしているうちに、 いよいよ自分がどうしても詠まねばならない辞世の歌とか、別れのうたとかを作るときにすら すらと出るようにしておくのが、歌の道のたしなみであった。私どもが子どもの頃それを歌口 といていた。(中略)日本の文学は応用するような場合のない人にまで<嗜み>として和歌  を作らせ、お茶、花、琴などと一列にして、「歌も少しは教えてあります」などといって、お 嫁にやる時の条件にしたりした。そのため、本当はどこの恋だったのかと談判されると閉口す るような<待つ恋>だの、<待ちて会わざる恋>だのと、平気で若い娘さんも書いたのである。和歌を詠むときに必要なことばを書き集めた書物が『歌枕』で、私が使用した《かにかくに》などは歌枕に出て来る慣用句で、これを用いると下手な歌でも急に歌らしくなってくるから面白い。

私がここでやや冗長なまでに歌口(うたぐち)や歌枕のことを説明するのには少しばかり意図がある。それは最近、俳句が大流行し、私の友人の中にも老後の楽しみなどにそれを始める人が多い。しかし、俳句というのは難しすぎて、私たちのような素人の手に負えない。 なるほど俳句は《わび・さび》などの表現が出来るようだが、なにしろほぼ名詞だけに依存する超短詩だから、心の程を記述するには困難が伴う。 その点、和歌・短歌は、いわば助詞の文学とも言うべく、綿々とした情念と、そして入り組んだ心の<ひだ>を打ち明ける言葉の様式を持っている。 特に和歌の場合は、前に述べたような歌口を脳裏にとどめて置けば、<かにかくに祇園は恋し・・>や<かにかくにジェット機の音まで楽しけれ・・>のように、口調もよく情緒的な詩が造作なく作れ、それは到底俳句の比ではない。 初学者でも作りやすい和歌や短歌を始められることを大いにお勧めする次第である。

ついでにもう一つ注釈を加えておくと、<見たり来たりホノルルの町> というのは、ジュリアスシーザーがローマの元老院に報告した《来たり、見たり、勝てり》という有名なことばから、歌口として借用したものである。 ロータリーの友人ブラッドショウ氏によれば、このラテン原語は VENI, VIDI, VICI で、その英語は I come, I saw, I conquered というのだそうである。

もう一つ同じ時に作った別の歌も披露しておく。    ホノルルの ワイキキの浜の日の入りは 椰子の葉ゆれて茜(あかね)なす雲まことホノルルの夕暮れは、大きく搖れる椰子の葉と茜なす夕焼け雲に象徴され、カメハメハ王朝最後の女王リリオカラニが作ったという民謡「アロハオエ」の哀調にぴったりの情景であった。

この辺りで簡単に【ハワイの歴史】について説明しておく。 といってもハワイにそう長い歴史がある訳でもない。今から二一〇年前、徳川一〇代将軍家治のころ英国の探検家ジェイムス クックが初めてハワイ諸島へ巡航した。ちょうど同じ頃、カメハメハ大王がハワイ全土を統一し、初めて国を建てた。その後数十年の間に、キリスト教の宣教師たちがその地に西欧文化と英語を伝えた。英明なカメハメハ二世はすぐ英語を習い、すんなりとキリスト教に帰依した。彼が英明であったからというよりは、むしろポリネシヤ人特有の大らかさと受容性が、何等のトラブルもなく西欧文明やキリスト教を受け入れさせたのかも知れない。次に立ったカメハメハ三世は、全土の不動産を王家所有分と政府所有の二つに分割し、それぞれに外国人の農業耕作権をみとめたので、米人企業家の砂糖黍畑の開拓が急増した。それは幕末、孝明天皇の頃のことである。カメハメハ三世の末年、即ち慶応の年号が明治に変わった年、日本から初めて農業労働者一五三人がハワイに入植した。 これを「元年組」移民と呼ぶ。

次に立ったカラカウア王の頃、つまり日本では明治初期の頃、ハワイ産砂糖の対米無関税協定が成立し、その代償として米国は【パールハーバー軍港】を租借した。 経済と軍事が国境を変更するという図式の典型がここに見受けられる。そしてこの頃日本の第一回【官約移民】がハワイに到着、内訳は山口県四二〇名、広島県二二二名、神奈川県二一四名であった。以後、一〇年足らずの間に三万人が入植したが、そのうち女性は六千人に過ぎなかった。これらの移民は、ハワイの精糖業者と日本の各県知事との間の協定によったので<官約移民>と呼ばれた。明治二四年に即位した最後の女王リリオカラニは、政務に飽き在位僅かで退位し、砂糖・パイナップル産業を経営していた米人スタンフォードドールを首班とする共和政府が成立した。 しかしその数年後、ドール氏の共和制ハワイ政府はアメリカ合衆国による併合を求めた。 その方が、対米関税交渉に都合がよかったのである。ドール氏は、現在スーパーマーケットで売っている『ドール』ブランドのパイナップルかん詰の創業者である。官約移民は明治二七年に終わる。そしてその後の数年は「私約移民」時代になり、砂糖やパイナップル業者と提携した広島海外渡航会社とか熊本移民会社のような移民斡旋業者の全盛時代であった。しかし、明治三三年にハワイ共和国はアメリカ合衆国に合併され、親戚による呼び寄せ移民だけが入植を認められただけで、日本に於けるハワイ移民熱も下火になってしまった。その時点までの日系移民の累計は一八万人、うち沖縄系は二万人であった。 現在のハワイ全人口八三万人中、日系は二三万人。最も多いのが沖縄系で四万人、ついで広島、熊本、山口出身といわれている。 最盛時にはハワイ人口の半数を誇った日系人も、現在では白人系に次いで第二位になってしまった。 

現在使用されている日系人の言語は、英語、かってカナカと呼ばれたハワイアン、それに日本語の<ちゃんぽん>が幅をきかせている。 日本語は広島弁を主とし、一部熊本方言が混じっていると考えられる。 参考迄に、昭和三〇年頃のハワイにおける日系一世の言葉を再現してみる。

□□□□ 「わしはハー、日清戦役の提灯行列を済ませてハワイへ来たが、初めはモスキート(蚊)が多くてライスを食うにも口へ入るくらいで、手で払わねばカウカウ(食事)出来んじゃった。 毎朝、砂糖黍のプランテーション(農場)へ行き、ハオレ(白人)のボーシ(監督)のハナハナ(仕事)の指図で働き、昼が来るとパウ(終わり)でカウカウ。一服してまたハナハナ、それがパウでハウス(家)へ帰り、それでまたカウカウでモイモイ(就寝)よ。 じゃけん、言葉は四つ、ハナハナ、パウ、カウカウ、モイモイで足りたよ。 英語は、戦後に市民権をとるとき習うまで知らざった。日曜は小林ホテルへ休みに行き、日本からの手紙やパセル(小包)を受取り、アイカネ(友達)とワイキキの景色(けいしょく)をホロホロ(散歩)するくらいじゃった。そのうちポチュギー(ぽるとがる人)からグラージ(がれーじ)付きのハウスを買い、<おかず屋(弁当や)>のビスネスを始め、まあハッピーじゃった。 ワイフも写真結婚で草津の田舎のワヒニ(女性)を貰い、ボーイ(息子)も生まれたが、そのうち戦争が始まりポールシチー(パールハーバー)がやられ、学があったミー(私)らは敵国人のボーシ(幹部)じゃ言うて、メインラン(米大陸)の収容所へ送られ、ハウスもパケ(中国人)に安く騙し取られたが、急ぐケ、サイハン(裁判)も出来ざった。 けどまあ、ここに残ってタンテイ(刑事)に付きまとわれるよりはましよ。 戦争が終わって島へ帰り、またビスネスを始めたよ。 ナンバーワンボーイ(長男)はアーミー(陸軍)で戦死したが、ナンバーツーボーイ(次男)とギョール(娘)は皆『いて帰ります』ちゅうてメインランのスクールへ行き、金を送ってやるに一生懸命ワーク(仕事)したよ。 ボーイ(息子)のヨシオは代言人(弁護士)になり、ギョールのメリーも結婚していまプレグナン(妊娠)で岩田帯を締めとるけんペリケヤ(用心)じゃが、わしももうすぐグランパ(グランドパパ=祖父)になるよ。わしはもうリタイヤ(隠居)して、片手間にガーデナ(園芸業)しとるが、ワイフがシック(病気)で島(他の島)の病院へ行き、ミー(私)もロンリー(寂しい)よ。 今上陛下も戦争で苦労なされたというから、人間みな苦労があるよ。今夜はミーのハウスでヘカ(すき焼き)でもご馳走するからカウカウ(食事)して行きんさい。ココナツ入りのアイスクリームはハワイの名物じゃけ、ユー(貴方)えっと(沢山)食べていきないよ。 ミーは遠慮ノーライキ(NO LIKE = 好かぬ)よ。」  □□□□

こういうふうな会話体で書くと教養のない老人のように思えるが、この人たちはどちらかといえば日本の田舎の百姓たち以上に学もあり、日本から取り寄せた講談社の雑誌などを読んでいた。その老夫人たちも「主婦の友」や「婦人倶楽部」の愛読者で、生け花や俳句の同好会活動が盛んであった。日系移民たちの日本語はそれ自体が一つの立派な CROSS CALTURAL 文化であり、そのおおらかさは万葉文化のそれにも匹敵するといってよいだろう。

私のハワイ訪問と同じ時期に連邦下院議員の選挙があり、多数を頼む日系弁護士の元老、築山長松氏が白人の青年バーンズ氏に破れ、もはや日系の団結よりもアメリカ人としての意識の方が二世たちにとってより身近になってきた時代であった。近刊の【上院議員 ダニエル イノウエ自伝】によれば、四四二(フォーフォーセカンド)の英雄、ダニエル井上はそのときの選挙ではバーンズ氏の片腕として活躍したらしい。パイナップル部隊こと、四四二部隊の活躍については既に映画やマスコミで充分過ぎるほど有名であるが、私のハワイ滞在中も、ハワイ日系人の社会的地位を上げた功労者として日系一世たちの感謝の的であった。 この日系英雄部隊の概要を記せば次の通りである。

昭和一八年一月、米陸軍省は、《十分訓練をつんだ前線従軍戦闘部隊を結成するため、なんの制限も強制もなしに》4000人の二世義勇兵を受け入れた。 それが第四四二歩兵連隊であった。 イタリア戦線に投入された四四二部隊は四七個の殊勲十字章、一個の名誉勲章、一〇個の部隊表彰状と3915個の個人勲章を獲得し、その代償として戦死兵700、重傷兵1700、死傷兵は全部あわせて3600に達した。 アメリカ陸軍でこれほど多くの勲章を貰った部隊は他にない。 名誉勲章一個は、ダニエル井上のものである。福岡県出身の農業労働移民を祖父に持ち、ハワイ大学医進課程にあったダニエル井上は、三回の重傷と右腕切断の不幸に会ったが、四四二部隊の英雄として大尉で除隊し、戦後、政界に進出し日系初の上院議員となり、三選を重ね、ウオーターゲート調査委員会委員やニカラグア秘密工作調査委員会委員長を務めた。彼の自伝によれば、彼とマギー夫人との仲人は、私がヌアヌYMCAへ移ったその日、ボールズ牧師が私を宜しくといって頼んでくれた日系教会の元老、安森老人だったそうである。

私はこの安森老人の依頼でヌアヌYMCAの「木曜午餐会(テースデーランチョン)」に於て、数十人の日系老人を前にして「最近の日本の社会に就いて」という講演をしたことがある。 講演の内容は確か、「敗戦で何もなくなった日本ではあるが、徐々に産業も回復し、いま私が皆さんの前で着ている衣服などは上から下まで総てみな日本製である。 巷に血を売る学生も居るが、桜の咲く春、雪の降る冬、紅葉の秋、それに白砂青松の海もそのまま残っている。花鳥風月を友として、老後は日本でお暮しになりませんか」というようなことであった。 感激した聴衆がおおぜい握手を求めに来、翌日の新聞にその記事が出て少々気恥ずかしかったのを記憶している。

当時、というのは昭和三二年ごろのことだが、彼ら日系一世の願いは、乏しい年金を、一ドル三六〇円の強い米貨の力でなんとかして郷里日本で、幸せな余生を送れないものだろうか、ということであった。 それに対して私が「何はなくても懐かしい花鳥風月と、それに温かい故郷の友人たちが居るではないか」と、老人たちのノスタルジーをくすぐったものだから、一度にどっと懐旧の情が噴き出し、それが私のスピーチに対する賞賛となって顕れたのである。そしてそれを見ていたYMCAの安森老人は、私に、ハワイに残って日系放送のアナウンサーになったらどうか、もしその気があれば放送局に斡旋するが、と言ってくれた。 もしその示唆に従っておれば、今ごろ私はハワイのアナウンサーになっていたかも知れぬ。

その頃のハワイの日系商人および日系企業の主だったものを紹介すると、まず筆頭はヒガ トラッキング サービス というハワイ最大の運送会社ということになるだろう。 オーナーは比嘉という沖縄出身の人で、噂によれば、誰もが躊躇したパールハーバー空襲の戦死者を運び、そして納棺する仕事を一手に引受け、僅かの期間に巨富を得たのだそうである。ちょうど、朝鮮動乱のあだ花としての日本マタイと篠崎倉庫を併せたような存在であった。

次に挙げるべきは、当時、日本人商工会議所会頭であった神戸出身の磯島武夫氏と、大阪出身の中央太平洋銀行頭取、飯田鴻一氏であろう。もともとハワイには近畿出身者は皆無に近いから、この二人の大物は出身地からいえば異例中の異例といえる。 思うにこの人たちは農業移民として来たのではなく、日本に於てしかるべき高等教育を受けたのちある程度の資産を持つ企業移民としてハワイへ移住したのだろう。磯島氏は、ほぼ白人たちで占めていたワイキキ海岸の商店街でハイカラな高級みやげ物店を経営してい、出身は須磨とのことであった。 従って、県人会活動の盛んなハワイでは孤立派であると、私に説明していた。 三三頁でも述べたが、こういう会話のときは、通常「私も兵庫県生まれです」と言って、共通の知人を探す話をするのが通例であるが、須磨出身の紳士と福崎の田舎生まれではそのような会話の接点もなく、背景が違いすぎるので、ついに親しくならずじまいだった。

大阪出身の飯田鴻一氏を訪ねたときの情景は一風変わっていた。大阪市北区宗是(そうぜ)町といえば大阪ビルの在る所だが、その通称「大ビル」のすぐ裏側に三階建ての洋館が戦前からあった。 飯田翠山堂といい、昔からの美術工芸品商であった。 であったというのは、現存しているかどうか私は知らぬからである。 その飯田翠山堂のホノルルの店のオーナーが飯田鴻一氏である。 ただしホノルル市中心街のこの店は、陶器を始めとしたあらゆる家庭用品の大きな小売店で、店内にはうず高く商品が梱包したまま積み上げてあった。訪ねていって「こんにちは」と大きな声を出したが、誰も出てこない。 数回呼ぶとようやく奥の方から返事があって「どうぞ中へお入り下さい」という。 まるで漱石の「草枕」のような具合いであった。荷物と荷物の間の狭い通路を通って奥へ入ると、行き止まりに向こう向きになって机の上で手作業している初老の人がいた。みれば、小さな陶器の<箸置き>に小売の値段札を貼っている。

その人が、くるりと振り返って私を見、「どちら様ですか」と言う。 名刺を差しだして自己紹介し、「この度、ハワイへ商売に参りましたのでよろしく」と挨拶したところ、その人も名刺を出して「ちょっと肩書が違いますが私が飯田です」と言った。 名刺には、<中央太平洋銀行頭取飯田鴻一>と印刷してあった。

私は一瞬たじろいだ。 中央太平洋銀行という住友銀行系列の新しい銀行が、つい先だってハワイに出来たのは私も知っていた。しかしその頭取がこの人であろうとは知らなかった。 仮にも銀行の頭取が、一人<ぽつねん>と座って、陶器の値札付けをしているとは想像し得ないことだし、私がたじろぐのも当然のことである。 「私の本職は瀬戸物屋ですが、住友銀行に頼まれて銀行の頭取も兼務しています。 今の処、銀行は本店と小さな支店が三つあるだけですが。預金量は住友銀行の名古屋支店とちょうど同じくらいです」と、飯田氏は説明した。 人柄がおっとりしていて、何の<けれんみ>もない。 たぶん金持ちなのだろう、だから住友が頼んで頭取をしてもらっているのだろうと思った。商品はすべて大阪の翠山堂から送って来るとの事で、商売に私の入り込む余地はなかった。

当時はハワイにおける戦後第一回のスーパーマーケット全盛時代で、中国系のフッドランド、日系のタイムスやスターマーケト等と並んでハワイ随一の総合商社THデビス商会が白人向けスーパーマーケットのピグリーウィグリーをチエーン展開したところだった。しかし白人人口が少ないため苦戦してい、その経営を日系人に委託した。 それを請け負ったのが、ワイパフスーパーの新宅・中野の両氏だった。ワイパフスーパーマーケットはホノルルの北西数十キロのワイパフ町にある単一スーパーで、その頃、最も繁盛しているスーパーといわれていた。 蒲鉾屋の奥原氏が親しかったので、私も数回ワイパフスーパーやピグリーウィグリーの本部があるTHデビス商会へ遊びに行ったことがある。 デビスという有名な白人商社ビルのワンフローワーを占拠することになった新宅・中野両氏の得意満面の顔は今でも忘れられない。 確かに、そのとき彼らワイパフスーパーグループは日系小売業界の立て役者であった。 ただ私にとって不便なことは、日系二世の彼らが殆ど日本語を解しなったことである。

輸入卸売業界ではチェリー商会、ロイヤルトレーデング、藤井、スタンダードトレーデング等の日系人向け輸入商、いわゆる<梅干し沢庵貿易商>がしのぎを削って争っていた。もともと日本の輸出貿易の源流は横浜の生糸貿易と神戸の沢庵貿易にあるといわれている。 明治の始め、横浜からの主要輸出品は生糸であった。 それに対して神戸からは、最初は緑茶や銅地金の欧州向け輸出が盛んであった。しかしインドで紅茶が生産され、銅地金の在庫も底をついてからは、安定した輸出品目としてハワイ・カリフォルニア移民向けの消費物資輸出が脚光を浴びた。 それは主として神戸港から船積みされたが、世人それを称して「梅干し沢庵貿易」といった。 梅干しに始まり、花札から桐下駄に至るまでが、彼ら日系輸入商の手を経て日本からの移民たちに供給されていた。スタンダードトレーデングの社長、神岡松太郎氏の話では、戦後すぐ「バイヤー」の名のもとに日本各地を買付け旅行したときほど楽しいことはなかったという。 北海道から九州まで、各都市々々の商工会・商工会議所が<歓迎神岡松太郎先生>と大書した看板や旗を表に出し、芸者衆を従えた土地の有力者たちが下座に座って挨拶してくれ、あたかも天皇陛下か凱旋将軍のような面目であったそうだ。 この楽しさが忘れられず、毎年、日本へ買付け旅行し、つい売れぬ品まで大量に買付けて、後々まで在庫過剰で困ったという。

そうした食品雑貨輸入商の他に、ひときわ抜きんでて著名なのは鮮魚貿易商の大谷松次郎氏であった。広島県出身の大谷氏はM大谷商会の名のもとに、ホノルル魚市場を支配し、大洋漁業の代理店として名実ともにハワイ日系商業界の王者であった。ハワイにおける取引先や友人が殆ど蒲鉾・冷凍魚関係者だったため、私の毎日の訪問先はほぼ魚市場周辺に限定されていた。 だから大谷氏を始め鮮魚の仲買・卸商、それにスーパーの経営者たちともすぐ親しくなった。 どういう訳か知らぬが、彼らの出身県は広島・山口・沖縄の三県に限定されていたようである。

そのほか親しくなった数多くの人々の中で、いまでも記憶に鮮明なのはホノルル旧市内の博文堂書店の藤原氏と、その親友末岡氏である。封筒の宛名に「ハワイ 博文堂様」と書くだけで外国(日本)から郵便が届くと自慢していた藤原氏は、その頃初めて市場に出た内田洋行の「マジックインキ」と小型ホッチキスの注文を私に呉れ、その貨物が到着するのと同じ時期に大阪から連絡があって「内田洋行の久田会長一行が初めて海外旅行をするので、最初の到着地ホノルル空港まで出迎えて欲しい」とのことであった。

