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7) 前永興周省

周省とは、永興寺歴代住持牌中の永興寺第四十四世以参省禅師(癡 絶之子)のことである。 (大内師弘の子に癡鈍妙頴という僧があり、癡絶は癡鈍の誤字である可能性が強い。)
御薗生翁甫編「北辰余光」に、周省についておおよそ次のような記述がある。

惟参周省師、名は周省、字は惟参または以参。 牧省、牧松と号す。 東福寺勝剛長柔を俗叔父とす。 周防国山口保寿寺(ほうじゅうじ)に入りて、癡鈍(かれの父親?)の鉗鎚を受け、傍ら曹洞の宗旨を探る。 その初め京に入るや、東福寺に隷して典蔵秉払(ひんぽつ)し、座を分けて説法す。 某年、相国寺に出世せり。 師、山口に帰りて師の跡を継ぎ、保寿寺に主たり。 大内氏深くこれに帰依し、待遇はなはだ厚く、あるいは国務といえども密かに参画す。 長享三年南禅寺公文に座す。 
師、文藻に富み、五山の尊宿と唱酬するところ甚だ多しといえども、今ほとんど伝わらず。 只、わずかに雪舟山水の画賛一首を存するもの空谷の跫音なりというべし。 その文に至りては、明応六年十月および十一月大内義興朝鮮国禮曹参判に与えるの書、並びに陶(すえ)尾張守弘護肖像賛あり。 享禄四年八月一三日寂を示す。

周省の出自は大内教弘の子、または大内氏の親戚にあたる石見国益田氏の庶出ともいわれているが、はっきりしたことは判らない。 応仁の乱の終わりに、兵を引くよう大内政弘に進言したのも彼であると謂われているから、政治にもいくらか関与していたらしい。 画僧雪舟とひじょうに親しく、雪舟が後半生を山口に住んだのも周省の手引きによる。

いま倉敷大原美術館にある雪舟の絶筆といわれる山水図(国宝)に、周省の賛がある。

 

嶮崖の径 折れ繞って半腸

白髪蒼頭歩んで さまように似たり

旧日 村を韋(めぐ)る枯竹短く 

        前朝蕭寺老松長し

東漂西泊舟千里 北郭南涯夢一場

我亦相従って帰去せんと欲す

青山聳ゆる処 是家郷
 
  牧松周省 印 印
 
 
 

並べて、大明皇華前南禅了庵八十三歳という署名の賛があるが、この人は雪舟の生涯における無二の親友だった前南禅寺住持了庵桂悟で、永正四年(1507)渡明のため周防に来て、雪舟の死を知り、その遺作に賛をしたのである。
末尾の1行は

牧省韻を遺し雪舟逝く 夭末残涯春驚多し
 
となっていて、ときすでに雪舟も周省も亡くなっていたことを示している。
 

周省が賛をしているものとしては外にも、

雪舟    山水図     大阪正木美術館蔵(重要美術品)
伝雪舟  陶弘護画像  山口県竜豊寺蔵(重要文化財)

などが存在するそうである。
 

牧松周省の絵もいくらか残っていて、それぞれ重要文化財になっているとは、内田伸先生の話である。
いずれにしろ、護聖寺梵鐘の追銘を書いた周省という僧は、当時、西の京都といわれ殷賑を極めた山口における一流の文人であったことは間違いない。
 
 

5) 三蒲本庄志駄岸八幡宮

大内政弘が梵鐘を奉納したという志駄岸八幡宮は、山口県大島郡大島町小松字方丈坊に現存し、戦前の社格は郷社である。

大島町史によれば、神社は天平三年(731)に宇佐の宮から勧請し、はじめ屋代の神教寺の後山にあり、のち大峠山に遷していたが貞観2年洪水のため流出し、同5年にご神体が小松の海中から引き揚げられたので、その地に仮宮を建てて祀り、爾来、志駄岸八幡宮と称し、この地方の産土神とするようになった、とのこと。 
志駄岸というのはもとの地名と推測され、附近にいま東三蒲、西三蒲の地名があり、大島町役場もそう遠くない。
現在の社殿は明治23年の改築で、昔はもっと簡素なものだったらしい。

