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五、 さて次は

さて次は私のことである。
 

中村 健
1999年撮影
73才

 
前回までの百三十三頁は、私の生まれた村と、父母、祖父母、それにその周辺の説明に終始したが、それらは総て序章である。 音楽や、HONDAの車の名前で言えばプレリュードであろうか。

歴史年表によれば、私の生まれた大正15年(1926)7月には郡役所が廃止されている。
これ以後、郡という行政単位はなくなったので、いま我われが何々郡と呼んでいるのは、いはば古来の習慣に過ぎない。 もっとも、戸籍簿や不動産登記簿には便宜上まだ使われているから、必ずしも法律上無関係とはいえない。 
郡役所があった頃の、郡長の権威というのは現在では想像もつかぬほど大したものであったらしい。 前に述べた倉本雄三神崎郡長の権威などは、現在の兵庫県知事にも匹敵するほどであったという。 
私のロータリーの友人に上野という税理士がいる。この人の祖父は、昔、何処かの郡長を勤めたことがあって、その折には、自分が乗車するため汽車を自分の家の前で臨時停車させたという伝説を残しているそうだ。

同じ7月には、中国では蒋介石が北伐を開始し、フランスではポアンカレ内閣が成立している。 

数理哲学のポアンカレ先生と、ポアンカレ首相とはどういう関係になるのか知らぬが(後註:従兄弟らしい)、何れにしろこの一風変わった姓は、例えば日本の鷹司や近衛などと同じように、フランスでは名門の姓ではないだろうか。 


 

 

ポアンカレ先生の数学の本は、戦前、旧制高校の学生にとって必読の、いはばバイブルのようなものだったそうだが、果してあの難解な<数式のない数学>が、どの程度学生たちに依って理解されたのか疑問である。
私も二十年程前、岩波文庫本を買って読んでみたが、結局のところ何も解らずじまいであった。 その後、気になって旧制高校を経由した何人かの友人諸君に聞いてみたが、彼らの話では、ただ見栄で読んだに過ぎず、本当の処は何も理解できなかったとのことである。 
ところが最近、一人だけ「あれは簡単なもので、そう難しくない」と言った人がいた。 私のロータリーの仲間で浅井先生といい、大阪外大教授の肩書を持つ精神科の医者である。 この先生は旧制一高から東大物理科を出た秀才だから、もしこの人が理解出来ぬような本であれば、もうそれは文庫本としての出版価値がない筈である。そして、出版されているからには浅井先生が理解できて当然である。 そのうち、もう一度読み直してみようと思っている。 そして理解出来なければ、今度は浅井先生に教えを乞えばいいと思ってている。(後註:その浅井先生もいまやこの世にない。)

私の生まれた日、七月十四日はパリ祭の日である。 もっとも、フランスでは巴里祭と言わず「ルカトウルジュエ」、つまり「七月十四日」と称するらしい。
戦前、ルカトウルジュエという題名の映画が日本で上映されたときに、その日本の題名を「巴里祭」にして以来、この呼称が我が国だけに定着したそうである。

だいぶ以前、スイスの高級保養地ルッツエルンへ旅行したとき、河の岸壁に刻まれた有名な<眠れるライオン>の彫刻を見たことがある。説明によれば「七月十四日革命」のとき、ルイ国王派として戦った兵士たちも、民衆派として戦った兵士たちも、どちらもルッツエルンから雇われてフランスへ出稼ぎに行っていた傭兵たちであり、その鎮魂碑がこの<眠れるライオン>であるとのことであった。 同じ町の人々が、金と仕事のため、異国で大義名分もない同士打ちをしなければならなかったスイスの歴史は、我々の知っている世界一裕福なスイスという国の、つい先頃の歴史でもある。 外国へ傭兵に行く以外に収入の途が少なかったスイスが、何故、急速に今日のような豊かな国になったのだろう。不思議なことである。

アパリードシャカホブールで始まる「巴里祭の歌」という有名なシャンソンがある。 宴会の席における隠し芸や十八番の唄がない私は、だいぶ以前、このシャンソンを習って隠し芸にしょうと思ったことがある。 昭和設計の林君は姫路出身ということで、宴席では必ず「ここに城あり播州平野・・」という郷里に関係のある歌を歌う。  いくら宴席の戯れ唄でも、全然自分に関係のない歌では芸がない。せめて自分の誕生日にあたる「巴里祭」の歌でも隠し芸にして披露しょうと私は思った。 音譜とレコードを買ってきて、幾らか練習をしてみた。 少し歌えるようになったが、残念なことに、夜の席では役に立たぬことがすぐ判明した。

もともと、シャンソンとはフランス語による世俗的な歌である。 日本へ入ってきたとき、それはほぼフランスのポピュラーソングに限定された。 それも叙情的な弾き語り風の恋の歌が主流になっている。 私の「巴里祭の歌」も同様である。 ところが、夜の宴席には、賑やかな<浮かれ節>が必要なのだ。 太鼓や茶碗をたたく<チャンチキおけさ>や<炭坑節>が最も適している。 勿論、<湯の町エレジー>のような哀切な演歌も歌われるが、その場合はみんなで唱和し、ほぼ全員が一時的に悲劇情緒に浸ることが条件となる。 巴里祭の唄」は、賑やかには歌えない。 婁々切々と歌うのである。 もしそれを上手に歌えば、座がしらける。 そして、みんなで唱和するほどポピュラーな歌でもない。 この歌を習ったのは失敗であった。

ちょうどその頃、池田勇人の秘書官をしていた伊藤昌哉氏の署名が入った「池田勇人その生と死」という本を貰った。 その中に、在りし日の池田首相が全国遊説した話がでてくる。 

夜の旅館で、池田は、<花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道・・>を歌い、田中角栄は<人生劇場>を歌ったと謂う。 私も男だ、是非これにしよう、と思って稽古をし直した。 だからいまは、<花も嵐も・・>が歌える。

それに、もう一つ妙な歌を知っている。 何時、誰に教わったのか記憶はないが、それは<空には今日もアドバルン>という古い流行歌の英語版である。  

Today's ad-balloon in the sky  空には今日もあどばるーん

Perhaps you are in the company さぞかし会社でいまごろは

I thought you were very busy  お忙しいと思うたに  

Haa never-the-less never-the-lessああ それなのに それなのに  

I'm angry I'm angry        怒るのは 怒るのは

It is naturally               当り前でしょう

この唄は夜のお座敷向きである。 
(1999年10月、ボクはこの歌を,英国Gateshead市JarvisSpringHotelにおけるGSE送別会で、注釈を加えながら歌った。約半数の来会者が意味を理解し得たようであった。)
 

大正十五年は昭和元年である。 だから私の同級生には昭和とか、「昭」や「和」の字を使った名前の人が多い。 ただし、昭典という名前の人は二年とし下の人たちである。昭和三年に天皇即位のご大典があった。 この歳に生まれた人の中には、昭和のご大典にあやかって昭典という名前をもらった人が多い。 その当時、少々気の良すぎる人を評して「あの人はご大典だ」、というような戯れ言葉があったくらいだから、天皇ご即位の式は非常にめでたかったらしい。

物ごころついて初めて知った歌は、たぶん福崎と田原の間に架けられた神崎橋の落成式の歌ではなかろうか。 「祝えや 祝え 神崎橋の落成式は・・」という歌詞の一部を今でも記憶しているが、落成式は確か私の生まれる二年ほど前のことである。 従って、この祝歌は落成式の後の数年間、子供たちによって伝承されたものと思われる。 現在ではこの歌を知っている人も少ないだろう。

前に述べたように数え年6才の春、父が亡くなった。 その頃、妹が二人いたがどちらも乳児のまま亡くなったから、それ以後私が大阪へ出るまでの二十数年間、家族は祖母と、母と、兄と、そして私の四人家族であった。 このように、祖父も父もなく、祖母と母だけが居る状態を「二階婆さん」というらしい。 「二階婆さん」の家庭の息子には嫁が来たがらぬ、という諺がある。

父の死後、祖母は和裁の師匠を続け、母はよろずやらしき店を継承していたので、金はなかったが食うには困らなかった。 田原小学校入学は、例の、<さいた さいた さくらがさいた> という新しい国語読本に替わった歳であった。

 

 私は少し早熟気味で、一つ年上の兄の<はな はと まめ みのかさ からかさ うしがいます という読本をほぼ総てそらんじていたので、いはば他の同級生より、最初から一年進んでいた。 そして、この傾向は小学校を卒業するまでずっと続いた。

小学校の頃の記憶はとりとめの無いものばかりだが、その中の三つか四つだけを述べてみよう。 三年生の頃、自転車に乗って隣り地区の大きな坂道を走り下る途中、小石に阻まれて自転車もろとも数メートルの崖下に転落し、大怪我をした。 顔面制動で前歯が二枚抜け、もう一枚が半分に折れてしまった。 瞬間、気を失ったが、付近を通りかかった百姓の人に助けられ、家まで送ってもらった。 この傷跡はいまも少し残っている。 歯の折れた部分は船津町の歯医者へ通って義歯を入れてもらった。現在のように白い自然色の義歯ではなく、銀色の金冠義歯だったから、その後の小学校から商業学校の間、目立ち過ぎて同級生や先生方から「金歯、金歯」と、ことある毎に呼掛けられたり笑われたりした。それによる劣等感は他人の想像する以上のものであった。

もう十年以上も前、梅田の白壁美容外科の白壁さんが「ほんの僅かばかり女性の顔を整形するだけで、性格が一挙に変わって明朗になり、その家族全員が幸せになることも少なくない。 いはば、私の美容整形は人助けである」、と話をされたことがあった。 そのとき私も大いに共鳴し、おかげで白壁先生の面識を頂き、その後二、三人の女性の整形手術をご斡旋したことがある。

当然のことだが、私の前歯三本はいまも義歯である。 これは二十五年程前、名前は忘れてしまったが天王寺付近の歯科医で入れ換えたものである。 その折、10年か15年くらいが耐用命数であると聞いたが、いま以てびくともしない。 金冠義歯でないから、他人が私の顔を見ても、もはや気にならない。 もし私が他の人々に比べ、少しでもより快活であるとすれば、それはこの義歯のお蔭である。

小学四年生の頃、姫路で「国防と資源大博覧会」が開催された。 担任の木村先生という女性の方に招待され、豊富町江鮒にある先生の家に泊めて頂いて見に行った。 なかなか大規模で立派な博覧会であったが、設営資材はベニヤ板と、木の柱、それに藁薦(わらむしろ)や縄であった。 仮設物だから、それが当然だと思っていた。  

ところが15年前、大阪の万国博覧会を見にいって、先ず驚いたのは、それが鉄とセメントで構築してあったことである。 正直に言って、これは本当に驚いた。 たかが半年間の仮設構築物に、100年も200年も耐久力がありそうな鉄やセメントを使用するということは、私の常識をこえた。

人間の慣れというのは恐ろしいもので、その万博が終わる頃には、鉄とセメントで造ってあるのが当り前と思うようになっていた。 しかしよく考えてみると、たかが半年程の博覧会に、有限であるべき天然資源を原料として造った鉄やセメントを使い捨てるのは人間のおごりではないだろうか。  マンハッタンからケネデイー空港へ行く途中にある広い空き地に、巨大な鉄骨構造物が放置してあり、聞けばそれは万国博覧会の残骸であると云う。それを見たとき私は思った、「この辺で、人類はもう一度謙虚に考え直してみる必要がある」と。青砥藤綱の故事を馬鹿にしてはならない。

どういうつもりであったか知らぬが、私を泊まり掛けで博覧会に招待してくれた木村先生は、江鮒の山上にある甲山神社のすぐ下に、一軒だけポツリと建っていた雑貨屋の若い一人娘だった。 小学校は半年ばかりで辞められたので、その後お会いする機会もない。 

いくら古きおおらかな時代とはいえ、小学校の先生が、自分が担任するクラスの特定の生徒だけを自宅へ招待して宿泊させるというのは、どうも異例のことのように思え、子供心にも少々気がとがめた。 しかし、若い木村先生とそのお母さんは何とも思ってないようであった。

このように、先生が特定の生徒だけを可愛がるのを、我々の田舎ではその当時「ごちょばい」と云った。 語源は二説、つまり「ご寵愛」説と、「五重倍」説である。 「ごちょばい」と同級生からはやし立てられるのは、その当事者である子供にとっては屈辱であった。

その頃、私は二度に亙って漆負けをした。顔から手の掌にかけ相当激しい漆かぶれであった。 直るのに数カ月かかった。その痕跡はいまなお指と指の間あたりに残っている。 

毎年、冬休みの頃、小学生全員が先生に引率され、近くの小山で兎狩をした。 半日ほど費やし、大規模に追い込んで、せぜい一羽捕れるか捕れぬかという程度であったが、小学校の年中行事になっていたようだ。 