一行は【内田洋行】の久田会長、へんみ計算尺の大倉氏(この人は月桂冠の大倉酒造の一族とかいっていた)、それにホッチキスのトーホー精機の川村氏ら一行であった。飛行場へ博文堂の藤原氏と共に出迎え、そのあと二日間は藤原氏にお願いして島内見物と接待を受け持って頂いた。偉い人だからと気にしていたが、会ってみると久田会長は温厚で頭の低い人でほっとした。 藤原氏の家へ招かれた久田氏は、最初は「私はもう年寄りですから日本を出るときに愚妻から『海外旅行中はいっさい酒を飲むな』と言われているので、折角ですがお酒は頂けません」と言っていたが、再度勧めると「それではお言葉に甘えますが、どうぞ皆さん、内の家内には内緒に頼みます」と言って、その後は「ハワイの酒は美味しいですね」を連発しながら楽しそうに延々と飲み続けた。 その間、何でもかでも見るもの聞くもの、ハワイの総てを褒め上げ、「結構ですな」や、「ありがとう、ありがとう」を連発して、悠々と飲み、かつ、ご馳走になって翌々日カリホルニアへ飛び立って行った。 さわやかで、図々しくて、そして<ひょうひょう>としたこの小柄な老人の接待の受け方は、まことに衆人の範とすべき処であって、いま思いだしてもほほえましくなる程である。いま私は、当時の久田会長の年齢にようやく近ずいてきたので、あのように優雅で<ずうずうしい>態度で、あちこちの接待に預かるべく心がけようと思っている。このことがあり、加えて偶然のきっかけで氏の三男、仁(ひとし)君(この人はいまユーザックの内田電子工業の社長をしている筈である)に仕事を頼んだこともあって、久田会長には亡くなられる前日まで親しくご交際を頂いた。 「内田洋行と共に」という氏の自伝の第二巻々頭の<ホノルル飛行場に於ける写真>には私も写っている。

私が四国の長尾ロータリーへ参加したとき、初めて他のクラブでの出席補填に出向くのに、一人では気が重く、久田会長に頼んで、氏の大阪住吉クラブへ連れていって頂いたことがあった。それから十数年も経って、ある日、大阪北ロータリーへ出席補填に行ったところ、偶然、久田氏が来てい、「私は二八年間ロータリーは無欠席ですが、先週風邪を引いてホームクラブを欠席したので、今日その補填のためにここへ出席したのです」との話だった。処がその二日後に新聞を見て驚いた。 久田忠守会長の死亡広告が出ていたのである。 氏は、とうとう一生涯ロータリーの例会に皆出席であった。

氏の三男、仁(ひとし)君は豪快な男である。 アイオワ州立大学を出て、日本へ帰るときに、エレクトロニクスにはずぶの素人の彼が、ロスアンゼルスのフェアチャイルド社へ立ち寄り、当時日本ではまだ珍しかったトランジスターを数万個、<みずてん>で買って帰り、それを使って日本最初の電卓「ユーザック一〇B」を造った。 電卓といっても大きさは両手で抱える程で、値段も確か一〇万円くらいだった。 市場へ出したが余り売れず、私は義理で一台買わされたことがある。 これが内田電子工業の始まりである。

その頃彼、久田仁君は、大阪へ親善訪問してきたアイオワ州の知事と上院議員に、一夜日本の女性を世話してやってくれと私に依頼してきたことがあった。 午前中に大阪府知事にアイオワ州の「金の鍵」を渡すセレモニーを終えた知事たちは、夕方、ロイヤルホテルからキャバレーメトロへ送る私の車の後ろの座席で、突然肩を組んで「今夜、私たちは待望の東洋の女性が抱ける・・」という即興の歌を大合唱した。 久田君の説明では、そのアイオワ州知事はもと長距離トラックの運転手で、酒で交通事故を起こし、一念発起して禁酒会に入り、その会をバックにして州知事選挙に出馬当選した。そして同行して大阪へ来た上院議員と仁君のアルバイト先の広告会社社長がそのブレーンであるとのことであった。 道理で、少し品がよくない理由も解ったのであった。 彼らはその夜、陽気に歌い、楽しく飲んで、それぞれの女性たちを連れてホテルへ引き上げていった。アメリカ合衆国という国でしか在り得ない、典型的なサクセス ストーリーの陽気な主人公たちであった。

数年前、週刊誌に<財界後継者予想表>というのが載っていた。 それによると、仁君の内田洋行次期社長は確実となっていた。 また同じ頃、「コンピューター市場乱戦時代」というテレビ番組の中で、ユーザック電子工業社長という肩書で彼がさっそうとして登場していた。

そしてつい先だって、内田洋行の社長である彼の長兄、孝氏の死亡記事が新聞に報じられていた。そうすると、彼、仁君は繰り上がって社長になるのではなかろうか。 あるいは、もうなっているのかも知れぬ。彼が親しくしていた女性に付きまとわれて大阪北畠の家に居られなくなり、変名して東京へ出たのち会っていないので、去るもの日々に疎く、疎遠になったままであるが、そのうち一度会ってみたいと思っている。そうした偶然が重なり、内田洋行の親子とはハワイ以来二十年親しく付き合いさせて頂いた。

ホノルル博文堂の藤原氏の話が内田洋行の久田氏の話に飛んでしまった。 ここで藤原氏の友人【末岡為重氏とその周辺の人々】に話を移す。 

末岡氏のことについては、私の周辺の人たちのみならず相当多くの日本からハワイへ旅行した人たちが知っている筈である。 知っているというより、むしろお世話になったと言った方が正解だろう。 ことほど左様に、末岡氏は無数の日本人旅行者の世話をしている。おそらくこの人ほど沢山の日本人をハワイで世話した人は居ないのではないか。

最初、末岡氏とは博文堂書店で会った。 伊万里焼と有田焼は何処が違うか、というような議論を藤原氏としていた中年の末岡氏が、「貴方を最近二、三度街で見かけたが、たぶん日本から来たのだろう。私の車に乗りなさい。何処でも好きなところへ連れていってあげよう」といって、私をあちこち案内してくれたのが始まりであった。彼はワイキキ海岸で小さなみやげ物店を経営してい、店番は、非常におとなしく、そして日本語しか出来ぬ奥さんの役目で、彼自身はアラモアナマーケットセンターという手工業団地の中の一角をかりて小物アクセサリーを造っていた。 と言っても仕事は余り熱心でなく、東洋の美術を見たり、好きな花札遊びをしたりして、ほぼ遊んで暮らしていた。根っからの世話好きで、街で日本からの旅行者を見かけると車に乗せ、島中を案内し接待するのが日課であった。 そのため金は残らず、いくらおとなしい奥さんでも、よくまあ文句が出ぬものだと、側で気が揉めるくらいだった。

彼のアラモアナの工房のすぐ前に従業員数名のビニールスリッパー工場があり、経営者はまだ若い有色人系の女性だった。 末岡氏はこの女性と親しく、彼女に【七不思議の娘さん】というニックネームをつけていた。何が七不思議かというと、先ず、何国人か判らない。 たぶん日系だろうが、名前は白人のそれで、しかも日本語は全然話せぬ。 本人に聞いても、両親が何国人か知らぬという。造っているスリッパーは、ビニール製とはいえ金銀ラメや草花が入った高級品で、納入先はハワイ随一のリバテイハウスという百貨店で、どうして彼女が白人系のそのような高級百貨店にコネをつけたのか不思議であった。ところが、彼女の行動を注意してみていると、朝晩の送り迎えをしているのが前のハワイ知事キング氏であることが判った。 どうやら彼女はキング氏という白人の、広荘な山の上の家に住んでいるらしい。 そうと判れば、リバテイ百貨店に納入口座を持っている理由も見当がついたような気がする。しかしどう考えても、キング氏の彼女になるような美人ではない。 ところがある日、彼女が末岡氏に言った、「私は不思議に、白人にもてるがどういう訳だろうか、お前はどう思うか」。 末岡氏は答えた「それはいったいどういう意味か。もしそれが私に気があるという意志表示ならば、私も男だ。受けて立ってもいい」。すると彼女は「そういうつもりではない。ただ何故、私が白人にもてるのか知りたいだけだ」と言う。 そこで、しげしげ彼女を眺めたところ、顔は不細工だがドレスの中は整った体をしている。 元来、東洋人は女性の顔で美醜を論ずるが、白人は顔よりも体の方を余計気にする。 だから彼女が白人に好かれるのもありうる話だ、と末岡氏は考えた。 とはいうものの、どう考えてもキング氏のような立派な白人が惚れるほどの女性ではない。 いったい、彼女とキング氏の間柄はどうなっているのだろう。更にもう一つ不思議なのは、彼女が末岡氏に非常に親しくしてくることだ。 いったいどういう魂胆で、そのように親しそうにして来るのかが判らない。 だから<七不思議の娘さん>というニックネームをつけたと彼はいう。

果してドレスの内側はそんなにいい体つきだろうか、と私もそれとなく彼女の肩から背中まで軽く触れてみたことがあり、後日、末岡氏にひやかされたのを憶えている。 そのときの感触では、日本人の女性などにない引き締まった感じの体であった。結局、私も末岡氏もこの女性の素性は判らずじまいであったが、私がその半生を手袋屋という奇妙な商売で費やすことになった<そもそも>のきっかけは彼女にある。というのは、彼女が金銀ラメや草花入りの透明ビニールシートを使ってサンダルスリッパーを造っていたことは既に述べた通りであるが、 その華やかなビニールシートをドイツから輸入していて、値が余りにも高い。 日本でもう少し安く造れぬか、と私に相談してきた。日本へ帰った私は、そのドイツ製と似たような品を日本で開発し、その実物見本をアメリカ市場向けの雑貨業界誌に挟み込んで広告した。 その広告を見たニューヨークの未知の手袋バイヤーが、私の会社へ「ビニールレザーで造った手袋が欲しい」と見当違いの引合いをよこしたのが私が手袋の商売に足を踏み入れたきっかけであり、だから今でも彼女に感謝している。

七不思議の娘さんを迎えに来ていたキング氏は私も何度か見たことがあるが、その人について「上院議員ダニエル 井上自伝」の一五二頁に次のような記述がある。   ・・・(民主党は)投票数でなら共和党に勝てるのだが、アイゼンハワー大統領の任命  したサミェル キング知事(一九五三ー五七)の拒否権は、どうしても覆せなかった。  知事は、民主党の意向を汲んだ七二件もの法案に拒否権を発動した。法案を無効にした  記録としては、従来これに及ぶものはなかった。・・・ これによれば、「前ハワイ州知事」と、末岡氏は私に言ったが、キング氏の知事辞任は、実は私が「七不思議の娘さん」と知合いになる直前のことらしい。私が日本に帰ってからも、彼女から数回手紙を貰ったことがあり、また末岡氏からも「彼女がミスターナカムラはどうしているかと、何度も聞かれている」と言ってきたが、彼女の本名などはすべて忘れてしまった。 あれほど我々日本人に近ずいてきた処から考えると、彼女はたぶん日本人であったろうが、なぜ私たちに、彼女の両親のことや先祖の<ルーツ>などを言わなかったのか、まことに不可解であり、「七不思議の娘さん」というニックネームはだからこそより適切であったともいい得る。

ハワイのような東洋と西洋の接点には、こうした正体不明の人がわりあい多く居るものだが、我々日本人はそれをすぐ「何国人」か見極めたくなる習性を持っているようだ。しかしハワイでは、そのような詮索好きは大した意味をなさない。  初夏のある夕べ、と言ってもハワイでは一年中が初夏のようなものだが、ハワイ大学のキャンパスにある野外音楽堂で恒例の美人コンクールが開催された。 音楽堂は緑の芝生のステージに、背景も花道も総て緑一色の樹木で出来てい、出場する女性たちも白い豪華なドレスのハワイ大学の学生たちであったから、星空のステージは<眠れる森の美女>の舞台とそっくりであった。出場者は七つのカテゴリーに分けて競うルールになっていた。先ず、カケージョン(CAUCASIAN=白人)、チャイニーズ、ハワイアン(カナカ人)、ジャパニーズ、コーリアン、フィリピノ、それにコスモポリタン(どれにも属さぬ<ごちゃまぜ>の人種)に分類して出場する取り決めになってい、それぞれの美女たちがステージへ上がる度にその父母・先祖の人種をアナウンスしていた。 しかしその殆どは、申告された人種別に拘らず実際には少なくとも四つか五つ、多い人は十数種に亙る人種の混血であるよしが放送され、事実、美女になればなるだけ多人種の混血であった。 中で唯一人、「ジャパニーズ オンリー」と紹介された女性は、他の出場者たちに比べて見るも哀れなくらい貧弱な体つきだった。 さすがに観衆からの拍手も殆ど無く、出場した女性には気の毒であった。 参考までに言えば、その時のもっとも美しく立派な出場者はポルトガル人とハワイアンとチャイニーズの混血であった。殆どが<ごちゃまぜ>人種の、こうした美人コンテストを見た後の感懐では、いまさら「何国人」などという区分けは完全に無意味であると思い知らされた。だから、先ほど述べた「七不思議の娘さん」が日本人であるかどうかなども、いわば要らざる詮索に過ぎない。

【ホノルル警察の副署長ターベル氏】も末岡氏の親友の一人であった。ある日、車を路上駐車して末岡氏と昼食していたところ、駐車違反のチケットがワイパーに差し挟まれていた。 末岡氏は、私を同道してすぐホノルル警察の副署長室を訪ねた。 罰金を負けて貰うためである。 秘書の女性から「ターベル氏はたぶん美術館に行ったはず」と聞くなり、末岡氏は、およそ行き先は見当がついているからと言って、すぐ森の中にあるホノルルアカデミーという絵画館へ行った。  ターベルという<いなせ>な中年の副署長は、そこで唯一人座って絵画を眺めていた。 小柄ながらコールマン髭が美しく、絵に描いたような美男子だった。末岡氏から受け取った違反チケットを、いとも簡単にピリッと破り捨て、何事もなかったように二人は泰西名画と日本の浮世絵の差を論じ始めた。 その頃、日本にまだ交通違反チケット制度もなく、まして罰金通告の紙を無造作に破棄してしまう巡査というのが、私にとって不思議な存在であり、その行為自体も何かエキゾチックで、そして新鮮な感じがした。

美術館でターベル氏と別れたあと、末岡氏は次のような説明をしてくれた。もともとターベル氏はホノルルでブッチャー、つまり牛肉職人をしていたが、きっぷがよく、腕っぷしも達者で、おまけに頭も冴えていたので、人々に勧められて巡査になった。 女性に人気があり、たぶんハワイ随一の色男だろう。 いま、ホノルル署長は中国系の男だが、東洋人では風采が上がらぬので、公式のパーテイなどでホノルル中の名士が集まるときには必ずターベル氏が代理出席する習慣になっている。 いわばハワイの上流名士の一人である。 美術について造詣が深く、その方面で末岡氏と親しくしている、とのことであった。牛肉の職人が副署長になったというのが、どうも私の腑に落ちぬところであったが、アメリカというのは面白い国だと思った。

それから一〇年も過ぎて、ある日私は日本の新聞の<海外こぼれ話>という小さなゴシップコラムを読んでいて、偶然、ターベル氏の名前を発見した。 それは次のような記事であった。

ある日曜日の昼下がり、ワイキキの浜でビールを飲んでいたホノルル警察の副署長  ターベル氏とハワイ島のヒロ警察署長チャン氏が取っ組み合いの喧嘩を始めた。観  衆がホノルル警察署に通報したが、警官たちは自分らの上司のことだから誰も止め  に来ない。 やむを得ず隣島のヒロ警察署巡査が空路飛来し、二人を逮捕して酔い  が醒めるまで留置した。

私は、ターベル氏の面目躍如であると思った。 もしそれが日本であれば両氏ともたぶん諭旨免官か辞表提出であろうが、そこはアメリカのこと、ターベル氏に<おとがめ>はなく、むしろ市民の人気はより揚がったのではなかろうか。 それがアメリカの警察というものである。

終戦後すぐ、進駐軍は日本の内務省警察を解体して、全国津々浦々に自治体警察なるものを設置させたことがあった。 私の田舎、福崎町にも署長以下七人のままごとのような自治体警察が出来た。 しかしそのようなひ弱なミニ警察では、田舎の小さなやくざ団体にも対抗出来ず、日ならずして今日のようなほぼ戦前の組織に近い警察制度に再編成されたが、当時、私だけでなく殆どの日本人は、進駐軍が、何故ああした零細な自治体警察制度を強制したのか疑問に思ったものである。

もともとアメリカの警察というのは西部劇映画で見るごとく、田舎の町ごとに自警団組織を作り、それが近所にいる腕っぷしの強い男を、<胸に輝く金の星>の保安官に任命し、町に巣喰う悪党どもを退治させたのが警察署や警察官の発祥である。 さしずめターベル副署長などはその流れを汲んだ典型であったのだ。それに対して、日本の警察制度は薩摩藩出身の初代大警視川路利良を頂点とする旧士族階級によって構成された明治中央政府の末端における為政者であったから、彼我の警察官についての認識が大きく食い違っていたのである。<胸に輝く金の星>のターベル副署長がハワイ随一の色男であるのも、その彼が友人の反則切符をこともなげに破って捨てるのも、こう考えてみると当然のことである。 だからこそ例えば、シカゴ警察が腐敗しきって、ギャングの仲間になっているというような噂がいまなお伝えられるのも、必ずしも荒唐無稽とは言いきれないのだ。

彼、末岡為重氏に紹介された多くの人々のうちもう一人だけを挙げると、それはカイマナホテルの重永氏である。 尤も、重永氏とそう親しくなった訳ではないから、端的に言えばそれはカイマナホテルという日系ホテルの話になる。現在、カイマナホテルは日航系の巨大なツーリストホテルになっているようだが、その頃はまだ五階建ての小ちんまりとした洋風に、日本趣味の欄干を各階の窓辺にとり付けたひなびたホテルで、海に面した庭が広く、そこには傘型に枝を広げた大木があり、確かその木陰で文豪サマセットモームが小説を書いたという言伝えがあった。 オーナーの重永氏は山口県かどこかの出身で魚料理の仕出し屋をしてい、訪ねて行くと自分で料理を作って食べさせてくれる<きさく>な人であった。

当時、ホノルルのホテルといえば、先ずロイヤルハワイアンホテル、その隣のモアナホテル、アラモアナ海岸に新しく出来たカイザーのハワイアンビラッジが白人系で、それにロッキード事件で有名になった小佐野賢治氏が買収したプリンスカイウラニホテルが内陸運河に面して建っていた。 日系では、宝塚歌劇団の常宿の小林ホテルが日系としては初めての鉄筋高層ホテルであった。といっても現在我々が考えるような大きなホテルではなかった。 他に、中村ホテルとか米屋ホテルとかがあったが、それらはホテルというより旅館と言った方が適切な木造二階建てであった。そこへ、たとへ五階建てとはいえ、白人資本が独占していたワイキキ海岸に面して立派なカイマナホテルが出来たものだから、それは在留日系人の誇りでもあった。

もともと、ハワイの日系ホテルというのはツーリスト用のホテルではなく、日本から移民に行った人々の親元もしくは村役場のような役目のものであった。移民たちは休日にそれぞれの所属(?)するホテルへ行き、いろいろな役所手続きをしたり、故郷への連絡を頼んだり、さらに日本料理を食べさせてもらい、都合に依っては写真結婚の世話を頼んだりしたのである。 当然のこと、そこへ金を預けたり、また、借りることもした。 だからある時など、見ず知らずの私に、例え紹介する人があったにせよ「中村ホテル」の主人が簡単に五百ドルという大金を貸してくれ、私を感激させるようなこともあったのである。

古い街なかの「米屋ホテル」などは粗末な木造の古びた階段を上がった二階にあったのだが、京都の著名な染色工芸家皆川月華先生の常宿になってい、先生はそこに何度も長期滞在して、下駄履き姿で外出し、ハワイの風景を模した染色の超大作を日展などに何度か出品されている。 いわばその頃の日系ホテルは、牧歌的なハワイの最後を飾る移民たちの心強い集会所であった。ここで私はかねてつ蒲鉾の村上氏をハワイへ呼び寄せた<いきさつ>について述べねばならない。

【かねてつ蒲鉾社長 村上忠雄氏】とは私がハワイへ出発する二日前に会った。 それまでにも一度会ったことがあるから、そのときは二度目だった。彼の神戸の本社工場へ訪ねた私は「明後日、私はハワイへ行きます」と言った。 すると彼は「私も連れて行ってくれ」と言う。 しかしその頃はまだ海外旅行制限があって、一般の人は海外からの「費用丸抱えによる招待」でもない限り、パスポートも貰えないし、外貨も入手できなかった。 その旨を説明すると彼は「それでは誰かハワイの人に頼んで招待して貰う形式を取ってくれ。 それに必要な金は払うから」と言う。 「判りました、それではハワイへ到着したら誰かに頼んでみます」と返事して別れた。

ハワイへ着いてすぐ、道端にあった小さな旅行代理店の人にどうすれば彼がハワイへ来られるか相談してみた。その旅行代理店のオーナーは「近日中に私の友人の東海林(とうかいりん)という人がアロハ観光団を引率して横浜のホテルに到着するから、その人に現金八〇万円を渡して下さい。 彼が私にその金を受け取ったことを電話してきたら、私はここで貴方に二〇〇〇ドル渡します。 一ドルは三六〇円ですから、本当は七二万円ですが、差額の八万円は東海林さんの儲けです。 貴方は私から受け取った二〇〇〇ドルの内から約一〇〇〇ドルで航空切符を買い、誰か貴方のハワイの知人に形式だけの招請状を書いてもらい、航空切符と一緒に日本へ送ればそれで万事OKです」と教えてくれた。

