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不思議なことに、それから先の宮内氏とのことは殆ど記憶がない。 その夜、宮内氏の家族たちが何処に落ち着いたのか、その後宮内氏は一体どうしたか、それらは総て私の記憶の圏外にある。 あまりにも見事な記憶の欠落である。 たった一つ、わずかに記憶が残っているのは、その数年後、大阪中央郵便局で宮内氏を見かけたことがあるだけである。ただ、見かけただけで、何も話をしなかった。 彼がその後何をしていたかは、想像もつない。もしまだ生きているようであれば、もう喜寿に近い年齢であろう。

いずれにしろ、彼の妻子を大阪へ連れ帰った後、幾ばくもなく私は彼を見限って新しい資本家に乗り換えた。 と言っても、その新しい資本家も結局はお金がなく、またしてもだまされたということになるのであるが。 山本象之助氏は、宮内氏はもう駄目だと悟り、また新しい資本家らしき人を探してきた。 その人は、難波の高島屋のすぐ東隣で浪速屋という家具屋を経営していた薮内という哲学好きの中年紳士で、この人も貿易業を始めたいとのことであった。 事実、あの頃は、民間貿易再開で日本中が貿易に夢を託した時代だったから、大げさに言えば猫も杓子も貿易々々と言った頃である。その割には、貿易の実務が分かる人が少なく、英語の読み書きや輸出手続きが出来る山本氏や私にいささかの希少価値があったのである。

浪速屋家具店の二階にある薮内氏の事務所へ通って貿易業開始の準備を始めた。彼もタイプライターを買ってやると、最初に私に約束したが、結局それすら実現せず終いであったが、それはともかく、何よりも先に貿易商売の<ネタ>を見つける必要があった。 そのため、また身銭を切って東京へ行き、[AAR」及び「ブリテッシュ インポート」との、個人的な提携話を進めた。 もともと両社は誰でもいい、いわば<藁にもすがりたい>ときだったので、快く私の申し出に応じた。 私は、約二ヶ月ほどの間べったりと東京に居つき、経営者不在の両社の資料を点検し把握した。 両社とも「経営者不在」というのは次のような次第であった。 AARのツーリン君は、仕事はうまくいかぬし、ホームシックにはかかるし、お金もなく殆ど会社へ出勤しなかった。 ブリテッシュ インポートの豪州人ブラウン氏も、仕事がないので会社へ出勤せず、自宅で深酒を飲んで、同棲している加代子さんを困らせるばかりであった。 当然のこと、事務所の家賃も数カ月分滞ったままであった。 国際顧問業という乾博士もあまり仕事がなく、来たり来なかったりであるから、結局、この事務所に関する限り若い女性事務員二人の天下で、その二人も月給を貰っていたような様子はなかった。 だから、ある日突然私が現れ、提携しようと言って、その辺りの書類などを引っかき回しても、苦情を言う人が居なかった、というのが実状である。

ところが、書類を引っかき回している中に、まだ到着後間もない新しい信用状を一枚発見した。それはフィリッピンの国営電力会社からの鉄丸棒三百トン分で宛名はブリテッシュ インポートになっている。  一文無しの会社へ来た約十万ドルのL/Cだから、これは貴重であった。 女子事務員の話では、この信用状は担当の桃井真(ももい・まこと)という社員が先月契約した取引で、鉄鋼問屋の山本興業へ既に商品の発注書も送っていると言う。 ところが、私はその桃井氏にお目にかかったことがない。何時も留守である。  よく聞いてみると、桃井という人は、少し都合の悪いことがあってここ一、二カ月出勤できぬ状態にあるらしい。 闇ドルのブローカーか何かが発覚し、警察が調査しているので自宅にも帰っていないとのことであった。 そのうち、外から連絡がある筈という。  取り合えずL/Cだけは私が預かっておいた処、二、三日して連絡があり、三信ビルのすぐ前の喫茶店で会いたいと言ってきた。

□□ これから後、二、三十頁は大日本史と同じように、<紀伝体>でこの自伝をつずる。 紀伝といっても帝王・諸侯の方ではなく、いわば豪傑の部の<別伝>である。 私の一生にいくらか影響を与えた数人の紳士と私の交友録である。 こうした特定の人と、私との<ややこしい>いきさつに付いては、歳を追って記す<編年体>自伝では説明し難い。 

先ず、テレビ女優桃井香織の父親、というより軍事評論家として著名な、桃井真氏の話からはじめる。

【桃井真(ももい・まこと)】氏が会いたいと言ってきた場所は三信ビルの玄関前、つまり日比谷映劇のすぐ西隣りの喫茶店だった。 会ってみると、「色々事情があってブリテッシュ インポートへは当分出社できない。 仕かかりの仕事は、今の処、フィリッピン国営電力会社へ出荷する鉄丸棒三百トンだけである。 この船積がすめば幾らかの口銭が入るので、それを二人で山分けしよう」と、彼は私に言う。 話によれば、社長のブラウン氏はこの取引のことを知らず、また桃井氏も長らく月給を貰っていないとのことであった。 本当は彼一人で口銭を取り込むつもりだった処、L/Cを私に握られてしまったので、やむを得ず私と折半にしようと譲歩してきたのである。

「そうはいきません。 私は今後、ブリテッシュ インポートの仕事を総て引き継いで貿易業を始めるつもりですから金もいります。 だから、貴方の申し出に応じる訳にはいきません。 しかし、もし貴方が私と提携し、貴方は東京に私は大阪に常駐するという方式で、共同で貿易を再開する気があれば、その再開資金として今回の船積の利益を山分けしてもよろしいが・・」と提案した。 彼も、それは望むところであると言い、後日のために二人の間のアグリーメント、つまり覚書を作ることになった。 銀座の博文館ビルの地下にあった彼の内緒の事務所へ私を案内し、古ぼけたタイプライターに向かったかと思うと、彼は白紙に英文で、十二カ条からなる頗る尤もらしい覚書を作り上げた。 日本語で書くと、「以下これを甲と称し、またこれを乙と称す・・」という形式の、いわば法律的な体裁を整えた二ページに跨る立派な英文の覚書を、原稿もなく、ぶっつけ本番で作成したのを見て、私は目を丸くした。  平成元年の現在でも、そのような英文文書を原稿無しで作れる人はめったにいない。 それを、まだ英語教育があまり普及していなかった昭和二十七年にやってのけたのだから、私が驚いたのも無理はない。 私と二、三才しか年齢が違わぬのに、偉い男が居るものだと、目を見張る思いだった。 