いまから考えると、無害で可愛らしい兎を何故、大勢で寄ってたかって捕獲し殺したか、訳が解らない。 子供に対する情操教育というものを先生方はどう考えていたのであろうか。  兎など殆どいない小山で兎狩をする動機は、多分「兎追いしかの山・・」という小学唱歌ではなかったかと思うが、兎こそいい迷惑である。 この兎狩で、気がつかぬ間に私は漆の枝に触れたのであった。 それ以来私は「漆の木 恐怖症」に懸かったまま今日に至っている。 漆の木だけではない。 「マンゴー」の実にもすぐかぶれる。 今までに台湾で一回、そしてフィリピンでも一回マンゴーにかぶれたことがある。 フィリピンの工場の社宅にもまんごうの木があるが、私はその木の側へも寄らない。 そして実(み)は絶対食べぬことにしている。 驚く程の「漆過敏症」体質だからやむを得ない。 

そのような私に、なんとか、かんとか言って、まんごうを食べさせたがるお節介が居て困ることがある。

同じく四年生の時に、当時としては珍しい鉄骨木造、赤瓦の小学校大講堂が建った。 前の年から、ほぼ村中総出の大工事であった。 村出身の出世頭、松岡源之助氏が大枚、二万一千七百円を寄付したのがその資金源である。 

新学年度が始まった日の朝礼で、校長先生は全生徒を集めて言った、「松岡源之助さんは、裸一貫、ふんどし一つで北海道へ行き、ついに旭川の商工会議所会頭になった」。 

それを聞いて私は思った、「ちゃんと服を着ていても今朝はだいぶ寒いのに、裸一貫ふんどし一つでは寒過ぎて風邪を引いたのではないか。 それにしても、ふんどし一つの人を、巡査が制止もせず、よく汽車へ載せたものだ」。

創作の笑い話ではない。 小学四年生の私は本当にそう思ったのである。 なぜなら、それまで私は、比喩としての言葉「裸一貫、ふんどし一つ」を知らなかったから、額面通りに解釈し、さぞ寒かったに違いないと考えた次第である。 

思うに小学校の三、四年生ごろは、幼児言葉と、そうした大人の言葉との狭間になっているのではなかろうか。 私の追憶から言えば、小学六年では、ほぼ大人言葉を取得し終わっていたようである。 その証拠に、修学旅行の伊勢参宮について、確か私は文語文による作文をし、それが授業時間中に先生に読み上げられた記憶がある。 そして、文語文は紛れもなく大人言葉の範疇に入る。

つい最近テレビで、社会的に成功した名士たちが、その母校の小学校や中学校で自分の専門分野を易しく講義する継続番組があって、NTTの真藤氏や作家の大江健三郎氏らの授業風景を見た。それで感じたのは、授業科目の内容よりも、どのような語彙を使用して子供たちに話し手の意志を通達するか、の方がより難しいのではないかということであった。 事実、中学校で授業した名士たちは割合スムースに講義していたが、小学生相手の講義は「子供たちが果して理解できているのであろうか」と危虞するようなのもあった。

そうした危虞は必ずしも小学生を対象とした講義に留まらない。 例えば、天皇陛下にご進講申し上げる場合はどのような言葉を使うのがいいか考えてみればよい。

つい先だって亡くなった阪大名誉教授、菅田栄治先生から次のような話を聞いたことがある。 先生は日本の大学で初めて電子工学科を作った方で、その時のいきさつは産経新聞の「学者の森」という連載読み物によって詳しく報道された。 

数年前、先生は専門の電子顕微鏡について陛下にご進講申し上げられた。 ご進講の前、一番気になったのは、どの程度の知識レベルでお話申し上げるかということであった。 先生は世界一の電子顕微鏡の専門家であり、しかもその基礎になるのは最も新しい電子工学技術だから、ふだん学者間で話をしているようなレベルで進講しても陛下のご理解は期待できない。 だからと言って、あまり易しくご説明申し上げては、陛下に対して失礼にあたるかも知れない。いったい陛下はどの程度の工学知識をお持ちであろうか。 それが問題であった。

結果から言えば、菅田先生が予期していたより、陛下の科学知識は少しばかり上のレベルであったそうだ。 もともと生物学を専攻されているお方だから、科学的な思考方式を充分に持ち合わされ、予期した以上にご進講が楽であったと先生は言った。 そして、私に菊の紋が入った饅頭を一個だけ裾分けしてくれた。

右のような例を挙げれば解るように、 小学校低学年の生徒たちを前にして水谷万次校長が言った「松岡源之助さんは裸一貫で・・」という話は適切であったとはいい難い。 ともあれ、二万円という大きな寄付を得て、驚くほど大きくて立派な講堂ができあがった。 松岡源之助氏は故郷へ錦を飾った。 落成式のお祝いとして松岡源之助氏の名前で、我々小学生全員にとんぼ鉛筆の二ダース箱が贈られた。 「とんぼ鉛筆」は幼年倶楽部などの広告で見たことがあるが、いままでそのような全国ブランドの商品を手にしたことのなかった田舎の私たちにとって、それは生まれて初めてのブランド商品であり、何か<宝もの>を貰ったような嬉しさであった。

大講堂の落成と相前後して「青空高く地は広く、熊野の森の朝日かげ・・」という田原小学校の校歌が出来た。 作曲「山田耕作」、作詞「長谷川善雄」であった。 後に私は村出身の詩人、長谷川善雄氏の<鞄持ち>のような立場になるのであるが、その頃はまだ長谷川善雄が何者であるか知らなかった。しかし、山田耕作の名は既に知っていた。 

後日、長谷川氏と親しくなった折、氏にこういうことを聞いてみた、「先生は村出身であるから校歌の作詞をされたのは理解できる。しかし、大作曲家、山田耕作が田原のような片田舎の小学校歌を作曲するというのは、どういう縁故だったのでしょうか」。 長谷川氏の答えはこうであった、「村の人に頼まれて作詞はしたが、作曲しなければ校歌にならない。しかし、村の人に作曲家との付き合いがあるとは思えなかった。 自分で然るべき作曲家を探さねばならなかった。 幸い、新劇の細川おちかが山田耕作と親しかったので、おちかに頼んでもらって、出来たのがあの校歌である」。 長谷川氏は大女優、細川ちか子のことを<おちか>と呼んでいた。 そこで、長谷川氏と細川ちか子の関係を聞いてみた。 長谷川氏は私に次のようなことを言った。

フランスの名作「娼婦 マヤ」を長谷川氏が翻訳した。 それを帝劇で初演したとき、主役マヤは細川ちか子であった。 ところがこの芝居ではベッドを舞台の上へ持ち出して来る。 それを見た監督官の巡査が、風俗壊乱であると言って演劇中止の命令を出した。 主催者側は、これは世界の名作であるから風俗壊乱などとはもっての他である、と主張したが警察は聞き入れない。 困っていた処、細川ちか子が西園寺公爵の秘書、原田熊男男爵と親しいので、その辺りから警察へ圧力をかけたらどうかという案が出た。 早速、原田熊男から西園寺老公へ話をしてもらった。 

西園寺公爵は長らくフランスに住んでいたことがあり、よく理解してくれ、すぐ時の警視総監、唐沢雷太に話をつけてくれた。そして、芝居は継続出来た。 

そのように色々ややこしいことがあったので、細川ちか子と以後非常に親しくなった、とのことである。 細川ちか子は、美人のうえ才気もあり、山田耕作や原田熊男のような、当時の上流階級に属するモダン青年たちと交友が多かったらしい。 そして、その余恵で田原小学校校歌が山田耕作作曲ということになったのである。 

その頃、興津の坐漁荘と名ずける別荘に住んでいた西園寺公望は、英語のバイスロイ、つまり日本の「副王」と呼ぶにふさわしいくらいの地位にあった。 歴代首相を任命するに当たって、最終決定を仰ぐため興津の坐漁荘に特使が立つという不文律があった時代のことである。 

雲の上の、そして現在では想像もつかぬような高貴な存在であった西園寺公爵の名が、草深い私たちの村の話の中に出てくるとき、私は、あの有名な「全ての道はローマに通じる」という諺(ことわざ)が、まんざら嘘でもないと思えてくるのである。

当時、私の学年は男子生徒が七十名で1クラス、女子は五十数名で同じく1クラスであった。 およそ人間社会は男女半々の数だけ生まれる筈だが、どうして我々のクラスはこのように男女の数がアンバランスであったのか不思議である。 

その原因は、ほぼ次の三つの内のどれかではなかろうか。

最も可能性が高いのは、女子乳児の死亡率が男子より高いということである。 医療や衛生状態がよくない頃だから、乳児の死亡率は高く、その傾向は、ひ弱い女子乳児に特に偏っていたのではないか。これは、当時の村役場の死亡届を調べてみれば解るだろう。

次に考えられそうな原因は、その後の長期に亙る世界戦争での男性の戦死を神様が予測して、男児の出生率を一時的に引き上げていたのではないかという事だ。

このようなことを言うと、神がかりのように誤解されるかも知れぬが、その程度の<神の摂理>は生物学を少しかじってみると沢山出てくる。 そして人間と謂えども、生物学上では他の生物と同列である。

最後に考えられるもう一つの理由は、たかが1村、年に150人程度の出生だけでは、全人類の平均出生率「男50対女50」にぴたりと当てはまらない可能性もあり得ると云うことである。 もう少し広範囲、例えばその年度に於ける神崎郡全体の出生統計であれば50対50になっていたかも知れない。 もし私がこうした事を研究する学者であれば、この男70名対女50名だった原因を深追いしてみたいと思う。 

ところで、このようなテーマの研究は、一体どのような学問の領域であろう。 生物学か、文化人類学か、遺伝医学か、または統計学か。 もし「自然哲学」というような学問がまだ生きていれば、当然その分野であろうが。

その70名の小学生たちは、どのような服装で通学していたかと言うと、40名は5つボタンの学童服、10名は絣木綿の着物、10名は学童服より少しましな安物の洋服、そして残りは色々雑多な衣服、という程度であった。 学童服のブランドは、今と同じ乃木印や菅公印であった。  それが一年上のクラスになると途端に、過半数が絣の着物に白いエプロン前掛けである。 私たちの年度辺りが着物姿と洋服の入れ替わり時期であったようだ。 これはいまに残る私たちの小学校入学時の記念写真と、一級うえの兄の時のそれと比べてみても明白である。 

私の歳は大半が金ぼたんに黒の学童服だが、兄の歳は殆どが着物に白いエプロン姿である。

履物は、まだ大半が藁草履で、「世界長」の運動靴を履いているのはせいぜい3割か4割程度であった。 私の家では運動靴も小売していたので、始めからそれを履かせてもらった。 しかし大半が藁草履で通学していたから、私も同じものが履きたくて、たまには母に内緒で草履を履いたこともあった。 しかし、藁草履のまま小川の中へめだかを捕りに入ったりすると、すぐ藁が水で解(ほぐ)れてしまい、小さな草履が仁王さまの草鞋(わらじ)のようになって、もうどうにもならなくなるのであった。 藁草履で川へ入るのは禁物であった。 

摩耗を防ぐため藁草履の裏に蒲鉾板を釘で打ちつけることもあったが、釘が藁をすぐ擦り切ってしまうのであまり役に立たなかった。 しかし、それを履いて歩くとカタカタと軽快な音がして、子供心にも快適であった。 70名中、ランドセルは数名だけで、多くは黒い布製の鞄を肩から斜めにかけて通学していた。 何名かは、教科書を風呂敷でくるくると巻き、それを帯のように腰に巻き付け、風呂敷の両端を臍の上で結んで鞄がわりにしていた。 これは軽便で一番機動性があった。  

その点、ランドセルは内の教科書や筆箱ががたがた動くし、前かがみになったりすると入れてある物が頭を越えて飛び出し、道路に散乱する危険がある。 また、喧嘩をしたとき後ろからランドセルを引っ張られたら一挙に勝敗が決してしまうので、どうにも嫌なものであった。 誰がこのような不便なものを発明したのかと、腹が立った。

 

昼食の時間になると、弁当を持参しなかった子供たちは、正午のサイレンが鳴るやいなや、一目さんに1500メートル彼方の自宅へ走って帰り、沢庵漬けのお茶漬けを腹へ流し込むやいなや、すぐまた息せき切って学校に向い、走りだすのであった。

私も一度その付き合いをしたことがある。ご飯を急いで食べた後、すぐまた走ると、どういう訳か必ず脇腹がいたくなる。 そうした場合、みんなで「はーらがいーたい、はーらが痛い」と、大きな声で音頭をとりながら、脇腹を手で抑え、再度千五百メートルの田圃道を一列に並んで学校へ走り帰るのが常であった。 速く走らないと午後の授業に間に合わないのである。腹の真ん中どころ、つまり胃の附近が痛いのは、食べ過ぎや寝冷えした折にあり勝がちな鈍痛で、誰もあまり気にしない。 

しかし、わき腹が痛い場合は、何かこう、差し込むような、脾臓が悲鳴をあげていると云った感じの、いはば少々不気味な痛さである。だから、少し神経質な人は、「これは大変だ、ご飯を食べてすぐ走るものではない」、と思いそうなものである。しかし、そこは元気な田舎の子供たちのこと、それぞれが自分のわき腹を押えながら「はーらがいーたい」と唱和しつつ走った。 そして事実、誰もそれで病気にかからなかった。