その晩、私は長い手紙を書いて村上氏に送った。 「今日、私はホノルルの街の旅行代理店の人に<かくかくしかじか>のことを教わってきました。 もし、貴方がそのようにしてハワイへ来ようと思われるならば、横浜ホテルを訪ねてアロハ観光団の東海林氏に八十万円渡し、すぐその旨をヌアヌYMCA気付けの私に電報して下さい。 念の為に申し上げるが、貴方は私に今までに二回しか会ってないので、私の言うことを信用されるかどうか判らない。 そして私は、この話をしてくれた旅行代理店の人に今日初めて会っただけである。 まして東海林という人は会ったこともない。 貴方がそのような未知の人々を信用されるかどうかは、貴方の決断に掛かっている。 概して言えば、ハワイの人たちは善人で、そう大きな詐欺を働きそうな人たちではないと思うが、私は責任を負いかねる。 もし貴方がノーと決断されるならば、この話は無かった事にして下さい」というような文面だった。

東海林という人は、ハワイではどうやら名士のようであったが、面識もないので少々私はこの話に不安だった。 東海林という姓は、歌手の東海林太郎のように<ショージ>と発音すると思っていたが、ハワイではそれを<トーカイリン>と発音した。 また、省略して<リン>と呼ぶ場合もあるようだった。 たぶん昔、移民に来たとき手続きをする役人が姓名にルビを振るのを間違えて<トーカイリン>になってしまったのだろう。その東海林氏に、村上氏が八十万円を渡したかどうかの連絡は数週間ほど入らなかった。八十万円といえば現在の貨幣価値に直すと一、〇〇〇万円ほどの大金だから、あまりやかましく「金を渡したか」と村上氏に聞くのも気が退けるし、内心、電報が来ないのが気になっていた。するとそのうち郵便が届いて「横浜ホテルへ出向いて、お金を東海林氏に渡したから宜しく頼む」といってきた。すぐ例の小さな旅行社へ行き、トーカイリン氏に金を渡したという手紙が来たがと説明したけれども、まだ横浜から連絡が無いとのこと。 数日間、毎日詰めかけて「金を渡したはず」と押し問答し、ようやく「連絡が入った」といって二、〇〇〇ドルを渡してくれたのは約一ヶ月後だった。 どうやら、旅行社が金を使い込んでいたようだった。形式的な招待状は奥原蒲鉾工場に作ってもらい、それと航空券を日本へ送り、かねてつの村上氏がハワイへ到着したのは、その後また一ヶ月程経ってからであった。

彼、村上忠雄氏は、当時二九才、「かねてつ蒲鉾」は父君が社長で、彼の肩書は副社長であった。ヌアヌYMCAで旅装を解いた彼は、開口一番「ハワイへ来れたのは貴方のお蔭で感謝する」と私に言った。 「そうではない、八十万円という大金を、見ず知らずの人に渡した度胸が貴方をハワイへ寄こしたのである」と、私は彼の決断を褒めた。そのとき彼が言うのには「私は、先ず私の側から人を信用して金を預ける。 しかしもし、その人に裏切られると、金を取り返そうと考えず、その人からすぐ離れることにしている。 世間では、出した金を取り返そうとして、余計深みにはまりなお損を重ねる人が多いが、私はすぐ逃げ出す主義で、そのためいままでに大きな損をしたことがない」とのことであった。まだ三十才にもならぬ青年にしては、まことに恐れ入った見識であった。 私はそれ以後、彼と数十年の兄弟付き合いの中で、彼から驚くほど多くの<世渡りの知識>を教わり、そしてそれを感謝しているが、その始まりは、彼のこの言葉だった。

もっとも、ハワイへ到着するやいなや、早速、彼との間に些細なトラブルや口争いが連日起こった。 それは考えてみると、無理もない。 起こるべくして起こった、いわば私と彼の立場や出身の違いに依るものであった。 彼は既に当時一〇〇〇人を越す大工場の実質上のトップ経営者であり、気位の高さとその背景にある財産が、人を人とも思わぬ高圧的な、そして自信に満ちた意志表示をする習慣を身につけさせていた。  それに反して私の方は、明日の生活費をどう稼ぐかで頭の痛い日常を続けてい、ひっきょうそれが、万事に姑息すぎる程の世渡りの知恵しか持ち合わせていなかったのである。早い話が、たとい一ドルでも節約したい私は、古びたYMCAの宿舎で辛抱しようとするが、彼はハワイ随一のホテルの、しかも最もよい部屋に泊まりハワイを<へいげい>したいのであった。

私が日中に商売に出ると、後ろに付いて歩き、「そのような弱腰の姑息な商売では駄目だ。それより何処かへ映画を見に行き、先ず英気を養おうではないか」と言う。教えられることも多いのだが、邪魔になる。 どちらから譲るとなれば、それは私の方からということになり勝ちで、少々いまいましかったが力の差でどうにもならなかった。そんなある日、奥原蒲鉾が村上氏に、蒲鉾用の<すりみ>を日本流に造って見せてくれと言った。さっそく、冷凍かじき魚を解凍して大きな石の摺り鉢で摺り上げたまではよかったが、村上氏が何処で間違えたのか工程の途中で加えた塩が多すぎ、出来上がった野球のボール程もある大きな油揚げのフィッシュボールが約百個ほど塩辛すぎて口に入れられなかった。 もったいないので、YMCAへ持ち帰り、宿泊中の青年たちに分け与えたが、結局、すべて廃棄されてしまった。 これは、後々までジミー奥原氏が村上氏を耶愈(やゆ)するときのよい材料になった。

とはいうものの、このとき村上氏が奥原蒲鉾工場で試作した<すりみ(摺り身)>は、十年後に巨大な水産練り製品原料となった<冷凍すりみ>の最初であり、いわば彼は<すりみ>の発明者である。奥原氏が、毎日朝早くから魚を解凍して<すりみ>を造るという仕事は<せわしない>仕事だから、出来れば暇なときに前もって造って冷凍しておけば、必要なときに解凍して何時でも蒲鉾生産に使えるではないかと提案し、村上氏が早速そのテストをしたところ上々の結果が出た。 それを日本に帰ってからトーメン食品部に依頼してハワイ向け新商品として工業生産化してもらった。 これが現在、日本の水産練製品業界の主要原料となっている<冷凍すりみ>の始まりである。

<すりみ>とか蒲鉾の知識が薄い人のために少し説明すると、現在わが国の蒲鉾や<ちくわ>など水産練り製品の使用原魚は、ほぼ九〇パーセントが冷凍<すりみ>である。はも、ぐち、すけそう鱈などの原魚を漁獲すると、すぐその船内または漁業基地で冷凍<すりみ>に加工してしまう。加工方法は、先ず魚肉を三枚におろし、ミンチにし、水洗いしてから石臼で摺りあげる。 それを段ボール函に入れて急速冷凍すれば出来上りである。鮮度の高い間に加工を終わるので保存がきき、解凍して練り製品にしても鮮度が落ちず、場合によれば鮮魚を直接練り製品にするよりよい品質の練り製品が得られる。一般に素人は、腐りかけた不良原魚を練り製品にすると思っているようだが、事実は正反対で、鮮度が高く脂身の少ない白身の高級魚でないと練り製品材料にならない。 鮮度の悪い魚や脂身の多いものは弾力性がないので成型出来ず蒲鉾にならない。だから、さば、あじ、いわし、はまち等は材料として不適格であり、結果的に、はも、ぐち、えそ等の白身高級魚が主原料であった。であった、というのは現在の冷凍すりみでは、以前あまり使われなかった北洋漁業の<すけそう鱈>がいちばん多い原魚になっているからである。 <すけそう鱈>は弾力性に難点があり、鮮魚のままでも練り製品原料になり難かったのが、技術開発の結果冷凍すりみの主原料に成り上がったのである。 現在の水産練り製品原料は、<すけそう鱈>の冷凍すりみが約七割以上で、それも、小田原蒲鉾の鮫や、山口県の白銀蒲鉾の<えそ>など特殊な地方蒲鉾を除けば、殆どの蒲鉾は<すけそう鱈すりみ>に大量の化学調味料を加えたものである。 だから、スーパーマーケトでどのブランドの蒲鉾を買ってきても殆ど同じ味である。 そして、その冷凍<すりみ>発明の功労者は紛れもなくハワイ滞在中のかねてつ蒲鉾副社長村上忠雄氏であった。   ところが、この<冷凍すりみ>製造法について、その折、我々が製造を依頼していたトーメンの下請けの北海道漁連が特許をとり、それが原因で十数年も経った後、北海道漁連とかねてつの特許争いにまで発展した。 結果的には、北海道漁連がその時のいきさつを知り、遠慮したため争いは自然消滅してしまった。 そしていまや、冷凍<すりみ>という商品は、日経新聞の商品相場欄にまで登場する大商品になっているが、我々がそれを奥原蒲鉾工場で試作したときは、せいぜいハワイ市場向けの輸出商品としか考えていなかった。

数カ月ハワイに滞在したお蔭で、私はホノルル・ヒロ両市の殆どの蒲鉾メーカーを顧客にすることができ、その後二十年程は彼らの顧問のような立場を兼ねながら、冷凍魚、練り製品機械、蒲鉾板、それに鳴門巻のストローに至るまで、ハワイ・カリフォルニアの蒲鉾業界への独占納入業者のような立場になった。

さて、その蒲鉾や<ちくわ>はハワイで誰が食べるのか。現地のスーパーマーケトで売っているのは日系人を主体とした東洋系有色人が惣菜用に買う。 営業用、即ち卸売市場の顧客は街の日系レストランや仕出し屋である。 日系レストランとして当時最大規模のものはエバーグリーンで、これは沖縄出身の人が経営していた。 他にウェステリヤ(藤の家=ウエステリヤというのは藤の花の英語)や<夏の家(や)>という日系のテイーハウス(料亭)兼洋食堂もあった。

「なつの家」で思い出したことがある。 真偽の程は知らぬ。 私がハワイへ行く少し前に大蔵大臣池田勇人がアメリカへ行く途中、ハワイに寄った。 早速、広島県人会が池田大臣歓迎会を開催した。その席上、池田氏は「初めてアメリカ政府と交渉に行くのだが、白人に対する劣等感がどうしても抜けぬ。このままでは日本国家の代表として立派に役目を果たせると思えない。 どうしたら劣等感が抜けるだろうか」と相談をもちかけた。 「そのために最もいいのは白人の女性と一夜を共にすることだ。そうすれば度胸もでき劣等感も消える」と日系の故老たちが説明し、大臣も「宜しく頼みます」と答えた。 早速、二、三の人が走り、相手になってくれる白人の女性を捜しまわったが、運悪くその夜は、その種の女性はみな先約済みであった。 県人会の老人たちは手分けして夜遅くまで町中を捜しまわり、ようやく一人の白人女性を捜し当てた。 その女性は、めったにない大柄で、なるほどこれなら先約もなかったろうと思えるような人だった。 聞く処に依れば、この種の職業の女性は小柄な人から先に客が付き、大きな女性は後回しになるそうである。

「少々大きい女性ですが間違いなく白人ですから、今夜はこの方とお休みになって日本国のために英気を養って下さい」と申し上げたところ、大臣は「大きいほど、より白人の感じがでるから、大いに結構です」と仰せになり、「なつの家」でその夜を過ごされた。一夜明くれば天気晴朗、大臣はにこやかに手を振り一路ワシントンに向って飛び立たれたという。  広島県人会の面々がこの話をするとき、それはいかにも楽しそうだった。 何故であろうか。郷里の出世頭(がしら)が大臣になってやってきた。それは郷党の誇りである。 しかもその人が、自分たちを頼り、自分たちは彼に《ハオレ(白人)を扱うわざ》を教えてやった。 言い替えれば、<おらが国の大臣>よりも自分たちの方がアメリカでは先輩であるというささやかな優越感が、移民数十年の苦労の後に巡ってきたのである。

更に付け加えるならば、彼ら日系一世たちの、そのころ既に彼らの子弟たちがアメリカ社会に於て指導的地位を占めつつあることにバックアップされた幸せな勝利者感覚が、そのような楽しい物語を作り上げたとも言える。フランスのブルデユー教授の説に依れば『経済資本の学歴資本への転換は、実業ブルジョワジーがその相続者たちの一部または全部の位置を保持することを可能にする戦略のひとつである』らしい。 そして彼ら日系一世たちは、ブルジョワジーになるまでに既に彼らの子弟に学歴資本を授け、ダニエル井上上院議員や、魚市場の大谷氏の長男の開業医などを始めとする、社会における被尊敬者を、比較的短期間に数多く輩出させ得たのであった。 そしてそれは、とりもなおさず日系一世たちの勝利者としての優越感に転換されていた。

高学歴資本が如何に社会内階級を変え、そして如何に有利な投資であるかについてブルデユー教授の「DISTINCTION」よりフランス国の例を次に挙げてみる。 本当はハワイに於ける同様の資料が欲しかったが、見あたらなかったのでフランスの統計を引用したまでである。

仮にも大蔵大臣の肩書を持ち、初めてアメリカを訪問する池田勇人氏が、日系移民の真っ只中のハワイでそのような一夜の過ごし方をしたとは思い難い。 しかし、たといそれが架空の伝説であろうと、その話は日系一世移民たちのささやかなヒロイズムの痕跡として記憶にとどめるべき価値があるのではないか。

どうも話があまり上品でない方へそれてしまった。 この辺でもう少しビジネスに関係のある方へ戻りたい。最初、私は僅か一〇五ドルだけ持ってハワイへ行ったと述べた。 そして、そのうち一〇ドル程は到着と同時になくなってしまったことも述べた。 その後、お金をどうしたのか、詳しいことは記憶にない。 立川文庫の中の諸国漫遊の浪人者は、旅の途中で<ごまのはえ>に路銀を盗られてしまっても、その翌日はまた平然として旅をしている。 講談の中の旅の浪人者たちは、懐の路銀が忽然として何処からか湧き出てくる仕掛になっている。しかし、私はそうはいかぬ。何処かで金を都合した筈だが、その辺りが記憶に曖昧である。 だからといって、誰かに大きく迷惑をかけたり不名誉なことをしでかしたわけでもない。 金のことで比較的鮮明に記憶しているのは以下に述べる三つの事実である。 ハワイへ着いて間もなく、以前から手紙で頼んであった五〇〇ドルの小切手がシカゴのバイヤー上原氏から送られてきた。その小切手を現金化すべくハワイ最大のビショップ銀行本店へ行った。 広いロビーでまごまごしていると銀行の人が近寄ってきて「おまえは何をしに来たか」と聞く。「小切手を現金化しに来たが、どの窓口へ行けばよいか判らぬので戸惑っている」と言うと、「どの窓口でもいい」と、その人は言った。 私はなお、送金の窓口か、現金出納の窓口か、当座預金の窓口か、何処へ行こうかと足踏みしていると、「どの窓口でも扱うから心配するな」と言う。三十ほど並んでいる窓口のうち一番手前の窓口へ<おずおず>と進むと、窓の中から日系人らしい女性が声を掛けてくれた「ハーイ、何の用事ですか」。 「小切手をキャシュにして欲しいのです」と言いながら、シカゴ銀行振り出しの五〇〇ドル小切手を差し出した。ちらっとその裏書サインを見ながら「I・D(身分証明)はありますか」と聞く。 「パスポートを持っていますが」と言ってそれを出そうとした。 すると「あればよろしい」と言いながら窓口の内側の、一番上の引出しから百ドル紙幣五枚を取り出し、窓の外の私に渡そうとする。

「ちょっと待って下さい、貴方はまだその小切手が本物かどうか確かめていないし、送金の案内がシカゴ銀行からお宅の銀行へ到着しているかどうかも調べる必要があるのではありませんか」と言った処、「そのようなことはお客が帰った後で暇を見て処理するので、心配要りません」とのこと。 「しかし、もしそれが偽造小切手であればどうしますか」と、いらざる質問をしてみたが、「そのような場合に備えて保険が掛かっているので、あなたが心配しなくてもよろしい」と、いとも簡単明瞭な手続きで五〇〇ドルを渡してくれた。

これは正直な処、少々驚いた。 もし日本であれば、まず銀行間の送金案内が来ているかどうか調べ、行内の伝票処理をすべて先行させ、そしてその間、受取人である私は別の現金出納窓口から呼び出しがあるまでロビーで待たされる筈である。それが、どの窓口でも取り扱い、しかも目の前で即座に現金をくれるというのは、日本の銀行ではお目に掛かった事のないユニークで迅速な処理方法であった。 すべての窓口で、統べての対顧客業務を取り扱う方式は、ユニットシステムとかいって、その後わが国でも一部の銀行で採用したことがあるが、最近はあまり見かけないようである。 

受け取った五〇〇ドルを持ち帰り、YMCAのロビーで眺めていたところ、同宿の青年が「そのような大金を現金で持つ習慣はアメリカにはない。銀行へ預け、要るときは小切手を振り出して引き出せばいい」と言い、私を連れて近所のセキュリテー銀行という小さな銀行へ行き当座預金口座を開設してくれた。 その銀行の窓口の日系女性は「貴方の専用の小切手帳は一週間ほど後に出来て来るから、それまではロビーに置いてある汎用の小切手用紙を使ってくれ」と言う。 意味がはっきり判らぬが、まあいいだろうと思い銀行を出た。ところが二、三日経って現金の要ることが出来、その銀行へ出かけた。 ロビーに立った私を目聡く見つけた窓口の女性が「ハロー中村さん、今日は何の用事ですか」と声を掛けてきた。 「二〇ドルほどお金が欲しいのですが」と言うと、「はいどうぞ」というやいなや二〇ドルを私に突きつけた。 「そこのロビーにある小切手用紙を抜き取って金額を書き入れサインしてこの窓口に出して下さい」と言うので、ようやく一昨日の彼女の説明の意味が解った。 要するに、小切手帳の用紙は、普通預金の払い戻し請求書の用紙と同じで、ロビーに常備している汎用のものを使えばよいのであった。 後日知ったことだが、アメリカではこうした汎用小切手用紙システムが慣習化している。 これは便利のいい方法だが日本ではまだ見かけたことがない。

二〇ドルを受け取った私は少し不安だった。 なぜなら銀行窓口の彼女は、銀行の帳簿も開けず、伝票処理もせず、いとも簡単に現金を払い戻してくれたのである。「貴方は帳簿も見ずに私に金を払い出して大丈夫ですか」と聞いてみた。すると、「私は一昨日確かに貴方から五〇〇ドル預かった、そしてそれ以後貴方がこの銀行へ来たのを見ていない。 私はいつもこの窓口に座っているので、あなたの預金の残高が幾らあるかほぼ承知しているし、帳簿処理は後で暇が出来たときにする習慣だから貴方が心配しなくてもいいのです」と言う。 アメリカの田舎銀行がいかに<おうよう>で、しかも効率的であるかをこのときはじめて知った。 

お金のことで、次に記憶しているのは四八五頁でちょっと触れた中村ホテルから五〇〇ドル借金したことである。かねてつ蒲鉾の村上氏が近日中にやってくることになってい、そしたらすぐアメリカ大陸へ同行する予定であった。 そのための航空券は、村上氏の分は既に買ってあるが私のはまだ金が足らぬので買ってない。 二週間ほど後に幾らか入金のあてがあったが、取り合えずいますぐ五〇〇ドルほど欲しかった。 親しくしていた某氏に相談した。この人は<ハワイ貿易業界の大久保彦左エ門>と自称し、一人で零細な貿易商をしていた日系一世である。彼は「私は金を持っていないが、貸してくれる心当りがあるから一緒に行こう」と言い、古い街なかにある中村ホテルへ私を連れていった。 「ジャッパンから来たこの青年が、メインラン(大陸)へ行くのに少し金が足りない。 ユー(貴方)、五〇〇ドルばかり貸してやってくれぬか」と言うと、ホテルの主人は、後ろの大きな金庫から金を取り出し、あっけない程簡単に金を貸してくれた。 私が主人と話した事と言えば、ヌアヌYMCAに住んでいることと、二、三週間で返せるということだけだった。 その間わずかに十分足らずだった。 感激したというよりは、何だか狐につままれたような感じであった。

ところがホテルの表へ出ると、紹介してくれた大久保彦左エ門氏が「君、済まぬが二、三日だけ、その内の二〇〇ドルを私に貸してくれ。 実は家内が病気でヒロの病院に入院していて、今日の飛行機で見舞いに行きたいのだが金が無くて困っていた処だ」という。しまった、と思ったが、紹介者だから断わる訳にもいかない。 「はいどうぞ」と言って二〇〇ドル渡したが、これがなかなか返ってこず、あとで往生した。 結局、返して貰ったのはアメリカ大陸へ飛ぶ一日前だった。 その間、数回、彦左エ門氏の自宅へ督促にいったりし、一見すべての人が豊かそうに見えるハワイにも金に不自由している人があるということを知らされた。