感心したついでに、何故そのように英語が達者なのか聞いてみた。 彼の説明は次の通りであった。 彼、桃井氏は東京外語の英語科を主席で卒業した。 在学中すでに陸軍の依託学生に指定されていた。 卒業してすぐ現役入隊し、久留米の予備士官学校に入り、優等で卒業し恩賜の文鎮を貰った。 その後すぐ中野学校へ入り、陸軍諜報部員としての訓練を受けた。 終戦当時は参謀本部2部(諜報部)欧米班に所属し、米軍放送の傍受を担当した。 だから、外地勤務の経験は、連絡のためマニラへ二、三日出張した以外にはないと云う。 恩賜の文鎮というのを見せてくれたが、まん中どころに何かを削り取った痕があり、そこに菊の紋が入っていたとのことである。

戦後すぐ、進駐軍が旧参謀本部員を戦犯として逮捕しているとの情報が入ったので、旧中野学校の卒業生数人が共謀し、アメリカ生まれの二世と偽り、一番安全な場所として連合軍総司令部へ入り、米軍放送の受信係を勤めた。 (この話は少々眉唾ではないかと思っていたが、後日、別の人による、中野学校卒業生が数人身分を偽りマッカーサー司令部へ潜り込んだという手記が出版された処をみると、桃井氏のこの話もいくらか本当だったかも知れない。)

二、三年総司令部に勤務し、ようやく<ほとぼり>が醒めたので転職し、当時日の当たった通産省雑貨局に勤めた。 その後、北日本貿易という会社を経てブリテッシュ インポートへ一年程前に就職したとのことであった。 ここまでの彼のキャリヤは、我々凡人の到底及ばぬ、いわば赫々たる職歴であった。

桃井氏と私の新企業は、当面、彼のマニラにおける代理人ダニエル・アルフォン氏がセールスしてきて呉れるであろうフィリッピン市場を目標にした輸出貿易から始めようという事になった。  社名も「ダニエル・アルフォン日本」と決め、二人がサインした「以下これを甲と称し・・」という例の覚書にもこの社名を頭書し、立会人としてアルフォン氏のサインを貰うため、内一通をマニラへ郵送したがどういう訳かそれは遂に返ってこなかった。

フィリッピン電力への鉄丸棒は八幡製鉄の指定問屋であった山本興業が船積代行し、なにがしかの戻り口銭も受取り、それを二人で分け取りした。 その金を懐にして私は大阪へ帰り、彼は東京私は大阪駐在という形式でフィリッピン向けの輸出商売を始めた。 と、言いたい処だが、そうは旨く運ばなかった。 期待していたアルフォン氏が引合い商談を送って来なくなったのである。

仕方なく、彼は諦めて雑誌編集者に転職した。 東京商工会議所の中に「アジア経済研究所」というのが少し前に出来ていた。吉田茂首相の私設諮問機関であった<東南アジア開発五人委員会>という、小林中(あたる)、高崎達之助、渡辺義助など当時の実力者五人によるわりあい著名なグループが衣替えして出来た公益法人で、理事長は当時売れっ子の経済学者本位田祥男が就任した。 百社余りの大企業が賛助会員になっていたので、経費には困らないのだが、することがないと言う不思議な団体だった。 何かしないと具合いが悪い。 せめて雑誌でも発行しようか、ということになった処へ桃井氏が仕事を買って出た。 雑誌の企画、原稿取り、広告集め、印刷の手配、校正まで、総て一人で請け合うから、彼と助手の女の子の給料も含めて毎月五万円よこせ、という彼の申し出に本位田理事長が乗ったのである。 総て英文の「月刊フィナンス(MONTHLY ISSUE FINANCE)」という雑誌で、東南アジア各国の政府機関や商工会議所へ無料配布することになっていた。

助手としてブリテッシュ インポートの事務員であった千代子さんという女の子が桃井氏についていった。 「東南アジアの電力開発について」という相当長文の論説風記事、もちろん全部英文であるが、掲載されたのを見たことがある。 彼の話では、それは総て彼の執筆になるもので、その程度のものを<でっちあげる>のは彼にとっていとも簡単なことであるらしかった。 誰か他人に原稿を依頼すれば、例え僅かでも原稿料を払わねばならぬし、それも英文で書いてくれる執筆者など殆ど見あたらず、結局は彼が翻訳して印刷に回さねばならぬので、二度手間になるだけである、というのが彼の説明であった。

広告は取っても取らなくてもよいのだが、紙面を埋めるためには広告スペースがあったほうが楽なので、「輸出入業 ダニエル・アルフォン商会 マニラ―東京―大阪」という英文広告らしきものに大きくスペースを割いたりしていた。

「月刊ファイナンス」が数回発行された頃、大阪でささやかな「レオ貿易商会」を始めていた私が、香港から書画用雅仙紙を輸入したところ数量不足で先方にクレームをつけることになった。幸い、他の用事でその相手が東京へ来ていたので、私の片言(かたこと)英語で何度も話し合ったが言を左右にしてクレームを払おうとしない。 そこで桃井氏にクレーム取り立てを頼んだ。 早速、彼はその香港の男を商工会議所内の自分の事務所へ呼びつけ、流暢な英語で「もしクレームを払わなければ、当商工会議所から香港政庁へ正式に抗議し、貴方の商売が出来ないようにするがそれでもよいか」とまくしたてた。  相手は、その弁舌に押しまくられ、おまけに場所が東京商工会議所の中の事務所だったから、恐れをなして「数日中に必ず払います」と私たちの目の前で確約した。

私は、それで安心し大阪へ帰ったが、その後何日経っても桃井氏からその金が送られてこない。電話で聞いても、まだ相手が金を持ってこない、とのことであった。 二ヶ月程経って辛抱しきれず、東京滞在中のその男に直接督促した処、もうとうに桃井氏に払ったと言う。 慌てて商工会議所に桃井氏を訪ね詰問したところ「すまぬ、実は急に金の要ることがあり、一時流用しているが、早急に返すから」とのことであった。