 

私の小学五年生は、勝って来るぞと勇ましい「露営の歌」、それに、雲沸き上がるこのあしたという「進軍の歌」の明け暮れであった。  提灯行列と旗行列の一年でもあった。 南京陥落、武漢攻略と、めでたいことが続いた。 日本中が有頂天になった。 昼は小旗を打振りながら村々を巡り、夜は夜で提灯に灯をともして山へ登り万歳をとなえた。 子供心にも戦争は楽しく、村の男たちの単純な征服欲を満たした。 そこには、戦争は罪悪であるというような意識が寸毫もなかった。 今になって考えてみてもこれは不思議なくらいである。  旗行列・提灯行列もごく自然な成りゆきによる行為であった。 ところが今ごろになって、私は、あの行列はいったい何だったのかと思うようになった。 旗や提灯の行列は、いつ頃、誰が、どのような発想で考えだしたのだろうか。徳川時代にはそのような風習があったのだろうか。 、そうとは思えない。 戊辰戦争でも聞かぬし、西南戦役の後でも聞かない。 しかし、ハワイにいたとき、日系一世の老人たちが、「日清戦争の提灯行列をすませてからハワイへ来た」と言っていた。 だから日清戦争の頃の発案かも知れない。  群衆が旗や提灯を持って集団で練り歩くというのは、どう考えても知的な行動とは言い難い。 ただ嬉しさの余り、やむに止まれず、本能的に、そして動物的な行動の発露が、そのような子供じみた集団行動になったのかも知れない。 童謡にある「犬は喜び 猫戯れ」る雪の日の、その小犬や猫と同じような楽しさが、南京陥落や武漢攻略の折の我々にもあったのだろう。 

もっとも、もしそのような催し物が軍人政治家たちの強制でなかったならばの話である。 実際、人間という動物のヒロイズムは、往々にして、ほほえましく、そして子供じみたた集団行動を誘発するものである。 

菊の香や 明治は晴れの多かりき」という有名な句があるが、日露戦争で勝ったとき、「ほんのお祝いのしるし迄に」と、警察へ赤飯を届けた人がいたとか、吉原の入口に「大日本帝国遊廓」と大書した看板を立てた人がいた、というような話が斉藤緑雨の著作の中にでてくる。 真偽の程はともかくとして、楽しくなるような<嬉しがり>の話である。 私たちの提灯行列・旗行列も、ほぼ似たようなメンタルテイの所産であったろう。 

パレードという英語がある。 また、ラリーという英語もある。 ニューヨークの五番街では驚くほど頻繁にパレードをしている。 例えば春先のある日、華かな民族衣装で飾りたてたアイルランド移民たちのパレードに出くわしたことがある。 手に手に緑の花のカーネーションを持ち、アイルランドの歌らしきものを歌いながら整然と行進していた。 緑色のカーネイションの花を初めて見たのだが、聞くところによれば、それは白いカーネイションに緑のインキを吸わせて作るのだそうである。 なかなか華やかな行進であった。

また、スリランカにおける孤児院の落成式に、広大な椰子畑の中で繰り広げられた驚くほど盛大なパレードを見たことがある。

    

金銀で飾られた輿(こし)を乗せた三頭の象を先頭に、延々数キロに及ぶ、極彩色の夢のように華やかな大行進であった。 あの貧乏な国の何処にそのような晴れ衣装や楽器がしまってあったのか驚いた。 紛れもなく西欧製のブラスバンドや打楽器が数限りなく続いた。 均整のとれたアーリヤ人たちの美しい半裸体が軽ろやかな・装羽衣(げいしょううい)を纏い、そして踊りながら長蛇をなした。 数万坪の椰子畑には万国旗と飾りモールが網の目のように張り巡らされ、その下を延々とパレードが練り歩くのである。 御堂筋パレードより、もっと華やかで大規模であった。

近世欧州に於ける華やかな観兵式を濫觴(らんしょう)とする「パレード」は、程よく統制がとれ、システマッチックで、そして何よりも華やかで美しくなければならない。 京都の祇園祭りや博多山笠などは日本的パレードの典型で、私の見た外国のパレードに比べて遜色はない。  しかし、支那事変の折の旗行列や提灯行列は、そのようなパレードとは余りにもかけ離れていた。 旗か提灯を持って、ただぞろぞろと歩き回るだけの貧相なものであった。 パレードというより、むしろマニラの街のラリーに似ていた。

マニラではしよっちゅうラリーというのがある。 日本流に言えばデモ行進である。 美しさも統制もなく、ただ集まって、わいわいがやがや言いながら街を行進するだけである。 長らくアメリカに統治された比国人はそれをラリーと呼んでいて、暇人たちの楽しみの一つでもある。 ブラカードを掲げたり演説をしたりしているが、ラリーに従う人の大半にとっては、そのような主義主張はどうでもいい。 ただ暇だから、そして面白そうだからついて行くだけである。 統制もないし、お金もないから、当然のこと美しくもない。

支那事変当時の提灯行列や旗行列もそのようなものであった。 どうしてそのような詰まらぬことが、当時はやったのであろうか。 いま考えて、どうも納得できない。 私の小学五年生はこれに明け暮れた。 私たちの読み物も山中峯太郎の「アジアの曙」や「敵中横断三千里」になった。

その頃の小学校にも、父兄参観日というのがあった。 毎月二十日と決まっていたが、殆ど誰も来なかった。 来るのは私の母だけだった。 私の成績が少しよかったので母はそれが嬉しく、そしてそのための参観であった。 私の母だけしか来ない参観日というのは、本当に憂鬱だった。 いま思いだしてもぞっとする。  この嫌な記憶があるので、私の子供が小学校・中学校のとき、参観日や父兄懇談会には絶対に行かなかった。現代の子供たちには、このような参観日に対する拒絶反応が無いのだろうか。

翌、六年生は進学勉強の歳であった。 毎晩遅くまで小学校で進学補習があった。特定の子供たちだけに補習授業するのは違法とかで、「今夜はひょっとすると警察が見回りに来るかも知れぬから、補習は中止」と言はれた日もあったが、実際に警察が来たようなことはなかった。

進学する学校はほぼ予測がついていた。 姫路の中学校か商業学校である。 入学試験の難易度は両校ともほぼ同じと言われていた。 その両校に入りにくい生徒は加古川か竜野の中学を受験する。 それも困難な生徒は明石、小野、赤穂辺りの中学校へほぼ無試験に近い状態で入るのであった。 姫路工業学校というのがあったが、三年制だった。 飾磨商業というのもあったが、これは今でいう二期校で、姫路中学の試験を落ちた人たちが行ったようだ。 中学校が進学校で商業学校が実務学校であるというような、現在では誰もが知っているようなことも、当時の田舎では、生徒はおろか父兄でさえ殆ど知っていなかった。 だから商家の子弟は商業学校、そして農家や、学校の教師などいわゆる「月給とり」の子弟は中学校へ行くのが普通であった。

同級では、ほぼ似たような成績の生徒の内、4名が姫路中学を受験して3名が合格、商業学校へは4名受験して4名とも合格した。 運悪く中学校へ入れなかった1名は、その歳に少し遅れて開校した市立鷺城中学へ入った。 この人の小学校に於ける最終成績は商業学校へ入れた人たちより少し上であったから、もし商業学校を受験していたら当然合格したであろう。 と云うことは、ほぼ同じ難易度であると言われた姫路中学と姫路商業の、その年次の入試偏差値は中学校の方が高かったのだろう。

中学校が進学校であり、商業学校はそれを卒業するとすぐ就職する実務学校であるというコンセプトを知らずに、商業学校へ入った同級生たちは、還暦を過ぎたいまでも同窓会の席などで酒がまわると、必ずと言っていいほど愚痴をこぼす。誰かが愚痴り始めると、必ず他の一、二名が同調して同じような愚痴を言う。「俺は小学校で成績が一番だった。 しかし、二番だった何某君は中学へ行ったのでいまでは俺より社会的に上の地位についている。 俺だって中学校へ行っておれば、姫高から東大にでも行って、今ごろは有名人になっていただろうに」というような愚痴である。 私も以前は同じ様な愚痴をこぼす仲間の一人であったが、最近は自分でこぼすさず、他の同級生がこぼすのを楽しみにして眺めている。 どうせ半世紀も前の、自分の見識の無さを嘆いてみても始まらないし、それを老境に入ってまだ、ぐずぐず言うのは不見識の上塗りであると思うからである。 概して言えば、このような愚痴を言うのは田舎の小学校で成績がトップまたはそれに近かった人である。 村の輿望を担って姫路へ進学してきた紅顔の少年時代に持った<気負い>がまだ少し残っているからであろう。 その点、当時既に都会であった地元、姫路市内の小学校出身者にこの傾向が少ないのは当然である。

しかし考えてみると、中学校へ行かなかったという13才のときの不見識、または不幸よりも、実際には、商業学校を卒業するまではいいとして、その次に大学なり高専なりに進学しなかった17才の時の不見識を嘆くべきではないかと思う。 なぜなら、同じように商業学校を卒業したなかにも、ちゃんと学位を持ち、然るべき社会的尊敬をうけているクラスメートもいるのである。 一級上の中村修三氏などは、東京高裁の裁判長になって、新聞紙上を賑わしているではないか。 13才の子供が、将来のためどのような学校を選ぶかというような見識を持ち得ないのは致し方ない。 しかし17才ともなれば、それに応じた意志決定を自分がすべきであって、それが出来なかったというのは、自分自身が不見識であって、それを自らに責めるべきではないだろうか。 もし強いて他を責めるとすれば、それは当時の商業学校の校長や担任の先生方の進路指導が、余りにも当時の国策である武器生産要員の送りだしに熱心過ぎて、卒業する生徒たちの長期的な利益に思いを至らせなかったことであろう。

とは言うものの、商業学校というのは、もともと商人の番頭や手代を養成する目的で設立された実務学校である。 その校長が進学指導に不熱心であったと言って抗議するのは筋違いである。 だが、間違って、そのような実務学校へ将来の出世を夢みて入学してくる生徒が居ることも事実である。 私たちの姫路商業学校は戦後進駐してきた米軍によって廃校となった。 彼らは「商業学校のようなものは不用」と決めつけた。 ところがそれから数年経った頃、誰が首謀者だったか知らぬが「商業学校再建」の運動が起こった。 私の処へもその趣意書が郵送されてきた。

「名誉ある歴史と伝統の兵庫県立姫路商業学校を復興する運動に協力し、併せてなにがしかの寄付を頼む」と言うのである。 それに対して私は長文の返信を認ためた。「進駐軍の軍政部がかって言ったように、今後日本の経済社会ではもう商業学校は要らない。 使い捨て事務員や下級店員の養成が、もしどいうしても必要であれば、商業高等学校などという紛らわしい名前の学校でなく、店員養成所とか商業実務学校とかの看板を揚げるべきである。 さもなければ、またしても間違って、華やかな前途を夢みて入学して来、そしてあとでしまったと臍(ほぞ)を噛む不幸な学生を多く造ることになるであろう。 また、これほど沢山猫も杓子も大学へ行く時代が来つつある時代に、商業高校のような、縁の下の力持ち的事務員を養成する学校へ入ってくる生徒たちは、将来の夢すらも持ち得ない子供たちであろうから、下手をすれば暴力学校になりかねない。 絶対にこの学校はつくるべきでない」というのが私の返信であった。 

この手紙はどうやら没にされたらしく、その後何の音沙汰もなかった。そして、姫路商業高等学校は開校され、いまでは私の危惧した通りの学校になっているそうである。 そして旧制商業学校の同窓会である「琴陵会」は、この新制商業高校の同窓会との共同行事をえん曲に拒否しているという。

商業学校一年生の頃、私には非常に困ったことがあった。 それは耳の病気である。常に耳鳴りがし、激しく傷み、そして小さい声が聞こえない。 毎日、病院へ通ったがよくならない。 担任の墾(あらき)という英語の先生は東北大学の新卒であった。 理想主義に走って、一年級の一学期全四か月の英語の時間ををすべて基礎的な英語の発音記号と発音練習だけに割いた。 ところが、耳鳴りの激しい私は先生の英語の発音が聞き取れない。 これには困った。 先生に叱られるばかりである。 加えて、私はどういう訳か生来、単純な丸暗記能力が他人に比べて大きく劣る。 これは現在でもそうで、異常体質ではないかと思っている。 ところが初歩の英語は典型的な暗記学問だから、暗記能力の欠如している私にとってはどうにもならない課目であった。 試験成績は常に零点に近かった。

それにもう一つ困った課目があった。 珠算である。これもクラスで最下点であった。 そのような訳で、折角よい成績で入ったた商業学校も、一年経つと普通のぼんくら生徒の一人に成り下がっていた。 幸い国語や漢文はほぼ満点に近かったから、平均すると少しましな席次になっていたが。