もう一つ、金にまつわる話。 それは「かねてつ」の村上氏からの借金二十万円である。 最初、私は村上氏とカリフォルニア西海岸だけ同行することにしていた。 何故なら、それより先へ旅行する金の余裕がなかったのである。 ところが、ホノルルへ到着した村上氏は、私にニューヨークまで同行してくれ、と言う。 「行きたいのはやまやまだが金が無い」と言ったところ、「それでは金を貸す」とのこと。しめた、と思って有難く二十万円拝借した。 おかげで二人でアメリカ大陸を<やじ喜多道中>よろしく旅行出来た。 そして最も遠い所はボストンまで行った。 この金は返さねばならぬと思いつつ、手元不如意でついに返さずじまいだった。 そして彼もついに返せとは言わなかった。 もっとも、理由はどうでも付けられるもので、返さなくてもいい理由を、後日、心の内につけた。 それはこうである。 あの当時、彼、村上氏は片言の英語も出来かねた。だからどうしても通訳者の同行が必要であった。 しかしそのような人が日本から同行すれば、とても二十万円では済まない。 それに、アメリカ大陸旅行中は、彼の気の強い行動力に災いされ、予定していた私の商売は殆ど出来なかった。 これには彼も少々代償を払って貰わねばならぬ。 一人よがりかも知れぬが、これが私の言い訳である。 只、有難いことに大物の彼はそのような計算を私より先にしているらしく、ついぞ金を貸しているというようなことを言ったことが無い。 だから感謝している。

巴里祭の男 (六)

いずれにせよ私は、ここヌアヌYMCAの宿舎で渡米前の三ヶ月ほどを過ごしたのだが、そこにはどの様な人々が住んでいたか。一時的に数日か数週間だけ滞在していた人もあれば、そこを長年のねぐらとして生活していた人も沢山いた。 いちばん年長は皮膚ガンに冒され通院中の初老の白人であった。最初、私の相部屋の男はグラインダーという名の白人の青年で、ダンス教師であると自称していた。 金がなく、私から二、三ドルずつ三回ばかり借金をしていき、返金を求めたが、代わりに派手な自分のスポーツカーを買取ってくれと言い出し、私を困らせた。 結局、彼に貸した金は返らずじまいであった。次に相部屋になった男はハワイ島のヒロからきた日系の青年だった。サーカスのブランコ乗りがはいているような派手な繻子のショートパンツのまま、夜も裸でうつむきになって寝ていた。 言葉は全然通じず、最初はいったい何者か判らなかったが、部屋を掃除しに来る古賀さんという大分出身のおばさんの説明によると、彼はブッチャー(牛肉職人)で、仕事を探しにホノルルへ来たが、見つからぬのでヒロの両親の元へ帰ろうかと思っている処らしかった。 古賀さんは日本語で、そして彼はひどい西部なまりの英語で話をした。 側で聞いている私は古賀さんの日本語しか判らず、内容はその都度古賀さんから説明を受け、ようやく彼の職業や出身が判るという次第であった。

次に私の部屋に転がり込んで来たのはレイ詫間(たくま)という中年の日系二世で、この人はホノルルの中心街、キング通りの市バスの運転手だった。 人のいい大男で日本語がだいぶ出来た。話を聞くと、美人の白人女性と結婚していたが追い出され、トランク一つでYMCAへ転がり込んで来たそうである。この人はどういう訳か日航のスチュワーデスやプロレスラーと親しく、ある晩遅く帰ると私の部屋で、見覚えのある力道山、豊登、それに沖識名がポーカーをしてい、寝られなかった。 豊登という力士あがりのプロレスラーは丁寧な人で、「済みません、もう少しだけですからご辛抱下さい」と私に頭を下げたが、力道山は横を向いてごう然と構え、一言もものを言わなかった。「他人の部屋で勝手にカード遊びなどしてけしからぬ」と文句を言いたい処だったが、見るからに強そうなので遠慮しておいた。レイ詫間や、彼らプロレスの仲間を訪ねて日航の美人スチュワーデスたちがよくYMCAへ来たが、後日、力道山が日航のスチュワーデスと結婚したというニュースを聞いて、なるほどと思った。 その頃の日航スチュワーデスはみな美人揃いで、私など話も出来ぬ、いわば高嶺の花だったが、ひとかわ剥けば彼女たちも普通の女性に過ぎなかったのかも知れない。

YMCAの長期宿泊者のなかに中年の日系二世が何人かい、そのうちの一人がヨガと空手に凝り、その方面の日本の書籍を読んでくれといって数週間私の部屋へ通いつめてきたことがあった。 彼は日本語の会話すらたどたどしく、文字は<かいもく>読めなかった。 日本語の文献を読みながら、内容を英語で説明するのは私にとって少々難業だったが、いくらかは私の勉強にもなることと思い、頭を捻りながら講義を続けた。 テキストは、例えば船越義珍の空手道大鑑や鈴木大拙の禅の本などであった。 そのとき判ったのは、私の英語の語彙はほぼ即物的な単語に限られ、精神などを表現する形而上的な英単語を殆ど知らなかったということである。ところが、ヨガというのはどうやらインド哲学の系統を引いているらしく、それに船越義珍の空手の本の中には禅宗の影響が垣間見え、私の即席の講義はなかなか難航した。いまだに記憶しているのは、般若心経の「色即是空」の英訳は、鈴木大拙によれば WHAT IS THE UNIVERSE THAT IS EMPTINESS であるということだ。 私は、この場合「UNIVERSE」 よりも 「COLOURED (彩られたるもの:形あるもの)」 の方がより適切な訳語ではないかと思っているが、鈴木大拙のような大家が UNIVERSE という語を使っているのだから、その方が正しいのかも知れない。

余談だが、紀元前二五〇年頃にできた旧約聖書中の「伝導の書」には、「すべては『空の空』である」という有名な言葉が出てき、それが仏教の『空』と同義であるかどうかということで一部の学者が論争している。 現在では一応、両者は違うというのが定説になっているが、その意味の間に大きな隔たりはないような気がする。

【空手道の元祖、船越義珍先生】に付いて、それまで私は何も知らなかったが、そうした講義のおかげで、義珍先生が第一回内国勧業博覧会および早稲田大学で「大日本拳法空手道松涛館流」の看板を揚げたのを始まりとして、それまで「唐手」と呼ばれたのを<色即是空>の『空』にヒントを得て「空手」に改めたというようなことを知った。 そしてこの辺の物の考え方が、空手とヨガと仏教哲学の三差路になっているらしいと悟った。 こうしたことがあったので、空手というものを実地に稽古した経験は一度もないが、<はたけ水練>で、空手道の講釈だけは今でも出来ぬことはない。アメリカ旅行の帰途、東京で船越義珍の息子であり後継者でもある船越義英という弁護士の方を訪問し、料亭でご馳走になったことを記憶しているが、さてどのような用件でお訪ねしたのかはとんと忘れてしまった。

ハワイの話を延々と続けるのは、それに興味のない方に気の毒である。 しかし、なにしろハワイは、いわば私の第二の故郷のようなものだから、やむを得ないことと了承されたい。 もう少しでアメリカ大陸の話に移るから、いっときの辛抱である。

【ファリントン ハウス】という有名なお屋敷がホノルルにあった。 多分いまもあるだろう。 そこへは観光団も稀に見学に来ていた。 持ち主はファリントン夫人という元、下院議員で、彼女はボーイフレンドが出来たとかで、その頃ワシントンに住んでい、もったいないことに「ファリントンハウス」はいわば空き家だった。 パシフィック・ハイツというホノルル随一の高級住宅地の山頂にあり、一万数千坪の広荘、そして急峻な屋敷地からは太平洋が一望に見おろせた。 前庭は洋式でバナナがたわわに実り、真っ赤なハイビスカスと白いプルメリヤの花が咲き誇っていた。 裏庭は中国式の回遊三段庭園で、近世ヘレニズムの廃虚趣味を加味し、苔むした石の勾欄には紅薔薇の蔓が纏わり付き、ピンク色の<さるすべり>が咲いていた。 それは丁度、ハリウッド映画に出てくる地中海カプリの島の、丘の上の高級別荘とそっくりだった。

主棟は三層建築になってい、エレベーターで上がり降り出来た。一階は大広間で、全部開け放すと端から端まではゴルフの九番アイアンが使えそうな広さ。 特に、中央の広間は前後二間続きになってい、その部屋と部屋の仕切りは姫路城の大手門の門扉を模したような、白木作りの半開き扉で、その中央部には飾り<かんぬき>が横に貫いてあった。主棟の東側のはずれからは続き棟のゲストハウスになり、大広間から高床の廊下で連なっていた。ゲストハウズは三組に別れ、それぞれ別々に、寝室、居間、風呂・化粧室およびトイレから成り、しかもその化粧室の造作は日本趣味をかたどり、障子風の建具には木版謡曲本を解いた障子紙が貼られているという凝りようであった。

棟の西側は、急勾配の斜面を利用して一層下った所に三組の使用人住居があった。つまり、お手伝い家族、運転手家族、園丁家族の三所帯が別れて住めるよう、それぞれが今で言う三DKのコンドミニアムになっていた。 そのダイニングルームと寝室には、各戸に色違いのシャギー絨毯が敷き詰めてあった。

二階の中央部にはマネージメント・ルームと称する事務室があり、そこには電話の交換台と共に金色革表紙の家計帳簿類が、ルイ十五世風のテーブルの上に整然と並んでいた。三階はご夫婦の寝室になってい、巨大なベッドが二つ並んでいた。 その部屋の太平洋を見おろす南面は総ガラス、そして反対側の壁には驚くほど大きな鏡が張り付けてあった。 この寝室の広さは三〇畳か五〇畳ありそうに見えた。計算してみると、主棟だけで六カ所、ゲストハウスと使用人住居にそれぞれ三カ所のトイレがあり、そのうち主棟部六カ所のトイレットペーパーはそれぞれ色違いになってい、しかもそれは一度使用すると総て新しいロールに取り替えるしきたりになっていた。それでいて不思議なことに玄関というものがなく、正面玄関らしき所の扉を外から開けて入ると、すぐそのまま大広間に連なっていた。

私がなぜそのように室内を詳しく知っているかというと、それには訳がある。この家を住み込みで預かっている日系の人がい、実は私はその人に招待されて、毎週泊まりがけでお邪魔をし、屋敷の内外を隈なく拝見出来たからである。この留守番の人とファリントン夫人との契約は、食べ物は何を食べようが、また買ってこようが構わない、それはすべてファリントン家の番頭をしているチャンという中国系で、そしてスターブルテンというハワイ最大の新聞社の支配人を兼ねている人が代金を支払う。 その代わり、毎週一日、全ての窓を開け絨毯に掃除機をかける、という約束だそうであった。 

だから私も適当に冷蔵庫から好きなものを取ってき、何でもたらふく食べさせて頂いた。 もちろん、室内も隈なく心行くまで見物でき、見取図まで作った記憶がある。 その見取図はつい最近まで保管していた筈だが、いつの間にか無くなってしまった。

広いキッチンには、華やかなマジョルカ陶器や、ロイヤル・コペンハーゲンのディナーセットと共に、いつ買ったとも判らぬ大量のアイスクリームや骨付きハムの大きな太ももがあり、ストッカールームにはスコッチウイスキーがダース木箱に入れたまま無造作に置いてあった。ストッカールームの隣の物置には、小包郵便で到着したまま包装を解いてない白い仮綴本が山のように積んであり、それは殆どがワシントンから送られてきた合衆国政府の公文書、いわゆるホワイトノートだった。 農商務省関係のものが大半であったが、聞けばファリントン夫人は下院農業委員会に所属していたそうである。 しかし、あまり勉強熱心ではなかったらしく、頁を繰ったような気配はいっさい無かった。

正直な処、過去六十年の私の人生でこれほど大きくて、豪華で、本格的な西洋のブルジョワの家を隈なく眺めたことは、あとにも先にもこれが最初の最後であった。 そしてそれ以後、国内でも外国でも、如何に立派な家を拝見しても驚かなくなってしまった。

話に依ればファリントン家は、パイナップル、砂糖、通信、新聞などの企業を所有し、故ファリントン氏は合衆国下院議員をし、夫人もまた後を襲って下院議員をしていたそうである。「上院議員ダニエル・井上 自伝」にはファリントン氏夫妻のことを次のように記している。

  ・・・現職の議員であるうえ、再選をめざしてはやばやと共和党から公認さ  れた候補者は、ジョセフ・ファリントン、神のつくりたもうた緑の大地にあ  るものは、そっくり自分のために利用してきた男だ。 父親は元準州知事で  あり、ファリントン一族にちなんで命名されたハイウェイと高等学校もある。  さらに、政界の寵児で、個人的にも人気のあるジョーの方は、ホノルル最大  の日刊紙「スターブルテン」の社主であった。・・・      ・・・民主党は<ほぞ>をかんだ。 ジャック・バーンズが負け、連邦下院  議員の椅子を、エリザベス・ファリントンに譲ったのだ。 ファリントンは  ジョーの未亡人で、元知事の息子の妻でもある。・・・

最近のテレビのコマーシャルに「大物の子供をつくるためには天井の高い家で育てよ」というのがあったが、<神のつくりたもうた緑の大地にあるものは、そっくり自分のために利用してきた>ジョー・ファリントンのような人が合衆国議員をした場合、いったいどのような政治見識を示すのであろうか。それは我々庶民の及びもつかぬ壮大な未来社会を夢みるのか、もしくは、ベトナム戦争の如き思い上がりとイノセンス(お人よし)による悲劇を惹起するのであろうか。何れにしても、そら恐ろしい <上流階級という名の別社会>が、この地球上に存在することを私はこのファリントン・ハウスで垣間見たのであった。

一一、 ポートランドへ飛ぶ日

ポートランドへ飛ぶ日がやってきた。 「かねてつ」の村上氏とアメリカ大陸へ行くことになり、経路を、ホノルル―ポートランド―シアトル―シカゴ―ニューヨーク―ロスアンゼルス―ホノルルときめた。

Left to Right: Ijuu Sueoka, Ken Nakamura*, Tadao Murakami, James Okuhara
*手に持っているのは米本土で売ろうとする昭和歳の盆 

アメリカ西海岸の地理に詳しくない人のために説明しておくと、西海岸、つまりアメリカ太平洋岸は北から順番にバンクーバー、シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロスアンゼルスと連なっている。 その内、バンクーバーだけがカナダ領だから、合衆国本土の太平洋岸北端はシアトルになる。 シアトルの南二〇〇キロに、オレゴン州ポートランドという人口約四〇万人の古い都会がある。ホノルルから直行便が出ているので、先ずそこへ飛ぶことにした。 頼る相手としてそこに堂園(どうぞの)という日本人が居る筈だからであった。堂園朝蔵氏は、以前に数回、何か輸入商売をしたいと言って私に手紙をよこしたことがあった人で、ポートランドの日本領事館に嘱託勤務しているという以外には詳しくは素性を知らぬ相手だった。

ポートランドでは街の中心地にあるYMCAホテルへ投宿し、そこから領事館へ電話をかけ堂園氏のアポイントをとって出かけた。目指す領事館は目抜き通りの格式ありそうなビルの中にあった。 初対面の人、それも領事館という役所の人に会うのだから少々興奮し、先ず同じ階にあるトイレへ入ろうと思いドアの取っ手を回したが鍵が掛かっているらしくて開かない。 まごまごしていると廊下を通りかかった白人が自分のキイを出して開けてくれた。 何故、ドアに鍵が掛かっているのか解らなかった。トイレを済ませて領事館のある部屋の扉を開けようとしたが、これもまた鍵が掛かっているらしくて開かない。 ドアを<がちゃがちゃ>させると、中から誰かが開けてくれた。 その人が堂園氏であった。 名前から想像していた通り、もう初老の紳士だった。奥の方に領事らしいまだ若い人が座っていた。 いろいろお世話になろうと思って来たのだが、案に相違して堂園氏も領事も何となくよそよそしかった。 三〇分ほど儀礼的な話をしてYMCAホテルへ引き返した。 窓の外には日が蔭り始めていた。

村上氏はロビーで絵はがきを買い、「いま着いた。忠」とだけ書いて神戸の奥さん宛に投函しようとした。 「忠」というのはかれの略名サインである。「もう少し長く書いたらどうか」と言った処、「安否以外に書くこともないし、留守宅の方は何処を旅行しているのか知ればそれでよいのだ。 ポートランドに居ることはこの絵はがきと消印を見れば判る筈」と、まことに合理的な話。 「ごちゃごちゃ体裁を整えて長く書こうと思うから、おっくうになって、つい手紙は書きそびれるものである。思い立ったときに、さっと短く書くのがコツだ。 上手な字で長々と書く奴に金儲けした男はいない」というのが、彼、村上氏の口癖であった。 結局、彼はアメリカ旅行中どの町でもずっとこの仕掛で押し通した。

 

日が暮れて食事をしに外出したが、街は不思議なほど静かだった。二人で細々とベーコンエッグを食べYMCAホテルの部屋へ引き返したが、見おろす窓の外にはときたま自動車ブレーキのきしみ音がキーッと響くだけで、うそ寒いほどの静かな夜である。 地図で見る限りここは街のまん中の筈なのに人影も疎らであった。 陽気で賑やかなハワイから来たのだから、余計にそう思えたのかも知れない。 気温も低い。何かしらもの悲しくなり、二人で飲みに行こうかとまた外へ出たが、景気のよさそうな飲み屋もない。 ようやく見つけた薄暗い飲み屋へ入ると有色人の先客が一組だけいて、おとなしくビールを飲んでいた。 話しかけてみるとそれは日本人の船員で、木材の積み取りのため今日ポートランド港へ入ったとのこと。 この人たちの話では、ここは何時でもこのように靜かだとのことであった。 飲んでいても気勢が上がらぬので、そうそうに切上げてホテルへ帰り、ベッドに潜り込みながら「こんな陰気な町はもう懲り懲りだ。 トイレにまで鍵が掛かっている。 明日はなるべく早く次の目的地へ行こう」と、言い合った。 あとで判ったことだが、トイレの部屋に外から鍵が掛かっているのは、アメリカでは珍しくないのである。

ところが翌土曜日の朝、予期しなかった堂園氏が早々に訪ねて来、市内を案内すると言う。 これは有難いと早速お世話になり、魚屋の多いフルトン通り等を案内してもらった。 しかもその翌日、即ち日曜日は氏の家族共々郊外を遠くドライブし、森の中の美しい公園でピクニックをすることになった。堂園氏の美しい奥さんはもともとアメリカ国籍の二世で、戦争中は岡山県に住み、戦後またポートランドに帰ってきたそうであった。 堂園氏は、終戦前、岡山県の翼賛壮年団長を務めていたが奥さんを頼って近年渡米してき、奥さんの顔で非公式に領事館の現地雇用職員として就職していると、自身で説明された。 もとは中学校の校長だったそうで、映画俳優の笠智衆に似ていた。それに反して奥さんは、どうやらポートランド日系社会の花らしく、いかにも楽しそうに、大輪の牡丹の如く美しく、そして屈託なく才気を換発させていた。到着した日の寂しさは何処へやら、堂園一家の親切なもてなしで、我々二人は豹変してポートランドが好きになってしまった。 人間の心というのはいい加減なものである。

それから二十数年経って、文化の日の新聞の叙勲者一覧表に、堂園朝蔵氏の名前を発見した。 在外邦人の欄に、<在ポートランド 堂園朝蔵 勲四等瑞宝賞>と、出ていたのである。 奥さんに負けず頑張っていらっしゃるらしい。

ところで話は替わるが【オレゴン・トレイル】という言葉をご存じだろうか。アメリカ人にとってオレゴン・トレイルは、「ルイジアナ・パーチェス(るいじあな買収)」と共に歴史の上で非常にノスタルジックな響きをもった言葉である。 似たような感覚を持つ言葉を日本史上で探せば、意味は異なるが、オレゴン・トレイルは「北海道開拓使」、ルイジアナ・パーチェスは「琉球処分」に近い。