大内政弘が鐘を寄進したことについては、大島側には記録も伝承もなく、三次市三勝寺にある梵鐘の銘に依る外はない。
それより、参道入り口に立てられた高さ5メートルの大常夜灯が文化財として大島町および志駄岸八幡宮の観光資源になっている。
この常夜灯は、木綿産地として、またそれを運ぶ港としてこの地が栄えた天保・弘化年代に、木綿関係者によって建立されたもので、台座には大阪から臼杵に至る間の寄進者の名が多数彫り込まれている。

6) 流転をかさねた梵鐘

はじめ播磨国護聖禅寺のために造られた梵鐘が、なぜか111年という年月を経て、周防国大島の海岸にある志駄岸八幡宮に奉納され、いまは中国山脈の中にある三次市の三勝寺に蔵される。 しかも三勝寺の記録によれば、その前は、もうちょっと東の旧比熊城址にあったという。 鐘銘および記録により明白なだけでも3回は移動している。 ひょっとするとその間に、どこか他に休憩したり立ち寄っていた可能性もないとはいえないが、とりあえず最初は播磨から周防大島まで直行したと考えることにする。 
経路はたぶん海からであろう。 播磨永良庄という内陸から、市川を笹舟で下り、姫路を横に見ながら飾磨津へ出、そこから瀬戸内の海を遥か西に移動して周防大島の、いまの小松の港附近に到着する。 ちょうどそこに八幡宮があったから、領主の大内政弘がそれへ奉納した、と想像するのが無理のないところだろう。

ではいったい、赤松永良氏の氏寺の鐘が、なぜ大内氏の手に移ったか。 それについては歴史上の記録はいっさいないので、好事家の推察によるしか手がない。 それを考えてみよう。
あり得る可能性として、和戦、ほぼ三つのばあいが考えられる。

その1、応仁の乱で、大内の軍勢が赤松軍から戦利品として陣鐘を分捕った、ということ。
「赤松盛衰記」に、中国西国蜂起之事 并て攝州合戦之事 という記事がある。

 且又攝州には池田筑後守、先年大内介政弘上洛のとき降参しけるが、又細川の
 味方となる。是によって(山名側西軍の)大内家の軍勢、早速池田の城を取巻攻
 寄たるよし告来る間、(細川)勝元より彼表へ加勢の事を沙汰せらる。(細川側東
 軍の)赤松家よりは安丸河内守光綱を差下さる。(中略)それより毎日の合戦いつ
 果てるべしとも見えず云々。

ただしこれは応仁2年のことで、梵鐘が大内政弘によって志駄八幡宮へ奉納された長享元年より19年もまえのことであり、応仁の乱が終わってからでもすでに10年を経過している。その間、梵鐘はいったいどこでどうしていたのか。年月の隔たりからみて、そのときの戦利品というにはいささか不自然である。

その2 、お互いの友好記念に赤松政則が大内政弘に贈呈した、ということ。
大島志駄岸八幡宮に鐘が奉納された長享元年には室町足利将軍が近江に六角高頼を親征している。その陣触れに赤松氏も大内氏も馳せ参じ、同席した記録がある。 大内政弘は、息子の義興を連れて上京している。 
昔の敵は今の友で、「お互いにこれから仲良くやりましょうや。まぁその意味で陣鐘を一つ贈呈します」というようなことで、貰って持ち帰った鐘を志駄岸八幡宮に奉納した、というほうが、わざわざ追銘まで彫り込んで神社へ奉納するにはより自然なプロセスと考えられる。

その3、それよりずっと前、「嘉吉の乱」で赤松氏がいったん滅亡したとき、赤松水軍の一部は奥州伊達氏の水軍に参加し、一部は大内氏を頼って西国落ちし、そのまま大内の手の水軍に合流した、ということがあった。 陸上よりも船いくさの方が陣鐘のニーズは高い。 かれら赤松水軍の残党が護聖寺の梵鐘を海上で使用していたが、平和になり、もう不用になったので、新しい主筋の大内氏に引き渡した。 ところが周防・長門あたりにはもともと釣鐘メーカーがたくさん存在し、たいして貴重品でもないので、それを大内政弘が海の上で引き取ってそのまま島の八幡宮に寄付してしまった、と考えられないだろうか。

と、まあこうした三つのケースが常識的に考えられるが、すべては推測の範囲を出ない。
「数奇な旅を重ねた梵鐘」と言いたいところだが、前記、内田先生のお話では、「中世の鐘は、一,二回寺を移動していることが普通で、その移動のはっきりわかるものはほとんどない」とのことだから、何も護聖寺の梵鐘だけが特に多く旅をしたわけでもないらしい。
 