それから一ヶ月ほど経ち、ちょうど東京へ行く機会があったので、もう一度厳しく督促したところ、「来月中旬にインドのマイソール州産業使節団を引率して大阪商工会議所へ行く。 そのとき報酬として少しまとまった金を商工会議所から貰えるので、大阪で支払うからもう少し待って欲しい」と言う。 翌月、彼は確かに大阪へ来た。 二十人ほどのマイソール州実業団を引率し、商工会議所のやや広い一室で、<日本・マイソール州経済会議>を彼が主宰し、通訳し、そして記録係を兼ねた。覗いてみた処、大阪側の出席者は商工会議所会頭など有名人が席を連ねてい、彼の堂々としたスピーチや的確な通訳ぶりに在阪名士たちが感心している様子がありありとみえた。 そして私は改めて彼に対する尊敬の念を抑えきれなかった。

懇談会は二時過ぎに終わった。 伊藤忠の本社へ金を貰いに行くから付き合って呉れ、と言うのでお供をして本町の旧伊藤忠本社へ行った。 そして、新しく入会した伊藤忠から、アジア経済研究所の賛助会費、一口金五万円也を小切手でもらった。  彼は「この金を貴方に返す筈なのだが、久しぶりに旧交を暖めるためには、これで今夜痛飲した方がよいではないか」と言う。 先ほどの名司会振りを目撃し、感心していた私は、この人とはもっと親しくして置く方が得策だと判断し、「大いに結構、そうしましょう」と返事した。 小切手は伊藤忠のすぐ隣にあった協和銀行で現金化し、その金を持って梅田の歓楽街へ行き、二人で深夜に至るまで痛飲した。 五万円という金は、二人でたらふく呑み食いするのにちょうど適切な金額であったのか、釣り銭は殆ど残らなかった。

それから少し経って東京へ行ったとき、彼に会おうと思い商工会議所を訪れたところ、助手をしていた千代子さんから、桃井氏は行方不明と知らされた。 既にアジア経済研究所は「月刊ファイナンス」を廃刊し、桃井氏も少し具合いの悪いことがあって関係者の間から姿を隠していたのである。 要するにクレームで取り立てた金は、私の胃の中に消えてしまい、そして桃井氏も、その後私の視界から消えてしまった。

ところがまた数年後、上京したついでに、その頃「香港テーラー」という三信ビルの一階にある高級洋服屋に勤めていた金森節子さんを訪ねた折、偶然、彼女が「桃井さんは最近英文雑誌の編集者になって、なかなか羽振りが良いらしい」と言う。

記憶は定かでないが、何かまた彼に苦情を言うかお金を請求するかの用事があった私は、すぐ本屋へ行き、市販されている英文雑誌を探した。 そして彼の名前はすぐ見つかった。 当時、発行されていた英文雑誌は、本屋の店頭で見る限り二種類だけだった。  即ち、「びゆ(VIEW)」と「ぷれびゆ(PREVIEW)」であり、どちらも在日外人向けらしかった。 直感的に彼の雑誌に違いないと思い、和服姿の女優が華やかな緋毛せんの上でお点前をしている、極彩色の大型誌「ぷれびゆ」を手に採って見た。 <アジアの独自の絵雑誌 (ASIA'S OWN PICTORIAL)> と副題が付けてあるその雑誌の見開きに、英文の奥付けがあり、そのトップに<主任編集者 (SENIOR EDITOR)>として彼の名前が印刷されていた。

早速、銀座東にあるその出版社を訪ね、彼に再会することが出来た。 会うなりすぐ「長らく姿を隠していて済みませんでした」と言った彼は、彼の現状を説明し、何かくどくどと私に対する言い訳めいたことを述べた。 何か忘れたが、彼は私に言い訳しなければならぬことがあったのである。 この出版社の社長というのは、当時札付の不良外人だったそうで、噂によれば山下奉文大将の軍事裁判を主題とした映画の脇役として出演した後、国外へ去ったそうである。 雑誌も日ならずして廃刊され、彼、桃井氏は再び我々の前から姿を消してしまった。 賢いが、どうも問題の多い人であったから、また何か事故でも起こし、長期に亙ってその筋のお世話になっているのだろうと憶測していた。

処がそれから十年ほど後、梅田の本屋で偶然に、彼の著書らしきものを見つけた。 講談社の文庫本で「ケネデーに続く若者たち 桃井真」と背表紙に印刷してあった。 その本の<腰巻>に東京教育大学の和歌森太郎先生が「筆者は防衛研修所で国際関係論を講ずる若き学究である」と賛辞を述べていた。

内容は、ハーバードとワシントンの両大学の大学院を一年ずつで卒業してきたという彼の留学記であった。  それによれば、大学の初講の日に、担当教授が四百五十冊からなる向こう一年分のリーディングリスト、つまり読まねばならぬ書籍の一覧表を呉れた。  一人の学生が立ち上がり「読みたいのは山々ですが、僅か一年間にこれだけの本を読むには時間が足らないのではないでしょうか」と質問した処、教授は「市販本であるから、そのうち約三分の一は諸君が既に読んでいるものと解釈している。 あと三百冊は一日一冊平均だから、充分読める筈だ。 もしそれがいやな人は別に学校で勉強してもらう必要はない、遠慮せず出て行ってくれ」と答えた。 そして翌週、講義が始まったときその教授は「先週までに読んだ本の中で解らない所があれば質問して下さい、もしなければ私は帰りますから」と言った。 そう言われると、いやが応でも発憤せざるを得ぬ。 学生たちは一日平均二、三時間くらいしか寝る時間がなかった。 そのようにして、優秀な《ケネデーに続く若者たち》がアメリカで数多く輩出し、それがとりも直さず偉大なるアメリカの牽引力になってゆく、というような輝かしきエリート集団の物語である。 そして、著者桃井真も、日本人として初めて二つの大学院を、それぞれ一年間ずつで卒えることが出来た、というよう内容であった。

その次に東京へ出たついでに防衛研修所の電話番号をしらべ、彼に電話をしてみた。 電話口に出た彼は彼は一瞬戸惑ったようであったが「これは珍しい、長らく無音で申し訳ない。一度、防衛研修所へ来てくれませんか」と言う。 早速、国電夷(えびす)駅前にある広大な防衛研修所を訪ねた。 衛兵が居たが「桃井先生に会いに来ました」と言うとすぐ通してくれた。 彼が、前もって衛兵に連絡して呉れていたらしい。 彼は古く<だだっぴろい>部屋の中の大きな机に、ただ一人<ぽつり>と座っていた。 机の上や椅子の後ろにはうず嵩く横文字の書籍が積み上げられていた。 それは、偉大なる大学教授の研究室といった風情であった。