「オレゴン・トレイル(OREGON TRAIL)」を意訳すれば、<オレゴンへの大草原と荒野の道>ということになる。 東部から来た開拓者たちは、西部劇でお馴染みのシャイアンやララミー砦でロッキー山脈に入り、ソルトレークシティに至って道を西北にとり、オレゴン・トレイルを伝いオレゴン州ポートランドに到着した。トレイルというのは、動物が踏みならし、インディアンが通路として使い、そのうち白人の毛皮商人などが行き来するようになった道で、遠く遥かなミシシッピー川の辺りから続いてきている。幌馬車を使うようになってからも、ミズリー川のほとりのインデペンデンスからポートランド辺まで、普通五ヶ月くらいかかったそうだから、西部へ旅する開拓者たちにとって、半ば命がけの旅行みちがオレゴン・トレイルであった。乾いた荒野をやってきた旅行者たちがポートランドに近ずいて見たコロンビヤ川は、既にゆったりとした大河の風貌を見せてい、単調な旅路に疲れきった幌馬車が、豊富な水量のこの川の岸辺に到着したときには、みんな声をあげてどれほど大喜びしたことだろうか。当時の記録を見ると、ポートランド辺りにさしかかった開拓者の日記が残っている。       十月十四日 木曜日。同じ様な砂山ばかりを、バタークリークの方向に向かって   五マイル以上進む。 ときどき砂嵐が潅木の枝を巻き上げながらやって来るばか   り・・・。家畜にやる草も水もなし。    十月十六日 土曜日。一面に砂で埋められたような地帯を終日進む。夜になるま   で、水見あたらず。       マクシミリアン・アダムス夫人 一八五二年   そう古い話ではない。たかが一五〇年ほど前の話である。 東部ニューイングランドの白人たちが「オレゴン トレイル」に幌馬車を連ねてポートランドへ入植したのである。 そして林業と小麦の生産が始まり、労働者として日本人がその後に続いた。オレゴン トレイルの話は、即ちアメリカ西部の開拓史であり、それは西部の白人家庭でいま尚語り伝えられている「ひいおじいさん」の物語である。   ◇◇この「巴里祭の男(六)」の表紙は、オレゴントレイル懐古の画にした。 このような絵の複製は、白人家庭の壁飾りとして今もなお人気がある。◇◇

アメリカ全土を一枚の地図で見る限りポートランドは太平洋に面しているように見える。 しかし実際にはコロンビア川という大きな河を遡ること一五〇キロの内陸にあり、河口の町アストリアから船で一晩かかる。 コロンビア川を隔てて対岸にうっすらと町が見える。 町の名を尋ねるとバンクーバーだという。 なるほどこの河を隔てた北側は、もうカナダかと思った。しかしそれであれば米国西海岸の北端の都会といわれるシアトルがないではないか、と気が付いた。 よく聞き直してみると、シアトルの北側にあるカナダの町もバンクーバー、ポートランドの北の対岸もバンクーバー、同じ名の町が二つあったのだ。 紛らわしいと思ったが、土地の人は気にしていない。

米大陸最初の日本人移民の入植地はポートランドであった。 だから今でもこの古くてあまり大きくない町に日本領事館がある。西部を目指した白人たちはオレゴン トレイルを幌馬車でポートランドへ来た。 その五〇年後に、日本移民たちは太平洋を船で来た。 そしてそのまた五〇年後に、私と村上氏はユナイテッド航空で空路ポートランドに入った。 次は誰がどんなルートで来るのだろうか。

ポートランドの次はシアトルである。 飛行機がポートランド空港を飛び立ったと思うとすぐ下降しはじめた。 エンジントラブルかなと思ったが、さにあらず。 既にシアトル空港であった。隣のタコマ市と共同の飛行場だから、正しくはシアトル・タコマ空港である。小学校の頃、地理の時間に確か「シャトル」と習ったと思うが、正しい発音は「しあとる」と、「あ」を大きく発音するらしい。 人口約五〇万人、ボーイングの航空機工場がある町で、日系人も多い。 その北隣はカナダのバンクーバーである。YMCAへ宿泊したが、部屋が粗末で、まるで木賃宿である。 掃除に来た白人の小母さんが窓の外を指さして「チャイナタウンはあそこ」と言った。 どうやら我々を中国人と思ったらしい。こちらがむきになって「支那人ではない、日本人だ」と言うと、にっこり笑って「WHAT'S DIF- FERENCE(どこが違うのか)」と言う始末。 なるほどアメリカでは日本も中国も同格かと、少々情けなく思ったが、これは次の訪問地シカゴでいやと言うほど思い知らされた。 この話はすぐ後でする。

Seattle Y

シアトルの日系の店はメイン ストリートという旧市内の中心部に集まってい、古めかしく火の消えたような街並だった。 貧乏移民のささやかな盛り場という感じがした。

当時、アメリカ西海岸随一の日系貿易商といわれたCT・高橋商会を訪ねたが、富士・八幡両製鉄へ屑鉄を納入するのが主な業務とかで、私の商売の相手ではなかった。次いで「宇和島や」という蒲鉾メーカー兼日本食料品店を訪問し、ご主人に案内して頂いて高台へドライブし、ボーイングの巨大な工場を眺めたり長く立派な桜並木の公園を散歩した。 ちょうど桜は満開で、私はそのとき初めて海外にも立派な桜並木があるのを知った。桜並木については、尾崎行雄東京市長が寄付したワシントンが有名だが、世界で最も長いのはドイツにあるそうで、染井吉野を別とすれば、桜そのものは世界中あちこちに沢山あり、十年ほど前にも豪州シドニーの郊外で巨大な桜の満開を見たことがある。

私が訪問した宇和島屋は、日本人向けの薄汚れた食糧雑貨小売店だったが、 それから十年ほど後に私どものテレサ女史がシアトルへ行った頃は、既に郊外の新しいショッピングセンターへ移転し、ドライブインレストランを兼ねた大規模な「ウワジマヤ スーパーマーケット」に変身していたそうである。                               

次の目的地シカゴへ入ったのは忘れもしない五月一日であった。 なぜ忘れもしないかというと、その夜、シカゴに一時間ばかり大雪が降り、そして僅かに三日後、つまり五月四日に同じ緯度のボストンではおおぜいが海水浴をしていたのを目撃し、アメリカの気候の変化が激しいのに驚いたからである。

シアトルのYMCAがお粗末すぎて、村上氏のご機嫌が悪くて困った後だったが、シカゴのYMCAは予想外に立派でほっとした。 それもその筈、そこは「ローソンYMCAホテル」という名の、立派なツーリストホテルだった。

 シカゴの目抜き通りに面し、絨毯も調度類も一流ホテル並であったから、村上氏も機嫌をよくした。 そして何故、YMCAがそのように立派なホテルを経営するのか不思議に思った。

先ず取引先の「ウエハラ」というギフトショップを訪ね、旧知の上原ご夫妻に招待され立派な中華レストランへ行った。 上原ケンという映画俳優と同じ名前のご主人は前に一度大阪で会ったことがある上品な紳士で、話に依れば洋画の勉強にフランスへ行く途中、アメリカに住み着いてしまったそうで、夫人は高名な和田英作画伯の姪であるとのことだった。

食事中に上原氏は「美味しい支那めしを上手に炊きたいが、いろいろ苦心してみるがどうもうまく炊けない」と、中華料理屋の飯の旨さを賛嘆された。 処が私の方は、南京米などというのは不昧くて食べられぬものという戦争中の思い出があるものだから <これは不思議なことを聞くものだ。よし、それでは私も南京米のご飯が美味しいと思うように努力してみよう>と決心した。 難しい言葉で言えば<既成価値観の転換>である。 これはわりあい難しかった。いくら努力しても、最初の数年間はどうしても美味しいと思えなかった。 努力を重ねて十年ほど後にようやく美味しいと思えるようになった。 「思う念力 岩をも通す」である。 そして今では、普通の日本米よりも、<ぼろぼろ>した南京米、つまり外米の方がずっと美味しい。

ここで少しばかり外米と日本米の差について説明しておこう。【日本米】と我々が呼ぶのは専門家の間ではジャポニカ(JAPONICA)と呼んでいる短くて丸く、強粘性のある米で、日本、台湾それにカリフォルニアの一部で栽培されている、いわば少数派の米である。 それに対して世界の米生産の大半を占めているのがインディカ(INDICA)と呼ばれる細長くて粘り気の少ない米であり、インド、中国、イタリアなどの米は殆どがこの種類である。我々が戦争中に【南京米】といって毛嫌いした米や、シルバーナ マンガーナの「苦い米」という映画で知ったイタリア米は総てインディカ(インド種)に属する。十年ほど前、「コ、コ、コ、と言えば鶏の餌」という句が出来るまでに古々米が余って困った農林省が、係官を海外に派遣したが遂に日本米の買い手を探せなかったのは、殆どの米消費国がインディカ種だけを望んだからであった。もともとジャポニカは日本独自のものであったのが、蓬莱米と称して戦前に台湾へ導入され、またカリフォルニアの日系農家が日本種を栽培したため、アメリカと台湾などにのみ普及したのであって、国際的にはむしろ異例に属する。

中国は、寒い満州や北京などでは麦の生産が主体なので、小麦を原料にした万頭や麺類を主食とし、水稲栽培の適地に位置する上海・広東料理に至って初めて米を主食にする。 しかしその米は粘り気の少ないインディカ、いわゆる南京米である。 例えば焼き飯などは火の炎でご飯をあぶり立てて作るのだから粘性の少ないインディカがいいのである。フィリピン人の常食もインディカだから、炊きあがったご飯は<ぱらぱら>していて箸で摘めない。 だから彼らは箸の代わりにスプーンでご飯をすくって口へ入れるか、または手の指で摘んで食事をするのはインド人などと似ている。彼らに餅のように粘り気のあるジャポニカ、つまり日本米を薦めても美味しいとは言わない。

ところが我々日本人は長年の間ジャポニカばかり食べているものだから、戦争中に南京米が入ってきたとき拒否反応を示したのである。 そしてその強粘性ご飯の伝統は<越ひかり>や<ささ錦>などの人気銘柄に引き継がれて今日に至っている。もっとも例外は何処にでもあるもので、京都の高級料亭で<洗いご飯>と称して、炊きあがったご飯を一度水で洗ってから客に供する処があるらしいが、これなどはイタリア・フランスの米の料理方法と非常に似通っている。

私宅では、以前、台湾の留学生が多く出入りしていた頃に、学生たちが買って来た、いわゆる徳用米が比較的インディカに近く、美味しく食べていたが、最近では、儲らぬらしく近所の米屋がそれを販売しなくなってしまって残念に思っている。しかし私の故郷の友人たちは、<越ひかり>や<ささ錦>よりもより美味しい米として、戦前の<朝日・亀治>などに近い、粘性が特に多くしかも特大粒の米を賞味しているようであるが、この種の「播州すし米」は南京米のちょうど正反対に位置する特に強粘性のジャポニカと言えよう。

どの米が美味しいかは、私は所詮「味覚」の習慣に過ぎぬと思っている。 さらに言えば、そうした習慣にすぎぬ日本人のジャポニカ指向をあたかも絶対の真理であるように思い込む意識は、かっての<優越した日本>の思想に源をおなじくするものではなかろうか。何処かの大学の先生がいみじくも表現した <敷島の大和の国の白きめし> という風な先入叙情が大方の日本人が持っている米飯の味覚の原点であろうが、それは国際的には理解され難い特殊な日本浪漫派的思い入れと言えよう。

米の話のついでに一つ気付いたことを付け加えておく。 それは酒米の事である。近年、テレビや新聞の広告で「わが社の酒は播州の<山田錦>という特別の米を使用しているので美味しい」というコマーシャルをよく見かけるが、子供の頃から私の田舎、つまり兵庫県福崎辺りでは酒米用に<山田錦>が普通に栽培されていたから、いまさら<山田錦>を特に取り立てて宣伝するほどのこともないと思う。 ところで何故、<山田錦>が酒米に適しているのだろうか。 疑問に思った私は、以前私たちのロータリークラブの友人であった豊沢という醸造の専門家にこのことを聞いてみたことがある。豊沢氏は、その昔、東大の学生の頃、学生囲碁で三年続けて優勝したことがあり、そのためわれわれは「豊沢名人」というニックネームをつけていた。彼は、「私はビールの専門家なので日本酒のことは知らぬが・・・」と前置きして、「食品の味はタンパク質にあるのだから、たぶん<山田錦>は普通の米よりもタンパク質を多く含んでいるのではないか」とのことであった。「米」は澱分または含水炭素であると小学校で習っていたが、実際にはタンパク質も八パーセントくらい含んでいるらしい。

もし豊沢名人の推測が正しければ、<山田錦>という銘柄の米はご飯としてもより美味しいのではないか。 しかるに何故、山田錦が<越ひかり>や<ささ錦>の向こうをはって市場の人気銘柄にならぬのか、などは私の疑問とするところである。 どなたか知っている方があればご教示願いたい。 都合で、今年の秋には田舎から<山田錦>の米を取り寄せて試食してみようかとも思っているが、既に述べたように私の現在の米のテーストはインディカ、つまり南京米に傾いてしまっているので、テストする前から既に<山田錦>のような純日本米に対する拒否反応があり、例えテストしたとしてもその判定は些か平衡を欠くかも知れない。

シカゴのバイヤー上原氏の美味しい<南京米>の話が横道にそれ、ジャポニカとインディカの比較になってしまった。 話をもとの舞台、シカゴに戻す。《かねてつ》の村上さんが「遠縁の林川という人がノース・クラーク街でホテルを経営しているらしいので訪ねてみたい」と言う。 地図で調べると、YMCAホテルのすぐ裏手なので行ってみた。どことなく薄気味悪そうな古い大通りで、日本人の洗濯屋や食堂が点在し、日系雑貨屋として著名なJ.戸栗という店もあり、どうやらそこはいわゆる日本人町らしかった。

ホテルのようなものは見あたらぬので、「銀座食堂」と扉に書いてある安食堂に入り、店番をしている小母さんに、「林川という人のホテルを知りませんか」と尋ねた。 すると、「この隣です」と言う。 隣接した古い木造建築に入ると、二階の長い廊下やトイレを掃除していた老人が「私が林川です」と言った。 初め私たちが考えていたホテルというイメージと異なり、いわば大きな木賃アパートだった。 林川老人の説明では、彼はもともとカリフォルニアで農業をしていたが、アメリカの農業というのは毎年の市場の変化で儲る時もあれば、反対に大損をする場合もあるという、いわば<ばくち商売>で、それが嫌になり、シカゴへきて堅実なホテル経営に転業したとのことであった。 老人はどういう訳か片方の腕がなく、英語も殆ど出来なかった。 なんとなく淋しく薄汚れた大通りの古家屋の中で挨拶を交わした林川老人は、彼の出身地四国の老農夫そのままの感じで、肩の辺りから既に右腕の欠落した小柄なその風体は、かってカリフォルニアで<ばくち商売と変わらぬ農業>をしたという経歴などと反対の、人生のたそがれに差し掛かった一人の農業移民の哀愁が漂っていた。 何故片腕がないのかなど聞く訳にもいかず、そして当然の事、たぶん色々のことがあったと思える彼の胸中に去来するものを知る由もなく、ただ、悲しみに耐えて生き延びてきたであろう老人の過去を私の胸の中で詮索するのみであった。 移民の人生とはどのようなものであろうか、そしてまた、人間の悲しみとはいったい何なのだろうかと、つい考え込んでしまった。彼に伴われダウンタウンの大きな食堂へ招待されたが、野菜スープを注文するのに、西部なまりの強い<ベジタブル(野菜)>という、林川氏の移民英語がどうしてもウエイターに通じなかったのも印象的であった。

シカゴには歓楽街があると聞いてきたので、夕食の後どこか酒場がないかと探し、またもやノースクラーク街へ迷い込んだ。 数軒ある酒場を覗いてみたが何処も薄暗い土間に黒人の男女がひっそりとたむろし、彼らの白い目と歯だけが薄暗い部屋の中で異常に目だつのみで、何か犯罪に巻き込まれそうな予感がして恐ろしかった。 だから酒場を早めに切り上げてホテルへ帰るべく道を引き返した。処がふと見ると、内部をガラスドア越しによく見通せる明るくて清潔そうな酒場があった。 ホテルのすぐ裏だし、ここならば大丈夫と思い勇を鼓して入ってみた。カウンターの前には二人の男と、姐御風の白人女性がい、広い土間のテーブルには数組の男女が静かに酒を飲んでいた。私と村上氏は女性の隣の留まり木に座ってカウンター越しにハイボールを注文した。 隣の女性が軽く我々に向かってウインクをするので、こちらもいい気になって「ハロー」と言いながらグラスを傾けようとした。 その時突如、彼女の反対側で只ならぬ物音がした。はっと振り向いた途端、目に入ったのは二人の男たちの<とっ組み合い>の大喧嘩であった。 グラスがふっ飛び、大男たちはプロレスそこのけの殴り合いをしている。 あっけにとられている私の耳元で村上氏が「それっ逃げろ、とばっちりを食うと大変だ」と叫んだ。 度胸と機敏を売りものの彼がそう言うのだから、私はとっさに入口ドアの所まで走った。 村上氏も続いた。そして、こわごわ奥を顧みると、二人はまだ激しくとっ組み合っている。 ところが驚いたことに、すぐそばのカウンターの留まり木に居る姐御はミニスカートの脚を組んでタバコをふかしたままである。 土間のテーブルの数組もグラスを持ったまま、悠々と取っ組み合いを見物している。 カウンターの中のバーテンも、微笑みを浮かべて眺めている。

どうも勝手が違うなと思いながら入口付近から眺めること一〇分ほど、いやそれが数分だったのか数十分ほどだったのか、気が転倒していて定かでない。 とにかく、幾ばくかの時が流れたのち、カウンターの中のバーテンがやおら上着を脱ぎ、土間へ出てきた。どうするのかと思って見ていると、取っ組み合っている二人の背中の襟首を片手ずつ両方の腕で掴むやいなや、両手を一挙に伸び縮みさせ、大男二人の額(ひたい)を<がつん・がつん>とかち合わせた。 そして衿がみを後ろから突き立て、二人一諸にドアの外の歩道へ突き出し、にっこと笑って我々に、「迷惑を掛けた、さあどうぞゆっくり飲んでくれ」という意志表示をした。

余りの見事さに拍手を送りながら我々二人は元のカウンターに戻った。 傍らの姐御は何事もなかったような素振りで、その手に持ったグラスの角氷がプリズムのようにきらきら輝いていた。結局の処、慌てて逃げたのは私たち二人だけであり、些か恥ずかしい気がした。 村上氏は、「貴方は気が小さいから、不様(ぶざま)にもすぐ飛んで逃げた」と、私に悪口をいう。 「よくそのようなことを、貴方だって逃げたではないか」と言うと、「いや、私はビンゴゲームをしに機械の在るところへ行った迄だ」と言い訳をする。 なるほど、入口のドアのすぐ横にビンゴゲーム機が在ったことは確かである。名にしおうギャングの街シカゴで、このような、いかにもシカゴらしい喧嘩の現場に遭遇したのはまことに稀有の経験であり、ああシカゴへ来たのだ、という実感がした。

その頃、我々がシカゴという都会に抱いていたイメージは、「暴力の町」であったが、ノースクラーク街という日本人町の雰囲気は不思議とそれに似ていた。 これがわざわざ訪ねてきた日本人の町かと思うと、少々残念であった。 そして、道理でシアトルYMCAの掃除婦が言った「日本人と中国人と何処が違うのか、大した違いはない」という言葉の意味がよく理解出来た。つまりアメリカでは、「日本人」というのは私たちが思っていたほど立派なものではなかったのである。

その僅か後、週刊朝日に横山隆一の一頁漫画『シカゴ日本人町ノースクラーク街の図』というのが掲載され、彼の見てきた街の風景がコミック風に描かれていた。 先ず、鼻眼鏡をかけた日系老人らしい人が道に面した洗濯屋の窓辺でアイロンを掛けてる。 その隣家の二階から玄人女性らしき白人が道行く男にウインクしてい、その下の道路を色眼鏡をかけた<やくざ>風体のずんぐりした片足の男が松葉杖をつきながら歩いているスケッチで、それはまさしく私の見たノースクラーク街のイメージとそっくりだった。 プロとはいえ、漫画家というのは何とまあうまく情景を描写するものだと思った。

ずっと後になって、あるとき、「アル・カポネの伝記」というのを読んでいて、ふと気が付いた。驚いたことには、アル・カポネの住家は何とノースクラーク街だったのである。 ということは、有名なギャングの街が、即ち我が日本人の街と同じだったのだ。 私はうかつにも、日本人にとって恥ずべきそのような事実を知らずにいたのである。 だからこそ、シカゴが<やくざ>と暴力の町であると面白そうに対岸の火事のようなつもりで話題にしてきたのであった。