ボクが最初、護聖寺の梵鐘について調べようとしたとき、さしたる特別の意図があったわけではない。
ただ、ボクの祖母の里が江戸中期に寄進したと教えられた清久山護生寺という、片田舎の小さな禅寺に関して、「むかし護聖寺という寺があり、その寺の名入りの梵鐘が、いま広島県三次市にある」という記事が、いくつかの地方史の本に出ていたが、どれも不明確な孫引き記事のようにしか見えなかった。
だから、ほんとうはどんな梵鐘か、自分で調べてみよう、と思い立っただけのことである。

それが調べていうるうちに、古い時代の著名な武家や文人の名が関係者として続々と現れてきて、こうした片田舎の名もない廃寺が、中世の歴史や文化に直截に繋がっていたのを知って、いささか驚かされたのであった。
それは、武家の足利、赤松、大内、土岐氏などと共に、寺院では建任、南禅、法雲、永興等、五山、十刹、諸山が多く関係し、さらには文人詩僧の雪村友梅、雲渓支山、以参周省などである。 
加えて、画家の雪舟、連歌の宗祇などなど、たかが小さな梵鐘にも、調べれば調べるほど文化・歴史に名高い場所や人々が陸続と、続いて現れてくるのはボクにとっては胸を躍らされるエンタテイメントになった。 
それはちょうど、名もない田舎の、護生寺というシルクハットの中から、手品師が出す鳩や万国旗のように、絢爛たる中世の文化・歴史が、ボクという観客の前に現れ出るシナリオなのだ。

わが祖母の先祖丸尾太右衛門朝定が寄進したと伝えられる清久山護生寺とは、いくらかの俗縁関係もある。
中世に存在した宝華山護聖寺の名をなぞった小さな寺が、手繰り寄せればかくも華々しき中世の歴史に繋がっていたのは、庶民としてのボクらの誇りである。 亡きわが祖母も、その里へ嫁いだわが叔母も、そんなことを露知らずしていまやこの世にない。

だいいち、護聖寺を建立した赤松永良氏そのものが桶狭間の戦いの年(1560)には完全に滅亡してしまっていて、史料もほとんど見当たらない現状である。 (異本百種と謂われる赤松氏から正鵠に近い資料を引き出すのは、五山文学関連を除いて、やや難渋である。)
嘉吉の乱で赤松満祐が将軍足利義教を殺して自らも死に、赤松氏が滅亡したのは1441年のことであった。
その赤松が北朝のため南朝の神器を奪還し、それを手柄に播磨を回復し得たのは1488年のことであり、おそらく永良氏もそのころ、いっときは旧領永良庄を回復しえたであろう。 
しかし永禄三年(1560)にはご本家赤松氏に弓を引いて永良近江守が自害、所領は春日部系赤松伊豆守の支配下に入り、永良氏はいちおう地上から姿を消したと考えられる。 
護聖寺も、ほぼその時代に廃寺となったのではなかろうか。 そしてその口碑が僅かに残っている徳川中期になって、法灯を継いでわが護生寺が建立され、今日に至った、とボクは推理している。

護聖寺の歴史も、三次三勝寺に残る鐘銘の読解も、ボクのこの一文が歴史上の最後になる可能性があるかも知れない。 なぜなら、今の時代、かくも地方史的で、しかも、かくも難渋な古記録を調べようとする人は、あまり出そうにもないから。
残念といえば残念だが、それが時代の変化というものだろう。
 

終わりに、資料を提供していただいた次の方々に、感謝の意を表する。

鐘銘の解読について        兵庫県播磨町耕雲庵中島仁道老師
鐘拓および周省に関する資料  元山口市立歴史民俗資料舘館長内田伸先生
永興寺に関する資料       永興寺住持松巌院重岡至孝老師
雲渓支山に関する資料      建任寺両足院伊藤東文老師
広島県重要文化財資料     広島県教育委員会文化課
志駄岸八幡宮資料         山口県大島町教育委員会

補遺  周省牧松の絵

偶然、美術本で周省の絵を見つけた。 

牧松筆 達磨像 重文 京都慈照院蔵 紙本墨画

図上には鹿苑院僧録をつとめた景徐周麟の着賛があり、詩の末尾は
昨夜寒梅放出花」 で結んでいる。
達磨大師「面壁九年」の故事をひいて、少林寺の庭から梅の花が香っ
てくるという趣向にしている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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