会うなり、またしても開口一番「長らく御無沙汰して申し訳ない」と私に言った。 そしてやおら、過去十数年の、彼の来し方(こしかた)及び現況を説明し始めた。 それに依れば大要次の通りであった。

「びゆ」及び「ぷれびゆ」誌の出版社が解散して、金も仕事もなくなり、もう自分は一般市民社会の事業に不向きだと諦めた。 ちょうどその頃、防衛庁が研究職員を旧軍隊関係に求めていた。 参謀本部にいた経歴のおかげですぐ採用され、馬込の公務員宿舎が与えられたので、それ以後住居の心配が無くなった。 安いとはいえ、毎月給料を貰い生活も安定したのでほっとした。 間もなく、政府からアメリカへ派遣され、例の「ケネデーに続く若者たち」の舞台になった二つの大学院で勉強することになった。

そして帰国後、防衛研修所で<国際関係論と新兵器開発>の講座を担当して今日に至っている。

国際的な力のバランスは、殆どが有力な新兵器の開発動向によって左右されているので、特に米ソの新兵器開発の追跡調査が大事で、結果として、<国際関係論>と<新兵器開発>の両講座を同じ人が一人で担当することになる。 防衛研修所というのは、自衛隊に勤務し大佐まで昇進した武官のうち、近い将来将官になるべき 小数のエリートたちに軍人としての最後の教育をする所であり、その研修の最終段階における十日間を、最も大事な<国際関係論と新兵器開発>に割くのである。  彼らが将官になったとき、例えば第三次大戦で日本が占領され、政府や内閣がその機能を失ったというような場合、たとい陸将補程度の地位の軍人であろうと、緊急やむを得ず日本国全体を指揮するというような羽目に陥るということは充分あり得る。 そうした場合に間違いない判断と適切な決断をするために、防衛研修所の最後の教科として<国際関係論>を講じ、彼ら、将来あり得るかも知れない日本国最高指揮官に、確固とした見識を持たせておくのが彼の役目である。 そうした講義で彼が学生たちに教える根本方針は「いざぎよく負け、そしてその後のゲリラ戦で最終の勝利を得よ」ということである。  日本やアメリカは、自国内で戦闘をしたことも、そしてそれに本当に負けたという経験もない。だから危ない。 もし本土を焦土と化せば被害が大きすぎて復興が難しい。  その点、フランスやオランダは過去の経験から上手な<負け方>を知っている。 取り合えず負けておいて背後からレジスタンスで戦う。 だから戦争の被害は少なく、最後には必ず戦勝国の仲間入りをしている。 現在のような膨大な戦備を必要とする時代にあって、日本の軍備は半永久的に、必ず負ける仕掛に成っている。 負けるのを恐れるよりも、いざぎよく負け、レジスタンスで勝つことを最高指揮官たるもの常に念頭において置く必要がある。

更に、戦災処理技術なども国家にとって重要な研究課題である。 彼が米軍首脳の「マンハッタン計画」に参加したときの図上演習、「もしニューヨークのマンハッタン島に原子爆弾を落とされた場合、どう処置するか」は、空恐ろしく、そしてまた非常に興味あるテーマであった。 「先ず地区全体を完全封鎖し、空から防疫薬剤を散布し、放射能と悪疫の恐れが減少した頃に破砕爆薬やブルドーザーで地均しをし、放射能の被害が完全になくなるまで数十年そのまま放置しておく」というのがその答えであった。 マンハッタンのように高層ビルが多い所では、戦災直後の救援活動は、車両等が使用できないので事実上不可能である、という結論が出ているそうだ。

右に述べた<必ず負けるから、上手にすばやく負けろ>という主張については、十年程前、箕面ロータリーに来た自衛隊大阪地連所長の松浦陸将補に意見を聞いてみた事がある。 松浦氏は私と同じ年令の軍人で、ウエストポイント士官学校の教官もしたことがあるそうだ。 「私も桃井先生にそう教わりましたが、先生は文官だからそのようなことが言えるのであって、我々武官にとってそうした敗北主義に近い考え方は禁物である。 軍人はたとい負けると解っている戦争でも最後まで勇敢に戦うのが当然の義務である」というのが氏のコメントであった。 我が日本国首脳諸氏は、この余りにも切実な問題に対してどちらの見解を採用されているのだろうか。 首相か防衛庁長官に聞いてみたい問題である。

私がこうして彼の職場を初めて訪ねた日は、ちょうど吉田茂元首相が亡くなった日であった。 彼は私に説明して「防衛研修所の教官以外に、<公務員>として私はもう一つの職務を帯びている。 それは、《日本国内に在りながら、日本という国を外から政治的に眺めるという、わが国で唯一の仕事》 をしている文官である」とのことであった。

「だから今朝ほど政府から先ず、吉田元首相の死が外国に与える影響は?という質問が来、次に社会党本部から、吉田氏の死について今日の国会でどのような質問をすればよいか?の照会が入り、そのすぐ後で内閣から、社会党が吉田氏の死について国会で質問するという通知が入ったが、どのように返答すればよいか?と尋ねてき、午前中は大忙しだった」という嘘か本当か判らぬような話も付け加えていた。 普通なら信用すべき処だが、以前の実績から考えて、彼の言動はいま一つ信用し兼ねた。 しかし、それにしてもえらく出世したものだなと、話を聞いて感嘆久しうした。  その頃の彼の肩書は、防衛研修所次席教官、第五室長であった。

それからまた数年経って、私どもの新会社「レオ貿易東京KK」の黒田という社長が、何か仕事の<ネタ>を探しに行きたいというので、同行して防衛研修所に桃井教官をたずねたことがある。 黒田氏は幼年学校から航空士官学校を卒へた戦闘機乗りで、「早川シャープ」の商号を借りて韓国で最初にテレビ受像機を作った豪傑であるが、どう考えても人相が良いとは言えなかった。

そのせいかどうか知らぬが、桃井氏は「ここにある書籍から文書に至るまで一切の物は、すべて政府の機密資料だから、特別の磁気処置がしてあり、誰が触ったか、また何処へいったかがすぐ追跡できるようになっている」と、見え透いた嘘のようなことを言うものだから、興ざめがしてそれから後、彼の所を訪ねる気がしなくなった。