更にまた十数年後のことである。 ある日、商用で再びシカゴを訪れた。 今度はエグザクティブ・ハウスという、シーアス・タワーの側に新しく出来た高級ホテルに宿泊し、マコーミックプレースのエレクトロニクス・ショウを見に行った。 そのとき時間を作って、曽遊の地ノースクラーク街がどうなっているか覗きに行ってみた。 確かこの辺りだと思える所はすべて取り払われて緑蔭の小公園になってい、その中央に四十数階建ての巨大な市民センターがつっ立っていた。 ふと見ると、そのビルの一階の角にレストランらしきものがあり、道に面して安物の飾りちょうちんが数個ぶら下っている。 さては、と思い近寄ってみると、ちょうちんに<銀座食堂>という日本文字が書き込まれていた。 そこは紛れもなく二十数年の昔「銀座食堂」があった日本人街の跡だったのである。 つい懐かしく思い、食堂のドアを開けて「小母さんはいますか」と声をかけたが、メキシコ人らしい若いウエートレスはけげんな顔をするばかりであった。時代はすべて変わってしまっていたのである。中島みゆきの歌う <めぐる めぐるよ 時代はめぐる  喜び悲しみ 繰り返し 今日も忘れた旅人たちが 生まれ変わって 歩きだすよ・・・>の、その歌の通りであった。

話は三十年前のシカゴの夜にまた戻る。 大活劇を見た酒場を後にしたとき、突然、ほんのいっときだけ街に大雪が降り、みるみるうちに町並みは雪に埋もれた。 しかしそれも束の間、また普通の夕闇のシカゴの街に戻った。

活劇見物でいささか興奮した村上氏は「ここは世界一の歓楽の町といわれるシカゴだ。 何処かに大阪のメトロやユニバースよりも立派なキャバレーがあるはずだから後学のため是非探してみよう。飲み代は私が払う」と言う。 内心しめたと思い、早速タクシーをつかまえ「私たちは東洋の金持ちだ、この町で最高のキャバレーかナイトクラブへ連れていけ」と、おおぎょうな身振りで告げた処、「オーケー レッツゴー ボーイ」と中年の黒人運転手が車を発車させた。

この様子では<しょぼくれた>酒場だけでなく、立派なキャバレーもあるらしいと悟り期待したが、到着した所は、大阪や神戸でいえば中規模程度の、それに外観にネオンサインも装飾もないキャバレーだった。 入口に立っている金モールの男に運転手が何かささやいた。 たぶん「この人たちは東洋の大金持ちだから大いに散財させ、連れてきた俺にもリベートをよこせ」とか何とか言ったのではないだろうか。 顔を綻ばせて嬉しそうな表情をした金モール男は大きな声で中にいるボーイを呼び、私たちを特等席に案内させた。 もっとも、私はフリーパスだったが、村上氏は金モールに呼び止められて「HOW OLD ARE YOU ?」と聞かれていたから、彼はたぶん十八才未満と思われたらしい。

キャバレーの内部は天井の高いドームになってい、正面の舞台では上品なストリップショウが始まっていた。 ただし、ストリップショウというのはその頃はやった日本の言葉で、アメリカではそれを上品にバーレスクと呼ぶらしい。席に就いた私たちの両横に厚化粧をした白人のホステスが座った。 胸元を大きくくり抜き、パニエの下着をつけて大きく裾広がりのロングドレスを着用した二人のホステスは妖艶で、そして泰西名画の通りに美しかった。 右腕を彼女のウエストに廻そうとして、私は一瞬戸惑った。 横に伸した私の腕が彼女のヒップに触れそうになったのである。 ハワイにいる間、ほぼ一日置きくらいにホノルル随一のオエシス(OASIS) というキャバレーへ詰めかけていたので、横に侍ったホステスの体のどの辺りを触ってもいいかということは知っていた。 アメリカの女性は一般に首から上に触れられることをいやがる。 胸も触れてはならない。腰から下はもちろんタブーである。すると、結局、触ってもいい所はウエストのくびれている部分だけである。だから隣のホステスに腕を掛けようと思うと、常に一瞬たじろいだ上、「ああ、この辺りに手を触れてもいいんだ」と内心で軽く確認してからやおら腕を横へ延ばすことにしてきた。ところがシカゴのそのキャバレーで、隣のホステスのウエストに軽く手を巻き付けようとして、少し勝手が違った。 というのは、そのホステスが見事なくらい巨きな尻をした大女で、ウエストのくびれた部分は私の肩の辺りにあり、横へ伸せばいい筈の私の右腕は、そうするためには先ず私の脇の下を大きく開け、二の腕を肩まで持ち上げなければならなかった。何とまあ、白人の女というのは大きいものだ、というのがその時の私の実感であった。

我々はハイボールを注文した。 彼女たちが何か飲んでもいいかと聞いたので、どうぞ適当にと答えた。 注文した言葉は解らなかったが彼女たちの前に届けられたのはウィスキーのストレイトらしかった。 その小さなカットグラスを目の高さまで持ち上げた彼女は流し目で我々に黙礼したかと思うと、それを瞬時に喉に流し込んだ。 杯を逆さまにしてぐっと呑込むその時間は僅かに一秒である。 やおら空の杯を戻した彼女は、「サンキュウ」と横に座っている私に言った。私もおおように「OK、ベリーグッド」と返事した。 すると彼女はまた「飲んでもいいか」と聞く。 OKと答えると、また同じものを取って、そしてさっきと同じように一気にぐっと飲み干す。 そしてまた「サンキュウ、また飲んでもいいか」と聞き、私のOKの返事を待ってまた同じものを注文し、同じようにして一気に飲み干す。 あっと思う間に数杯のウィスキーらしきものを喉に流し込んだ彼女は艶然と笑ってまだもっと飲みたそうにする。 これはえらいことになったと思って隣の村上氏の方を見ると、そこでも同じことが起こっている。一杯幾らするのか判らぬが、とにかくこれだけ短い時間にそのように沢山飲まれてはいくら東洋の大金持ちでもたまったものではない。 テーブルの上に置いた村上氏の百ドル紙幣が瞬く間に小銭だけになってしまった。「これは暴力キャバレーだ、速く逃げよう」と言ったかと思うと村上氏は一人で勝手に座席の通路を出口に向かって小走りする。私も肝を潰して立ち上がり「もう帰る」と宣言した。 彼女も驚いて「もうこれ以上は飲ませぬからもっと居てくれ」と言う。 窮余の策で、その英語が私に通じないふりをした。 二、三回同じことを言った彼女は隣のホステスに「この青年は急に英語が通じなくなってしまった」と言っている。 しめたとばかり私は余計に英語が通じないふりをした。すると彼女は、「帰るのはいいが私たちへのチップを置いて行け」と言いながら、私のポケットを探ろうとする。 私はやにわにポケットの五ドル札を取り出し、テーブルの上に置くや否や出口に向かって走った。追ってくるかと思ったが、ホステスもボーイもついてこなかったのでほっとした。 出口付近でそっと舞台の方を振り返ると、ロドリーゴのアランフェスに合わせて美女のスネークダンスが静かに継続されていた。

結局の処、二人で一〇五ドル取られたのである。 その間、十分くらいだったか、または三十分だったか定かでない。 しかし、三十分を越えることはない。外へ出てすぐタクシーを捕まえた私たちはそこでようやくほっとした。 あっという間に大枚百ドルをとられてしまった腹いせに「何がシカゴ随一のキャバレーだ、まるで暴力バーではないか」と、我々は車中で話し合った。しかし興奮が少し醒めて来ると村上氏は言った。 「よく考えてみるとあの料金は当然か、または少々安かったのではないか。 もし日本で、例えば大阪随一の料亭、吉兆や<つるや>へ行ったとすれば、座敷へ通るだけでまあ五万円はいる。 それに比べるとここは世界一物価の高いアメリカで、しかも名にし負うシカゴの、それもそこで最も立派なキャバレーへ連れていけとタクシーの運転手に頼んだ。 時間は短かったにせよ百ドルくらいでいい見学をさせて貰ったのだから決して高くはない」。なるほど、そう言われればその通りである。 さすが村上氏は若いながら大物であった。 言うことが違っていた。

このささやかなハプニングのとき、幸せだったのはアメリカの飲み屋に於ける酒代の支払い方法である。普通、日本の酒場では値段も碌に聞かず、適当に腹芸で飲み、そして帰り際に清算する。 そうした仕掛では法外な代金を請求されても、それを拒否し難い。ところがアメリカの習慣では、客は先ず、今日飲もうと思う金額の概算を現金でテーブルの上におき、酒を運んできたウエイターはその都度一杯毎にその代金を持って行く。 そして最後にテーブルの上に残った小銭が即ちチップになる。 つまり酒代は後払いでないから、酔客がいつ何時、勝手に帰ろうとも清算する必要はない。 これは飲み屋とお客の両者にとって非常に都合がいい。 私はこのシステムを日本へも導入すべきだと三十年来力説しているが、どういう訳か実現していない。このアメリカ式<酒代その都度払い>というシステムで私たちは飲んだのだから、慌てて逃げ帰るときもトラブルがなかったのである。 もしそうでなかったら、そう簡単に逃げ出すわけにはいかなかっただろう。

何度も言うが、なにしろその頃は、シカゴが世界一の歓楽の町、犯罪の町というのが定説であった。 三十年の後、今になって考えてみると、アメリカも様子が変わってニューヨークが犯罪都市というイメージになり、シカゴのそれは、いつのまにか、もはや伝説上の物語になってしまっているようだ。 その証拠に、現在ではどの観光案内にもシカゴの治安が悪いと書いてない。

ここで少々余談になるが社会に於ける「犯罪の発生のメカニズム」について考えてみよう。実はつい最近、検察庁の内部誌に発表された筑波大学の土本教授の「わが刑事司法は『病的』か・・」という新しい論文を拝読する機会があった。 土本教授は二五年間検事をつとめ刑事司法のエースであったが、察するところ検察内部の与望を担って、筑波大学教授となり、検察現場の主張を代弁する理論家に転身したらしい。私なりに彼の論文を解釈し、それをアレンジすれば大要つぎの如くになる。

【日本の刑事司法】は、もともと明治初年に旧鹿児島藩郷士の川路大警視がフランスから持ち帰ったのと、佐賀の乱で死んだ江藤新平が確立した「司法権の独立」が<濫しょう>であることは四八二頁で述べた通りである。 「刑事司法」のみならず、「民法」も明治のお雇い外人ボアソナードが指導して作ったフランス法であることは岩波新書版の「ボアソナード」に詳しい。 その後、伊藤博文がドイツから憲法を始め法律一式を持ち帰り集大成したのが日本の六法であり、当然の事、それは<大陸法>の流れを汲み、英米法に対立している。簡単に言えば、大陸法は「制定法」であり、それは全てを法の条文にし、それに照らしあわせて法を執行する。 それに対して英米法は「慣習法・判例法」で、法の条文よりも、過去の判例を基にして判決をだす。 

終戦後、日本の刑事訴訟法も大幅に英米法を取り入れた。 そして四〇年にもなるのに「現行刑事訴訟は、欧米の刑事訴訟の『文化的水準』に比べると、かなり<異常>であり、<病的>であさえある」と、戦後英米法学の主流派、団藤先生の弟子である平野博士が論文集の中で批判したことに対し、わが筑波大の土本教授が反論した。 その土本教授の論文を私が読んだ訳である。

平野・土本、両先生によれば、大陸法のながれを汲むわが刑事訴訟法は、元来「糾問型」の制度であり、そしてそれに戦後、アメリカ法の「弾劾型」を加味したらしい。 糾問型というのは政府(即ち検察)が積極的に罪を暴き、そして起訴する形式だが、アメリカ型の弾劾主義というのは、検察よりもむしろ被害者、もしくは一般市民が他人に罪ありと積極的に訴え出ることを主とする。 だから当然の成行きとして、捜査機関による逮捕・拘留権・捜索・差押え・被疑者の取調べ権・起訴前保釈の不存在などは「糾問方式」の表徴であり、強制捜査に対する令状主義・黙秘権・弁護人選任権などは「弾劾方式」の特色と言うことになる。弾劾型アメリカ法を主張する団藤・平野先生派は、そうした英米法を充分取り入れた筈のわが国に於ける現在の刑事司法が、まだ旧態依然の自白強要主義を残し被疑者の権利を抑圧していると言う。そしてそれは、進歩した西欧の <捜査はあっさり、起訴はおおらかに> という刑事手続きの反対を行く、いわば前時代的で非民主的な刑事司法であると批判する。<捜査はあっさり、起訴はおおらかに>と言うのは、言い替えると、<警察・検察はあまり厳しく糾明するな。裁判所が有罪無罪を判定するのだから、検察は確信を持たずとも起訴すればよい>ということである。ところがわが国の刑事司法は、検察が裁判の第一審のような態度で厳しく罪を追求し、第一審であるべき地方裁判所はあたかも第二審の如くに検察の行った第一審を確認する場になってしまっている、と平野博士は検察の厳しすぎる取調べに対して「日本の刑事司法は病的なまでに行き過ぎてしまっている」と非難する。

それに対して検察のエース土本教授の反論は次の通りである。もともと欧米諸国民とわが国民の間には、刑事司法に対する大きな感覚の差がある。 第一に、わが国では「お奉行さま」または天皇の官吏としての、<「お上」が<裁く>という刑事司法機関に対する期待が習慣化している。 言い替えれば、<民衆自らの手で悪を裁こうという態度ではなく、『司法官憲』の真実に出来るだけ近ずこうとする熱意と誠実に期待>し、司法官憲の行動に自分たちの正義感情の満足を求める。 ところがアメリカでは自然発生的に民衆の内側から保安官が生まれ、裁判官という職務すら自分たちで行おうとする風習がいま尚<陪審員制度>などにも残っている。 裏返せば、彼らは国の裁判官に対してすら不信感を持ち、<官憲の誠実さよりも民衆の正義に対する情熱>が優先するのである。第二に欧米、特にアメリカでは、先に述べた「弾劾主義」が普及し、少々あやふやなことでも訴え出、裁判官にスポーツ競技的訴訟のアンパイヤーたることを期待するという訴訟観が発達している。 だから刑事訴訟も一般的な民事訴訟と本質的に差異がない。 そうした感覚のもとの刑事訴訟であるから、原告と被告の両者が法廷で攻撃・防御の秘術を競い、事実の究明よりも当事者間の利益による折れ合いの方が優先する「当事者主義」と呼ばれる結末作りが発達している。だから当然のこと、高度の嫌疑もない、いい加減な起訴が多く、理屈に合わぬ「司法取引 BARGEN JUSTICE」という検察と被告のなれ合いすら数多く横行しているのである。 言い替えれば「刑事訴訟の民事訴訟化」が著しい。これに対してわが国では、大抵のことが「話合い・互譲・和」で解決され、どうにもならぬもののみが法廷を戦場として争われる。 だから一旦法廷に持ち込まれた事件ではスポーツ的訴訟技術や「当事者主義」によらず、<厳しい検察の捜査で真実を発見し、確定し、裁判でそれを説得し、明確にする>、ということのほうが国民の期待により適合する。

第三に、欧米では自白が非常に少なく、自首に至っては精神異常者か虚偽自白のみであると考えられる。 なぜなら、唯一神にたいする告白には<ゆるし>という救いがあるが、捜査官に対する告白には重い刑罰と損害賠償のみで倫理的要素を感じないからである。ところがわが国では自白や自首が非常に多い。 それは、自白が前非を悔いた証しと考えられ、また捜査官からの感情移入によって<悔悟>の心情を生み出しやすい。 それには、一時的な感情の赴くままに突発させた<激情犯>が多く、自己の良心と対決した重大な決意のもとで行われる<計画犯>が少ないという事情も影響している。刑事訴訟の社会的道義維持機能という観点からみた場合、一般の人々、特にマスコミは、一方では人権を強調しながら、他方では警察による『厳しい追求』を期待し、警察の調べによって自白させることが出来ないときは、しばしば『もどかしさ』すら表明する。 自白が無いのを当然と見ず、『もどかしさ』を感ずるところに、わが国民の『検察の捜査』に寄せる期待を看取できる。リクルート事件の捜査過程が示すように、検察という「お上」に<遠山の金さん>を期待しているのが日本の社会である。

第四に、「有罪判決までは無罪」の意識が西欧社会では定着しているが、日本では「起訴されれば殆ど有罪」という意識があり、事実それは、被告の有罪率九九パーセントという国際的にも珍しい実績から見てほぼ正しい。 しかしその前提として「一般刑法犯」の四〇パーセントが起訴猶予になっているというわが国刑事司法のユニークさを知らなければならない。 これはわが検察の <訴追前の柔軟性と、公訴提起についての頑なまでの厳格さ>という特異性によるものである。アメリカのスポーツ競技的裁判は「被疑者・被告の基本的人権の保証」に傾倒し過ぎだが、わが国の刑事訴訟は、歴史的・社会的背景によって形成された国民の法意識を基盤として「被害者の救済と社会道義の維持への配慮」をより大きく取り込んでいる。 わが刑事訴訟では、被疑者・被告の人権も大切だが、被害者のそれや、さらに一般の人心の安定への配慮がより大事である。大切なことは、公共の道義・秩序の維持と個人の基本的人権の保障とはしばしば深刻に対立するというものの、なお、刑事訴訟は一国の道義の維持に重大な役割を担っているという事実である。       いずれにしろ公判段階だけでなく、捜査・起訴においても「精密司法」といわれる緻密な作業がおこなわれているわが国の刑事司法のおかげで、西欧諸国とわが国の、彼我の犯人検挙率・有罪率に大幅な差が出ている。 犯罪検挙率ではアメリカ二一パーセント、西ドイツ四六パーセントに対してわが国では六三パーセント。 なかでも殺人については九六パーセントという高率を誇るのがわが国刑事司法である。 刑法は社会に警告を発し、将来の犯罪の発生を防止する機能を持つ。 もし犯罪が発生しても犯人が検挙されなければ、いくら重い刑罰の規定を設けても価値がなく、類似の犯罪を誘発する。逆に、速やかに犯罪が検挙されれば犯罪を予防出来る。 検挙は、裁判や科刑の前に、それ自体で犯人に感銘と将来への訓戒を与えるだけでなく、社会に対しても正義が行われたことの満足感を与え、犯罪を未然に防止する機能を持っている。 先進国中唯一のわが国における犯罪数の減少は、発生した犯罪の確実な検挙に起因することが大きく、反対に欧米先進諸国では、検挙率の低迷が犯罪の増加と悪質化を促進させている・・、というのが土本教授の論旨である。 世界一安全な社会を維持する為には、被疑者の人権を少々侵害しても辛抱されたい、というのがどうやらわが刑事司法の主張らしい。

この論文を読み終わり、それを郵送してくれた神戸地検の増田君に電話を掛け、その讀後感を述べ終わって、私の部屋のテレビを開けた処、偶然、画面いっぱいに桜吹雪の散るシーンが出てきた。 そしてナレーションの「我々はこの事件に於て、検察に<遠山の金さん>を期待しすぎていたのでは無かったろうか・・」が出、「リクルート事件の結末 ‐終‐」という字幕タイトルがその後に続いた。 余りにも良すぎるタイミングであったが、これは事実である。 その絶妙なタイミングに私は一瞬戸惑う程であった。 あの様なタイミングの良さというのは、一生の間にもめったにないであろう。土本教授の説に従って考えると、私が最初に訪れた昭和三二年頃のシカゴでは、犯罪検挙率ないしは起訴有罪率が非常に少なく、だからこそ世界一の犯罪都市という汚名に甘んじていたのではなかったろうか。 もっとも、シカゴの犯罪検挙率がその後上がったとも考え難いので、急に犯罪が増加したニューヨークに比較して、シカゴだけを特別にあげつらう必要がなくなったのかも知れない。

私たちは、わが国の犯罪の少なさについて、それを儒教道徳や家族制度、あるいは<恥の文化>のせいにしてきたが、それが実際には【精密刑事司法】に大きく起因するということを土本教授は指摘している。 また同時に、まだ犯罪が確定していない田中元首相や、起訴すら受けていない中曽根氏を既に犯罪者と見なし、しかもその反対側で無実の罪に泣く被害者に同情するあまり、検察の横暴を軽々しく非難するわが日本の社会では、テレビドラマ<遠山の金さん>が息の長い視聴率を誇っている。 我々の<お上>、つまり検察もご苦労なことである。

ここで念のため補足しておくが、如何に英米法が「慣習法・判例法」であるといっても、すべてが慣習や判例だけでかたずけられる訳ではない。 むしろ、現在に於いてはそれは法の根本精神であるというにとどまるに近い。英法では、基本法としての【コモン・ロウ】と共に、「衡平法 EQUITY」という補足法が存在し、またアメリカ法は「先例拘束力の原則 DOCTRINE OF STARE DECISIS」を唱っているが、それでも毎年三万を越す判例以外に、一万を越える新しい制定法が誕生する。 成文堂刊の「山本訳 アメリカ法の調べ方 コーエン著」によれば、連邦制定法・州制定法と上訴裁判所の判決がアメリカの一次法源だそうである。また、大陸法を継承した日本にも、がんじがらめの制定法に入りきらぬいろいろな事件のために「法例」という、いわば例外法がある。 六法全書のいちばん最初を開くと、「法例」という見出しの法律が出て来るのがそれで、<明治三一年法律第十号>というのが正式の名称らしい。 例えば、外国人と結婚した場合の子供の取扱いなどもこの「法例」で規定している。 以前、問題になったが途中で沙汰止みとなった「有事立法」なども、全てを制定法で解決しようとする大陸法の弱みである。 判例・慣習法のもとでは「有事立法」は要らない。時に当たって適宜、旧習に従えばいいのである。