この英語や珠算という商業学校の表看板みたいな課目がからきし出来ないというのは五年間ずっと続いた。 ところが不思議なことに、この出来なかった課目が、私の一生の仕事に最も多く、そして最も長い年月の間、必要であったのだ。 皮肉なものである。

墾(あらき)という先生はある時突然にいなくなった。 慣例になっていた朝礼に於ける全校生徒への挨拶もなく退職した。 好きな先生でもなかったし、私はそれ以後この先生を思い出すことも無かった。 ところが数十年たったある日、同級生で、いまは関西大学か何処かで音楽の先生をしている岩倉君がこんなことを言った、

「墾先生は放課後、生徒たちを並ばせてペニスの検査をしていたのが露見して、校長に叱られ、急に辞職したのだ。 しかし今では先生の母校である甲南大学で英文学の教授をしている。 お嬢さんが中国旅行中に事故死して、その遺骨を引き取りに先生が中国へ行ったという話を新聞で見たことがある」。

私はうかつにもそのようなことを一切知らなかった。 しかしそう言われてみると確かに、並んでペニスを検査されたことがある。 英語の先生が一年生の生徒のペニスを検査をするというのは、よほど変わった行為である。 しかし、おとなしくて控えめな岩倉君からそれを聞くまでの数十年間、私はそれが常軌を逸した行為であることに気が付かなかった。 それにしても、平均以上におっとりとして上品な性格である岩倉君が、何故、墾(あらき)先生のニュースを知っていたのであろうか。 これも不思議である。 一度彼に会って聞き質してみたいと思っているが、もう数年、年賀状をやり取りするだけの間柄になってしまっている。

私の耳疾は数年間続いた。 ほぼ商業学校を卒業するころまで耳鳴りがし、そして時折痛んだ。医者へ行っても直らなかった。 これは勉強に大きく差しつかえた。母は、学校の成績が悪いと文句ばかり言うし、私はその数年間本当に憂鬱であった。いはば半分神経衰弱気味であった。 好きな勉強はしたが、嫌いな英語や商業課目はほぼすべてなげやりで、教科書も禄に見なかった。

三年生の頃、漢詩に興味を持って作詩の勉強をした。 それを知った国漢の真鍋先生が、塩谷温博士の漢詩による欧州紀行記の分厚い本を呉れたので何度か精読したが、今はその本の行方も解らなくなってしまった。  漢詩を作るには先ず個々の漢字の平仄を記憶しなければならない。 この記憶が困難だったので、結局のところ、漢詩は諦めてしまった。 しかし、最近何かの本を読んでいた処、昔の日本の漢詩人たちも漢字の平仄についてはその都度字引をひいていたそうで、暗記していた人は居なかったとの記事が出ていた。 頼山陽などは字引すらひかず、平仄も会せてない漢詩を作ったそうである。 そのようなことを知っていたら、もう少し漢詩の勉強を続けるのであったのに、と今になって残念におもっている。

三年生か四年生の頃、商業科の先生に中村作郎という人が居た。淡路洲本の人で早稲田大学の出身である。 俳号を柘榴(じゃくりゅうし)といい、俳句の講釈を始めると簿記だったか会計だったか忘れたが、の授業はそっちのけであった。

ある時、こういう話を伺った。 先生の郷里には有名な観光地として「鳴門観潮」というのがある。 ところが、俳句の歳時記には「観潮」という季題が入ってない。高浜虚子に手紙をだして、春の部の季題にそれを入れて欲しいと頼んだ。 虚子は「入れてもよいが、例になるべき句がないから・・」と言ってきた。 そこで先生は毎日々々自転車で鳴門海峡へ出かけ「観潮」の句ばかり作って、それを俳誌<ほととぎす>に投稿した。 採り上げられる月もあれば、没になる月もあった。 それでも、合計して数句がほととぎす誌に載った。 そしてその頃、高浜虚子編纂するところの「花鳥風詠新選歳時記」が出版された。 その中にめでたく「観潮」という季題が挿入され、例句として先生の「観潮や飛び立つ鳥に小手かざし」が採用された。 だから、<中村柘榴子死すとも観潮死せず>で、歳時記のある限り「観潮」は残る、というのが先生自慢の口上であった。

ロータリーの新しい友人で信託銀行の支店長をしている大鋸(おおが)氏は俳句のセミプロで、我々によく俳句の話をする。 最近、彼にこの「観潮」の話をしたところ、早速歳時記を見てきて、確かに観潮の季題と共に「観潮や飛び立つ鳥に手をかざす 柘榴というのが載っている、と言ってきた。  半世紀の昔、柘榴子先生は私たちに、確か「手をかざす」より、「小手かざし」の方がいいので「飛び立つ鳥に小手かざし」にした、と言っていたような記憶があるが、どうやらこれは私の記憶違いであったようだ。

先生の課外授業で俳句を作ってこいと命じられたことがある。 季題は「朝寒」であった。「朝寒の舟一つあり残り月」というのを提出したところ、すごく褒められた記憶がある。 

同じ頃、誰か俳人の「麦笛を吹いている子に道をとふ」という句をそのまま盗用して提出した処、なかなか立派な句であるが、この「道を訊う」というのは大先生のよく使う慣用句であるから、用心しなさい、と言われ、冷汗をかいたことがある。

 

私は短歌か和歌らしきものをたまに作ることがあるが、俳句はからきし駄目である。

ある人の説によれば、「俳句は名詞の芸術であり、短歌は動詞の芸術である」という。 箕面ロータリーの歌人、岡部氏は「動詞の芸術と言はず、短歌を助詞の芸術と呼んでくれ」と言っていたが、確かにそうかも知れない。 何れにしろ、俳句は難しくて私の手に負えない。 大鋸(おおが)支店長がだいぶ勧めて呉れるが、いまの処その任にあらず、として見送っている。 ところが三年ほど前、ほんの僅かな期間私どもの会社へ手伝いにきていた林光夫君という商業学校の同級生は、自称する処俳句の先生である由(よし)だった。 俳号を「一硯」といい、堺付近ではちょっと名の売れた宗匠で、句会に招かれ即席の色紙短冊なども書くと言う。 私にも俳句の講釈をしていたが、こちらにその気がないと判って諦めたようであった。 

それが又しても大鋸支店長の俳句談義につき合わねばならぬ事になったので、少しばかり俳句の悪口でも言って逃げ切ろうと思い、桑原武夫先生の「俳句第二芸術論」を読み直してみることにした。 確か、戦後すぐ、まだ私が田舎に居た頃だから昭和二十二、三年頃のことである。朝日新聞の一面コラムだったと思うが、当時東北大学教授であった桑原氏が「俳句は第二芸術」であると論じた処、山口誓子がそれに反論したのである。 その後、この議論が予想外に有名になり今日に至っている。 古い昔のことゆえ、その論旨をすっかり忘れてしまったので、改めて読みかえしてみることにした。 幸い講談社学術文庫という、どうやら青少年向けらしい教養文庫中に「俳句第二芸術論 桑原武夫」というのがあるので、軽く頁をめくってみた。

桑原氏の論旨はどうやら「内部の専門家だけしか美しさが解らない俳句などは立派な芸術とは言い難い。いわば二番手の芸術だろう。 本当の芸術とは、他人が見ても美しいと思うようでなければならない」と謂うことらしい。 自信家の先生は、自分の子供か孫が作ったという「よくみれば空には月が浮かんでる」と、「砂ぼこりトラック通る夏の道」が、大先生の俳句に比べて劣るとは思えない、と言うのである。 桑原先生のこの論理には「いざぎよい迄の透明さがある」と、後日褒め称えられた。 確かに「俳句第二芸術論」には、いなせで、すっきりした桑原氏の面目躍如たるものがある。 そしてその<いざぎよい迄の透明な>感覚が、あの混沌とした戦後の焼け跡社会で喝采をあびたのであろう。
桑原先生の説に対しては、俳界内部からも、虚子であったか年尾であったか忘れたたが、「所詮遊びの俳句を、例え第二、第三であろうと、芸術と言って貰えたのを感謝すべきである」といったような、考え様によっては開き直りともとれる発言をした俳人が居た処をみると、俳句関係者からの反発は、山口誓子以外にはあまりなかったようである。 桑原先生の例示した子供の俳句(?)と同じように、私も、これは傑作だと思える俳句を一つ知っている。
知り合いであったがもう亡くなった山中夫人が、戦前満州の小学生時代に偶然作って先生に褒められたという「焼け野はら 何処へ行くのか一輪車」の句だ。 
赤い夕日を背にした広大な満州平野が目に浮かぶようではないか。 この句は、私にとっては、俳句の先生が作ったのよりもだいぶ良いと思えるが、俳人諸氏はどうお考えだろうか。 また最近、画家小出楢重の随筆を読んでいた処、次のような話が出てきた。 画伯の父が夏から秋にかけて床の間に掛けていたのは、与謝撫村の「あき暑し あきまた涼し 秋の風」という軸であったという。 この句をどう思うかと、大鋸氏に聞いてみたが的確な返事を貰えなかった。 如何に俳人とは謂え、撫村の頃の俳句と現代のそれとはだいぶ違っているので、彼にとっては批評がし難かったようである。

以上、だいぶ長く俳句の話を続けたが、要するに商業学校の四年生以来、私にとって俳句とは、不可解なものの代表である。 実に難しい。

商業学校は年中、朝八時の始業だった。 
毎朝五時半頃に起き、そさくさと朝食を食べ、自転車で駅まで三キロの道のりを走り、三十数分汽車に乗り、そしてまた十五分歩いて学校に到着するというのが、その五年間の日課であった。 後半の年は履く靴まで払底し、我々、播但線組は農業用に配給された地下足袋での通学であった。 地下足袋姿は姫路市内から通う同級生たちにとっては異様であったらしく、<田舎っぺ>という軽蔑の言葉の対象にされた。 

客観するに、確かに我々は田舎の子供たちであった。 我々にとっては自分自身の地下足袋姿が少々異様であるというような感覚は皆無であった。  少々理屈にあわぬ事でも習慣であれば当り前のように農村社会では受容されていた。そして、おどろおどろした色々な習慣や行事が理非の詮索もなく存在していた。 
一例を挙げてみよう。 田植のすぐ後に「さなぶりの虫追い」という行事が西日本一えんにあった。 農村出身の友人諸君は記憶のネジを巻き戻し、この語の意味を思い出されたい。 藁人形の馬を作り、それを先頭にして松明(たいまつ)の行列が夕闇の苗代道を歩くのである。「実盛(さねもり)さまのお通りだ 稲ーねの虫よおー供せー」と、大きな声で言いながら田圃の畦道を回りまわった、あの懐かしい行事が「さなぶりの虫追い」である。目的は早苗につく害虫を焼き殺すということらしいが、大して実効が挙がるとも思えぬし、まして実盛さまの藁人形という、あやしげな偶像を松明の先頭に立てるなどは、アフリカの未開人や中国の道教の名残ならばいざ知らず、文明国日本でついこの間まで行なわれていたとは考え難い行事である。 いや、ひょっとしたらまだ続いている行事かも知れない。 民俗学者の説明によれば、斉藤実盛の馬が、稲株につまずいて倒れたので手塚太郎に討たれてしまった。気の毒な死に方をしたので、実盛が稲の虫になって害をするようになった。 だから実盛の霊を慰めるためその藁人形を作って虫追いの先頭に立てた、と謂うのである。 
一般に田植終いのことを「さなぶり」というが、それが「さねもり」の発音に似ているので、いつの間にか「実盛さまのお通り」という囃し言葉が出来たそうだ。  いずれにしろ、このように奇怪な習慣がまだ半分生きているのが田舎であって、地下足袋姿が異様なものとして目に写った都会育ちの学友とはだいぶ違った風俗社会であった。

その頃、私の興味の中心は漢文にあった。 漢文というのは、はやく謂えば中国の講談である。 漢文の真鍋先生は予備役の将校だったから、召集で大陸戦線と学校の間を一、二度往復されたようであるが、その授業は旭堂南陵の講談を聞くのと大して変わらなかった。 
曹操の大軍 延々渭水を亙って三十里、覇上に軍し・・」と先生の講談調が始まると、それだけでもう一時間たっぷりかかるのであった。 このような先生の講義については、私のように手に汗を握って聞き入る生徒と、冷やかに批判的 な生徒と、ほぼ二つに大別されていたようである。 そして、批判的であった生徒たちは多くの場合優等生グループに属していた。 
彼らは児戯じみた英雄豪傑の話を好まず、温厚で、真面目でそして着実であった。 言い替えれば、彼らには若者のロマンチシズムがなく、最初から干からびた大人の才覚と、小市民的で無難な生活様式しか持ち合わせていなかった。 それに比べ、真鍋先生の講談を喜んで聞いていた生徒たちは、嬉しがりで、粗雑で、そしてややお人好しであった。 当然のこと、学校の成績も、私たち後者の方が悪かった。 神戸地検の増田君などはその定型である。 しかし、周知の通り、漢文の素養は西欧に於けるラテン語と同じく、日本人の基礎教養に欠くことのできないものである。 我々は漱石の教養は漢文の上に英国を載せたものであり、荷風の教養は漢文の上にフランスを載せたものであり、そして鴎外の教養は漢文の上にドイツを載せたものであることを知っている。 もし漢文がなければ、今日の日本はあり得なかったと言っても大きく間違っていない。