桃井氏の言論に付いては、例えば文芸春秋誌に載った「ゴールドウオーター選出の背景」をはじめ、過去十五年程の間に数多く、特に毎日新聞への寄稿が多いようであった。 テレビ討論の番組でも数回お目にかかった事があるが、風貌は三十年前と殆ど変わらぬ。 彼の顔をまだテレビでご覧になったことのない方々のために申し上げると、それは女優桃井香織が眼鏡を掛けるとそっくりの顔になる。 少し <ふてくされた> ような、それでいてやや賢こそうな、退廃のムードを秘めた丸顔は、父娘ともそっくりである。 まさに、親子の人相と行動様式はぴたり一致してい、不思議なくらいである。 彼も、もう定年退官の年齢だがどうしているかしら、一度<久かつ>を叙して見たいと思っている。

乾 精末(いぬい・きよすえ)】先生の名前は、関西学院を卒業された方々は何処かで見た記憶がおありだろう。 その通りで、古い関学の同窓会名簿には理事として先生の名が並んでいた。

十八才のとき、関西学院を卒業してカリフォルニアへ渡り、オキシデンタル大学とかいう学校で学び、南カリホルニア大学で教鞭を執ったことのある移民法専門の法学博士である。 出身は徳島で、阿波銀行のオーナー三木与吉郎氏と親交があったらしく、一度大阪の阿波銀行へお供したことがある。  箕面中央ロータリーの親友、村田英昭氏は徳島空港の村の出だが、彼の村の大旦那が三木与吉郎家で、彼、村田氏の旧姓「羽柴」は、播州三木から羽柴秀吉に追われ徳島へ落ち延びた三木財閥の向こうを張るべく明治初年に創姓されたらしく、事実、彼の村で三木家と親しく付き合いしているのは、彼の「羽柴」家だけであると謂う。  その近所に、「乾(いぬい)」という姓があり、広野ゴルフ場の 乾 氏、つまり 乾汽船の乾氏はそこの出らしい。 だから、我が 乾 先生もたぶんその乾一家であろうというのが親友村田氏の説である。 なお村田氏によれば、三木武夫元総理の家も近所だが、この三木首相家は取り立てて言う程のこともない普通の農家だったそうだ。

私が初めて 乾 精末博士にお目にかかったのは、有楽町の三信ビルにAAR社を訪ねた時だった。小柄で大人しそうな老人が奥の一部屋に居、皆が先生と呼んでいたので、何の先生かと聞いたところ国際法の大家であると紹介されたのが始まりであった。 先生の姪に当たる人が虎ノ門で金森旅館を経営してい、上京第一日目は先生の紹介でその旅館に宿泊したのを記憶している。 AAR社の事務員金森節子嬢、つまり今のジロー金森節子夫人もその近親であった。

東京滞在中に 乾 先生と親しくなり、次のような事をお聞きした。

先生はカリフォルニアの大学在学中、アメリカ六大学弁論大会で優勝し、その余勢を駆って全米諸都市の大学に「講演会」を興業して回り、それで学費を稼ぐと同時に知名度をあげた。 ときあたかもかの有名な排日移民法が成立した時であったから、反発を感じ移民法の研究をし、法学博士の学位を得、移民法の国際的な権威となった。 だが、第二次大戦中は日本にあって政府の外交関係の顧問をしていた。 終戦のとき、日本がいわゆる「ボッダム宣言」を受諾することになり、その放送のスピーカーを務めた。 これを世界史上では「乾 放送(INUI ANOUNCEMENT)」と呼ぶのだそうである。

終戦後は神田美土代町のYMCA英語学校長をしながら、かたわらAAR社内に居候して国際顧問業をしていた。 そして、そこへ私が転がりこんだという次第である。

その頃、先生は東京北ロータリーの次年度会長に指名されてい、職業分類は「国際顧問業」であったが、新たに松本重治氏の入会が決まったので、松本氏は国際政治顧問、先生は国際経済顧問ということにしたそうだ。 処がその年の六月、大阪で国際ロータリーの地区年次大会が開催され、その大会で日本は第六十と六十一地区の二つに分割されることになった。 大事な大会であり、次年度会長に指名されているので、どうしても出席したい。 しかし懐が淋しい、何かいい方法がないかと、私に相談があった。 「ロータリーの会員になるのは名誉だが、私にはそれに見合うだけの収入がない。名誉の背景には収入が必要である」と先生は言った。 私にはその<収入>という言葉が新鮮であり、かつ異様に響いた。 もともと<収入>という日本語は、例えば村の収入役や収入印紙と言うような場合には使われていたが、<私にはそれに見合う収入がない>というような言い回しの言葉は聞いたことがなかった。 そうでなくても、立派な男たるものが自分の所得や収入を云々するのは、恥ずかしい限りであり、まして名誉の裏付けには収入が必要であるというような考え方は、それまでの私の思考様式になかった。 だからそれを聞いたときは、何かこうアメリカ的な清新さと<バタくささ>を感じた。そして、アメリカ育ちの人は、何と直裁なものの言い方をするものであるかな、と感嘆した次第である。

先生の希望に応えるべく、東京からわざわざ私の田舎の田原村、即ち今の福崎町の、松岡村長に手紙を出し、東京の有名な大先生、 乾 精末博士の講演会を、田原村で開催してはどうかと勧めた。 もちろん、ボッダム宣言の受諾放送をした人で、かってはアメリカで大学教授を勤めた大学者であるとか、少々オーバーに先生の経歴を記述した印刷物も同封しておいた。 講演料は、先生が下阪するついでである六月第一週でよければ、特別安くして五千円でよろしい、ということも付け加えた。

すぐ村長から返事があり、「講和条約発効記念大講演会」と銘打って小学校の講堂で実施するから、先生の都合の良い日に来村されたい、と言ってきた。 その日は、確か講和条約発効の日の前後であったから、昭和二十七年六月のことと記憶している。

国際ロータリーの年次大会出席を兼ねた先生のお供をして、その一日前に田原村へ行ったが、運悪くその日は小雨が降り、おまけに田植シーズンで、村役場の係員が軽トラックで宣伝して回ったにも拘らず講演会に来た人は非常に少なかった。 やむを得ず、急遽小会場に変更し、座談会形式にして<お茶を濁す>結果に終わった。 地元の主催者たちは<終戦秘話>の如きものを期待していたようであったが、乾 先生の方は「民主主義社会と日本人の心得」というような教訓調の話だったので、余り感銘を与えなかった。