話がまたしても横道に反れてしまった。 元にもどして、次の町ニューヨークに話題を移す。ニューヨークでは予約していた市内中央部のYMCA宿舎へ入った。 受付で「最も広く、最も良い部屋」を希望した。応対にでた黒人青年は、奥からわざわざ全ての部屋の一覧表とその図面を持ち出し、我々の前でいちばん大きな二人部屋を調べ上げ、その部屋の鍵を私たちにくれた。ところが入ってみると、その部屋はせいぜい四畳半くらいの大きさで、二つ並んだベッドの間に人一人がようやく立てるか立てないくらいの広さである。 村上さんが辛抱しきれず、「すぐ『味の素』ニューヨーク事務所へ行き、良いホテルを紹介してもらおう」と言う。 話によれば彼の会社は「味の素」の最大の客で、毎年正月には「味の素」の鈴木社長が新年の挨拶に訪れる習慣があるとかで、今回の彼のニューヨーク訪問には「味の素」本社からニューヨーク事務所へ<彼を宜しく>という指図が来ている筈であった。

「味の素」ニューヨク事務所で紹介してもらって移った先は、当時、日本人旅行者がいちばん利用していたプリンスジョージホテルで、二階には「ミヤザキ」という日系の旅行代理店があり、何かにつけて便利だった。 もとは相当立派なホテルであったらしく、黒ずんだ天井の壁画などは古い教会のそれに似ていた。 一歩、そのホテルに入ると、日本租界さながらに、おおぜいの旅行客が日本語を話してい、ちょっと面倒なことがあればよろず「ミヤザキ」に頼むという仕掛けになっていた。

ホテルは二八丁目と五番街の交差点近くにあり、いわばニューヨークの銀座四丁目に位置していた。 私に取って好都合だったのは、その銀座四丁目のちょうど角にある二二四ビルにザ・ファンという著名な美術工芸品店があったことである。 もっとも訪ねて見たものの、ザ・ファンは予期に反して、日本の古道具屋にあるような<げてもの>を輸入して、驚くほど高い値で小売する、いわばげてもの小売商だったので私の取引相手ではなく、がっかりした。 いかに零細な貿易商といえども、我々日本の商人はその頃から既に<量産・量販>を指向していたが、彼らアメリカの工芸品商は、ほんの僅かな品を目の玉の飛び出るほど付加価値を付けて売るという商売に徹していたようである。 この店を訪問して私は今までの私の考えていた工芸品輸出というのが如何に夢のようなものであったかを悟った。 もうこれきり、工芸品貿易というようなことはやるまいと、心に刻んだ。

その夜は「味の素ニューヨーク事務所」の招待でご馳走になった。 それまでは、強引な男とはうものの在米中は少しは低姿勢だった村上氏が、一挙に態度を変えて横柄になった。 なぜなら「味の素事務所」の現地の人たちが彼を大切なお客扱いして機嫌をとったからである。食事中、彼は「味の素」の現地副社長加藤氏をつかまえて、彼が仕入れている化学調味料の値が如何に不当であるかをののしり、「騙された、騙された」を連発するのであった。聞けば彼は毎月二トンの化学調味料を「味の素」から買ってい、その値はハワイの蒲鉾メーカーが買っているというアメリカ製「アクセント」の二倍だったらしい。 アメリカの「アクセント」は日本の「味の素」と殆ど変わらぬ化学調味料である。

「ご招待に預かっている最中だから、何はともあれこの場であまり文句を言うな」と言ってみたが、彼はいきり立って納まらない。 加藤氏が「まあ、それには色々事情がありまして」と、ご説明に及ぶのだが、彼、村上氏はいっかな聞き入れようとせぬ。 「私はこれを機会にアメリカからアクセントを買うつもりだ」と言い出す彼に、「日本政府の輸入許可が降りませんよ」と「味の素」側が防戦これつとめる。 「全国蒲鉾組合から政府に陳情し、『味の素』の不当利益を糾弾する」と彼が声を大きくする。 折角、接待してくれているのに気の毒で、側で聞いている私がはらはらしているにも拘らず、彼は「接待は接待、取引は取引だ」と言って、とうとう食事の最後まで文句の言い続けだった。 当時、「味の素」という会社は飛ぶ鳥落とす勢いで、紛れもなく戦後日本の花形企業と言っても過言でなく、ノリタケ・チャイナ、キャノンと並んでニューヨークに店を持つ数少ない日本のメーカーの一つであった。 その「味の素」の現地副社長をつかまえて、場所柄も弁えず文句を言うのだから、彼、村上氏はまことに恐るべき青年であった。

話の終わりに彼は、「ボストンにいる鮎川という人が魚肉を化学加工して牛肉の味にかえる技術を開発したそうだ。 それを明日見に行きたいので案内してくれ」と加藤氏に言った。 ところが「味の素」側は、「アメリカでは人を訪問するとき先ずアポイントをとって、相手の都合のいい日時を指定してもらうのが習慣であり、また、明日のボストン行きの飛行機があるかどうか判らないから、明日というのははとても無理だ」と言う。 しかし「味の素」の連中の話はいささか悠長で、私にとって理解し難かったので、ホテルへ帰ってから村上氏に「相手はアメリカ人でなく鮎川という日本人だし、ニューヨークからボストンへの飛行機が明日は飛ばないという訳でもないだろうから、とにかく明朝いちばんに飛行場へ行こう」と言うと、彼も「ぜひそうしょう」と賛同する。

翌朝、空港から「味の素」に電話し「今から二人でボストンへ行きます」と告げると、「では私共もお供しますから暫く空港で待っていて下さい」とのこと。 やはり「味の素」としては大切なお客を一人でボストンへ行かせるのは気がとがめたのであろう。待つほどもなくやってきた「味の素」の社員と共にボストンへ到着したのは昼前だった。ボストン行きの小型機にのるためニューヨーク・ラガーディア空港の通路を急いでいると、メガホンを口に当て「ボストン行きはもうすぐ出発するので、乗客は急いで下さい」と大きな声で怒鳴っている中年の男がいた。 言い終わるとその男は、メガホンを腰にぶら下げ、すたすたと滑走路の方へ歩いていった。 その後ろについて小型機に到着すると、男はタラップを上がって操縦席に座った。 何のことはない、かれは案内係兼操縦士だたのだ。 これには少しばかり驚いた。

ボストンではハワイタイムス紙で知った鮎川氏の会社へ直行し、面会を求め、氏から魚肉に牛肉の味をつける方法を聞いたが、それは新聞の報道と違って余り大したことでもなく、まだ研究段階であった。聞けば鮎川氏は、世に怪物と称せられた鮎川義介の長男で、その頃マサチューセツ工科大学の客員研究員を兼ねながらボストンの魚市場付近で魚類加工会社を経営していた。 上品な学者肌の紳士で、父、義介氏が心配してつい最近も訪れたそうで、氏の机の後ろには鮎川義介氏得意の馬の墨絵が飾ってあった。鮎川泉氏は「折角ボストンへ来たのだから、米国東海岸最大の「ゴードン」という魚類加工場を見て行きなさい」と言って、その会社を紹介してくれた。「ゴードン」は、のち、ロスアンゼルスの鰹缶詰メーカー「スターキスト」と合併して、世界最大の水産加工メーカーになった「ゴードン・スターキスト」の前身だが、その頃は鮪の冷凍フライを作っていた。 工場長は、鮎川氏と共にマサチューセツ工大で水産学の講師を勤めているそうで、工場内でもネクタイにソフト帽姿というハイカラ紳士であった。

地下の冷凍倉庫からコンベヤーで運び上げられた鮪のフィレ(三枚におろしたままの切り身)が小さな角棒状に刻まれ、パン粉をまぶした後てんぷら油で揚げ、それがまた急速冷凍されて十二個ずつ駅弁のような紙函に詰められ、美しい表紙のカバーをかけた上、セロファン紙で二重包装される。 その美しく出来上がった弁当函が二ダースずつ段ボール箱に詰められ、外装をシールすると同時に、製造日時が印刷され、そしてまた地下の製品冷凍倉庫に送り込まれる。 その全工程がすべてガラス越しに一目で見渡されるようになっている完全オートメーション工場では、現場従業員は<ちらほら>しか居ないという程に省力化されていた。 戦前に<あきれたぼいず>というコメディアンの<オートメ時代>とか何とかいう、一方から俵の米と丸魚を入れると、反対側から出来上がった握り寿司が出て来る喜劇映画を見たことがあるが、それとちょうど同じ手口で、あの巨大な冷凍鮪の切身がみるみるうちに折詰めされたてんぷらに化するという<完全オートメ工場>を初めて見た私は、ただただ驚くばかりであった。

「ゴードン」の工場はボストンからタクシーで三十分ほど北東の、グロスターという小さな港町にあった。 到着したときは正午だったので海岸近くのひなびた食堂で我々三人は先ず昼食を採った。 昼食中にふと気がついた。このグロスターという町の名前に微かな記憶があったのである。数分間考えてやっと思いだした。「そうだ、確かこの町に私の客先があった筈だ」という処までは思いだしたが、その客の名も積んだ商品も判らない。「確かにこの町だ」と思うのだが、それから先は思い出せない。 ふと考えて、壁に貼ってあるその町の電話番号簿をAから順番に調べてみた。 何しろ小さな町で、電話番号簿といってもたかだか一頁だけである。 見ていてすぐ目指す相手が判った。 ラルフ・ステプラートンである。 この名前に記憶があった。 住所も印刷されていたので、同行の二人には三十分ほど待ってくれと頼んで、私一人タクシーに乗ってその相手を訪ねた。 町外れの閑静な住宅地の端のその家はすぐ見つかったが、相手は不在だった。 引き返そうとしたとき一人の老人が車で帰ってきた。訳を話すとその人は「私がステプラートンで、数年前、お前から竹細工の電気スタンドを数十個買ったことがある」と言う。「お前から買った電気スタンドをショウウインドーに飾っている店があるから、見せに連れていく」と言って、老人は私を町のささやかなメインストリートにある小さな雑貨やに案内した。 そこには紛うかたなき私が数年前に積んだ竹製の<御所車型>電気スタンドが一個飾ってあった。これはまことに意外な<かいごう>であった。老人は懐かしがって私を連れ、海岸の公園を案内し、路傍の写真師に頼んで水夫の銅像を背にした二人のポラロイド写真を撮った。 この古ぼけた不鮮明なベスト判の写真は今もなお私の家にある。 そしてそれは、私のこのアメリカ滞在中の唯一の写真である。

gloucesterKen Nakamura and Ralph Staplerton, Gloucester, MA 1956

ステプラートン老人は「今後も大いに商売をしようではないか」と言ってくれたが、私はもうこのような雑貨の小商売を続けるべきではないと心に決めた矢先なので、それよりも、二人が待っている所へ早く帰らねばならぬと思い、まだあちこち案内しようという老人の好意を振り切って村上氏が待つ食堂へ急いだ。いずれにしろ広いアメリカで、こうした偶然中の偶然に出くわすと言うことは滅多にないことで、だからこそ、この名もないグロスターという田舎町と、ステプラートン氏の名前をいまなお鮮明に記憶している次第である。 

<とんぼ帰り>のような状態で、その翌日にはボストンからまたニューヨークへ引き返したからボストンでの記憶はあまりない。 僅かに印象に残っているのは、その町の魚市場周辺のトラックには前後とも大きな特設バンパーが溶接づけしてあり、お互いの車間距離を気にせず、隣の車のバンパーと自分のバンパーを遠慮なく衝突させあうのを当然としていたことである。 これは至極便利のいい方法で、せい一杯車間を縮めて駐車したり、ハンドルの切り替えも簡単に出来るので、錯綜した忙しい市場内の道路では非常に効率的であると感心した。 日本でも、中央市場周辺などではこのシステムを採り入れたらよいと思う。

この事前予約なしのボストン行きが結局の処うまくいったのに味を占めた私は、それ以後の三十年間、海外旅行には、飛行機やホテルの予約をせず、会うべき先方のアポイントもとらず、総てぶっつけ本番で出発するという方法に自信を持ち、そしてそれを踏襲して今日に至ったが、それは殆どの場合成功している。だから世の諸氏にお勧めする。 予約やアポイントなしで海外旅行をしなさい。 いくらアポイントがとってあっても、先方に急用が出来れば造作なく約束を違えられる。 また、飛行機の座席やホテルなどは、よほどの混雑時以外は、たいてい空いているものである。

ニューヨークへ戻ると、村上氏を「味の素」に預け、すぐ一人でイーストサイド四二丁目の国連ビルへ行った。 国連ギフトセンターという所に用事があったのである。実は私はその一年ほど前に僅かながらそこに売り掛け代金があり、そして、その商売のことで少しばかりトラブルがあった。と言うのは次のような次第である。 私は「国連ギフトセンター」というよく知らない客に岐阜県下呂で作った木製の猿の置物を継続して送っていた。 ところがその代金が滞り、いくら督促しても送金してこない。 少々失礼だとは思ったが背に腹は代えられず、国連事務総長宛に「金を払え」という手紙を出した。 当時、事務総長はスエーデン出身の有名なダグラス・ハマショールド氏であった。 国連事務総長と国連ギフトセンターに、どのような関係があるのか知らなかったが、国連ビル内に在る限り「国連ギフトセンター」はハマショールド氏の店子(たなこ)であることには間違い無かろうから、事務総長に代金の督促をしても大きくは方角違いではないと考えたのである。 それにしても事務総長の宛名の敬称をどうするか。 ミスターと書くべきか、エスカイヤーであろうか。 はたまた、拝啓の代わりに DEAR SIR で始めるべきか、単に SIR だけが正しいのか、などなどを学者で凝り性の山本象之助氏と相談し、結局、ヒズ・エクセレンシー、つまり<閣下>という敬称と、拝啓の代わりには DEAR SIR でなく SIR を使用したのを記憶している。 うまくいけばハマショールド閣下から返信がくるだろうから、それを額に入れて家宝にでもしょうと期待していたが、返事は<なしのつぶて>で、その代わりギフトセンターから金を送ってきた。考えてみれば当然の事で、国連事務総長が店子の借金のことで返事など出す筈がない。いま振り返ってその頃の世界の事件を調べてみると、昭和三一年七月ナセル大統領が突如スエズ運河の国有化を通告し、すぐイスラエル軍がエジプトに進入し、イギリス軍はポートサイドに上陸した。 同じ頃、フランス落下傘部隊もその付近に降下し、ハマショールド国連事務総長はナセルと会談し、十一月十五日にはブラジル・カナダ・コロンビア・デンマーク等十カ国の軍隊から成る国連緊急軍六千人が編成されスエズ入りをしている。 いわばその頃はハマショールド事務総長の最も忙しく、また最も華やかなときであった。 そのような処へ店子の代金督促状が届いたとしても、彼が返事を出す筈もないし、第一、彼がその手紙を見た可能性すら希薄である。若気の至りとはいえ、馬鹿な手紙をだしたものである。 しかしその結果かどうか知らぬが、とにかく代金は回収できた。 しかし、事務総長に手紙を出したこと自体は、わざわざここに書くほどのことでもない。

話は他にある。 と言うのは、その少し前ごろ、大阪通産局から私に出頭せよという電話が掛かってきた。 何事ならんと出向いた処、通産局の若い係官がえらい剣幕で私に文句を言う。「お前がデンマークの木の猿の偽物を作って国連ギフトセンターへ輸出したのを駐国連デンマーク大使が見つけて、わが国の大使に文句を言ってきた。 これは国家の不名誉でもあり、まことにけしからぬ」。 通産局の係官は私に本省から来た電報を示して凄い剣幕で私を叱りつける。 示された電文の一部は今でも憶えている。「ホンケンマコトニジュウダイナリ ヨロシクキュウメイサレタシ」であった。ひとしきり文句を承っていた私は、相手が一息ついた頃を見計らって反撃に出た。「ちょっと待って下さい。 確かに私はそれを輸出した。 しかしその品は既に国内の観光地などで売られている普通のみやげ物である。 私がどこかの特許品の偽物を特別に作った訳ではない。 貴方がそれを偽物でけしからぬと言われるならば、先ずその元であるデンマークの木製猿の見本と、その意匠登録か専売特許の書面を示し、その上で私の不正をなじるべきではないだろうか。 そうでなく、単にデンマークの偽物だと言い張るのは早計に過ぎる。 よし、一歩譲って私の猿がデンマークの模倣であるとしょう。 その模倣がどう悪いのか。よく考えて欲しい。 神武以来、いや有史以来、洋の東西を問わず、人類は模倣を続け続けて今日の文化をつくり得た。 模倣という人間の英知がなければ人類の生活も猿の生活と変わらなかった筈である。 我々が着る洋服は西洋の模倣だ。 貴方がたは洋服をやめて着物を着よと言うのか。例えばハワイではハッピーコートというビーチウエアが売られている。 貴方がたは日本の着物の模倣品であるハッピーコートについて米国政府に苦情を申し入れたことがあるのか。 デンマークの大使がわれわれに苦情を言ってくるのは彼らの国益から考えてよく判る。 しかし貴方がたは、日本人の味方であり、私たち日本人の利益の擁護者でなければならぬ。 それがデンマークの味方をして自国民を叱りつけるというのは本末転倒ではないか。 まして、模倣こそ人類の文明進歩の母であるという、この単純にして重大な事実を貴方がたはなぜ忘れようとするのか。 それは私の理解に苦しむ処である」。喋り始めた私は、「これはうまい理屈が見つかったものだ、しめしめ・・」とばかり、内心ほくそ笑みながら、調子に乗ってまくしたてた。 途中から課長が席を近づけ、熱心に聞いていた。 言い終わった私は「少し用事がありますのでもう帰りますが、何かご不満がありましたら何時でも電話下さい。すぐお伺いします」と言って席を立った。 課長は恭しく「いや、もう何も言うことはありません。ご苦労さまでした」と言いながら頭を下げた。 <りゅういん>が下がるという形容詞はこのような時に使うのではないかと思い、口笛の一つも吹きたくなるような感じであった。

そうしたささやかな<因縁>のある「国連ギフトセンター」を訪ねるべく、背の高い国連ビルの門を入ろうとした。 ところが来意を聞いた守衛は「それはここではない。向こう側の背の低い建物の地下へ行け」と言った。その時、判った。 国連ビルというのは二つに別れていたのだ。 一つは羊羹の薄切りのような背の高い事務局のあるビル、即ちセクレタリアで、もう一つは、だだっ広くて背の低い大会議場ビルである。 私の目指す国連ギフトセンターは大会議場ビルの地下にあったのである。 そしてそこには、国連ビルを見物に来る観光客のための食堂や、郵便局、それにみやげもの屋があった。 私の得意先である「国連ギフトセンター」は、何のことはない、そのみやげもの屋だったのだ。 主任は若い女性で、「よくきてくれた」と私に言い、「何か気のきいた土産物の目新しい物はないか」と私に尋ねたが、以前に支払い代金が滞ったことや、私がハマショールド事務総長に手紙を出したことなどに就いては、彼女は一切触れなかった。 こちらも、それに触れるべきでは無いと思い、適当に儀礼的な挨拶をしただけで別れた。 何れにしろ、「国連ギフトセンター」という客の素性が判ったのだから、訪問の目的は果たした訳である。ついでに隣の国連郵便局に立ち寄り、新しい国連切手を数種類買ってきた。 国連ビルには「国連郵便局」という特別の施設があり、そこでは<国連切手>という、米国の郵便切手とは違う特別の切手を発行しており、その切手を貼った郵便物は、この郵便局で投函する限り、世界中どこへでも配達されることになっている。 「国連ビル」には、こうしたいわば治外法権的な部分があるのである。私はその後数回、日本の<趣味の切手屋>に頼まれ、この郵便局から国連記念切手を買い入れ、切手ブームの日本で少しばかり稼がせてもらったことがある。

その後、ニューヨークで何処を訪ねたか、それに就いては殆ど記憶が無い。  たぶん、どこも、これと言う処を訪ねなかったのであろう。 一つだけ記憶していることがある。 それは、ノリタケ・チャイナのニューヨーク事務所のドアの外に襖ほどの大きさの写真パネルが立てかけてあり、それはマーロン・ブランドの柔道着姿であった。 マーロン・ブランドはその少し前、AUGUST MOON 、日本名「八月十五夜の茶屋」という京マチ子との共演映画で、日本でも有名になってい、そのため、私も彼の写真がすぐ認識できた。 このノリタケ・チャイナのオフィスはマンハッタンの高層ビルの七階辺りにあったと記憶しているが、さて、何故そのビルへ行ったのか、記憶は定かでない。