ところが、大阪に於ける私たち姫路商業の同窓会の会合などでは、この先生の評判が必ずしも良くなかった。 原因は簡単である。 集まる同窓生が、どちらかといえば学生時代に成績の良かった人たちばかりであるからだ。 彼らは、温厚・着実の先生たちを賛美し、真鍋先生のような、少々けれん味のある感じの先生を誹謗し勝ちになる。 多勢に無勢で、長年の間私はこうした昔の先生についての偏った評価について反論する場を持たなかった。 
処が、である。 二年程前、もう辛抱仕切れなくなって、開き直った。「今まで長い間、皆さんのそうした、先生方に対する評価を 聞き流してきたが、一度は私の意見を聞いて下さい。 成るほど、皆さんが尊敬していらっしゃる先生方も悪いとは言いませんが、それらの方々は、世俗的な小市民道徳と経済社会の末端で大過なく世渡りする技術を教える、いわば商業学校の存在目的にぴたり一致する方々であると私は思っています。 そのような先生方に小商人としての道を教えられたからこそ、もっと楽しく、そしてよりダイナミックな人生を歩み得なかった我々の不幸をどうお考えでしょうか。 ニイチェに言わせば「自らの能力に胸が膨らむ思いがする、それを帝王道徳という。 そして、私たちはなにも悪いことをしていない、只一所懸命でしたという言葉を免罪符にしているのが奴隷道徳である」ようですが、我々商業学校の出身者は紛れもなく「奴隷道徳」を教えられ、それを武器にして経済社会の底辺に近い分(ぶ)の悪い部分を支えてきた。 そしてその一半の責任は、貴方がたが尊敬する真面目な先生方にあると思う。 多感な若年の頃に、少々軌道を外れていようとも、もっと夢のある、そして未来に羽ばたける気力を吹き込んで呉れる先生が欲しかったのだ。 通信教育ならばいざ知らず、教科書を読んでくれる先生より、謦咳(けいがい)に接して勇気を起こさせてくれる先生の方が学校教育の本筋ではなかったろうか。 我々には無縁であったが、旧制高校や旧帝大の人々が懐かしそうに語る変わった先生方の逸話などを、我々は冗談として聞き流してはならない。 そのような変わった先生方の謦咳に接した人たちがそれを肥しにして世に時めき、そして、ささやかな庶民の世渡り技術だけを教えられた我々がその駕篭を担ぐのである。 そうした学校にあって、真鍋先生などは数少ない謦咳に接する価値のある立派な先生であったと、私は感謝している。」とまくしたてた。   
さすがに、その昔の優等生たちの集まった場所であるから、ほぼ全員がようやく了解してくれたと思う。

漢文の効用はほぼ右に述べた通りであるが、反対にマイナスの面もある。 それは、どうしても軍国主義的もしくは右翼的な傾向に傾く嫌いがあることだ。 早い話が師道の大家、安岡正篤先生だって右翼といえば言えぬこともない。 つらつら考えて見るに、私の右翼的心情ないし行動は漢文の勉強と共に始まり、そして終戦であえなく消え去ってしまったようだ。 この間の話はすぐ後で書くつもりである。

最近、私は新聞を読まない。別に主義主張があって見ないという訳でもないが、どうも世の中の出来事すべてに興味がなくなったのである。 たといそれがアルメニヤの地震であろうと、また竹下内閣の改造であろうと、所詮私に関係が無い、いわば出歯亀向きの三面記事と変わらないと思うようになったので、新聞を見なくなった。 老化現象かも知れない。 それによって一つだけ不便なことがある。 知人の叙勲や死亡に気が付かぬことである。 叙勲は、春と秋の日が決まっているから、その日だけ新聞を買ってくるという方法を発見した。 死亡記事の方はまだ決定打がない。 しかし、ロータリーの友人、村田英明氏が気をきかして通報してくれることがあるので、大体の処は判る。 

ところがつい数か月前、何の気もなく夕刊を見ていたら、偶然、城山三郎氏のエッセイに杉本五郎中佐の「大義」という本のことがでていた。 「大義」は昭和十六、七年頃、当時の軍国主義的な若者の間でバイブルの如く尊敬されていた本で、著者は軍神、杉本中佐であった。 もう殆ど忘れかけていた亡霊が浮かび上がってきたような感じであった。 この本の読者年齢層では私たちが最年少であって、もうそれより年少の人々は読んでないと思っていたが、新聞によると城山先生は私たちよりもう一級下、つまり昭和二年の生まれらしい。 なにはともあれ、神戸の増田利秋君にこの新聞記事のことを電話した。 私はもう忘れていたが、増田君は「大義」の表紙は赤色で、軍刀を持った杉本中佐の写真が中央に大きく印刷されてあったのを今でも記憶していると言う。 彼も「あの本を読んだ最年少者は我々であって、それより歳下の人で読んだ者は先ずいないだろうと思っていた」と言い、城山三郎がそれを克明に読み、そして、あろうことか半世紀の後にそれについての長いエッセイを新聞に寄稿したというのは驚くべきことであると言う。言い替えれば、増田君や私より、もっと年少の、そしてもっと賢い右翼少年が、当時にもいたと謂うことである。  増田君の口癖は、あの当時、石原完爾中将が主宰する「東亜聯盟」の機関誌を定期購読していたような少年は彼以外には先ず居なかっただろう、そしてそのような本ばかりを熱読していたからこそ彼の商業学校の成績が悪かったのだ、というのである。 確かに、彼はそのような軍事関係の本を大量に読み、当時の陸海軍の少将以上の軍人のほぼ全員の名前を暗んじていた。 
しかし、新聞のエッセイから判断すると、城山三郎先生は我々よりもっと上手(うわて)の軍国少年だったようだ。

念のためにつけ加えると、増田君の当時の読書範囲は軍事物だけでなく、歴史講談へも跨っていた。 例えば、私はその頃、彼から「栗山大膳」という相当長編の小説本を借りたことを憶えている。 何れにしろ、彼も私も典型的な軍国少年であって、商業学校の教科などそっちのけで、詰まらぬ軍事物などに血道をあげていたのである。

朝日新聞の笠信太郎がこんなことを言っている、

「中学三年のころ相当ぶ厚なナポレオン伝に読みふけって、その中から甘美な英雄的なもの、自分の気にいったところだけを吸い取って頭に残し、自分の若い素朴なロマンテイシズムを満足させていた。 この態度は要するに、自分のセンチメントを書物に引っかけ、書物の中に自分のセチメントを投げ込んでいるのである。このような読書態度は大人の場合でも一般に非常に多い」

私の読書態度もまさに笠信太郎の言う通りである。 六十才を過ぎて、しかも読書の主題がほぼ自然科学に偏ってしまった今も同じである。 自然科学だからといって必ずしも総てを冷静に客観視しながらよむわけではない。 ダーヴィンはダーヴィンながらのセンチメントが入り、今西錦司の著書には今西哲学が横溢し、そして、それがまた読者を引きつけているのである。

その後、まもなく私は右翼少年への迷路を歩むことになる。

その翌年、つまり昭和十八年の暮れに、我々は三か月繰上げて商業学校を卒業した。 その少し前、松波というひ弱そうな校長が我々を一人ずつ校長室へ呼び卒業後の進路についての指導をした。

私はまだ、実社会へ就職するか、進学するか決め兼ねていた。 家の商売は統制と物資不足でほぼ中止状態だったから、家計を助けるためには就職せざるを得ぬと、およその覚悟はきめていた。しかし、進学しようかとも思っていた。 校長は言った「お国の為に軍需工場へ働きに行け。それが戦時下国民の義務である。もし進学したいと言っても、学校は先方へ君を推薦しない。 なぜなら、文部省の指導で、進学は卒業予定者の一割以内に止どめるから、君の成績では推薦書は出せぬ」。 確かに、私の卒業成績は上位一割以内に入らぬのだから致し方なかった。 なにしろ、数課目ある英語関係の学科や商業関係の課目が軒並み悪いのだから、いくら国語や漢文で満点を取ったとしても、平均点が低いのは明白である。 覚悟を決めて就職することにした。 

しかし、同じ就職するなら、どこか海外へ行きたかった。その頃、前に述べた父の従弟、丸尾進太郎が繊維貿易会社のバンコク支店長をしていたので、できれば私も何処か東南アジアへ行きたかった。

ある日、新聞を見ていると海外派遣要員訓練所の募集広告がでていた。 海外同胞中央会という海外移民たちの連合会が「海外同胞中央錬成所」という訓練機関を経営してい、そこで数か月訓練を受ければ、海外へ就職斡旋するというのである。 早速、内緒で応募し、神戸のパルモア学院を借りて行なわれた試験に参加した。 見たところ私が最年少のようで、ほとんどは中年の人たちであった。 ところが、合格通知が来ない。 仕方なく、商業学校が決めてくれた尼崎の住友金属へ就職した。 自宅からは通勤できぬので、縁故を頼って大阪の市岡にある産婆さんの二階に下宿した。 そこから数日間住友金属へ通勤した。 すると、田舎から連絡が入って、東京の海外同胞錬成所と言う所から合格通知が来ているとの事である。 住友には、申し訳ないが辞めて東京へ行きたいと申し出た。 叱られると思ったが、案に相違して、餞別にと五円呉れ、係の人が電車の駅まで送ってくれた。

海外同胞中央錬成所は、中央線の荻窪駅から北へまっすぐ一キロ程行った畑の真ん中にあった。辺りは、国木田独歩の武蔵野の感じで、雑木林に爽々(そうそう)と風が吹き、はるか遠くに富士山が見えた。 錬成所は数万坪の広さを持ち、一度に千人を宿泊させる設備を備えていた。 入所者は数十名で、やはり私が最年少者であった。

私たちの期の担当総主事は小沼正夫先生といって、どういう訳か刑務所へ入っていた話ばかりする人であった。 毎朝五時に叩き起こされ、裸足で広い運動場を三十分ほど走る。次に、前夜より屋外に貯めてあった水槽の氷を割り「全身全霊忠誠徹底」と叫びながら冷水を数十杯かぶり、みそぎをするのである。 運動場の土には毎朝三センチばかりの霜柱が立ち、もし尖った小石があれば、寒さで神経麻ひした裸足を激しく傷つけるので非常に危険であった。 それが終わると集団朝食、そしてすぐ朝の礼拝が始まる。 礼拝は武道場でおこなわれる。  武道場は、二頭立ての馬車と共にこの錬成所の名物であった。 と言うより、荻窪名物であったと言った方が適切かも知れない。 正面玄関前に堂々たる石造の大仁王像を配した武道場は、同時に百人の剣道試合が出来る広い板敷に、一段高い祭壇を設け、そこには天照皇大神と大書した掛軸が懸けてあった。 掛軸の両側には、奉書を差し立てた大きな御神酒徳利の一対がものものしく供えてある。それはテレビドラマに出て来る剣道の道場とそっくりの構えであった。 礼拝は約一時間かかる。 先ず、二礼二柏手一拝、つづいて祝詞奏上、そして御製朗詠、そのあと鎮魂(ふりたま)行事と・想で終わりになる。 鎮魂は、合わせた両手の掌を下腹の辺りで激しく振り乍ら、「全身全霊忠誠徹底」という言葉を数百回狂ったように唱和するのである。

剣道か剣術か
礼拝が終わると剣道の稽古が正午まで続けられる。 中村藤吉という、この錬成所の主(ぬし)のような古式剣道家が、厳しい、と云うよりむしろ、すさまじいと言った方が適切な荒稽古をつけるのである。 竹刀の代わりに木刀を使い、面、胴、小手の外に、一般には禁止されている「突き」も取入れていた。 木刀で一本入ったときは、審判が注意して見ていなくても、入れられた方は、その部分の衝撃が激しいので、倒れてしまうか、木刀を落としてしまい、勝負の判定は簡単であった。「突き」が巧く入った場合は、相手の体が仰向けに後ろへ倒れてしまう。 火の出るような稽古とはこのようなことを言うのであろう。 一試合中に木刀を二、三本折るのが普通であった。 
立派な髭を蓄えた藤吉先生には子供が二人、即ち、後に昭和無双の剣客と謳われた中村太郎氏と富士夫君が居たが、太郎氏は当時軍隊に行って留守であった。 
私と同年の富士夫君は父君の代稽古をつけていたが、体も大きく、腕っぷしも見るからに強いので、東中野から吉祥寺まで、全駅の改札口でほぼフリーパスの偉力を持っていた。 中央線随一の暴れん坊として、当時、有名であった。 