しかし、村長と助役の二人は村のバス停まで丁重に送ってくれ、<薄謝>と書いた五千円を 乾 先生に渡してくれた。 幾らか分け前をくれるかと期待していたが、先生は全部懐に入れ「おかげで下阪の旅費がねん出来て有難う」と、私に言うだけであった。 尤も、村長は「貴方にもお礼を出すべきかも知れぬが、村の人だから辛抱してくれ」と言って、<車馬賃>と書いた金五百円也を、そっと私のポケットに入れてくれた。  私はそのとき初めて<車馬賃>という古めかしい言葉を知った。

バス停でバスを待っている間に見送りの人たちと<ひととき>立ち話をした。 村長と助役は「貴方が村を出たときこれから都会でどうして暮らすのか、実は内々心配していたが、二年程の間にこうして東京から大先生をお連れして帰ってくるようになって、さすが偉いものだと感心している」というようなお世辞めいたことを言ったので、私は非常に嬉しかった。 恥ずかしかったのは、純真な 乾 先生が、立ち話の中で「私が参議院選挙で落選したときには・・」という話を持ち出し、天下の大先生だと思い込んでいた村の人たちの尊敬の念を、少しばかり減らした感じだったことである。

ちょうどその頃、竹田恒憲氏、つまり元竹田宮恒憲王殿下が東京北ロータリーに入会されるに当り、推薦を依頼され、非常に名誉であると先生が喜んでいたのを記憶している。 ロータリーなどというのは雲の上のことで、縁のない話だと思っていた私が、時代の変化ではからずもロータリアンになって間もなくの頃、芝パークホテルの東京北ロータリークラブ例会に出席したことがある。 既に 乾 先生は亡くなっていたが、偶然、竹田恒憲氏の隣の席に座った私は、その話を竹田氏にしたかった。 しかし、何しろ相手は元皇族、こちらは入会したての新米会員だったから、一ことの話も出来ず、そさくさと無言の食事を終えただけで退散してしまった。 もし今であれば、背中に甲羅が生えているので、竹田の宮といえども臆せず話ができるだろう。

ロータリアン諸兄は、ロータリーソング集という小冊子をご存じだろう。 その中に「四つのテスト」という歌がある。《ことに当りて先ず問わん それが公明正大で・・》という歌だ。 訳詞 乾 精末と書いてある。 この人が、私のいう 乾 精末先生である。 先生が亡くなってもう三十年近くになる。 先生と私の間を結ぶのは、いまや先生の近親、金森節子さんだけになった。 彼女は、四十年の長きに亙り三信ビルに仕事場を持ち、今はNHKのニュース解説員をしているフランス人と結婚し、ジロー節子夫人と呼ばれている。 美人ではないが、なかなか<しゃきしゃき>したいい女で、美しい英語を話す。彼女の話では、女優桃井香織は乳飲み子のころ、何回か三信ビルのAAR社へ来たことがあるという。 

乾 博士のことはこのくらいにしておいて、 次は山本象之助氏の話に移る。

【山本象之助】氏は、私が昭和二十七年にレオ貿易という会社をつくったときのパートナーである。 当時彼には、若い夫人と、私と同年の息子と、そして浪速の主と自称した母堂が居た。

大ビルの中にあった大谷製鋼所で偶然顔を合わせ、知合いになった紳士である。 彼および彼の母堂の話に依れば、その経歴は次の通りである。

大和の豪族、中(なか)大和守の末えいで、父は柴島(くにじま)染工という染物屋をしていた。最初は堂島川の下流、いまの住友病院の辺りにあり、日露戦争のときには彼の家の庭に天幕を張り、そこから大阪師団長が船で出陣した。 川の水が汚くなり、染工場は少し川上にある天満天神の近くに移動したが、程なくそこも汚れたので、更に上流の柴島(くにじま)の水源地付近へ移転した。

なかなか内福だったので、その頃、池田の在から出てきた初代田村駒次郎に三百円の金を貸し、商売をすることを勧めた。 田村駒は順調に発展したが、柴島染工の方は柴島付近の水質すら染色に適さぬようになり、廃業を余儀なくされた。 田村駒発展の原因は、輸入洋反物に驚くほど大量の出目(でめ)があったからだという。

天王寺商業学校へ入った山本氏は成績優秀で授業料免除の特待生になった。   二、三年あとで同じ学校へ入学した田村駒の息子、つまり二代目、田村駒氏は、生まれたときに<ぶくぶく>膨れた、少し変わった体であった。 大阪ではそれを<水子>と呼んだらしい。 水子が出来ると目出たいという言い伝えがあり、盛大なお祝いをした。 しかし、内心では「この子は育つだろうか」という心配から、非常に大切にして育てられたと謂う。 天王寺商業へ入った二代目田村駒氏は成績が余り良くなかった。 それを知らぬ両親が「成績はどうだ」と聞いたところ、彼は「十番だ」と答えた。 十番までが優等生というしきたりがあったので、両親は大喜びし、お祝いをするから集まってくれと、親類縁者に触れを回した。

その案内状を見た山本氏の母堂は、「これはおかしい、田村の息子は余り学校の出来がよくない」と聞いていたのを思いだし、わが子、象之助氏に尋ねた処「それは尻から十番の間違いである」とのことであった。 慌てた母堂は田村家へその由を注進に及び、恥をかく前にその祝いを中止させた。 それを機会に田村家では、息子に勉強を教えてやって呉れと言って無理やり象之助氏を連れて帰り、駒太郎氏(田村駒の初代は駒次郎、二代目は駒太郎というのが戸籍上の名だそうである。)と起居を共にさせ、象之助氏のことを兄さんと呼ばせた。

象之助氏は天王寺商業から大阪高商に進んだが、その間ずっと学費免除の特待生であった。 その学年、つまり大正十年卒業の優等生は三人、即ちニチメンの機械金属総務部長で退職した本田?(かん)三、我が山本象之助、それに辣腕家として名を馳せた安宅の猪崎久太郎氏であったという。 参考までに言えば、その前年度の逸材は朝日放送の元社長平井常次郎氏で、この人には私もじっこんにして頂いたことがあるが、最近はお目にかかる機会もなくなった。