帰路、ニューヨークからロサンゼルスへ向けて飛ぶときに少しばかり戸惑いがあった。 というのは、我々はニューヨーク空港を飛び立つべく手続きしていたのに、その空港のスペル、つまり英語の綴り字が NEW YORK ではなく NEWARK となっているのである。 似たような綴り字だが発音からいうと少し違う。 ニューヨークとネワーク。 同じであるような気もするが、間違いであるようにも思える。 些か心配しながら空港へ到着し、調べてみるとニューヨーク空港は郊外のネワークという所にあったのだ。 ちょうど、大阪空港が伊丹空港であるのと同じである。 何故、このようにお互いに紛らわしい地名がハドソン川一つ隔てて存在するのか不思議に思った。要するに当時、ニューヨークにはラガーディア空港とネワーク空港と二つあったのだ。 ところが私たちは、一つの都会に二つもの空港があるとは考え及ばなかったのである。もちろん、いまのニューヨーク国際空港、即ちJF・ケネディー空港が無い頃の話である。

ニューヨークからロサンゼルスまでは十一時間かかった。 途中の深夜、大統領アイゼンハワーの別荘があるとかのデンバーで給油のため小休止。 機外へ散歩に出ると、空港の待合室、みやげ物売り場などが目も醒めるくらい美しく豪華であった。 航空機から待合室までの通路の両側に置かれた結界用の金色の綱でできた仮索と、金色メッキのそのポールには、ただただ驚くばかり、もったいなく見えた。 最近では、こうした金の綱の結界ロープもあちこちのホテルの玄関などで見受け、見慣れてきたが、これを初めて深夜のデンバー空港で見たときには<度肝を抜かれた>という形容詞の通りであった。飛行機がロッキー山脈を越えるときに、約一時間ほど、生きた心地がしない程の大揺れだった。こうした空中での大揺れは、ジェット機になってからは経験しなくなったが、それはジェット機のメカニズムのせいか、それとも成層圏を飛ぶせいか、どちらであろうか。

処でこの辺りで、少しばかり私事に渉るが釈明しておきたいことがある。 前ページで私は通産局の係官相手に、長講一番自説を開陳し、<りゅういん>を下げたことがあると半ば得々として述べたが、こうした性癖は他人に迷惑をかけることが多い。 だから近年はなるべく遠慮するよう心がけ、またそれは、ほぼ私の第二の天性になりつつある。いまから十年程まえ、評論家堀田善衛の「航西日記」という本の中で、次のような文章を見つけた。  (私は)人に咬みついたこともなく、咬みつかれても咬みかえしたこともない。  自分の理解出来ないものについては、それもまた特殊な存在理由があるのであろうとし、  自分のワキへ置いて、時間をかけて眺めることにして来た。 眺めているうちに、大抵  のものは溶けてなくなってしまった。

何とこれは立派な名文章ではないか。 だからその後、私の座右の銘にし、<拳々服よう>して既に十年を越す。 初めの二年程は、大阪本町にあった私の事務所の、机の後ろの黒板に書き込んで、毎日眺めることにした。 眺めれば眺める程、いい文句に思われ、その後ずっと心に刻み込むよう努力して今日に至った。世の中には、どう考えても理屈に合わぬようなことを平気で主張し、また力説する人が居るものだ。 そのような人に対し、如何にこちらが正論と思えることを説明しても、受け入れられぬばかりか、むしろ逆効果になることが多い。 私も、もう齢いを重ねたのだから、生きているうちに正邪曲直の決着をつけようとせず、正鵠を<あの世>で問う、というつもりで近年はことに処している。 この方針でゆっくり構えていると、「大抵の理屈は溶けてなくなってしまう」ことを、身をもって体験するようになった。 だから、友人諸氏にここでお願いして置く。 どうぞ私には心おきなく、少々あやふやな主張でも構わぬから、遠慮せず申し越されたい。 今となれば、もうかっての昔、通産局の役人に対して「模倣は文明進歩の母」と申し述べたような気負いは、私にはさらさら無い。

次の話はロスアンゼルスである。一一時間かけてアメリカン航空のプロペラ機はロスアンゼルス空港へ到着した。 ニューヨークとボストンで立派な大ホテルの泊まり心地の佳いのにすっかり慣れてしまった私たちは、ロスでは出来たての立派なスタットラーホテルに宿泊した。「味の素」のロス事務所の人たちにまたしても招待され、デズニーランドを見物し、ロス郊外のサンピエドロという港町にある鰹の缶詰工場「スターキスト」を訪れた。 ここでは驚いたことに、生きたままの無数の大きな鰹が、海水と共に大型漁船から工場内の水槽にダクトホースで吸い込まれて行く。 一尾の大きさが一メートル近くもありそうな鰹が水流と共に何千尾も凄い勢いで吸い込まれ、その日の内に何万個もの家庭用缶詰になるのは壮観であった。ここでは殆どの工程が手工業方式で、数千人の女子従業員は、そのほとんどが東洋系またはメキシコ系の顔をしていた。この日デズニーランドを案内してくれた「味の素」の若い駐在員木村氏は、高速道路をドライブしながら、隣を走っている車の白人運転手に流暢な英語で道を尋ねていた。 彼は、私が初めて見た本格的に英会話が出来る日本青年であった。 客あしらいも抜群にうまく、これは優秀な人だと思っていたが、果たせるかな、彼はその直後、アメリカ旅行中の藤田興業の社長にスカウトされ、出来上がったばかりの京都国際観光ホテルの総支配人に抜てきされた。 いわば彼は<嚢中の錘>のごときものか。

その翌日はタウン街七一四番地にある「丸玉蒲鉾工場」を訪問した。この辺りはロスアンゼルスの旧市街の中心部で、即ち日本人町の中心でもあった。 七一四番地という数字は私の生まれた月日であるから記憶に鮮明である。丸玉(まるたま)の加藤さんという山口県出身の老女が、人の好さそうな息子さんと二人で、十数人の中南米から出稼ぎにきている日系三世の労働者を雇用し、内地と変わらぬ蒲鉾やちくわを造っていた。 もっとも、その働き人たちが日系三世であるかどうか定かではなく、ただ、彼らのローマ字綴りの姓名が日本人のそれと同じであると言うにとどまり、非合法入国者である彼らには、戸籍抄本も履歴書もなく、日本語はおろか英語すら殆ど話せないようであった。 

最近、私はオーバシーズサービス株式会社というミニ法人をつくり、東南アジアから労働者を日本に連れてくる事業を開始したが、それにつけても思い出すのは、この丸玉蒲鉾工場の外国人労働者たちのことである。 昭和三二年頃のアメリカの労働者不足とちょうど同じ状態が、今日の日本で起こり、そのためわが国でもパキスタン人や中国人の不法労働者を多く見かけるようになった。 そして今後ますます増えるであろう。 参考までに言えば「戸籍謄本・抄本」などというのは、日本およびその旧属領、即ち韓国・台湾だけに存在するもので、西欧では、それに代わるものとして出生証明書 BIRTH CERTIFICATE があるだけである。

丸玉工場では真鯛によく似た黒くて立派な活魚を蒲鉾原料として使用してい、その魚の名を聞いたところ<バラクーダ>であるとのことであった。 村上氏はそれを間違えて<ブラック鯛>と聞き、「ブラック鯛、ブラック鯛」を連発していたが、確かに言い得て妙であった。それから十年ほど後にアメリカ映画で、日本名「幻の怪魚 バラクーダ」というのが封切りされたことがあるが、そのポスターの画によれば、映画のバラクーダは私が丸玉工場で見た魚と全然違ったグロテスクな、いわば怪魚であった。 どちらが正しいのか、いま以って疑問に思っている。「浪速の葦は伊勢の浜荻」であり、「ゲーテとは俺のことかとギョウテ言い」と言う諺の通り、名前は違っても同じ物があると同時に、名は一緒でも、このバラクーダのように、黒鯛に似た立派な魚と<幻の怪魚>の違いがあるから世の中はややこしい。

先ずはさて、この旅行で丸玉蒲鉾と親しくなり、それ以後二十年ほどの間、丸玉工場へ蒲鉾やちくわの機械・材料を納入することが出来た。そして月日が経って、つい数年前、ロスアンゼルスの町のまん中辺りで用事があり、そのついでに、かって丸玉蒲鉾があったタウン街七一四番地をたずねた処、その辺りはすべて再開発されて広い駐車場になっていた。 近所のメキシカン食堂へ入り聞いてみたが、誰も丸玉のことを知っている人はいなかった。僅か二十年ほどの間に、ロスアンゼルスも大きく変貌していたのである。 約一ヶ月の米大陸旅行を済ませてハワイへ帰った処、予期せぬ詰まらぬことが待ち受けていた。というのは、ホノルルYMCA前の遠藤という食料品屋さんから、その頃流行った小型ポータブルラジオの注文を受け、その荷物が私の留守中に着荷することになっていた。 品質が心配だったが、というのは、その頃の輸出向けラジオの品質は大抵いい加減なもので、往々にして音の出ない品もあったが、メーカーである光洋電機の池田という社長さんが丁度同じ頃にハワイへ来て遠藤さんに挨拶したいという連絡があった。 だから開梱して、もし品質が悪ければ、池田社長に品物をみせて文句を言っておいてくれと、遠藤氏に頼んでおいた。 ところが品物は到着し、広げてみると殆どのラジオから音が出ない。 苦情を言おうと遠藤氏の待ちかまえている処へ当の池田氏は来た。 しかし、「如何にわが社のラジオの品質が良いか」と言うことを池田社長がとうとうとして自慢しはじめたので、人の好い遠藤氏は、鳴らぬラジオを見せるに忍びなくて、ご馳走しただけでお帰り願ったというのである。「池田社長に見せなくても、中村さんが大陸から帰ってきたとき見せればいいと思った」と、遠藤氏は言う。   「そんな馬鹿なことを・・」と言いたかったが、考えてみると私が間違いなく売り手なのだから、遠藤さんの言うことにも一理ある。 だからといって、その時の私に弁償能力などない。「日本へ帰ったらすぐ光洋電機に掛け合うから、暫く待って欲しい」といってその場を切り抜けたが、さてさて、<お人よし>というのは困ったものだ、と思った。

光洋電機はベアリングで有名な光洋精工の子会社で、池田という人は、光洋精工の池田社長の弟さんらしかった。 日本へ帰ってすぐ光洋電機の池田社長というまだ面識のない人に何度も電話したが病気で入院中とのことで遂に話が出来なかった。居留守を使っていらっしゃるかと、誤解もしたが、それから間もなく新聞にその死亡広告が出ていたので、やはり本当に病気だったらしい。「池田社長が留守であれば、代わりの専務か誰かを電話口に出してくれ」と、これも数回電話したが、初めの内は「聞くところによると、当社の池田社長が訪問したときには、品質は良かったと、遠藤さんが言われたそうだから、今更、お話合いすることは無い」というような係の人の電話の返事だったのが、その内に「担当の瓜生専務は病気で入院中です」という返事に変わり、ついに瓜生専務という人もつかまえられなかった。 今度こそてっきり仮病だろうと思っていたところ、何回目かの電話の時に、相手が「瓜生専務は亡くなりました」と言った。 これに驚いて、もうその後、光洋電機へ電話する気も無くなってっしまった。 と同時に、遠藤さんへ賠償するのも<うやむや>にしてしまった。 まことに詰まらぬ話だが、遠藤さんは、<人が好いだけではどうにもならぬ>という、典型的な例であった。もしこれがニーチェであれば「だからこそ、人がいいだけが免罪符の『奴隷道徳』は困る」と言いそうな話であり、反対に光洋電機の故池田社長のハワイに於ける堂々たる態度は、<わが能力に胸が高鳴る思いがする、それが即ち『帝王道徳』である>という、ニーチェの哲学に完全に一致する。 彼のヒットラーは、ニーチェの【帝王道徳】を武器に、偉大なる国家社会主義ドイツ労働党を世界に君臨させようとした。 そして、昭和三二年の日本の産業社会の覇者たちは、既に、少なくともハワイの日系移民出身の小商人に対しては、自己の優越を信じて疑わぬゲルマン民族に似た行動の芽生えがあったようである。

ハワイへ帰りついた村上氏はすぐ日本へ帰りたいという。 私の滞米六カ月のビザも殆ど終わりに近づいていた。いろいろお世話になった友人たちに別れを告げ、二人揃ってホノルル空港へ向かった私たちには数十名のハワイの友人たちが手に手にレイやみやげ物を持って、飛行場まで見送りに来てくれた。ニッパ椰子で編んだ緑の大きなハットを被り、首が回らぬほどのレイを掛けられた私たちは、持ち切れぬ程の贈物を両手にし、アロハと万歳の声に送られて機上の人となった。思い起こせば半年前の深夜、出迎えもなく一人ひっそりと同じ空港に降り立った、あの心細い私が、幸せなことに、そして予期もせず、まさに<歓呼の声に送られて>、つつがなく日本に帰れようとは思ってもいなかった。 運が良かったのか、はたまた<渉る世間に鬼はなし>であったのか。 それはいま尚、楽しい思い出であり、あまり幸せだったとも言い難い私の一生の中での、数少ないハッピーな一時でもあった。

 

羽田へ帰りついた日本の第一印象は、排気ガスの臭う喧騒な道路、ごみごみしたバラックの街、そしてどす黒く醜い人々の群れであった。 あまりにも汚い街、そして何というアグリー(醜い)な日本人たち。 しかしそれが自分の国であり、自分自身であるのをいつの間にか忘れてしまっていたのである。 私はハッと我に返った。 そして思った。人は自分自身の努力よりも、先ず最初に、何処で生まれるかによって、その人生の大半を決める。幸せな国に生まれた人の既得権益は想像以上に大きい。 だが二十世紀が終わろうとするいま尚、アフリカやインドに生まれた人たちは空腹に喘いでいる。 それに比べてストックの豊かな西欧諸国民の幸せなことを見よ。 個人の力で運命を切り開いて行くというのは、勇ましいが難しい。いや、不可能なことの方が多い。私が今年、オーバシーズサービス株式会社というミニ会社を設立し、不幸な国々の人たちに働く場所を探して上げたいと決意した、そのはるか昔の<濫しょう>はこの時にあった。 半年を楽しく遊ばせてくれた無数のハワイの友人たちの好意に報いるにも、私が他日、生活に余裕が出来たとき、必ず不幸な人々を助けようと思った。 そしてそれが今、私のオーバシーズサービスという会社になったのである。 この事業が成功するかどうかは、問うところではない。その精神をくみ取って欲しい。 とは言ううものの、著名な友人諸氏の名を役員として拝借している手前、出来る限り成功させたいのは当然のことである。参考までにその役員諸兄の姓名と略歴をここに記しておく。 まず伊瀬芳吉氏、ダイハツの元社長で勲二等。 黒木義典先生、大阪外大のフランス語名誉教授。フランス国教育功労勲章を持っている。 川村智一氏、カワムラ実業という大きな温泉ホテルチエーンのオーナー。 小川明宏氏、東洋紡の子会社の元社長。英国へ留学したことのある羊毛の技術者である。 村田稔神父、カソリック大司教に直属し、社会福祉法人暁光会を経営している。上智大学ほか二つの米国の大学出身。 監査役は村田英明氏、豊中市民生委員で黄綬褒賞を持つ。著名なカーテン絨毯会社の会長でもある。何故このような立派な方々の名を拝借しているかというと、オーバシーズサービス社は海外労働力の輸入斡旋について、外務省、法務省および労働省といろいろ面倒な交渉が必要であり、そのためには社会的に名のある方々に参加願っておくのが、万事に好都合であると思ったからである。

さて半年の、いわば<大旅行>を済ませて日本へ帰ってきた私は、正直なところ浦島太郎のような、一風変わった戸惑いがちの生活からの再出発であった。 こうしたことは前にも一度あった。それは終戦で復員して田舎へ帰ったときの、あの空虚な感覚に幾らか似ていた。 季節もちょうど同じ真夏で、すきっ腹に真っ青な大空が今浦島太郎の頭上にギラギラと照りつけていた。復員したときはまだ子供で、母が食わせてくれた。 今度は違う。 自分が家族の生活を支えねばならない。 留守中に生まれた子供と家内の二人を先ず食わせるという処からの出発である。一生を月給取りで暮らした人や、親に養われ自動的に跡取りになった人々にはお解りにならぬと思うが、零細な企業を自営する人間にとっては、商用旅行というのは辛いことである。 なぜなら、商用旅行とは、現実には<お金を遣いに行く>ことであり、<お金を儲けに行く>のではない。 もちろん長期的視野に立てば、それは<金儲け旅行>であろうが、縁日の商人か集金旅行でもない限り、商用旅行は、その場の事実として<金を遣いにゆく旅行>であるに過ぎぬ。 なけなしの金をかっさらってアメリカへ行った私にとって最も頭の痛かったことは、日本へ帰るに際して、<お金を持って帰らねばならぬ>という冷厳な事実であった。 如何に販路開拓に努力し、前途洋々の成果があったとしても、ポケットに金を持って帰らねば、明日から家内子供を養えない。 将来のことは二の次にして、家族は私が金を持って帰ることを期待し、いや、それを当然の事として待っているのである。 お金を遣って大旅行してきた私にとって、それは困ったことである。

その点、月給取りの出張旅行というのは有難いものである。「ただ今帰りました」と言えば「ご苦労さま」と言って、会計係が金をくれる。 留守中の給料は家族の元へ毎月送金されている。それを月給取り諸君は当然の事としている。 金を持たねば帰れぬ出張をした私にとって、この違いは大きく、いま思いだしてもぞっとする。もう二度とあのような厳しい《金を持たねば帰れぬ出張》をすまい。 そのためには、出張する本人やその家族と全然別の処で、事務的に出張旅費の支給や給料送金をする<会計係>という職務の人を持った会社を作り上げよう、というのがその頃の私の、ささやかで、かつ切実な努力目標であった。 そしてそれを私は取り合えず実現して今日に至っている。 にも拘らずである。わが社員諸君は、それを当然のこととして、有難いと思ってくれない。 この点は、どうも歯がゆい。 しかし、それを歯がゆく思う私の方が少し異常である、というくらいのことは私も知っている。

そういう次第だから、確かに私は少々の金を持って家へ帰りついた筈である。 しかし、幾ら持って帰ったか、何故それを持ち帰れたか、そのやり繰りについては記憶が無い。

留守中に子供が生まれていた。 長男にしてひとり子の千代賢(ちよかた)である。 千代賢というのは少し変わった名である。 何故、そのように変わった名をつけたのか。それはこういうことである。 私の祖父は千代太郎といい、三九才で亡くなっている。 その遺児、賢二が私の父である。 父も三六才で病没している。 従って兄の鯛三と私は二代に亙る後家家庭の育ちである。 そして兄は子供の頃すでに肋膜炎で長期療養している。 私も、いわば先天性生活力薄弱とも言える虚弱児で、青年の頃の体重は四八キロがせいぜいであった。 私は、<二度あることは三度ある>の諺通り、兄も私も、父または祖父の年齢前後で此の世を去るものと内心覚悟していた。 だから生まれて来る私の子は、せめて父と祖父の年齢を加えたくらい、つまり七十才程度までは生きてほしいとの願いから、祖父千代太郎と父賢二の名を併せて千代賢と命名したのである。ところが現代医学は、たまに病気はするものの、兄鯛三と私を還暦過ぎるまで延命させた。 だから、子供にそのような変わった命名をせずとも良かったのではないかと考える昨今である。

とまれ、家内と子供を抱えて北浜一丁目の<居候>事務所でレオ貿易を再出発した。 滞米中に決心した通り、工芸品とか何とか、ていのいい名称をつけた<雑貨貿易>などは、もうしないで置こうと心に<しか>と言いつけたが、さて、その雑貨を扱わずして何を扱うかとなると、相手やお客があっての商売だからそう簡単に航路修正が出来ない。取り合えずは、親しくなったハワイ・カリフォルニアの蒲鉾メーカーにその原材料を送ることから出発した。 これとて冷凍魚を除けば、あとは雑貨であることに違いはないが、そこは適当に理屈をつけ、生産原材料の輸出であると自分の心に釈明しておいた。 事実、くろかわかじき、沖かますなどの冷凍魚や、四八九頁で述べた、はも・ぐち・わらずかの<冷凍すりみ>や蒲鉾ちくわ機械の輸出は、金額的にみても雑貨などとは比較にならぬくらい大きな金額になった。そうした商売の都合上、東京築地の魚市場へ一週間ほど早朝に通ったこともあり、さらに後年には韓国釜山やオーストラリアの朝の魚市場にも何度か出向くこととなった。

そうした商売が出来るようになったのは、なけなしの金でハワイ・カリフォルニアへ行った成果であるが、と同時に、かねてつ蒲鉾の村上氏の庇護に依ることがより大きな原動力である。 かれの援助や口利き無しには、いくら私が力んでみたとて、伝統と因縁で固まった水産業界への出入りは困難であったろう。 実際、村上氏は何かにつけてよく助けてくれた。彼には感謝しても余りある一生である。

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