私は彼と特に親しく、後日、篠山という年長修練生に連れられ彼と共に新宿十二社(じゅうにそう)の花街へ生まれて初めて女性を買いに行き、そして二人ともあぶれて帰って来たことがある。 太郎氏には遂にお目に懸かる機会が無かった。新聞記事に依れば、氏は戦後ずっと警視庁剣道師範を務め、有名だったらしい。 
五味康祐の「現代の剣豪」というエッセイを雑誌で読んだことがあるが、それに依れば
「もし宮本武蔵と中村太郎が試合すれば、中村太郎の勝ちだろう。 なぜなら、剣道の技術も現代の方が進歩しているから」
とのことであった。
中村藤吉先生一家は錬成所のすぐ西隣に住んでい、その家には鹿鳴舘映画に登場するような二頭立の馬車とその馬がいた。 勿論、馬丁兼御者も居た。 錬成所が外部から講師を依頼するとき、もしその講師が著名人、例えば大川周明や末次信正大将(当時、海外同朋中央会の会長だった)のような場合は、この馬車が荻窪駅まで出迎えに行くのであった。
真偽の程は知らぬが、馬車に乗りたいため喜んで講師を勤める人が多かったと謂う話を聞いた。恐らくこの馬車は、皇室以外では、わが国最後の馬車では無かったろうか。

中村藤吉先生や富士夫君を懐かしく思い、昭和五十年頃、東京に出張していた私はある日、その家を訪ねるべく荻窪まで足をのばした。 だいぶ探したが、錬成所の跡も、そしてその側に在るべき中村家も発見出来なかった。 私が錬成所に入所した頃、その辺りは杉並区天沼三丁目六百 六十番地といい、前にも述べた通り、広大な雑木林の、武蔵野の一角であったが、三十年の年月は付近一帯を大都会の商業地に変えてしまっていた。 大きなビルが立ち並び、町名や区画も変わっていて、誰に訊ねても、戦前のことを知っていなかった。滄桑の変である。

と、思ったが、実はそうでも無かったようだ。 

と云うのは、台湾に於ける私のパートナー梅玉鱗氏が、この武道場を数年後に見たというのである。 「世界梅氏同門会」の役員をしている彼は、東京で開催された年次大会に出席した処、荻窪の会場は、石の大きな仁王が玄関に立ってい、中は古めかしい剣道場の構えであったという。 きき質してみると、その位置も、建物の状態も、すべて私の知っていたかっての練成所の武道場そっくりであった。 どうやら、前回私は間違った所を探していたようだ。 そのうち機会をみて、もう一度訪ねてみたいと思いながら今日に至っている。 東京の電話番号帳を調べても、中村藤吉や中村富士夫の名前は出ていない。 それにしても、この中村藤吉一家は、その古式剣道といい、馬車といい、親子の風貌といい、まことに堂々とした一家であった。 いわば、旗本八万騎の残映を見るような一家であった。 どういう系譜家歴であったろうか、それが知りたい。(後註:ごく最近、林家喜久蔵という咄家のホームページを介して中村富士夫氏の消息が判り、電話で話をした。彼の鎌倉の家をそのうち訪ねる約束ができた。)

中村、といっても私の家系と何等関係が無いのだが、藤吉先生の古式剣道のセオリーは一風変わっていた。 先生のお説は次の通りである。

もともと剣術の道具は木刀だけであった。 木刀で叩けば怪我をする。だから現在の空手試合と同じように、相手の体の僅か手前で切先を留める試合稽古か、さもなければ、居合抜きか素振りのように、一人で稽古をするか、二つに一つだった。 その後、竹の竹刀(しない)が発明された。竹刀の先に<たんぽん>をつけ、それで打合いをすると、打たれた側は痛いので、巧く避けるような動作を条件反射的に会得するようになり、それが剣術上達の極意であった。 それが徳川末期には、太平に慣れた侍たちの体が柔弱になり、たんぽん竹刀の痛さに耐えきれなくなると云う哀れな状態になった。 そこでやむを得ず、現在あるような剣道の防具が出現した。 防具を着用すると、もう打たれても痛くないので、<たんぽん>は不要になり、そして現在みるような防具と竹刀に依る剣道の稽古法が出来上がった。 

しかしそうなると、叩かれても痛くないから、条件反射により危害を避ける動作をする習慣がなくなってしまった。 これでは、実戦に対処するための稽古にはならない。 本来、切るか切られるか、生きるか死ぬか、の厳しい戦いのための剣術が、いつの間にかスポーツとしての竹刀競技に変わってしまった。危険だから、との理由で、実戦では最も有効な「突きの突き手」が禁止されたのも、剣道が実戦と無関係になったからである。 これでは、剣道の堕落である。と、いうのが先生の主張である。 あくまで、肉体的な傷みに教えられて強くなれ、と先生は言う。

そういう訳で先生は、もう一度竹刀から木刀へ逆戻りさせた。 防具を付けたままでも木刀で殴られると、これはもう痛い。 面が一本入ると、途端に頭がジーンとしびれ、へなへなと体が崩れ落ちてしまう。 小手がきまると、木刀を取り落してしまう。とにかく痛いから、瞬間的に体を反らせる習慣が簡単につく。稽古が辛いというデメリットはあるが、上達するには間違いなく近道である。

そうした試合稽古をする以前に、先生がやらせるのは 「やっ、とう、えい の素振り」である。 「やっ」は面、「とう」は胴、「えい」は小手のかけ声であって、やっとーえい、やっとーえい、とかけ声を掛けながら、木刀で面、胴、小手の素振りを繰り返すのである。 昔の剣術の稽古はこれが主であったから、剣術の稽古のことを「やっとう」といったのだそうである。 一年ほど継続すれば、この稽古だけでも相当強くなれる、というのが先生の説明であった。

次は「突きの突き手」である。 「突き」と言っても木刀を突き出してはいけない。それでは切っ先に力が入らぬし、だいいち両肘が前へ出て胴が空いてしまう。

だから、突かずに絞めるのがコツである。 木刀を持った両手の、手首と肘を瞬間的に内側へきゅと絞める。すると木刀の切っ先が僅かに下へ動き、同時に前へも数センチ伸びる。切っ先がぴりっと動く、という感じである。 このとき、動いた切っ先の力は激しく、優に相手を仰向けに倒し得る。 これが「突きの突き手」である。 これも、百回くらい連続して続ける。

午前中の日課としてこの木刀による剣道が続けられた。 最初の一時間くらいは、例の めーん、めん、めん、めん、という「切り返し」であって、これは竹刀が木刀に替わるだけで、一般の剣道でやる「切り返えし」と変わらない。 次の一時間ほどは「やっとーえい」の連続、そしてその後三十分ほどが「突きの突き方」。 最後の一時間が「試合稽古」、という日課で、正午までたっぷり剣道でしぼられた。 少しでも、かけ声が弱かったり、動きが遅いと容赦なく木刀で後ろから打たれるのだから、大変だった。 しかし、お蔭ですぐ上達できた。 と、いっても、どの程度一般の剣道試合に出て勝てるかは、遂に判らずじまいであったが。

一度だけ、嘘のような嬉しいことがあった。 先生が国士舘専門学校の学生数人を連れてき、一緒に稽古したとがあった。 私は、今城雷峯といういかにも恐ろしそうな名の学生と組まされた。 彼は四段、私は習いはじめてまだ三か月。 始めから勝負にならない。 立会って黙礼したとき、瞬間的に考えた、「《突き》でいこう。 恐らく国士舘では《突き》を採用していないだろうから」。

向い合うと同時に、前へ踏み込み、こん身の力を込めて両腕を絞った。 その瞬間、予期きせぬことが起こった。 今城四段が、音を立てて、ま後ろへ、仰け反り倒れたのである。 私も、そして周囲の観戦者たちもあぜんとなった。 考えてみるに、今城四段は、私を素人と見て、気を抜いていたいたのであろう。  中村藤吉先生の言う、「突きの突き手」の偉力を目(ま)の当たりに見た。  この嬉しさは、今城雷峯氏の名と共に一生忘れられない。

右翼への道
さて、昼食が済むと午後の学科授業になる。 主任は前に述べた小沼正夫総主事である。 この人の話は、神様と、天皇と、「超国家主義」、その合間々々に刑務所へ入っていた頃の話が入る。 なぜ刑務所へ入っていたかは言わない。 我々修練生の間で、「彼は血盟団事件の小沼正ではないか」と噂したが、ご本人はそれを否定していた。 彼の話の中に、「白鳥閣下が・・」という言葉がしょっちゅう出てくるので、白鳥敏夫元駐イタリア大使の子分ではないかと推測しあった。 
その他にも、五・一五事件の蔭山正治が不二歌道会を主宰しているとか、愛郷塾頭の橘孝三郎がどうしたとか、講義には著名な右翼人物の名がよく出てきた。

彼は私たちに神社祭式の方法を教え、神主の所作を習わせた。 起右座左、進下退上というような神官の礼儀習慣を実際に稽古させ、祝詞を奏上する時の節回しまで練習させた。 みんなで酒盛りすることを、神道用語の「直会(なおらい)」と言わせた。まさに彼、小沼正夫氏こそ、戦後激しく批判された神社神道と超国家主義の実践的扇動者であった。
彼は「誰でも、諸君が希望する人を講師として依頼してくるから申し出るように」と言った。 もう幾らか、と言うよりは、相当右傾していた我々が、当時唯一の総合雑誌「公論」に執筆している著名人たちの話を聞きたいと申し出ると、すぐ簡単にその著名人が来るのには感心した。 とは言ううものの、実際に誰と誰が来たかは、もう殆ど忘れてしまった。 はっきり記憶しているのは黒縁のロイド眼鏡をかけた大川周明である。 確か、「天行会」会長とかいう肩書であった。 大柄で、日本人離れした風貌の大川氏が、例の二頭立馬車に乗ってやってきたときの光景は、まだ私の脳裏にのこっている。数日間の継続講義で、題名は「新東洋精神云々」であった。 何でも、日本と、中国と、インドの精神と混ぜ合わせて新しい東洋の精神を作り、西洋の精神に対抗すべきである、と謂うような内容であった。

戦後の極東軍事裁判で民間人として唯二人、白鳥敏夫と大川周明が、A級戦犯として拘引されたニューースを新聞で見た時は、本当に驚いた。 十八才の私は、それが例え僅かな期間であったにしろ、紛れもなく、そして自ら求めた訳でもなく、あの厳しく非難されている超国家主義者たちの渦中にいたのである。

我々の海外同胞中央練成所は、外務省が当時一時的に名称を変更していた「大東亜省」の中の練成局が所轄監督官庁であった。 大東亜大臣は青木一夫、練成局長は戦後に終戦連絡事務局次長を経て自民党代議士になった山田久就、そして実務担当は山鹿光世練成官であった。 建前として、この練成所出身者は海外における日本人居留民団の指導者として派遣されることになっていたらしく、そのための、いわゆる皇道精神をたたき込む場所がこの練成所であったらしい。 最高年齢者は五十才くらい、そして最年少は紛れもなく私、平均年齢は三十五才くらいであった。

修練生、当時私たちはそう呼ばれていた、の中に、天津居留民団から派遣されて教育を受けに来ていた藤川という青年がいた。 なかなか頭脳明せきで、修練生中のリーダー格であった。 
彼はどういう訳か、私を大事にしてくれ、色々と右翼陣営に関する話などを聞かせてくれた。 例えば、国士、頭山満には子供が二人、秀三と泉がい、先日訪問して貰ってきたのがこれである、と言って泉氏の色紙を見せてくれたりした。
藤川氏は「いまの日本で最も悪い男は東条首相である、これを倒さぬ限り、日本はもうどうにもならない。 東条こそ、不忠不義の臣である」と言って、「どうだ、俺と一緒に東条を狙らわぬか」と言うふうなことを私に謎掛けてくる。
小沼総主事は総主事で、「一命に代えても、いまの日本の最高権力者を葬るのが陛下に対する忠義である」というようなことを、もう少し回りくどい言い方で、何回か私にほのめかしてくる。 
私もその頃は既にだいぶ洗脳されていたから、「身命をなげうって、悠久の大義に生きる決心はついています」と、いうような殊勝な返事をするようになっていた。
ところがある夜、桐島という別の修練生がそっとわたしの部屋にやってきて「実は藤川氏や小沼総主事が、中村君は若いだけに純真だから、相当危険なことを考えているようだ。自重するよう説得してくれと言われてやってきた」と、言う。 
「自分たちで扇動しておいて、自重せよとは何事だ」と言いたかったが、まあ私の方もそんなに一本気で考えていた訳でもないから、それはそれまでの話になってしまった。
ところが藤川氏を中心とした数人のグループは、その後も内緒で小集会を続け、少々様子がおかしくなってきた。 
ある夜、山田久就練成局長がやってき、我々修練生全員を一部屋へ集め、上座の方で何かごそごそ言っていたが、すぐ帰ってしまった。 そしてその翌日の夕方、今度は見覚えのある山鹿練成官がやってき、同じようにごそごそ言って、二、三時間後に引き揚げていった。 その後で、藤川氏らのグループは「もともと大東亜省練成局が小沼総主事などを通じて我々を扇動しておきながら、いまになって豹変するのはけしからん」といきまいていたが、私には何がどうなっているのか、さっぱり判らなかった。後で判ったことだが、これが此の後の私の進路を少し変えることになるのである。