山本象之助氏は外国語の勉強が好きで、大阪高商在学中は選択外国語を毎年換えて採ったそうで、そのせいか英語の外にドイツ語、フランス語、中国語が出来た。 特に英語については、「商業英語」という雑誌を半世紀に亙り発行し続けたかってのクラスメート尾崎氏より上であったと自慢し、事実それを肯定するような記事を尾崎先生が「商業英語」誌に記していたことがある。 また、私の英文が、その知識の浅薄さにも拘らず、意外に理屈っぽいのは、若い頃、カーライルやサマーセットモームを引合いに出して英語を論じた山本氏の影響によるものである。

山本氏は大阪高商を卒業と同時に、ほぼ自動的に田村駒へ入社し、初代社長の側近として勤務した。 そこまでは彼にとっておおむね順調な社会への滑り出しであった。

だがその後、彼の運が傾き始めた。 先ず、田村駒二世との不和である。 天王寺商業時代の田村駒太郎氏は成績もよくなく、鳴かず飛ばずであった。 ところが、実社会へ出ると、途端に頭角を表し、田村駒の社業を隆盛に導いた。 そして、優柔不断な山本氏を疎んじ始めた。 攻守処を代えたのでである。 後年、「田村駒(大洋)ロビンス」球団のオーナーになり、大阪財界にも名を馳せた田村駒二世であるから、温厚な山本象之助氏が兄貴顔できる相手ではなかった。 将来を心配した初代田村駒次郎氏は、因果を含めて山本氏に<わらじ>を履かせた。  行く先は中山製鋼所であった。 初代田村駒次郎氏と中山製鋼の創業者中山悦二氏は、大阪商工会議所の二号議員として、また花柳界の常連として親交があった。 だから、そのまま田村駒に居ればそのうち専務になるべき山本氏は、親分二人の間でトレードされ、中山製鋼の貿易部員という資格で、実際は怪物中山悦二の<鞄持ち>に転じた。

時の商工大臣結城豊太郎に食い込み、一平炉メーカーであった中山製鋼は「高炉設備」の認可を取り付け、一躍、わが国第五番目の高炉メーカーとして名乗りをあげた。 まさに日の出の勢いであった。 当然の事、中山悦二氏も大阪財界の実力者として男を上げた。 そこへ山本氏も入社したのだから、必ずしも<島流し>になった訳ではなかった。

私どもレオ貿易に、始め頃、会計嘱託として出勤していた北島という人がいた。 山本氏の中山製鋼時代の同僚で、彼は当時最年少の現場課長だったそうだ。 この北島氏が、中山製鋼が高炉メーカーになったいきさつを説明して呉れたことがある。

結城商工大臣から「高炉設備認可」を取り付けた中山悦二氏は、課長職以上を集めて高炉建設の損得を議せしめた。 当時、中山製鋼の課長職以上は僅かに六人だった。 その中に我が山本氏も、最年少の技術者北島氏も入っていた。 「高炉建設を実行すべきか、すべきでないか」を、六人が延々議論した。 じっと、それをそばで聞いていた社長中山悦二氏が、途中で怒鳴った「お前たちに議論させているのは高炉を持つことの功罪であって、それを実行するかしないかは私が決めることである。 お前たちのような頭の悪い連中に実行の意志決定をさせるつもりは一切ない、身の程を弁えろ」。 さすが怪物と異名をとった経営者の貫禄である。 自信家の六人も、ぐうの音が出なかったという。

支那事変が大東亜戦争に発展し、中山製鋼も軍需で忙しくなりつつあった。 そのような折、社長の<鞄持ち>と同時に、貿易係として勤務していた山本氏に出向命令が出た。協和造船へ中山製鋼代表、兼人事担当役員として出向せよというのである。 海軍が中山製鋼と、日立造船および三和銀行に、軍艦の製造を要請して来、三社共同出資で協和造船が設立された。 場所は大正区大浪橋の中山製鋼所有地一万数千坪であった。

しかしこの会社は、駆逐艦一隻を造っただけで、アメリカ軍の空襲によりあえなくダウンしてしまった。 そして終戦。 協和造船は「特経会社」として解散の運命になった。 中山本社へ帰れると思っていた山本氏にも無情の風が吹いた。 大陸から引き上げてきた辣腕家中山重隆氏は亡兄に代わって中山製鋼を牛耳り、既転出者の帰参を許さなかった。 他の関係者はすべて散ってしまった中で、ただ一人、お家大事に協和造船の最後の書類を抱えた山本氏は、これから先どうしようかと考えあぐんでいた。

そこへ私が現れた。 彼、山本氏は英語が使いたかった。 外国人と付き合いもしてみたかった。 それには貿易業が近道である。 しかし天性の怠け者だったから、自分でそれをやる気はなかった。 もちろん資金もなかった。 誰かに貿易会社を経営させ、自分は英文通信を受け持って見たかった。 だから資本家らしき者を探し出し、そして私に商売の実務を担当させようと考えたのである。

いよいよ資本家が見つからぬと諦めたとき、彼は私に言った「色々画策したが総て駄目だった。就いては、もし貴方が独力で貿易業を始めるならば私は喜んで手助けしたい。 金はないが、ときたま資金が要る場合は、僅かばかりであればその都度一時的に都合してくる手段はある」。

背水の陣であった私に否応はなかった。 それで結構ですと返事し、二人で「レオ貿易」をささやかに創業することになった。 彼と私の条件は五十対五十、そして事務所は彼の義弟柴田友男氏が占拠していた北浜一丁目の古借家に居候することに決めた。 相部屋には東芝電興大阪営業所が居た。 人の好い柴田氏は、大阪府会議員もしたことのある古野周蔵弁護士の番頭であり、夫人は山本氏の妹、そして末娘はバイオリニスト辻久子さんの伴奏を勤めたことのある柴田良子さんである。

余談になるが、山本氏の住吉町の家のすぐ東隣りは辻久子さんの家だった。 彼女の父親は、子煩悩で有名な吉之助氏で、大阪風のしり上がりアクセントで通称「吉っちゃん」と呼ばれていた。 山本氏の母堂は「吉っちゃんは少しおかしいわよ、もう大きな娘になっている久子はんを毎晩抱いて風呂に入れている」と言っていた。 リサイタルのポスターで辻久子さんのふくよかな写真を見る度に、私は今でも、婆さんのこの言葉を思い出す。  彼女は私と同年令の筈だが、近年再婚したらしい。

いともささやかにレオ貿易を共同で開業したが、山本氏は予想以上に頼りなかった。 殆ど出勤して来ない。 無理もない、朝は昼前にならぬと起きない。 それに会計顧問をしている印刷屋が二軒あって、昼過ぎにそこへ顔を出す必要がある。 夜は、長らくの習慣で南の戎橋筋を一回りしない限り家へ帰らない。 戎橋筋の、夜店の八卦見や似顔絵書きは総て顔馴染みであった。 その一人々々に「へい、今晩は・・」と声を掛けるのを楽しみにしていた。 金縁(きんぶち)の眼鏡に革の折鞄という一見紳士風の老人が、毎晩戎橋を一巡するのだから考えてみてもおかしな風景である。 真冬であろうが、大風の日であろうがその日課を欠かしたことはない。 まさに奇人であった。

大阪の主(ぬし)をもって任ずる婆さんが少々文句を言っても馬耳東風、風呂も一週間に一回くらいしか入らぬし、人前で額(ひたい)の垢を擦りとる癖があり、義理にも上品とは言い兼ねた。「この子は初め賢くて、あと阿呆で・・」と婆さんが人前でずけずけ言うが、いっかな効き目がなかった。 「私が馬鹿になったのには二つの原因がある。 青年の頃、姫路の沖にある家島へ船遊びに行ったとき、岸壁の岩山から大きな石が落ちてきて頭にあたり怪我をした。 それで急に頭が悪くなった。 次は先妻に男が出来て出て行ってしまった、そのときどうしていいか解らず、それでまたしてもぼけてしまった」というのが山本氏の言い訳であった。 それにしては、こと語学となると急に賢くなった。 例えば、レオ貿易の社名だ。 彼が言うのには、「今はアメリカが勝って何でも英語だが、長い歴史の興亡から見るといつ何時英語が駄目になるかも知れぬ。 だから英語や日本語の社名よりもラテン語名にしておく方がいい。 ラテン語は永遠不滅である」。 という訳で我がレオ貿易の最初の社名は「レオ ソシエタス メルカトリア」にした。 詳しくは知らぬが、ソシエタスは会社の女性詞、メルカトリアは商事の女性形で、ラテン語では形容詞がフランス語と同じく名詞の後ろに付くというような説明であった。 「レオ」はライオンのラテン語で、浪速橋の袂のライオンの石像からとったものである。

だがこの様な長々しい社名は、とうてい実用にならない。 <寿無限(じゅげも)>の落語と変わらなかった。 二、三年辛抱したが、辛抱しきれず、今の「レオ貿易」に変えてしまった。

その頃は、まだ私の英語通信文は幼稚なものであった。  彼に英語の手紙を頼むと、第一節を WE で初め、第二節文頭を YOU にし、第三節は三人称で開始し、そして最後の文節には WHO を使うという念の入れ方で、時間も掛かり、到底、貿易業には適さなかった。 急がぬ手紙類はそれでいいとしても、困るのは外国向け電報である。 電文の一文字節約するために「明日の朝までにもう少し文字数を節約した電文を考えてくるから」と言って、作りかけの英文電報を持って帰宅してしまうのには困った。

「私は金儲けが下手で、いま以上ものを持つ力がないから、現在持っているものは絶対に手放さないのが唯一の蓄財手段である」と言って、如何に陳腐な物や不用な品でも、すべて狭い家の中に積み上げて手放そうとはしなかった。 だから、彼が死んだ後、我がレオ貿易の古い資料などがいっぱい出て来、未亡人がどうしましょうかといって訪ねてきたときには、驚きもし、呆れたものであった。 しかし、つらつら考えてみるとこれも、弱者の一つの有効な、世渡り方法であったかも知れぬ。

尤も、そうした主義ないしは性癖のため、親会社、中山製鋼所の社長室から「早く清算手続を済ませろ」と、何度も督促されていた協和造船の終結を意識的に遅らせ、かえって不興を買ったのは余り得策とは言えなかった。 「艦艇の製造会社などというのは政府の認可を必要とする特殊な企業だから、一旦解散すると、そう簡単に設立出来ぬ。 いま戦争が済んで軍備は不用だと言っても、何時また軍備をしなければならぬ時が来るかも知れぬから・・」と言うのが、彼が協和造船の解散手続を遅滞させている表向きの理由であった。 しかし察するところ、彼は、常に鞄に入れ、持ち歩いている協和造船の登記謄本に、日立造船松原与三松、三和銀行渡辺義助などの大物と共に、彼の名前が役員として並んでいるのを、人に見せるのが楽しかったというのが本当の原因のようであった。

辻本福助足袋と新和歌の新田氏の縁談の<聞き合わせ>があったことを一生の誇りにしていた、山本氏の婆さんが亡くなったときには、疎遠になっていたとはいえ、さすがに二代目、田村駒次郎氏はやってきた。 しかし、家へは入らず、表の道路で葬式の済むまで立っていただけで、すぐ帰ってしまった。 その夜、遅くまで葬家に残っていたかっての田村駒の内輪の人たち、即ち意匠室長であった秋田氏や、二代目、田村駒次郎氏の<少年(しょうねん)>であった山田氏などが古い思い出話を聞かせてくれた。 その内、記憶に残っている余り上品でない話を一つ記しておこう。

二代目、駒次郎氏はその頃、まだ駒太郎といった。 子分を数人集め、現在でいう<ぽるの映画>を作った。 それが発覚して大阪南署に検挙された。 駒太郎氏に因果を含められ、子分の一人が、親分の身代りとして豚箱へ入った。 その代償として駒太郎氏は、子分に金を与え心斎橋でカメラ屋を開かせた。 それが「轟(とどろき)カメラ店」であると謂う。 真偽の程は知らぬが、我が山本象之助氏は、死ぬまで「轟(とどろき)」以外のカメラ屋へは行かなかった。 「轟カメラ店」が、心斎橋にまだ存在しているかどうか私は知らない。

名古屋大学工学部を出た山本氏の一人息子は純一氏という。 私と同い年であるが、いま私の近所の牧落という所に住んでいる。 熱心な創価学会の信者で、議員の選挙の前には必ず拙宅に運動にやって来る。 しかし不思議なことに、それ以外には絶対に現れない。 選挙運動に現れても、彼の亡父のことはついぞ口にしたことがない。

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