変わり身が速い政治家たち
当時、海外同胞中央会会長は末次信正大将、中央練成所長は奈良晃中将であったが、顔を見せたのはそれぞれ一、二回だけであった。 練成所には総主事、主事など常勤の職員の他に、学監という肩書の今村忠助氏が、隔日毎に講義に来ていた。 日本大学で「植民学」の講座を担当している教授だそうであった。 練成所では「海外事情」か何かの講義をしていたが、神懸かりした総主事たちからも尊敬され、見たところ彼らの「上役」といった風な扱いを受けていた。

十八才の私は、山田練成局長、山鹿練成官、それに今村学監の三人は、共に極右皇道主義教育の元締めであり、この中央練成所の管理責任者であると思った。
ところが終戦後、新聞を見て、次々と驚くことがあった。  
山田久就局長は終戦連絡事務局次長になり、マッカーサー司令部と渡り合ったのち、自民党の代議士として名を連ね、遂には台閣にも列した。  

自ら山鹿素行の末えいと称し、中央練成所の教頭を気取っていた山鹿練成官は、戦後第一回の総選挙に社会党から立候補し落選したが、その後、長崎県の市長選挙に立候補し、当選を重ね平戸市長としてらつ腕をふるったらしい。 
十年ほど前、日経新聞の随筆で、誰だったか忘れたが平戸市長のことを書いていたのを読んだことがある。市主催の神事が行われた日、折りからの豪雨に加え、怒とう逆巻く海岸の巌頭に立って山鹿光世市長がずぶ濡れのまま、音吐朗々と祝詞を上げたときは鬼気せまる思いであった、というような文章であった。
なるほど市川右太衛門そっくりの彼が仁王のようにつっ立ち、<昔とった杵束(きねずか)>の諺通り、祝詞(のりと)を奏上すれば、そのくらいな印象を人に与えるのは充分諾ける話である。

今村忠助学監も長野県から衆議院選挙に出馬し、当選して自民党総務になったが、わりあい早くに亡くなった。

彼らが作り、彼らが経営したこの練成所で超国家主義と神懸かり思想の教育を受けた私は、それを恥じ、そして戦後既に四十五年、未だに内心じくじたるものがあるに比べ、その教育をした彼ら扇動者たちは、いち速く終戦と同時に政界へ再びおどり出、華麗に変身したのである。 彼らの代わり身の速さと、行動力については、ただただ驚くばかりである。

ところで、ここまでの百八十五頁、私は意識して、なるべく日本または世界の歴史との関係を強調せず、やや単調に「私の周辺の事実」のみを客観的に叙述するよう努めてきた。 と同時に、私的な感情移入も適度に抑制する態度で書きつずってきた。 そうした抑制や叙述方法について、プロの文筆家は一体どのように考えているのか。 
この点が少し前から気にかかっていた処、今日、偶然読んだ岩波新書の新刊「私の昭和史」に、編者の加藤周一氏が次のようなことを書いているのを見つけた。 

「歴史との係わりを意識せず、あるいはその係りの意味を問おうとせずに、時と共に移る個人の経歴を叙述し、結果としてそれが時代と社会を反映することもある。(中略)日本の学校での<作文>の訓練は、その主眼を、<私>の経験の情緒的な表現においてきた。これは西洋諸国の学校が、生徒の<作文>に於て、対象の客観的な叙述と議論の論理的な秩序を重視するのとは、全く対象的である。日本の文章は、一般に、著者がその人自身の<体験>を語る時に、細く感情のひだに分け入り、豊かな表現を示すことが多い」。

さすがに加藤周一氏は、日本と西欧の作文態度の差をよく意識している。そして淡々と自分史だけを叙述しても、それがその時代と社会を生き生きと描写することがあるのを充分認識している。
しかし、問題は読者の側にある。 先ず、淡々と書かれた個人史からその時代社会を類推する態度ないしは能力が読者にあるかどうか。 次に、感情移入を抑制した文章を、読者が読んで面白いと思うかどうか。 この二つについて、読者の傾向を予測し、それに合うような文章にしなければならない。
端的に言って私の場合は、「社会との係わり」は、意識するが深追いしない。 そして「個人体験を語る」には、「詩情豊かな<めるへん>的世界」を基調にするつもりである。 <めるへん>的世界とは、例えて言えば、谷内六郎による「週刊新潮」の表紙の絵のようなものである。 本当は、森欧外の「渋江抽斎」程度にしたかったのだが、読者の傾向を勘案して「谷内六郎」の世界にするつもりであるから了承されたい。

閑話休題。 海外同胞中央練成所の話に戻る。 念のために言えば、修練生の中には右翼超国家主義に全然似つかわしくない人もいたことは居た。 練成所の寮で私と同室だった阿古島敬三氏がそれである。 温厚で上品な彼は、キリスト教鎌倉保育園からこの練成所へ来たと言っていた。 血の気の多い修練生たちは、彼にエホバの牛太郎(ぎゅうたろう)というあだ名をつけてキリスト教を弾劾し、彼を虐めた。 牛太郎というのは、関西でいう <やり手婆(ばばあ)> のような意味らしい。極右集団の中でのキリスト者の存在は難しい。 しかし彼はよく耐えていた。辛抱のいい人であった。 数カ月の練成所生活の後、我々は別れ別れになり、その後阿古島氏がどうしたか私は知らなかった。 
ところが、終戦後、半年か一年経ったある日、ふと新聞で「大連鎌倉保育園の園児数十名が、園長、阿古島敬三氏に引率され、引き揚げ船で、きのう日本へ無事帰国した」という記事を見つけた。 鎌倉保育園という名から考えて、たぶん鎌倉にあるのだろうから、一度暇を作って訪ねて見たいと思いつつ、はや四十年たってしまった。

小沼総主事による教育の具体的な目標は、彼の口癖に従えば、頭脳の『アンテナを高くする』ことと、人間の『スケールを大きくする』ことにあったようだ。 
アンテナが高くなければ、外部からの色々な情報や知識を吸収し難いし、スケールが大きくなければ小事に拘って大局が見えなくなってしまう。 アンテナを高めるには、立派な先生方の話を沢山聞いて勉強することだ。そのためには希望通りの講師をいくらでも頼んでくる。
また、スケールを大きくするためには、それなりの努力や訓練が要る。普通のことを普通にしていたのでは、スケールは大きくならない。少々変わったことや、奇狂なこともしてみなければならないと言って、例えば次のような経験もさせた。

ある日、年輩の修練生たちが酒を飲みたいと言った。小沼総主事はどぶ酒の密造を提案した。 近所の家の広い裏庭を借り、私たち数人が二日がかりで手造りの「どぶ酒」を造ったが、なかなかおいしく出来上がった。 その折、ふと見るとその家の台所にある小さな黒板に白墨で鶏の絵がなぐり描きしてあった。 余りにも生き生きと上手に描いてあるので、不思議に思い、小沼総主事に「この家に誰が住んでいるのか」ときいた。彼は、「かんせんと言う有名な画家の家である」と答えた。 なるほど、画家が描いたものなら上手なのは当り前だと思った。 
近年になって、思いたって美術年鑑で調べてみたが、類似の名前では徳岡神泉しか見あたらなかった。 あの大きな家は、果して徳岡画伯の家であったのだろうか。それとも他に「かんせん」という名の画家が当時いたのであろうか。
このどぶ酒を飲んで、練成所の全員が一晩どんちゃん騒ぎをした。あれほど堂々とどぶ酒を造り、そしてそれでらんちき騒ぎを演じたにも拘らず、私がその間密かに心配していた警察も来ず、まただれもそのような心配をしていた様子が見えなかったのは、いまになって考えてみると少し不思議である。

誰かが「久しぶりに牛肉を食いたい」と言ったことがあった。 
総主事は「野犬を捕って料理しよう。猫でもいいが、前に一度剣道場の中村太郎さんが猫を料理したことがあり、食べてみたが余りうまくなかったから」と言った。 早速、総出で野犬狩をし、赤犬を一頭捕らえてき、料理した。 この時の立て役者は沖縄出身の新城修練生であった。 捕獲技術から、捌いてすき焼にするまでの総てに、手際が良かった。 慣れているから、と言っていた。沖縄では犬を食べる習慣があったのかも知れない。 しかし、食べてみると不味くてどうにもならなかった。 だいぶ食べた人もいたが、私は一口だけで、吐きそうになった。

アンテナを高くする』ためかどうか知らないが、岩越 元一郎という不精髭の先生が講義に来たことがある。 山崎闇斉の「垂加(すいか)神道」直系の後継者であると自己紹介していたが、歴史の時間に習った垂加神道が昭和の時代まで続いているというのは意外だった。 とは言うものの、岩越先生はその話をするのではなく、いわゆる「大陸浪人」を礼賛する話をしただけであった。 そして最後に「馬賊の歌」とかいうのを歌って聞かせ、一人悦にいって帰ってしまった。
ところが、この歌が気にいった修練生も何人かいて、後でわざわざ先生に頼んで歌詞を送って貰い、それを全修練生に配布したものだから、我々の知る処となった。後で聞けば、当時のいわゆる「満州ごろ・支那浪人」の間で流行した有名な歌だそうである。 
確かな記憶はないが、歌詞は、ほぼ左の通りであったと思う。 もし、もっと確かに記憶されている方があれば、教えて頂きたい。 (後註:満州で大同学院を主宰していた笠木良明氏が彼の著書の中で、この歌詞の作者は広島県出身の某氏であると記していた。)
  
艱難汝を玉にすと  その言の葉を一筋に   
臥薪嘗炭十余年   いま待望の時至り   
身を殺してぞ仁を成す  神州男子の心意気   
いざ見せばやと唯一騎 毛髪風になびかせて   
行くや万里の雲の外   
深山桜や山つつじ   花こそ匂へ路絶えて   
人も通わぬ山途に   散りて護国の神となり 
死して護国の鬼となる      

寒風ほゆる北のはて  名もなき草に枕して    
われ永劫に眠りなば  春の訪れ近からん       

(詩吟) 風は蕭々として  易水(えきすい)寒し            
     壮士一たび去って     復た還らず  
    
四川(しせん)に去りて五春秋  生死の程も解らねば
君が残せし歌草を        我は歌うぞ高らかに      
今宵最後の酒酌みて       いざ行きて死せ我が友よ      
互いに千里隔つとも       仰ぐ高嶺の一つ月 

戦争中のある時期、大陸浪人たちによる和平工作の密使が、四川省の蒋介石政府へ向けて何組か出発したと云うから、この歌はその人たちを送るための歌か、またはその挽歌であった可能性が強い。 曲は自由民権壮士風の単調な繰り返しで、「孝女白菊の歌」や「ノルマントン号事件」の歌と類似しているが、《べき羅の淵に波騒ぎ ふ山の雲は乱れ飛ぶ》という、あの有名な「昭和維新の歌」などと軌を一つにした、戦前戦中の青年たちのロマンチシズムをくすぐる好個の歌唱であった。 いわば明治壮士歌の昭和版である。
酒を飲んで<悲憤慷慨>したいような時、書生袴に朴歯(ほうば)の下駄、そして胡弓を弾き乍ら歌えば、一時(ひととき)のヒロイズムに酔えるだろう。

昭和四十年ごろ、この歌を教えてくれた岩越元一郎氏が、総合雑誌に、何かしら一度だけ寄稿しているのを見かけたとがあるが、寄稿の内容はおろか、雑誌の名前すら忘れてしまった。 総合雑誌に載る位だから、その方面では少しは知名度のあった人のようである。

総主事は、「諸君は将来外地に出、その地の指導者になるのだから、人前で講演や講義をする稽古もしなければならない」と言って、全員に一人ずつ教壇へ上がらせ、講義の真似事をさせたことがあった。 順番が回ってきたきた折、私は「カール ハウスホーハーの地政学」という題で一時間ばかり講義し、みんなを感心させ、総主事からも良くできたと誉められた。 
しかし、これは少々インチキをしたからである。  商業学校の五年生の折、地理の西村先生が、この方は後に京都大学教授を経て奈良女子大学文学部長をされたと聞いている、どう云うつもりであったか、授業時間に長い全文を読み上げられ、我々にその総てを記録させた「カール ハウスホーハーの地政学(ジオポリテックス)」という論文のようなものがあった。偶然、私はそれを東京まで持っていっていた。それを、そっくりそのまま読み上げただけの事である。 
内容はあまり記憶していないが、確か「日本とドイツがその近隣の国々を従え、ブロック経済圏を作り上げるという目的に、世界の地勢が旨く適合している」というような、日独両国にとってまことに都合のいい論旨であったと思う。

周知の通り、私は一段高いステージの上からマイクを通じて話をするのが、余り気にならない。 大した原稿が無くても一時間か二時間程度であれば、どんな主題であるにしろ、ほぼ自由に話が出来る。 これは私の特技と言えるかも知れない。 
いつ頃からこのような特技らしきものが出来るようになったのか、と考えてみると、どうやらその萌芽は、数え年十九才の春の、この「カール ハウスホーハーの地政学」からではないかと思う。 地理の西村先生に感謝すべきか、また、たとい一時間だけとはいえ教壇に立たせてくれた小沼総主事に感謝すべきか、いずれにせよこの時の自信が私の後生半世紀の演壇における平常心を育んだような気がする。

ついでにここで、練成所で起居を共にした仲間たちの内、いまなお私の記憶に残っている数人を紹介しておこう。
大城丙十という京城、つまり現在のソウルから来た青年がいた。 気が弱わそうで、いつもおどおどしていた。 ところがある日、車座になってグループ毎に自己紹介をしていた処、順番が回ってきて彼が自分を説明する番になった。
彼の家は李王朝時代の貴族で、李王家の宮殿に出仕し、大金持ちであった。 ところが「韓国併合」で日本の軍人がやってき、彼の家の財宝や資産を根こそぎ持って行ってしまった、 と、ここまで話した時、彼は突然顔をくしゃくしゃにして泣きだした。 

いかにも悔しくて、もう辛抱できぬといった風情で、体を震わせ、ここを先途と激しく泣くのである。 さすが右翼の行動派を気取っていた小沼総主事もこれには往生し、「まあまあ、そう興奮せずに」と言って慰めに掛かるのだが、大城氏は益々激しく泣き続けるのである。 私はそれを見て異様に思った。 どう考えてもこれは少しおかしい。我が家の資産を略奪されたからと謂っても、それは所詮彼の生まれるはるか以前、彼の祖父の代の事ではないか。 それが今ごろになっても、まだ悲しいとはどういう事か。 少し頭がどうかしていやしないか、というのが偽らざる私の心境であった。

ところがこれは、韓国人に対する私の認識不足であった。認識不足といっても、実のところ、彼、大城氏は私が生まれて初めて面識を持った韓国人であるから、やむを得ないことではあるが。
後年、というのは昭和四十年前後のことであるが、私は沢山の韓国人たちと知合いになり、ソウルへも数回行くようになって、ようやく解ったのは、司馬遼太郎先生のいう通り、韓国人というのは「事実よりも、意識に於て激しく興奮する」人たちである、ということであった。 
例えば、料亭で一緒に食事をし、たまたま日韓の不幸な歴史に話が及ぶと、彼らは、加藤清正以来五百年の侵略をなじり、往々にして目に涙を溜めて私まで難詰する。 今や、それに慣れて、「韓国人とはそうした人たちである」、と理解するようになったが、最初、大城丙十氏が激しく泣いた折は、「ひょっとしたらこの人は異常性格ではないか」とまで思ったものである。

その点、王君の場合は完全に大城氏と逆であった。王君は台湾の高雄から練成所へ来た。 お人よしの大男で、底抜けの楽天家であった。 小沼総主事がいくらはっぱをかけても、にこにこするだけで、口癖は「僕の家は高雄随一のバナナ生産家だから、いつでも台湾へきたらバナナを食べに来てください。ただでさしあげますから」であった。 いかにも、悠揚迫らぬ台湾の大金持ちに見えた。

篠山達児氏と藤田雅久氏は共に満鉄調査部を辞めて、一緒に練成所へ来たと言っていた。篠山氏は頭脳頗る明析だが、少々手癖がよくないとの噂があった。
藤田氏は、頭は余りよくないが、熱血漢で、右翼壮士風であった。どちらも拓大出身ということだった。
練成所の訓練も終わりに近ずいた頃、一番先に就職口が決まったのは篠山氏である。サイゴン居留民団の職員として赴任することになった彼は、支度金六百円也を受取りに虎ノ門の大東亜省へ行った。 それに随行した私と剣道の中村富士夫君を新宿の花街へ案内し、生まれてはじめて女性を買わせてやるといった。 何しろ、彼のポケットには今貰ったばかりの六百円があるのだから、気前がよかった。 六百円は、現在の金でいえば百万円くらいだろう。 富士夫君と私は、彼の申し出を断わると男らしくないと思われるので、しぶしぶ付いて行った。 小雨の降る陰欝な日の夕方であった。 有難いことに、時間が遅くて目指す女性たちは売り切れてしまっていた。 私たち二人は、お互いにそっと顔を見合わせ、「よかったな」という内密の意志表示をしあい、そのくせ、篠山氏の手前、さも残念そうな顔をしながら荻窪まで帰った。その新宿の花街、十二社(じゅうにそう)の広大な敷地は、今は副都心の高層ビル街になっている。 そして、その辺りへ商用で行く度に、私は必ずこの十八才の折のことを思い出す。

藤田雅久氏は練成終了式の一週間後、私を彼の故郷、別府へ招待してくれた。彼の実家は喜久屋という大きな温泉旅館であった。 彼の従兄弟の家も「大正館」という砂ぶろ旅館であった。 彼に伴われ、志高湖乙原の滝、由布岳 それに宇佐神宮から青島まで、心ゆくまで周遊した。
 

        志高湖                         乙原滝
それから四十年、彼がどうしているか一切知らなかった。 ところが昨年、私の家内が別府旅行に行くというので、藤田氏の消息を調べるよう頼んだ。 家内の報告によれば「喜久屋は既に無く、大正館で尋ねた処、藤田雅久という人は昭和二十年に戦死している」とのことである。 あの楽しかった別府周遊旅行のすぐ後で、彼は死んでしまっていたのである。 これも<ばさら>というべきか。

練成の効果が出、我々の殆どが、ほぼ超国家主義皇道精神なるものを体得したころ、小沼総主事は、我々を練成所の近辺にある類似の施設へ友好訪問のため連れていった。 それは、中央線浅川駅のすぐ北側にあった「浅川塾」で、そこでは数十人の学生たちが長期寄宿し、神道と超国家主義の理念をたたき込まれていた。 塾頭、神田孝一氏は、映画俳優のようないい男で、話によれば行政査察使の随員として日本中を回ったことがあるらしい。どうやら名門の生まれのようであった。 明治初年の有名な「明六社」のメンバーに神田孝平という人がいるが、その子孫ではないかと思った。 確か「浅川塾通信」という見出しのタプロイド版月刊紙を、毎月送ってくれ、それは、その後私が東京を離れてからもなお、福崎の方へ郵送されていた。 翌年の春、私は中部第四十六部隊へ入隊した。 兵役に服することになったから、もう送らないでほしい、と手紙をだした処、部隊気付けで返信が来、    「 やちぐさの花に先だち散るという はるの紅梅にますらをはあり  という短歌が添えられていた。 紅梅の如くに散りもせず、白髪の老梅と化したいまもなお、春さきともなれば必ずこの美しい歌を思い出す。  神田孝一氏だけでなく、当時、右翼の、多くの人々は歌を作った。

少し説明すると、その当時、右翼には二派あった。「組織右翼」と、「行動右翼」である。

「組織右翼」は、頭でっかちの理論派で、神道イズムの哲学に心酔していた。指導者は、スピノザの汎神論哲学を神社神道に持ち込んだ東京大学の松永材(もとき)助教授であった。 本居宣長の「しきしまの大和ごころを人とわば 朝日に匂う山ざくらばな」や、香川景樹の「自然の感情を、流麗なしらべのうちに詠むべし」という国学風の<歌ごころ>は、知性を誇る右翼「勤皇の志士」たちにとって必須の教養であった。 彼らは<咲く花の匂う>ような美しい歌や、保田与重郎に代表される日本浪漫派特有の情緒的な文を綴った。 そして彼、浅川塾頭神田孝一は、紛れもなく「組織右翼」の人であった。  組織右翼は、いわば「観念右翼」でもあった。

それに対して、「行動右翼」は、理論より行動、学問よりも熱血、が優先した。 そのため、やや暴力的であるのは当然の成行きである。 現在、我々が「右翼」と呼んでいるのはこの系統の人々である。 戦前に日本中の露店商や<てきや>を糾合し、自ら「国粋大衆党総裁」と名乗った笹川良一氏などは「行動右翼」の典型である。
参考までに説明すると、笹川という姓は、私の住んでいる箕面の東寄りにある一地区の土着の姓である。 そして笹川良一氏もその出身である。 笹川氏のお蔭で、箕面市はモーターボート競争の有利な開催権をもち、毎年三十億円の特別収入を得ている。 そのお礼の意味もあり、笹川氏に箕面市名誉市民の称号を呈上している。そして、市長や市会正副議長らはその職に就任すると、必ず笹川氏へ就任挨拶にいくことは、内閣首班が伊勢神宮へ参拝するのと似ている。 
共産党系の市会議員たちは「箕面市の恥」であるといきまいているが、その習慣は当分続きそうである。

話はそれるが、終戦後二十五年目くらいであったろうか、私が大阪西南ロータリークラブの例会に出席したとき、その会長は、神田孝一という大同生命の社長さんであった。「貴方は戦争中、中央線浅川駅の近所にいらっしゃった神田孝一先生ではありませんか」と、尋ねてみた。 しかし、「いいえ、違います」と一言返事があっただけで、すぐ、そさくさと自分の席へ行ってしまわれた。 横顔などは、往年の浅川塾頭神田孝一に似ていたが、それ以上問いただす訳にもいかず、そのままになっている。 仮に、ご本人であったとしても、他人の古傷を探るような話だから、こころよくもないだろうし、深入りすべきでないと思った。

練成所の終了証書をもらう頃になって、総主事は、突然我々全員に告げた。「練成教育中の行動に不穏な動きがあったとの理由で、大東亜省練成局は、今後、諸君の就職斡旋を一切しないと通告してきた。 従って、諸君は自分たちの身の振り方を自分たち自身で決めるように」。 この数カ月の練成の成果と報酬は、ほぼ水泡に帰したのである。

さすがに可愛想だと思ったのか、唯一の未成年者であった私の就職先だけは小沼総主事が探してくれた。 中国徐州の居留民団職員の口であった。 しかし、それも半年間の待機命令のまま、ついに行けずじまいに終った。 「戦争の状況からみて、いまや内地から新しい職員を迎える状態ではなくなった」という民団理事からの一枚の手紙によって、私の海外雄飛の夢はしゃぼん玉のように消えてしまったのである。 そうなると、数カ月にわたるあの地獄の訓練は一体何だったのだろうかと、自問自答せざるを得なくなってくる。

さくさくと音をたてて霜柱の道を歩き 木枯しの吹く練成所へ入ったが、すべてが終って福崎の田舎へ帰りついたときには、もう蝉が鳴き、さるすべりの花が咲いていた。 
考えてみると、運命の糸に操られた十八才の少年が、実社会への入口で、突然、予期せぬ旋風に見舞われたのである。旋風と言うより竜巻といった方がよいかも知れない。
《超国家主義と神懸かり教育》の荒波に呑まれ、息も絶えだえになったのである。 少年をこのような目に遭わせた大人たちの責任は一体どうしてくれるのだ、と長い長いあいだ考えてきた。 
しかし、いまはもう違う。 好むと好まざるに拘らず、人それぞれに、持って生まれた運命がある。その運命の糸に操られ、翻弄されて人は一生を送るのである。
《フェタンケーク デ‐ステニー faite en quelques destinees(それぞれの運命の糸に操られ)・・・》
という「巴里祭の歌」の一節の通りである。  誰を恨むべきものではない、というのが現在の私の心境である。

朝まだき五時過ぎ、太鼓の音と共に飛び起き、氷を割って水を被る<みそぎ>に始まる一日は、深夜までの激しい超国家主義への洗脳教育に及び、それは確かに人間の心を異常にした。 思い出しても身震いするようなこの数カ月の異常体験は、戦後ずっと胸に秘め、詳しくは人に語らなかった。恥しかったからである。 老年に至って恥の観念がうすくなり、いまはそれを文章にし、そしてそれを残す迄になった。 辱知の少年も老いれば斯くの如くになるのか。
事こころざしに、すべて反した練成所ではあったが、一つだけよい勉強をした。 それは、「洗脳」とか「神懸かり」が、ごく簡単に出来るのを知ったことだ。 
被対象者さえ率直であれば、思想的洗脳をするには半年もあれば充分である。 神懸かり状態になるには鎮魂(ふりたま)《または振霊(ふりたま)》の行(ぎょう)をすれば、比較的易しい。 これは、真言密教の荒行などと似ている。 神や仏が、一時的に乗り移るのは至極簡単であることを、練成所生活で知らされた。 戦後僅か一、二年のシベリヤ抑留で、赤く洗脳されて帰ってきた人たちや、紅衛兵の狂乱状態を見聞きしても、さほど不思議と思わなくなった。

参考までに付け加えると、夜明けに氷を割って冷水を浴びても、そう冷たくはない。水の温度が三、四度であるに対し、外気は零度以下であるから、水はむしろ暖かく感じるのである。 「水を被る」という宗教儀式は、神道の「みそぎ」、仏教の「水垢離(みずごり)」、キリスト教の「洗礼」などに共通する。 人類がチグリスユーフラテス川のほとりの水中で生まれた名残りであるという説があるが、少々眉唾(まゆつば)ものである。

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